いくつ年齢を重ねたところで四歳という差が埋まるわけではない。アナスタシアが一歳重ねるのと同じように美波も一歳重ねる。だから年齢に関して美波がアナスタシアの遅れをとることはない。先に死んでしまうとかそういう不幸がなければ。
ただし。
年齢はそうだけれど身長は違う。
初めて会った時同じだったふたりの身長は、五年経った今では、すっかり離れてしまっている。当時十五歳のアナスタシアが十九歳の美波と同身長だったである。アナスタシアのなかに半分入っているロシアの血が、五年という歳月をつかって彼女を、美波が見上げるくらいの長身の美貌に育てた。
そう、五年経ったのだ。アナスタシアは二十歳。成人した。いちおう彼女は大人になった、ということになる。酒も飲めれば煙草も吸える。そういう年齢になったのである。
背はぐんと伸びて、鼻筋がすっきりと伸びて、唇には艶がでてきた。青い瞳は少女期のきらびやかさをおさめて、深みを増している。
――красивый
クラスィーヴィ。ロシア語のそれを美波が脳裡に思いうかべる時、かならずアナスタシアの声で再生される。耳に、脳に、焼きついてしまった彼女の声。
アナスタシアは何度も、ほんとうに何度も美波のことをそう言った。うつくしい、と言った。
成長したアナスタシアは、まさに「クラスィーヴィ」うつくしいひとに違いなかった。
ふたりは夜道を歩いている。
人通りの減った夜の街を歩いている。
親鳥のうしろをいっしょけんめいついてくる雛鳥みたいに、アナスタシアは美波のすこし後ろを歩いて、けっして横に並ぼうとしない。
美波が時々振り返ってアナスタシアのようすを見ても、変わり映えのない光景があるだけだった。
長身を縮こまらせて、眉をひそめて、顔はうつむき、唇はきゅっとむすんで、ずっと暗い表情のまま、とぼとぼとついてくる。
今にも泣きそうな顔だ。かなしみをこらえようとして、表情にはくっきりと出ているが、それでも涙だけは流さずにいる。
欲しいおもちゃを買ってもらえなかった子供が落胆をかかえて家路を辿る姿が、たぶんこんな感じだと美波は思った。
交差点。赤信号。美波は足をとめた。アナスタシアはあいかわらず美波のすこし後ろで立ち止まった。となりに来る気配はない。
知りあったばかりの頃、美波はアナスタシアの手を引いて色んなところに連れ歩いた。アナスタシアが美波との距離に慣れてくると、手を繋いでとなりあって歩くようになった。本格的にデビューして、ともにユニット活動をして、あるいはソロ活動も始めて、その頃になるとアナスタシアのほうが美波の手を引いて、美波の知らない都会の景色を見せてくれた。いろんな場所のいろんな景色を美波に教えてくれた。
それは成長というものだろう。成長がふたりの関係に変化をもたらしていった。
美波は一歩二歩後ろに下がってアナスタシアと並んで彼女の顔を覗きこんだ。
泣きそうな顔のアナスタシアは、成長前のアナスタシアに戻ってしまったみたいに、幼い眉目に影を落としてる。
美波がアナスタシアを妹のようにかわいがっていたみたいに、アナスタシアも美波を姉のように慕っていた。けれど、ふたりがそう思っていただけで、じつのところ最初期のふたりの関係は「母と子」がもっとも近かったかもしれない。
なぜなら美波は、アナスタシアと喜びを分かち合い不安を半分こすることはあっても、プロジェクトのリーダーとしてかかる重圧と責任だけは、絶対にアナスタシアには背負わせなかったのだから。かけがえのないパートナーであってもそれだけはしなかった。理由は単純で、アナスタシアが自分よりもずっと年下の子供だからだ。
そして――二十歳の大人になったはずのアナスタシアは、この夜だけは、また十五歳の子供にもどっていた。
この夜、というのは、つまり、新田美波の結婚式前夜にあたる。
美波の婚約を知ったアナスタシアは、最初びっくりしたが、満面の笑みで祝福してくれた。幸せになってくださいと祝ってくれた。気の早いことに子育て教本をプレゼントしてくれたりもした。その時の彼女はいたって気の好い相棒だった。
それから籍を入れて、また数ヶ月経って、式の前日になると、アナスタシアは突然わがままな子供になった。
電話のむこうでアナスタシアは、ふたりっきりの時間がほしいとだだをこねた。どうしても会いたいと言ってきかなかった。会って話がしたいとすがるように言った。
すげなくあつかうわけもにいかない美波は、家族を説得してアナスタシアとの時間をつくった。
それが今夜だった。
信号が青になったのでまた歩きはじめた。
会って話がしたいと言ったアナスタシアは会ってから一言もしゃべっていない。言いたいことが山ほどあるのに、それが全部言ってはならないことだから、我慢しているような、そんな感じだった。美波にはそう思われたが、アナスタシアの本心はわからない。
