プロダクションに名だたる酒豪の集う飲み会に三船美優が参加するのは、これが初めてではなかった。
広い座敷席の上にまだ飲酒のできない十九歳の後輩が烏龍茶片手に和気藹々とまざっている姿を見るのも、やはり初めてではない。
彼女の誕生日は七月だというから、グラスの中身が烏龍茶から酒に変わるのはあと二ヶ月先になるのか、と美優は、呑兵衛たちから代わる代わるからまれている後輩について、そう思った。物堅い彼女のことだから、酒には手をつけずに、ずっと烏龍茶のままだということも考えられる、とか、あんがいうわばみになる可能性もあるかも、とか、さまざまに二ヶ月後の夜を想像した。ただ、なにをどうころがしても現在美優の肩にもたれかかってべろんべろんに泥酔しているこのトップアイドル高垣楓のようにはなるまい、それだけは確かなことに思われた。
絡み酒をするたちではないのだが、美優はいっそ自分も美波のところにいってしまいたい気分だった。酒は嫌いではない。ただ静かに飲みたい。孤独は好きではない。集団で騒ぐのも好きではない。静かに飲みたい。ひとりではなく、ふたりくらいの人数で、けっして理性はうしなわず、ほんのすこし、たあいのない話をかわすくらいの音と熱のなかで飲みたい。
――やっぱりあっちにいきたいな……。
見れば友紀が美波の肩に腕をまわして、からからと笑いかけている。これで参加者のうち美波に話しかけていないのは、あと二人くらいか、と頭のなかで指折り数えてみた。あとは自分と楓だけのはずだ。
「美優さんときたら、今日は美波ちゃんのほうばかり見て、さびしいですよぉ」
ストレートのきれいな髪がくしゃくしゃにかきまわされている。あれは早苗の手だ。かわいそうに。自分ならぜったいにあんなことはしないのに。美優はかってにあわれんだが、とうの美波は怒ったふうでも困ったふうでもなく、目もとにうかべている笑みといえば苦笑ではなくて、やさしくておだやかで、もっと言えばたのしげなそれで、ただ自分の髪をかきみだす早苗の手を両手でそっとつかんで頭からおろしたあと、にこにこと笑いながら一言二言、早苗に言葉をかけた。そうするとつられるように早苗も笑った。
器用なことだと思う。
早苗以外にはああいうことはしない。たとえば相手が瑞樹であれば瑞樹にふさわしい対応をするし、そういうときの彼女はただでさえ大人びた表情がさらに大人っぽくなるものだし、さきほど友紀にからまれていたときは、童女のように幼い笑顔を見せていた。
相手がもっともここちよくなる態度を彼女はあたりまえのようにとる。それができてしまうのは、彼女の生来の資質なのか、よほど両親の育て方がよかったのか。ひとつ間違えれば八方美人と軽蔑されそうなことだが、彼女の篤実な性格はそうした蔑視をまねかない。
「美優さん、ねえ、美優さーん」
――ああ、わたしもそのここちよさにひたりたい。この肩の重みをとりのぞいて、いますぐにも彼女のそばにいきたい。そう思ったときには美優はもうよりかかる楓を突き飛ばすようにひきはがして、ばたんと倒れた楓をまったく無視して、氷のとけてすこしぬるくなっていたお冷やを手にふらふらと立った。
「いやっ、美優さんたらこんなところでッ」
あぶなっかしく立ち上がる自分の足もとを見て、けっこう不覚なほど飲んでいたことに気づいた。おかしいな、と一瞬思って、そのおかしいという感覚はほんとうに一瞬で消えた。
「今日の美優さん、なんだかいつもより冷たいのですね……」
袖で口をおおってよよと泣くふりをする酔っ払いが、この座敷にあがった直後から美優のよこにぴたりとはりついて、たえまなく酒をそそいでいたからだ。それを思い出したのである。
――まあ、いいか。
美優に突き飛ばされたのを見て心配してやって来たらしい瑞樹の膝につっぷして、いよいよ派手に泣き真似をはじめた楓を背に、美優は美波のほうにむかった。途中お冷やがこぼれたらしく、ひゃあッというみじかい悲鳴が聞こえたが、だれの声かはわからないし確認もとらなかった。たったひとりをのぞいてこの場にいる者はみな酩酊しているのだから、だれであっても気にしないだろう。若干名は微酔程度かもしれないが、酔ってこまかいことに気がまわらなくなっているという点ではおなじだ。
ひとり酔いからまぬかれている美波のとなりに腰をおろして、
「美波ちゃん、飲んでます?」
と美優は言った。言ったあとにセリフを間違えたかもしれない、わたしもだいぶん酔っているな、と思ったが、吐き出された言葉はなかったことにならないから、どうしようもない。あきらめるしかないだろう。それに相手はとびきりできのいい後輩だ。このくらいはきっと問題ない。この思考も酔っ払いのそれにほかならないが、自省する力はすでに脳から追放されている。
「はい、いただいています」
と、やわらかく笑いかけられたから、ほら、と美優は内心笑った。やはり問題はなかったのだ。
