――いったい、自分は酔っているのか、いないのか。
どれほど思考をめぐらせても、美優にはどうしたってそれがわからなかった。
安アパートの二階の、畳ではなくフローリングで、それでも空間を広く持ちたいからと、ベッドは入れなかった。くたびれたカーペットに、これまたくたくたの蒲団をしいて、そこにうつろなまなざしをただよわせる美波を寝かせた。あかりはひとつだけ残して、部屋はオレンジ色の淡い暗さのなかに沈んでいる。
寝かせて、そのまま眠らせるつもりだった。
成人してまもない後輩が、今夜はじめて酒に心身を染めて、酔っておぼつかなくなったのを、当然のことであるような、同時に珍しいものを見たようなふしぎな気持ちになりながら、やはり危なっかしいありさまが心配になって、美優は自分の家がいちばん近いからと言いはって連れ帰ったのだった。
ほんとうにいちばんかはさだかではなかった。早苗のアパートとの距離を比較すると微妙なところかもしれない。そもそもタクシーをつかえば美波本人の家をひっくるめたってまたたくまに誤差になるようなものである。
それなのに、酔った若い女ふたりっきりで、夜道を歩いた。異常であるといえばそうとしか言いようがないことを、美優は言って、実行したのである。
蒸し暑い夏の夜空に、涼やかな風など幻に等しかった。酔いと暑気で火照った体をひきずって、そんな道を歩いたのだった。
酩酊した頭ではどだい正常な判断などきるはずもないのだ。自分は酔っている。だから正しい思考も正しい判断もできない。
冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルをとりだすと、それをグラスにうつして、美優は音をあまりたてないように壁に背をはりつけて、ずるずると座りこんだ。一口水を飲んで、美波のほうを見る。
蒲団によこたわる美波はまだ眠っていないようだった。眠ってくれないとこちらも眠れないのに、と思いながら、美優はまた水を口にふくんだ。
虚空をさまよう目線がときどき、数秒ほどじっと美優を見ていることがある。そのときだけ、美波の酔眼はそのうつろさからまぬかれているような気がした。それが、気のせいなのか、どうか。
――わたしはなにをしているんだろう。
否定するようにゆるく首をふると、よけいに頭のなかがにごってゆくようだった。
溜息を吐くとむっとするような熱がひろがる。
――熱い。
と思ったとき、冷房をつけ忘れていることに気づいた。むろん窓は開けていない。美優はひたいににじんでいた汗を指できると、ゆったりと体をもちあげて、うす明るい部屋をみわたした。リモコンはタンスの上にあった。手にとりスイッチをいれる。温度は下げすぎると体を冷やしてしまうから、汗が引くていどにとどめた。部屋自体さして広くもないのだから、美優の年齢分の温度でも冷えを心配したほうがいいくらいだろう。
温度二〇。脳裡にふとそんな数字がうかんだ。美波の年齢とおなじ温度設定である。さぞ涼しいだろうが、そんなことをしたら体調をくずすのはわかりきっている。
美優はくっと笑いを噛み殺した。
そうだ。まだそんな年齢なのだ。今日飲酒デビューをしたばかりの、まだ二十歳になったばかりの年若い娘だ。ほんとうに、なにをしているのだろう。
また美波がこちらを見ている。まっすぐにじいっとこちらを見ている。酔いから醒めた目を、この瞬間だけ美波は美優にむけてくる。
美優はからになったグラスを床に置くと、壁にはりつけていた背をひきはがし、膝歩きに美波の枕もとにいった。
視線が追ってくる。膝のあたりから、美優が近づくごとに美波の視線は徐々に上がってきて、やがて美優と目がかちあった。
――酔っているのか、いないのか。
美優の酔った目にも思考にも判別はできない。いまの美優に正常な判断はできない。ふだんであれば酒に酔うことのない美波が、たとえ飲み仲間のなかでもっともまともな瑞樹さえ酔いつぶれていてもひとり正常な思考をたもっていて、正常な判断をしてくれるはずなのだが、この夜の飲み会の主賓は初めての酒のなかに、その清らかな心をひたしている。だからそれは期待できないし、酔っていようがいまいが正常でなくてはならないのは六つも歳が上の美優のほうだろう。しなければならないのに、したおぼえがついぞないあたり、このプロダクションの飲み会メンバーは自分もふくめてそうとうな部分をこのつい先日まで未成年だった少女にゆだねていた。おかしな話だ。
――ああそうだった。今日は瑞樹さん、都合がつかなくていなかったんだ。
瑞樹がいればこういうことにはならなかっただろうか。そんなことを考えても、もう仕方のないことだが、美優はつらつらと考えた。
美波のすこし乾きかけている唇に親指をおしあてて、考えた。たとえば、瑞樹がいればこんな失態はなかっただろうか。たとえば美波がまだ成人していなければ、いまここに彼女はいなかったろうか。
左手を蒲団の上にのせて体重をかける。右手の親指をなぞらせると、唇の端のあたりで濡れた感触があった。指をはなすと美波の舌がほんのすこしだけのぞかれた。舐められたらしい。なぜ、とはわからない。それをいうなら自分こそなぜ美波の唇を指でなぞったのか。
「ねむれませんか」
と美優は言った。
あごがすこしだけうごいた。うなずいたらしい。
「ねむりたくありませんか」
またすこしうなずかれた。
「そう」
美優はつぶやいて、また唇を親指でなぞった。
似ていると言われたことがある。そのことを思い出した。美優と美波はおもざしが似ているらしい。そんな話が俎上にあがったとき、同席していた美波のユニットの相棒はふしぎそうに首をかしげていたから、彼女にしてみるとまったく似ていないのだろうが、わりあいと多くの同僚から似ているという評判をもらっていた。
プロダクションに入ったのは美優のほうが早かった。美優がほそぼそとドラマの端役をこなしているうちに、それよりあとに入って来た美波は一足飛びにCDデビューして、ライブも歌番組も経験して、サマーフェスのような事務所の大舞台にも立った。後輩と言ってもふたつの意味で遠い後輩だった。ひとつは美優には及びもつかない脚光をあびる位置にいること、もうひとつはさして親しくもないこと、美波は美優にとって遠く、まばゆく、それから頭上をかすめていく淡い存在だった。遠くにあったものを近くにひきよせたのはひとえに高垣楓というトップアイドルの酔いつぶれた醜態で、どうして当時未成年の美波との縁を楓の酒が繋げたのか、と考えると、このプロダクションはやはりどこか異常である。