横断歩道を渡って、すぐの角を曲がる。そこを歩き進んでいくと公園がある。その公園はふたりのデートの待ち合わせ場所によく使っていた。デートといっても恋人同士のそれではなく、女の子の友人同士が冗談半分によく言う表現で、たんにふたりで繁華街を遊び歩くだけのものである。
恋はそこにはない。友情と言ってしまうのも、なにか違う気がした。家族愛、姉妹愛、愛情には違いないのに、その愛情がなにものに分類されるものなのか。親子愛、これかもしれない。
プロジェクトクローネに参加すると決めた彼女の言葉を聞いている時、なんとなく胸をちくりと刺したのは、巣立って行く我が子の背を見送る親の、喜びのなかにあるほんのちょっぴりの寂しさかもしれない、と思ったから。
公園に入って、街灯を頼りにベンチを探した。
アナスタシアを先に座らせた。美波はその前にひざまずき、アナスタシアの手をとって、まず、こう言った。
「アーニャちゃん、おはなししよっか」
十九歳の自分は、たぶんこんな調子で十五歳の少女に話しかけていたのだ。
アナスタシアの白い手を撫でながら、美波は彼女の言葉を待った。ロシア語でも日本語でもいい。アナスタシアが美波に言いたくてたまらないたくさんの言葉を待った。
アナスタシアはなかなか口を開かない。
それでも美波は待った。明日のことを考えると早く帰って眠るべきなのだろうが、そのためにこのアナスタシアを捨てていくなんて、到底できることではなかった。
アナスタシアの唇が鳴った。言葉なのか、音なのか。ただの吐息かもしれない。ともかく、ようやく反応があった。
ずっとうつむいていたアナスタシアの顔がすこし持ち上がった。前髪に隠れていた目が見えた。涙で濡れている目が美波の目と合った。
「なあに、アーニャちゃん」
「結婚、おめでとう、ございます」
「うん、ありがとう」
「プロデューサー、は、いい人です。だから美波を幸せにしてくれます。きっと。美波も彼を幸せにしてくれます。良いことです。嬉しいことです。幸せなことです」
アナスタシアは、低い声で、細切れにして、今はだいぶん流暢になったはずの日本語を、つたなく並べていった。
「美波はたくさんの愛情をくれました。私にも、私にたくさんのことを教えてくれました。たくさん、たくさん――」
アナスタシアは美波の手をぎゅっと握った。その手に涙が落ちた。もう彼女は泣くことを我慢しなかった。言いたいことを我慢して言わないこともしなかった。
「美波の手が、私の手をとって……この手はとてもあたたかい手です。とても優しい手です。私はこの手に引かれて、たくさん愛してもらって、たくさん教えてもらって、たくさん見せてもらった、たくさんのものを……」
そこでアナスタシアの言葉はすこし停まった。しばらく沈黙した。
美波は腰を上げると、握られた手はそのままに、アナスタシアのとなりに座った。
「私も同じだよ」
そう言った美波は内心、全然同じじゃない、と思った。思いながら、アナスタシアの首筋に顔を寄せた。
「アーニャちゃんにいっぱい愛してもらったし、たくさんのことを教えてもらった。いろんな場所に連れて行ってもらった」
握られている手に痛みを感じた。アナスタシアが手に込める力がどんどん強くなっている。たぶん美波の言葉を否定している。その意思表示だ。美波にもそれはわかった。
アナスタシアはついに嗚咽した。呼吸がさだまらなくなってきた。それでもひっしに口をうごかそうとした。しゃくりあげながら、言うべきことを全部言おうとした。
「美波はもう私をたくさん愛してはくれない。美波はもうプロデューサーのお嫁さんになるから、ふたりの子供のお母さんになるから、私をたくさん愛してくれた手は、もう私の手を握ってくれない」
そう言ってアナスタシアは美波の手を離し、背中に腕を回して抱きついてきた。
あとはもう声をあげて泣き叫ぶだけだった。
そんなことないよ、なんて、嘘は美波には言えなかった。うん、そうだね、と思っても、やっぱり言えなかった。
アナスタシアの言っていることは正しくて、美波はこれから新しい家族にめいっぱい愛情を注いでいくことになるのは確かなことだった。
美波はもうアナスタシアの姉でも母でもなくなってしまったのである。それを否定することも嫌悪することもできないアナスタシアは、泣いて悲しむしかなかった。
美波はアナスタシアの急に小さくなった背をいたわるような手つきで撫でながら、どうすればこのたいせつな彼女の心に降りたひとつの不幸をとりのぞくことができるのか――そんな、考えても詮ないことを、なかばぼんやりとした頭で考えたはじめた。
了