美優から話しかけたのは最初のこれっきりで、あとは美波のほうから、話題をつくってくれて、それもあたりさわりのない近況を話しあう程度で、酒の席の喧騒のなかに、その喧騒を拒絶しきらないなめらかな境界線をともなった静穏が、ぽつんと出現した。
美優は深呼吸した。
――きもちいい。
そう思った。自分と美波をとりまく空間にただようものすべてがここちよかった。
大勢で飲むときにはいつもどこかいごこちの悪さ、というより、みながつくってくれる賑やかさにのめりこんでいけないもうしわけなさを感じてならなかったが、美波がいるだけでそんなうしろめたさがきれいさっぱり消えてしまうのだから、じつに人間の心とは単純にできている。
美優は自分に都合のいい想像で思考を染めはじめた。これからはもっと積極的に彼女の烏龍茶の相手をしよう。自分も烏龍茶を注文して、ふたりでこうやって、静かにたのしくお茶を飲もう。お酒は家で飲めばいいや。二ヶ月経ってもし彼女が飲酒をはじめたなら、そのときは――美優は頭のなかでメニューをひらく。そのメニューは今いる飲み屋ではなくて、もっと女性向けの、カクテルが充実している、美優がほんとうにごくたまに同期生と少人数で行く店に、美波がいいと言ってくれたらそこに連れていって、美優があの店ではじめた飲んだのと同じカクテルをすすめてみよう。
ぬるくなったグラスが、いつのまにか空っぽになって、それに気づくよりさきに、店員があたらしいお冷やをもってきた。
店員からそれをうけとった美波が――そうか、彼女が頼んでくれたのか、と合点のいった美優に、
「美優さん、たのしんでいますか」
と言って、やはりやわらかく笑ったのだった。
「おかげさまで」
と、ふにゃけた声で言った自分がそのときどんな顔をしていたのか、美優にはちゃんとはわからなかったが、たぶんだらしなく笑っていたのだと思う。
*
「じゃあ、あとよろしくね、美波ちゃん」
そう言ったのがだれなのか、やっぱり美優にはわからなかった。
ただ、だれが、はわからなくても、なにを、どう、よろしくしたのかは、酔った頭にも理解できたし、酔眼はそのさまをはっきりを見た。
「はい、みなさんおつかれさまです」
と礼儀正しく言った美波は、もはや起きているのか眠っているのかも不明な楓のモデルあがりのでかい図体をささえて、タクシー乗り場にむかって、踵をかえした。
「えっ」
まぬけな声は自分にだけ聞こえた。
まさか、まさか、これからふたりきりで二軒目に行くつもりなのだろうか。未成年を連れてはしごするつもりなのだろうか、あのひとは。ぐるぐると頭がまわる。美優はそうやってぐるぐるぐるぐるまわりつづける頭を片手でささえ、もう一方の手で偶然すぐとなりにいた友紀の服をひっぱり、どういうことか説明をあおいだ。
友紀は美優の問いがよほどふしぎだったのか、首をかしげながら、いつもどおり酔った楓を美波がマンションまではこんでいき、化粧をおとして、目覚ましをセットするのだと教えてくれた。
「うわあ……」
いつもどおり。いつもどおり。美優はその言葉を心のなかで反芻した。今まで参加した飲み会のこともひっしに記憶からひきずりだした。さっぱり記憶になかった。まったく知らなかった。呆れた。呆れる以外なにができるのかというほど盛大に呆れた。送らせる楓にも送ってゆく美波にもそれを容認する周りにも、これまで数度おなじ現場にいあわせながら、この常習にまったく無知でいた自分の感性の鈍さにも、とにかくいろんなことに呆れた。
今回気づけたのは直前まで一緒におしゃべりしていたからだろう。あるいは、いつもより美波のことをよく見ていたからだろう。そういえば、と美優は飲み屋でのことを思いかえした。じいっと美波のことをみつめる美優に、楓が拗ねたような口でたしかにそんなことを言っていた。
――いつも楓さんとくっついて飲んでいるのに、今の今まで知らなかったなんて、顔に出ないだけで、ほんとはすごい酔ってるんですねえ。
笑いながらそう言ったのは、はたして友紀だったのか、話を聞いていたほかのだれだったのか。
ワアワアと慌てふためきながら美波を追いかけたのは、すっかり酔いがさめて思考が正常をとりもどしたおかげだろう。だから美優は、じゃあつぎいこうか! と盛りあがる声をその背に聞くことになった。
「まって、美波ちゃん、ちょっとまって――」
ふりむき、驚き戸惑っている美波に、
「わたしもてつだうから」
と言った。走ったせいなのか酒のせいなのか、少々嗄れた声が出た。
おどろきとまどいながらうなずいた美波とふたりがかりで楓をタクシーにつめこむ。あとは美優も乗り込んでしまえば、美波に投げ出してしまった責任を多少なりこちらにかかえることができた。
タクシーが夜道を走りはじめる。
車内にこもる独特の空気を吸うと、美優はほっと息を吐いた。