それはそれとして、実績と経験でいえば美波のほうがよほど先輩格にあたるかもしれない。そういう認識を美優は明確に持った。そう口にすると美波はもうしわけなさそうに笑うし、切れ目無くドラマの仕事がまいこんでくる美優のある種の安定性に敬意をあらわしてくれるのだが、やはり差はあるように美優には思われた。ドラマの仕事だってじきに彼女のもとにころがりこんでくるのではないか。
きれいな髪が美優のつかいこんだ蒲団にざんばらに散っていて、オレンジの蛍光灯のなかで彼女の髪の色はどこか赤みがかって見えて、ようするにそれは美優の髪の色に近かった。
――そんなに似ているかな。そうでもないと思うけど。
似ていないという感覚を証明するように、手の腹で頬を撫でた。頬の肉がやわらかくもちあがると、美波がくすぐったげに笑った。
美優はまた同じことを考える。たとえば、瑞樹があの席にいたら、これまで起こった失態はなかっただろうか。あるいはこれから起こる失態もなかっただろうか。
ゆっくりと体をかたむける。頭をしずめる。顔を近づける。唇をおとす。似ているといわれるが、それほど似ているとは思えない、美波の端正な顔にそこらじゅうに口づけて、さいごに彼女の唇を自分のそれでかすかにおしつぶした。
似ている、と言われるのは、単純に顔のつくりが似ているのだろう。似ていない、と美優が感じるのは、やはり表情だ。美波のもつ闊達な性格をほとばしらせた表情が、あまりにも自分の陰気をひめた眉目と違っていて、いまひとつ重なるものを見だせないせいだ。
いまはすこしちがう。いろんなことがすこしちがう状態にある。目も鼻も唇もいくらでも重なった。似ていないと感じるのはあいかわらずだが、お互いの目も鼻も唇も頬も、重ねたのだ。
明日死にたくなるかもしれないと思った。きっと朝になったら後悔にまみれて死にたくなるにちがいなかった。自分の性格はそれなりに把握している。これからやろうとしていることを考えれば、明日はまちがいなく死にたくなる。
でも仕方がない。世のなかにはあらがえない流れとか勢いとかがある。その勢いは激しさはなくても妙なちからづよさとか重量とかがあって、美優にはさからえない。
だから、美優は顔をはなしたあと、美波のシャツのボタンを全部はずしていったし、その下のブラジャーのフックもはずした。上も下も全部脱がせて、自分も全部脱いだ。そうやってうす明るい部屋のなかにふたつの裸体をつくった。
乳房に手を添えて、やんわり揉んでみた。美優を見るときだけはうつろさの消えていた目が、いまはぼんやりと美優の顔と手を交互に見ている。お互いにかってがわからないから、なにをすればいいのか、どう反応すればいいのか、確認しあうように、ひとつのことをするたびに顔を見あわせた。乳房を揉んでその先端を摘んで、腹を撫でて、あいまあいまにキスをした。美波が身をよじる。気持ち良さにふるわせているのか、気持ち悪さからのがれようとしているのか。
似ている、とよく言われる。顔が似ていると言われる。顔のつくりが似ているのだと。表情やしぐさについては、あまりそういう評判は聞いたことがない。
抱かれているときの自分はこんな痴態をさらすのだろうか。こんな媚態をみせつけるのだろうか。
美優は一瞬だけそんなことを思った。一瞬だけ思って、それはすぐにめちゃくちゃに酔って乱れた思考のなかに消えていった。
自分は酔っているのかいないのか、美優はもはや考えなかった。
淫靡なうつくしさが美優の体の下におかれてある。それが新田美波が現在まとっている種のうつくしさであることが、信じられないことのように思われた。これは酒のせいなのか、もっとべつな、ただ情欲のためなのか。平生の美波がつねにたもっている清潔はどろどろに熔けて跡形もない。
だれも……、ひょっとすると本人も知らなかった新田美波の顔だ。高潔からはかけはなれた、媚びるようにひそめられた眉の下に、潤んだ目がある、赤らんだ頬、熱を吐き出す唇、それだけではない。美優の首にまわされた手の温度も、美優から逃げるように、または美優をひきこむようによじられる腰も、ときどきあがるかすかな嬌声も――なにもかも、美波が二十年かけて堅固に構築してきたはずの理知性をまったく抛擲した姿のように美優には見えた。それはただし、美優にそう見えただけであって、とうの美波には、まだまだたくさんの棄て去って棄て切れないものがあるにちがいなかった。
泥になったそれらを全部きれいにとりのぞいて出現した一個の巨大な欲望を抱くのが、いま美優のやらねばならぬことだった。すくなくとも美波はそれを、なりゆきとはいえ身を重ねあうことになった美優に期待している。この部屋に美優と美波以外の人間はいないし、美波に口づけ、服を脱がして、乳房に触れた人間もいないのである。
蒲団になげだされたきりの美波の足の膝頭をつるりと撫でた。ひとつの合図だ。美波が膝を立てる。今度はぴたりとくっついている腿を撫でて、ひらかせた。あいだに自分の体をおしこむ。これでいちおう、ひとを抱く、というかたちがととのっただろうか。こんなことはかつて経験のないことで、手探りな部分が多すぎた。が、それでもそうやって、文字どおり手で探ってゆくしかない。いや、手でけではたりない。全身で探ってゆくのである。
背筋がひりひりとする。この焼きつくような感覚はなんなのか。体が熱くて仕方がなかった。冷房はつけているはずなのに、さっぱり機能していないように感じられた。それなのに体をはなす気にはならず、むしろ美波に密着していった。乳房がぶつかりあってつぶれる。すこしずつ体の位置をずらしていって、美波の首に顔をうめた。なにをすればよいのか。首の皮を唇で食み、ちろと舐めた。それから下がって鎖骨にやんわりと歯を立てる。
美波の吐く息の粘性はつよくなる一方だった。熱のこもったみじかい息を美波は間断なく吐いている。息苦しそうな感じはない。それならひとまずこれでいい、と美優は自分を納得させた。
体をすこし起こして、美波の乳房をぐっとつかみ、揉みほぐした。先端を今度は指でなく舌でいじりまわす。舌先でころころところがすと、はじめて、はっきりと聞こえる大きさの声で、美波が喘いだ。
