>みなみ・ミナミ・美波

 彼は問いたかった。
 自分と向かい合ってソファに座っている女性に問いたかった。
 ――あなたは新田美波の何なのですか、と。
 何かと言えばかつて新田美波とアイドルユニットを組んでいた元パートナーで今でも付き合いの深い親友という認識に誤りはないはずである。
 つまり新田美波の両親ではないし祖父母でもないし親戚でもないし姉でなければ妹でもない。
「アー、アー、誤解しないで、ほしいです。わたし結婚に反対してるわけじゃ、ないです」
「はい……」
 信用していいのだろうか、この言葉。いや、信じよう。彼女の言葉を。彼女を知る者として。彼女の元プロデューサーとして。
 どこか超然として神秘的でさえある蒼い瞳は、どうしてか新田美波が、ようするに彼の婚約者が絡むと突然、そう、とても俗物的で凶暴になる。ような気がする。気のせいか。そうだ気のせいに違いない。
 考えてみればたとえ彼女に結婚を反対されたところで婚約破棄しなければいけない道理などないのだ。新田美波の親族ではないのだから彼女がこの結婚に賛成か反対かなんて、べつに気にすることもなかった。
(あっ……)
 ――ああ、いけない! 彼は自分を責め立てるようにぶるぶると首を振った。いけません、この想像はいけません。いろんな方にあんまりにも失礼だ。新田美波の弟と結婚してむりやり親族になって身内顔で結婚反対のプラカードを掲げてロシア語でこちらを罵る彼女の姿を想像するなど!
「でも、ンー、プロデューサー、でも、いけないですね?」
「至らぬ部分は多々あると自覚しています」
「えーっと、そんな、たくさん、ではなくて」
「はあ……」
 ンー、ンー、と頭の中でロシア語を日本語に変換する作業に手間取っているのか、彼女の話はぶつぶつと切れる。日本語に不慣れだったのは数年前の話で、今はもっと流暢に話せるはずなのだが。どうしたことだろうか。
「美波は」
 彼女は目線を虚空に漂わせて、手はろくろを回している。
「美波は、新田ではなくなりますね?」
「籍を入れたら、そういうことになります」
「新田さん、ではないですね」
「そうですね……」
 彼女の言わんとしていることがようやくわかった。
 ようするにこういうことだ。
 いいかげん「美波」と呼べ、と。
「善処……します……」
 苦しげに言った彼の頭には「前向きに検討します」とか「後日追って返答させていだだきます」とか「記憶にありません」とか政治家みたいな思考がぽんぽこ浮かんでは消えていった。
 付き合って3年間、善処し続けて婚約までしてさあ籍を入れて式も挙げようかという時期なのである。それでこのざまだから。
 彼女は、そうだ、怒っているのだ。
「練習、しましょう」
 そう言うと彼女は立ち上がった。きらきらとした笑顔だった。いけないいけない、魅了されている場合ではない。
「練習と言いますと」
 彼も立った。
「はい、これです」
 彼女はスマホを取り出すや、素早くロック画面を解除して、待ち受け画像を見せつけた。
 ああこれは、あの時の、まだ現役バリバリだった頃の新田美波の写真ではないか。
 ――ノーブルヴィーナス・新田美波
 そうだ、あれだ。抗えない気高さ溢れるあのヴィーナスだ。競泳水着じゃないほうの。
 いかつい顔がちょっと歪んだ。苦笑いの方向に。
「これにむかって、さんはい、美波!」
「え、……あ……、み、み」
「ミ!」
「み」
「ナ!」
「な」
「ミ!」
「み」
 なんとなく盛り上がってきた。互いに拳を握っている。なぜだ。気分か。昂揚した気分がそうさせるのか。
「ミナミ!」
「みな……あっ。いえ、あ、み。みな……み……み……みなっ」
「ミ・ナ・ミ!」
「み・な・み!」
「ダー!」
「……さん」
「ニェート!」
 なにやら周りからもの凄い視線を感じるけれど気にしたら駄目という声がどこかからした。いや気にしろよという誰かの声も聞こえた気がした。どっちも気のせいかもしれない。
「アナスタシアさん、ワンモア! もう一度お願いします!」
 指を一本立ててスマホの婚約者をまっすぐに見つめながら、叫ぶ。
「ダー、ミ!」
「み!」
「ナ!」
「な!」
「ミ!」
「み!」
「ハラショー! 繋げてください!」
「美波さん!」
 さんはいらない。
 ハァーという溜息とともに2人のテンションは急降下していった。
 あとにのこったのはどうにもならない気まずさと、気のせいだと思いたかったいろんな視線。
 そのなかに婚約者の視線まで混ざっていたのには、本当に気づかないほうがよかったかもしれない。しかし気づいてよかったのかもしれない。
 正解などもはや誰にもわかりやしないのだ。
「無理しないで……ゆっくりでいいですから……」
 そう優しく声をかけてくれた。ああ、心がぽかぽかとあったかくなる。
 未来の旦那さまに優しい声をかけたやわらかな面差しの婚約者は、くるりと体を回すと、元ユニットのパートナーにしこたま説教の雨を降らせた。
 時々笑い声がまじっている。もうほんとにこまった子ね。なんて言って、頭を撫でたり軽くこづいたりして、なんだかほほえましい。
 ああ、なるほど。
 わかったかもしれない。
「あなたは新田美波の何なのですか」
「美波はわたしのマーマです」
 答えになってない答えが返ってきた。

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