なんとなく喉がはりついている感じがして、気持ちが悪い。二、三度、咳をしてから、ひとまず、ごめんね、とこれまでのことを成人アイドルを代表して謝って、今度からはちゃんとこっちで面倒みるから、と言って、しばし口をつぐんで、またひと謝りした。
おそるおそる美波のほうを見ると、楓をはさんでむこうがわにいる彼女は困惑の色をはっきりと表情にうかべていた。謝られるようなことをされたおぼえがありませんという顔だ、と感じた美優は、この子もこの子で駄目なんじゃないだろうかと心配になってきた。いや、だとしても、その駄目、も彼女が悪いわけではない。でどころは彼女以外のところにあるはずだった。美優が反省することはおそろしいほど多い。
「みぃなみちゃぁん」
楓の体が美優にかたむいてきて、粘性をおびた熱い息が首筋におちてきた。むわっとした酒のにおいが鼻にかかった。おなじにおいを自分ももっているはずなのだが、なぜか美優にはその息は自分にはない楓だけの息のように思われた。
美波ちゃんは逆ですよ、と言ってひきはがせば、この息が今度は美波にかかることになる。させるわけにはいかない。美優は楓の重みをそのままうけとめた。――ようするに飲み会のたびにこんなことをしているのか、この人は、美優はあらためていろんなことに呆れた。
ところが、
「楓さん、わたしはこっちですよ。そちらは美優さんです」
「ええー……」
美優は天を仰いだ。夜空なんて見えない。
「あら?」
肩口にうまっていた楓の顔がおきあがって、美優を見あげてきた。
「あらあら、まあ、美優さん、いたんですか」
「いました。……」
勘違いに気づいても楓は体の角度を反対方向にはもっていかなかったから、美波の一声で美優のちっぽけな努力がふいになることはなかった。それだけが救いであったと言ってよい。
しばらくすると寝息が聞こえてきたので、
「寝ないでください、起きてください」
と美優は何度も肩をゆすった。意識のない人間の体はべらぼうに重いと聞いている。ただでさえ酔っ払いの体の運搬はめんどうなのである。楓が眠られてしまうと部屋まではこぶのが、そうとうつらくなる。
「ちゃんと起きていますよ、スヤスヤムニャムニャ」
それなのに楓は、美優によりかかったまま、甘ったるい声で、そんなことを言うのである。
「寝ぼけててもふざけるのは怠らないんですね」
苛だちが声にのった。駄洒落が出ないだけおふざけはおとなしいと言えるが、それだけつよく睡魔にとりこまれているとも言えた。駄洒落が出ないとそれはそれで歓迎できない状態なのが、じつに厄介だ。
それで、はたと、気づいた。
「……いつも、こんなことを?」
苦笑と表現できる笑貌を初めて見たかもしれない。
「そうなんですよ、楓さんったら、いつも――」
そのめずらしい苦笑をうかべて、けれども陽気な声で、彼女は高垣楓がいかにめんどうくさい酔っ払いであるかを話してくれた。
――どうやら愚痴を言っているらしい。
らしい、と思ったのは、あまりにも彼女の声が、ふだんとおなじ明るさとやわらかさと、それからやさしさにくるまれていたからだった。酔った楓のめんどうをみるのはただの親切ではなくて、好きこのんでやっている部分もあるのかもしれない。美波のおだやかな声とまなじりから感じられることはそれだった。
そのせいだろうか、楓の世話役を代わってやりたいような、そうでないような、美優は急にそんなどちらともつかないあいまいな気分になった。単純に年長者の責任として代わってやりたいと思ったが、背負う必要もない苦労を背負ってなお、美波とおなじまなざしを楓におとすことができるのか、はなはだ自信がなかったのである。かといって若い美波にこの苦労を背負わせつづけることができる自信も全然なかった。このひとのよい後輩が、二ヶ月後に成人をむかえて酒をたしなむようになったとしても。代わってもすぐに音をあげてしまうのではないか、なさけないことにそんな予感がする。
美優は自分の肩によりかかっている、起きているのか眠っているのかわからない、どうやらいつもくっついて一緒に飲んでいるらしい人物に、すっと視線をおとしてみた。
その目が、どんな色と熱をもっているのかは、自分でもわからなかった。
了じゃないけど了
のこりの2/3のぶぶん
・川島さんにつっぷして泣いてるふりしてる楓さんはわりと本気で泣いてる。
・新田さんとなかよく飲んでる三船さんを見て川島さんが「あのふたりってほんとによく似てるわよねえ。ああしていると姉妹みたい」って言うと膝の上の楓さんが「全然似てませんよ?」ってすごい素で言う。
・タクシーで新田さんと間違えて三船さんのとこに倒れたのは別に間違えたわけじゃなくて三船さんによりかかりたくてよりかかった。
・はずかしいからまちがえたふりしてる。
・ということがなんやかんやで付き合いだした頃に判明する。
・新田さんはアーニャちゃんと付き合ってるから楓さんをめぐって三船さんとドロドロしたりしない。
・ていう設定。