その声に反応して、一度は美優からかき消えた思考がまた蘇ってくる。彼女と似ている自分は、抱かれているときも、彼女のようなのだろうか。経験がないからわからない。こんな声をあげる自分を美優はまったく想像できない。
腹部に手をすべらせると、臍の下のあたりを親指以外の四指の腹で数回おした。
また、声があがる。
その声を聞いて、しばらくそこを押しつづけた。声が吐息に変わったあたりで指の位置をさげて、そこを押す。押して、声を聞いて、息を聞いて、指を下げて、下げたところで指を押して、それをくりかえしてゆくうちに、あきらかに指先にかかる感触が変わった。うぶ毛が消えて、もっと濃いべつのものになった。処理をしたばかりなのか、ちょっとちくちくしたのが、美優にはなんとなくおかしくて、思わず唇の端に笑みをつくった。その笑みは美波には見えない。
いっそうやわらかく繊細になった皮膚を中指と薬指で押す。場所が場所なせいですべての指をつけることはできなかった。
角度をすこしかえてすべりこませると、ようやく、といってよいものか、指先が濡れた。濡れたそこに指が触れたということでもあった。
たぶん、自分もそうなっている。あとで交替して美波に触ってもらおうか、そんなことを思ったが、きっとそのまえに疲れて眠ってしまうと思った。自分か、美波かはわからないけれど、そのあたりはほとんど確信できた。とりあえず折衷案として、
「つづき、自分でやる?」
と言ってみたが、とたんに怨みがましい目をむけられた――これもたいがい彼女らしくない色の目だ――ので、採用されることはなかった。彼女が自分でやってくれたら、美優のほうは美優のほうでかってに処理できるのだが、ものごとはそう都合よくいかない。
なかの浅いところに指をほんのすこし、さしいれた。そこをゆるくかきまぜているうちに、美波の体が上下にはげしくうごくようになった。顔を横にむけ、眉間に皺ができるほどぎゅっと目ととじて、歯を噛み締めて、その隙間から、苦しそうに息を吐いている。
――ああ、これは。
体内にあるなにかをゆらして、べつのところにうつして、そのまま体外に出そうとしているのだ。美優にはわかった。美波は逃げている。これは快感から逃げているうごきだ、とわかった。美優はいったん指を出すと、
「まだ残ってる、理性とか知性とか、棄てたいんでしょう? なら、棄てましょう。どうせこれっきりで、明日からはなにもないですから」
と美波の耳もとに唇をもっていってささやいた。
この期におよんでまだ残っているらしいそれらは、棄て切ってしまってほしい。
「声をがまんしたくなるの、わかります。あなたがそういう子なのも知っています。でも、それだと、わたしがなにもわからないから、なにもできなくなってしまう。だからおねがい」
喉もとでぐっと堪えている溢れそうな声を溢れさせて、おしえてほしい。どこがよいのか、どうよいのか、なにをしてほしいのか、なにをされてよかったのか、すべてを。そう言った。
「美優さん。……」
名前を呼ばれた。そむけられていた顔がこちらをむいている。目はまるで正気にもどったみたいにきらきらとかがやいてみえるのは、ただ涙で潤んでいるせいだろうか。
美波がやったことといえばそれだけだったが、それはそのまま、美優のことばを美波が全身にうけとめたということにほかならなかった。
うなずいて美優は目もとをうすい笑いで染めた。すると美波も笑った。ふしぎなことにその笑貌は童女のように無邪気なものだった。
美優はふたたび美波のなかに指をしずめた。浅いところではなくもっと深いところ、狭いそこに、ずぶりと人さし指と中指を突き入れ、二本の指でおしひろげるように、襞の多い内側をおかしてゆく。
美波の喉が鳴った。痛みに顔をゆがめているのが見えた。
見てわかることなのに、痛いですか、と思わず訊きそうになって、口をつぐんだ。痛い、と答えられたらやめるのか、やめないだろう。痛くない、と答えられたら、やはり続行するだけだ。
そのあたりの気づかいはやめた。それより声を出させることに集中しようとした。喉が鳴っている。それは声というより音である。その音が、声に変わるまで、入れたままの二本の指をかきまぜた。襞をひっかき、指を曲げたりのばしたりして、壁をおしひろげる。抜き差ししながら、おなじことをくりかえした。そのうち指の股が入口にひっかかって、美優はあわてて引き抜いた。奥の奥まで入れる必要はない。入れる必要があるとすれば男性の性器であって、それは男性側の都合にすぎず、女性自身にはその最奥に快楽を得る機能はないはずだから、女性同士の性行為でそこまで奥まったところにいってもさして意味はない。
ひょっとして、そういうふだん意識しないところにある常識を、完全に忘れさせてしまうことを、自分たちはいまやっているのだろうか。
わからないのだ。まるっきり経験がないので、やはりかってがわからない。
美波の喉から出る音が、はっきりとした嬌声に変わった。声からは苦痛の色がうすれて、快楽の色をやどしているようだった。
まずいやり方はしていないようで、美優はほっと息を吐いた。
美優が指をうごかすと、美波の体がはねる。足の指で敷蒲団を噛んで、腿のあいだにはさまっている美優の体にしがみついてきた。
限界が近い、と腰にかかる圧迫感がおしえてくれた。
「美波ちゃん、ねえ」
もう抑えることを放棄した喘ぎ声をひっきりなしにあげる美波が、いぶかしげに美優をのぞきこんだ。
「わたし、たぶん明日の朝は自殺したくなると思うから、とめてくださいね」
美優は口に苦いものを噛んだみたいに笑いながら言った。
「え……」
呆けた声を無視した。いや、無視はしなかった。ただ、聞きたいのはそんな声ではない。指の腹で内側をたたく。美波ではなく自分のゆったりとした呼吸にあわせて、とん、とん、とたたく。聞きたいのは――
「みゆ、さんッ……、あっ、うあっ、ああっ……」
美波は果てた。
美優の思っていたとおり、このあとはふたりとも疲れて眠ってしまったから、翌朝起きたとき、美優は死にたいと思うよりさきに下腹部のもどかしさをどうにかしたいと思い、風呂場にいって、鏡に映る自分の顔を見て、それからすみやかに死にたくなった。
美波は女性の叫び声に目を覚ました。
それは絹を裂くような、というにはだいぶん語弊のある、がらがらと嗄れた低い声だった。が、とにかく女性の叫び声であることにまちがいない。
そんな理由で目を覚ますことも人生そうあるものではないだろう。貴重な経験をしたあと、我が身をかえりみて全裸であることに、まず首をかしげた。頭がくらくらするのは昨夜の酒のせいだろうか。
眉間を指でおさえながら全裸の原因を思い出そうとして、はっと思い出したところで、後悔の二字が波濤のようにおしよせてきた。それから羞恥心と、ひたすら謝罪したいという気持ちも、一緒になってやって来た。だれに、とは、問うまでもないことだ。おのれのキャパシティも把握せずにすっかり酔っ払ったはた迷惑な後輩のめんどうをみてくれた、しんせつな先輩にたいしてだ。
ところが、その先輩・美優の姿が見あたらない。
床になげだされていた衣服をせっせと着て、――ああいっそ死にたい、などという本気でも冗談でもない自殺願望をかるく口にしながら、さしてひろくない室内を見わたした。美波の部屋ではない。美優の部屋だ。だから美優がいないはずはないのだが、美波の視界に映る範囲に彼女はいなかった。
すでに仕事に出たのだろうか。そう思ったとき、さきほどの叫び声を思い出した。それから昨夜の彼女のことばを。
あしたの朝は死にたくなるからとめてください、と言われた気がする。
「あッ――」
美波はあわてて身を起こし、ふりかえってまずベランダを見た。さっきも見たがもう一度見た。それからベランダに出て、体をのりだし、上下左右を確認した。下に美優の死体はないし、上に飛び降りそうな美優の姿はない。左右の隣人の部屋からとくになにも聞こえてこない。
ひとまず安心した美波は、つぎに風呂場へいった。美優は洗面台のまえにいた。そこでうずくまってうめいていた。なにも身に着けていなかったので、美波はとりあえず美優の服をとりにいこうとしてきびすをかえした、ところで、両手におおわれていた美優の顔があがり、美波を射抜いた。その視線に縛られて美波はうごけなくなった。
いまにも死にそうな顔をしている。人間がほんとうに絶望するとこんな顔になる、と美波はひとつ知った気分だった。
うごかない体をむりやりうごかして、そばにあった籠のなかにバスタオルがあったので、美優にそれを手わたした。
あらっぽい手つきでバスタオルを手にした美優は、浴室のドアをこれまたあらっぽい手つきで開けると、さらにあらっぽい手つきで閉めようとした。すんでのところで美波はドアに手をかけてとめた。
「お風呂、一緒にいただいていいですか」
思わずそう言ってしまったのは、美優が言っていた自殺をとめようとしたのか、やたらべたついてかなわない体をさっぱりさせたかったのか、美波自身にもよくわからない。
浴槽に湯は一滴もなかった。仕方がないので美波はお湯張りボタンを押してから、美優の肩を抱いて、昨夜恥ずかしいことに精を出した蒲団の敷かれている部屋にもどった。
その蒲団の上に美優を座らせて、洋服箪笥をかってにひらいて下着を物色し、美優に着けてもらった。さきにわたしたバスタオルは美優の体をつつむことなく、洗面所になげすてられている。
下着を着けながら美優はまだなにかうめているようだった。さらに寝間着につかっていると思われるTシャツとハーフパンツをさがしだして、美優にわたした。裸で寝て、起きて寝間着を着る、というのもおかしな話かもしれない。そうでもないか、いや、やはりおかしい、などと思っているとつい苦笑がこぼれたが、笑ってる場合ではないと思いなおした。
なにせ、美優の絶望にみちた表情は、さきほどからかけらも変わってはいないのだ。
目をはなすわけにはいかないが、いごこちのわるいことおびただしい。
「あの、お手洗い、借りていいですか」
そのいごこちのわるさが、そういうことばになって口から出た。
美優の首ががくりとたれた。うなずいている、と判断するのはちょっとむずかしかったが、美波はひとまずそう判断した。
首をたれさげた美優は、床の一点をみつめたまま微動だにしない。うごかない唇からぶつぶつと声がもれているのを美波の耳はのがさなかった。なんと言っているのか、あえてなにかをあてはめるなら、死にたい、の羅列にほかならなかったろう。
美波がちらちらと美優をふりかえりながらトイレにゆき、用をたしてもどってきても、美優はぴくりともうごいていなかった。
この場合うごいていないのは幸運ととらえるべきだろうか。まさか本気で死にたいなどと思っているわけではないだろうが、目つきが尋常でないことも否定できないのである。
多少視線をおよがせながら、美波は美優のとなりにちょこんと座った。
あしたの朝は死にたくなると思うからとめてほしい、と言われた。こんなことをしたら死にたくなると思うから、という意味だったといまわかった。こんなこと、とはようするにセックスのことである。翌朝そうなることがわかっていたなら最初からしなければよかったのに、などとは、美波にはとうてい言えない。一言も「ほしい」と口にしなかったとはいえ、そうあることを望んだのは美波のほうで、そういう目で美優を見たのは美波で、誘ったは美波で、せがんだのも媚びたのも美波である。美優はそれに応えたにすぎない。
あえて無責任な追及をするならお互い酒に酔っていたとはいえ、それから女性同士とはいえ、自宅にむりやりな理由をつけて連れ帰られたら、そういうことかと不安にもなるし、反面、期待ももつ。不安が消えてすぐに期待だけになったのは、もともと好意的に思っていた美優が相手だったからで、もっと言えば、彼女はどれほど酩酊したとしても無体なことはけっしてしないひとだ、という、ほとんど無限にちかい信頼である。これがたとえば男や楓ならそうはいかない。
じっさい美波はそういう<Tインを出して無碍にあつかわれなかった。かりに不安だけを目にともしていたら、美優はやはりなにもせずに、美波を寝かしつけただけだったろう。
こざかしいことに美波は、彼女がそういうひとだとわかっていたのだ、酔っ払った頭でもじゅうぶんに承知できていた。すると、わるいのはやはり自分ということになる。
「美優さん、あの」
「ごめんなさい」
「………」
さきに言われてしまった。謝りかえすと謝罪合戦になってとめようがなくなると思った美波は、ことばを呑み込んだ。
バシンとおおきな音がした。
おどろいて美優のほうを見ると、死にそうな目が骨張った手にまたおおわれていた。
「あの、ごめんなさい。ほんと、わたし、なんてことを……ごめんなさい。なんで、なんで……ごめんなさい、ごめんなさい……美波ちゃん、わたし――」
謝罪合戦は阻止したが謝罪攻撃は阻めなかった。美優は謝りたおした。くぐもった声でひたすらごめんなさいと謝りつづけた。
「いえ、わたし、こそ」
と思わず言ってしまったのを、美波に謝罪しながらも美波のほうはまったく見ないで、美波のほうに意識がむいているとも思われない美優は、耳ざとく聞いたらしい。
両肩をつよくつかまれて、はげしくゆさぶられた。おそろしく死にたそうにしている目が、美波を睨むように見ていることだけ、かろうじてゆれる視界でとらえられた。わたしがわるいの、わたしがいけないの、わたしが自制しなきゃいけなかったの、美波ちゃんごめんなさい、あなたを、わたしは、――。……とちゅうから鼻声になっていた。
美優はゆさぶるのをやめると、美波の肩をつかんだまま、うなだれた。ずるずると鼻をすする音がして、嗚咽をこらえる息がして、ごめんなさい、と声がして、美優はそれきりまたうごかなくなった。
美波はどうすればわからなくなった。
泣いているこどもをあやすのは得意なほうだったと思うが、泣いているおとなをなだめる方法を、まだ二十歳になったばかりの美波は知らない。だいいち泣いている理由が理由だった。酒をかっくらってぐずっている楓の世話とは、だいぶんかってがちがう。あのひとはなにがあっても死にたがりはしないだろう。
「美優さん……」
とんでもないことをしてしまったと泣いている美優を、美波にはどうすることもできない。この善良のひとにとんでもないことをさせてしまったと、美波のほうこそ泣きたくなった。そうして美波はついにめじりに涙をためた。それを堪えるかそのまま流してしまうか思案していると、
〈お湯張りが完了しました〉
機械加工された音声が、しめった空気をぶちやぶった。
ほんとうに死のうなどと考えているわけではないとわかっている。わかってはいるが、美優から目をはなすのはためらわれた。
湯を借りた恩だとむりを言って、美波は美優のせなかを洗わせてもらった。髪も洗わせてもらって、濡れてもよく指のとおるきれいな髪だった。美波はそのことにほのかに感動したが、ひとが美波の髪に触れたらおなじ感動をもつだろう。そういえばアーニャにそんなことを言われた記憶がある。美優も美波の髪を洗って手櫛をとおせば、アーニャとおなじ讃辞をおくったかもしれない。ただし、美優はこのとき美波の髪を洗わなかった。洗髪は美波が自分でやった。
その髪をぎゅっとうしろでむすんでから、湯の張られた浴槽につかった。
なんとなく気になって美波は剃刀の位置を確認した。剃刀は洗面台にあるのはみたが、浴室にはないようだった。美波とはそこがちがった。美波は浴室に剃刀を入れている。
似ているとよく言われるがこまごまとしたところでちがっているものだと思った。そう思ってから、似ていると言われたのは見た目だけだったっけ、と思い出した。ものを置く場所や習性まで似ていたらほほえましいよりおそろしいという気持ちが先行しそうである。
美優の後悔の色は、昨夜のできごとを、過失とみなしているからだろうし、その認識におそらくあやまりはない。過失にはちがいない。立場が逆なら、美波がおなじ後悔の色を満面にひろげてうめいていたはずである。
ほんとうなら美波も昨夜のことをもっと愧恥すべきなのかもしれない。死にたくなるのは問題外にしても、もうしわけない気持ちでいっぱいになるべきなのかもしれない。が、美波のなかでそれらの感情はしだいに薄れていった。
自分まで、あれはあやまちであったとはっきり認めてしまうと、美優の立ちなおる余地がなくなってしまうと思った。だから美優はどうあれ自分はあれはあやまちではなかったという気持ちでいなければ、と思った。それはそれで美優を傷つけるかもしれないが、まったく立ちなおれなくなるよりましだろうと思われた。
その決意表明に美波は言った。
「わたしは、昨日のこと、後悔しません。美優さんに抱かれてうれしかったって、思っています」
その瞬間、美優の頭は派手な水音を立てて湯船につっこんだ。
心臓が飛びでそうになりながら、ばくばくと心臓の音を鳴らしながら、美波は湯のなかから美優の頭をひっぱりあげた。どこを見ているのかわからないがとにかく死にたそうにしている絶望に満ちたまなざしを、かたくなにこちらをむこうとしないあごを、全力でつかまえて、むかせて、美波は言った。
「後悔、しないでください。それじゃあ、わたし、抱かれ損じゃないですか。いや損得の話じゃないですが、バカみたいじゃないですか、期待したわたしが」
めいっぱい力をこめてつかんでいる美優の顔がまたぎちぎちとうごいて湯のなかにつっこみそうになっているのを、美波は懸命におさえた。そんなに溺れたいのかこのひとは。
「まちがいじゃないです。あれは一夜のあやまちなんかじゃないです。わたしはぜったいに、そんな記憶にはしませんから」
ああ、また泣いている、と美波は思った。なさけないと思ったし、いとおしいとも思った。涙をぬぐってなぐさめてやりたいと思った。けれど。そうしたらきっと美波の力の拘束をまぬかれた美優は、すぐにまた湯のなかに首をつっこむだろうから、できなかった。
この強情ばり、とすこしののしりたくなった。でも、むこうも、もしかしたら、自分の後頭部と顎とおそろしい力でつかまえている美波にそう思ったかもしれない。
「とめて、といったのは、美優さんですよ。死にたくなるからとめてって、あなたが言ったんです。抵抗、しないでください」
たぶんこういう強硬な態度をみせるからがんばってね、と、あのとき美優は言いたかったのだろう。なんて無責任なおとながいたものだ。美優のそうした一面が美波には意外であったし、また当然のもののように思われた。彼女はたしかにそういう性格のひとだと思った。酒の勢いで後輩と体をかさねて、こうならないわけない。このひとはそれを自覚していたのに、美波の欲求にそれでも応えてくれたのだ。
――わたしはもっと後悔するべきかもしれない、と美波は何度となく思ったが、そのたびにそれを否定した。後悔はしない。あれはあやまちではない。美波のあやまちでなければ、もちろん美優のあやまちでもない。そう信じたかった。
それを美優にも信じてもらうには、どうすればいいだろうか。
おもいのほかはげしい抵抗とたたかうことしばし、美波はひとつ結論を出した。すなわち、こういう色気のないことを言ったのである。
「美優さん、今夜も、どうですか」
酒の抜けた今夜、同意の上での二度目があれば、もう昨夜のこともあやまちとはいえなくなるでしょう。そう言ったのだった。
ほうけた目でみつめられた。
美波はこの日はじめて死にそうでない美優の目をみた。うつらぼんやりとしてなにを言われたのかまだ理解しきってない目をみた。その目をずっとみていたかったが、美波はまずは美優の後頭部とあごから手をはなすと、側頭部にそえなおして、それからちからいっぱいに湯船につっこんだ。
そして、自分も湯船に頭をつっこむと、湯のなかで目をひらいて、あれだけ溺れたがっていたわりに苦しげにもがいている美優の唇に、いたって強引にキスをした。
死にたがりの三船美優が風呂からあがってやったことといえば、まず美波にされるがままに髪を乾かしてもらい、服を着せてもらったことである。さすがに下着は自分でつけたような気がするが、なにしろ頭が朦朧としているもので、そのあたりははっきりしない。
それから美波に肩をあずけてふらふらとした足どりで部屋にもどると、敷きっぱなしの蒲団をしまうでもなくて、湯あたりをおこしたみたいにへたりこんで、ぼんやりと窓の外をみていた。
それだけである。
そのあいだに美波は朝食の用意をしてくれた。ぼんやりしたままの美優をどかして蒲団をかたづけ、壁に立てかけていた卓を部屋のまんなかまで持って来て、朝食をその上にはこび、そのあと美優を卓のまえに座らせた。
美優はずっとぼんやりとしたまなざしをうつろのただよわせ、その身は美波にまかせきった。美波の節介をこばむ気になれない。自分でなにかする気にもなれない。
朝食のメニューはトーストと茹でたウインナー、トマトとレタスのサラダ、それにコーヒーがならべられた。そういえば砂糖がどうとかミルクがどうとか聞かれた気がする、と美優は思った。台所借りますね、とも言われた。自分は返事をしたのだろうか。美優には全然、思い出せなかった。
つと卓におとしていた目をあげると、真正面に美波がいる。
唇がうごいた。たぶん、いただきますと言ったのだ。美優とちがって美波ははきはきとした声でしゃべるのに、どういうことかまるで耳にはいってこない。パンを食べている。サラダを食べている。唇がうごいている。
美波と視線があった。なにかを問いたそうな目をしている。――なぜみているんですか、と訊きたいのだろう。そんなことはうすぼんやりとした頭でもすぐにわかる。
はっとして逃げるように目をそらした。
ちいさな嘆息がいやにはっきりと聞こえたような気がした。
「いただきます」
ぼそりとそう言ってもそもそとパンをかじる。まずいことをしたのかもしれない。いや、さっきのはいかにもまずかった。目をそらしてしまうくらいなら最初からみるべきではなかった。
――でも。
心のなかで首をふる。仕方のないことだ。どうしたって目にはいってしまった。目にはいってしまったのだから、みつめるほかなかった。湯のなかでもがいて、感触などまるで憶えていない。それでも自分のこの口は、この唇は、彼女のそれに触れられたことを知っている。唇だけでなく全身が、その事実を正しく認識している。
思考だけはまだ半分ほど理解できていなくて、半分は理解してしまっているから、とっさのときにああいう行動としてあらわれてしまうのだろう。
――キスされた。
それがむしょうに恥ずかしくて目をそらしてしまったのだ。いまのいままで心の深いところに沈んで蓋をされていた羞恥心が急浮上してきた。
昨晩美波のそこかしこに、それこそ唇をふくむ全身にキスをしたのは美優のほうであって、あるいはそれが年若い美波のファーストキスだったかもしれないのである。
――いや、まさか、もてそうだし、彼氏のひとりやふたり……、あ、でも貞操観念固そうだから、ないのかも……、あれでもだったらなんでわたしは……。
あれこれ考えていると両頬をおもいきりつかまれた。ついさっきもこんなことがあった気がする。
食事の手をとめた美波が、卓から身をのりだして、両手で美優の頬をおさえ、そうやって、また死にたそうな顔をしていたらしい美優を、真剣なまなざしでみつめた。うつくしい眉をひそめて、やわらかかったようなそうでなかったような、あいまいな記憶ののこる、やはりうつくしい唇を真一文字にむすんで、無言で美優をみている。
謝ったら怒られそうな気がした。なぜかそんな気がしてならなかった。謝るかわりに目をそらさずにみつめかえすことにした。
五秒ともたなかった。すぐにまた顔をそむけた。美波の手はあっさりと美優の頬を解放した。風呂にはいっていたときとちがって、美波は力づくで美優を自分のほうにむかせようとしなかった。
座りなおして、
「美優さん」
と呼ぶ。その声もきれいだった。
似ている、とはだれが言いだしたことなのか。
いま考えるようなことではないだろうに、ふいにそんな疑問が、美優の頭のなかをぐるぐるとかけめぐった。
また嘆息が聞こえた。耳にこびりつく。やはりさきほども気のせいなどではなく、美波は泣きたくなるような嘆きの息をもらしていたのだ。
美優はもうそらしない顔を、どうにかそらせないかと考えた。およがしようもない目線をおよがせないかと思った。率直に言って死にたいと思った。
美波はこの種の息を、いつもぐっとこらえてけっしてあからさまに吐き出さない。それなのに、あからさまに嘆息してみせるのは、あきらかな異常だった。
異常の原因はわかりきっている。美優はそれから逃げたくて仕方なかった。それがどれほどなさけないことかわからぬ美優ではなかったが、なさけなかろうがぶざまだろうが、逃げたいものは意地でも逃げたい。
それにしても美波は元気である。活発なのは性格だが人生初めての酒を飲んでその夜にやることやっての翌る朝だというのに、口調も動作も緩慢なものがなく、しっかりとしている。こうなると酩酊するほど酒をあおった昨夜の暴走が、信じられないことのように思われてきた。初飲酒であればそれくらいの失敗はだれにも大なり小なりあるものだが、美波はそれすらさっとかわしてしまえる器用さをもっているはずだった。とめなかった周りも周りだが、よもや美波ちゃんが、という油断が、心のどこかにおちていたのではないだろうか。
異常なのは、いまだけにかぎったことではない。ようやく美優は思いだした。美波は昨夜からずっとおかしかった。酒の席を設けてみなで彼女に飲酒デビューをさせた、まずは一杯、と口あたりのよいチューハイに唇をつけた、あのときからすでに異常ははじまっていた。
彼女は昨日からずっと異常なのだ。
美優は箪笥をみるともなくみていた目をぎゅっとつむってから、一度おおきく深呼吸した。そして寝違えでもしたのかというほどかってのきかない首をぎちぎちとうごかして、美波のほうにむきなおり、これまたかってのきかない固くとじた目をひらいた。
「美波ちゃん」
「その顔は、やめてください」
泣きすがるような声で美波は言った。思わず、ごめんなさい、と言いそうになって、ちがう、と首をふった。いますべきなのはそれではない。
では、なにをすべきなのだろう。
泣きそうな女の子が目の前にいるのだから、その子をそっと抱きしめてあげるべきだろうか。が、泣かせているのはだれだ、と思うと、美優は心のなかで首をふった。
――おかえしのキスとか。
それだっていまこのタイミングでするのはおかしい。
――いや、それよりも……。
キスされるまえに、たいへんなものをうけとっている。夜のお誘いをちょうだいしたのである。返事はまだしていない。その返事をいまするのは……また首をふる。やはりタイミングがおかしい。
なにをすべきか考えてもわからなかったので、美優はコーヒーを飲んだ。とりあえず朝ごはんを食べよう、ということにした。気まずいのは仕方がないとあきらめる。やがて美波も食事を再開した。表情の暗さはかくしようもない。いや、かくそうとしない、といったほうが正しいだろう。いまの美波にかぎってはそう捉えたほうがまちがいがない。
食事はすぐにおえてしまった。他にすることもなければ、進みは早くなるだけだった。
美優があっとおどろくまもなく、美波は食器をあつめて洗いにいってしまった。てつだうことを拒否しているとしか思われないほど素早いうごきだった。
美優はおとなしくその場に座って待つことにした。
また窓の外に目をやる。飛び降りたいわけではないが、おきどころのない視線をやろうとすると自然ともってゆく方向はかぎられた。
一夜のあやまちではない、と美波は言ってくれた。これは美波のわがままというより、やはり美優へのやさしさだろう。どちらかだけではなくどちらの気持ちも美波のなかにあると美優には思われた。では割合としてはどうなのだろうか。まさっているのはどちらの気持ちだろうか。美優にはわからない。さらにわからないのは美波が、美優に抱かれたことを、うれしい、と言ったことである。この場合うれしいというのは、昨夜その最中にみせた快楽とはことなるものにちがいなく、ことばの十分を本音と思ってよいものなのかどうか。
相手はあの新田美波なのである。発せられることばに気づかいが内在しないはずがない。それを忘れてはなるまい。
それにしても二十歳になったばかりの娘にそこまで気づかわせる自分とはなんであろうか。
美優は頭をかかえたくなった。気分が際限なくおちこんでゆく。
いつのまにか洗い物の音が消えている。正確にはそのことにいま気づいた。
ああ、おわったんだ、と思った。そう思った瞬間にはもう美優はうしろから抱きしめられていた。
そこから長い沈黙があった。
呼吸する音と心臓が鳴る音、それに布地のこすれあうかすかな音だけが、部屋のしじまを満たした。
それほどつよい力で抱きしめられているわけではない。美優はまなじりを決して腕をふりほどき、美波のほうにむきなおると、彼女の顔を胸に抱きよせた。
すべきことを考えに考えぬいても、けっきょく頭にうかんだのはそのくらいのことだった。
胸にしめったものを感じた。泣いているのかな、と思った。ただし、泣いているのが美波なのか、自分なのか、両方か、わからない。
「わたしは昨夜のことを悔やみつづけると思います。そうするべきだとも思います。いちおう美波ちゃんより六つも上のおとななので、やってはいけないことをやってしまったのは、反省しないといけないことなんです」
そう言ってから、
「あれは、わたしが、ほんとうになにがあっても流されちゃいけなかったのに、流されたのがぜんぶ悪いから」
と、つけくわえた。責任の所在をはっきりしておかなければいけない。美波に気負わせてはならないのである。
「やってはいけないことでしたか」
かぼそいちいさい声だった。
「はい」
きっぱりと答えた。抱いたことを悔やまれては抱かれ損だとか期待した自分がバカみたいだとか美波は言ったが、美優はそこだけはいかにしてもくつがえせないと思った。
「やってはいけないあやまちです。あやまちは二度犯しません」
と美優は言った。それはそのまま美波がおそらくは美優の罪悪感をとりのぞこうとする思いやりのために言った、今夜もう一度、という誘いを、美優がけとばしたことを意味していた。
ぐっと息を呑むような音がした。美波がなにか言いたそうにして、言わずに堪えている音がそれだった。
美波がすこし身をよじった。美優は腕をといて、抱きよせていた美波の頭を解放した。
うつむいていた顔がもちあがって、その目はやはり泣いた痕跡があった。が、もう泣きやんでいる。
たしかな意志をもったつよいまなざしだった。ここでたじろぐようではなんにもならない。美優も視線をつよく、美波をみつめた。
無言でずっとそうしていた。
やがて美波が、ふっと息を吐いた。それがなんだったのか、考えないでも美優にはわかった。
美波のなかで、ひとまず決着がついたのだろう。数回のまばたきののち、視線がはずれた。
「そろそろ、帰りますね」
まだすこし翳りのあるほそい声だったが、美波はそう言った。
「美波ちゃん、今日は大学は……」
と美優がたったいまようやくそのことに思いあたって、心配になって訊くと、美波はふるふると首をふった。
「お酒を飲んで、次の日どうなるか、わからなかったので」
「そう。……」
しっかりとしていることだ。どうなるか、といえば、昨夜酒にまかせた結果こうなっているので、なにも取らなくて正解だっただろう。
「いちおう午後の三時からレッスンが入っています。予定はそれくらいです、ね」
と言った美波は、ちょっと笑ったようだった。ほんのちょっとだけ笑ったふうにみえた。
「美優さんは」
「わたしも午後に一件入ってるくらいだから。ドラマの撮影がないときはスケジュールがだいぶ空くから、だいたい家にいる」
訊かれてもいないことに答えたのは、ひとつの意思表示だった。昨晩に美波とのあいだにあったことはあやまちだと言いつづけるつもりの美優だが、美波との関係のなにもかもを否定するわけでも、美波から発信されたものをすべて拒否するわけでもない、という、美優のもつ弱さが見せた意思表示だった。こういうことは考えなしに口から出てしまうことが多いのでたちが悪い、と美優は、言ったあとに苦虫を噛みつぶしたみたいな顔をした。
「そうですか」
と言った美波がほのかに喜色をうかべたからといって、これでよしと思うのも、ほんとうはいけないことなのだろう。
――でも、笑ってくれるならそれに越したことはないし。
それなのに自分へのいいわけはよどみなく心の内側から発せられる。自分のなかには御しがたい自分がつねに居座っている。じつに厄介だ。美波が笑ったのをみて、笑っている自分がいる。美波が喜色をうかべたのをみて、喜色満面になっている女が、美波の目の前にいる。なんと厄介なことだろうか。
「もうすこし」
だから美優は言った。
「もうすこし、ゆっくりしていって」
けっきょく美波は十二時ごろまで美優の家にいて、掃除だの洗濯だのそれから最後に昼食の準備に至るまで、一宿一飯の恩義と言わんばかりに美優の身のまわりの世話をせっせと焼いた。
帰りぎわには、
「いろいろご迷惑おかけしました」
と言ってかるく頭をさげた。
美波は美波で引き下がれないものがあるだろうから、美優はもうお互い様ということにしよう、と思って、それについてはあれこれ言わずに、とりあえず、
「うん、気をつけて」
と言った。だいいち狭い玄関で頭をさげあってもろくな事態にならないだろうことはたやすく想像できる。
「あと、それと……」
玄関戸を開けて出ようとしていた美波をひきとめ、ちょいちょいと手招いた。
「はい?」
「もうちょっと、もうちょっとこっち」
まだ手招く。
いぶかしそうに美波が首をかしげ、半歩、こちらに近づく。ガチャンと重い音をたてて玄関の戸が閉じられた。
まだまだ遠いので、美優は上下に手をゆすった。
「こっち、こっち」
また半歩近づく。これ以上は美優の体にはばまれて近づきようもない。
「美波ちゃん」
「はい」
やわらかい唇に口づけた。
「いまのは、場に流されたとか、お酒の勢いにまかせたとか、そういうのじゃなくって、ちゃんと、考えてやったことだから」
美波は呆然としている。
「だからね」
でもうまく口がうごいてくれない。もともとことばはうまいほうではない。なにかほかに、いいわけではない、ちゃんとした説明ができないものか。
「だから……」
そんな調子で、だから、つまり、とくりかえすだけでろくな説明のできない美優は、自分の口づけたとき、早苗か楓か友紀かだれだか思い出せないが、とにかくだれかにプレゼントされてすぐに壊れた鳩時計が正午ちょうどをさしていたことに、気づかなかった。
壊れた鳴き声が部屋に響いていることに気づかなかった。
心配なんですよ、と楓は言った。そう言ったときの楓の表情があまりにも神妙で、だじゃれを考えているときとも全然ちがって、だから美優は、ああこのひとは本気でわたしのことを心配しているのだとわかった。
わかっただけに、ショックだった。
「楓さんに心配されるなんて、わたしもう潮時なんでしょうか」
と美優は身も蓋もないことを言った。
芸能界を引退すべきなのだろうかと一瞬だけ本気でそう思った。
酔っているのかもしれない。気をつかうのもつかわれるのも不慣れな身なので、酒がなくてもこんな言い方しかできなかったと思うが、まぎれもない美優の本音であり、その本音をふだんすこしくらいはがまんして口に出さないところを、かんたんに出させてしまう。おそろしいのは酒の席の開放感で、美優はどちらかというと、そういうのが苦手なたちだった。
「あ、いえ、お仕事のことでなくて」
「ちがうんですか」
頭をぐらぐらゆらしながら、美優はそれでも、いちおう首をかしげてみせた。酒によった頭がゆれているだけのようにみえても、美優には首をかしげて疑問を呈したつもりの動作である。
「ほら、美波ちゃんとね、最近なんだか、距離があるかなって、思いましたので」
ほんのすこしぎくりとした。肩がわずかにはねた。あえてかくしていることでもないが、あからさまにしているとも思っていなかったので、楓の心配が仕事でないなら、それは第二の予測として十分たてられるものでありながら、美優は予想外の攻撃をくらった気分だった。
「まあ、まあ、あんなにも仲がよかったふたりに、いったいなにがあったのでしょうか、と思ってちょっと調査しみたら」
「調査したんです?」
「探偵にはたのんでいませんよ」
「ええ、はい」
瑞樹や留美などはすでになにかしらを察しているようで、ただ首をつっこむ気はないらしく、かわりにすこしばかりお叱りは受けた。あんな若い子に気をつかわせてどうするの、と。そのあたりに楓の調査の手がまわったのか。いつのまに、と美優はいぶかしんだ。
それとなくふたりのいるほうへ視線をむけてみる。目があった。指でちょいちょいと楓を示す。とくべつ変わった様子はなく、酔っ払いの相手ご愁傷様、みたいにくすりと笑われた。ひどいひとたちだ。
「美波ちゃんに聞いてみたんですよ」
迂遠な路をいっさいとらなかった楓である。
こんどはすこしどころでなく、おおいに肩をふるわせた。手がこわばって、グラスから酒がこぼれおちそうになる。
「聞いてみたんです」
大事なことなので。
奥の座敷席とはいえ、現在の美優と美波をとりまく状況を、口にするのは、まずいのではないか。
「楓さん、その話題は、また後日……」
「聞いてみたんですよ」
「はい」
楓は聞いてくれそうにない。
「そしたら!」
楓は言って、手をたたいた。乾いた、なんとなくそぞろになった気をひきしめるような、あるいは逆に、張りつめたものがときほぐされるような、ふしぎな音が楓の手からした。
スターというのは常人とはなにからなにまで、なにげないしぐさでさえ、ちがうものなのかと美優はあらためて思った。
「わたしが贈らせてもらった鳩時計、壊れていたそうで」
手をあわせたまま、楓の頭がかたむき、色違いの目が、美優のあごからこめかみのあたりにかけてを、のぞきこむ。
「あ、はい。せっかく楓さんが誕生日にとくれたのに、すぐに壊れちゃって……」
「でも、まだ使ってくださっていると聞いて、美優さん、美優さんったら、ほんとうにやさしいひとですね。あと物堅いといいますか」
そうだろうか。自分ではわからない。グラスのふちをつまんで振る。なかはまだあけきっていない。琥珀色の液体がグラスのなかでかすかにゆれる。
「窓のところに鳩がひっかかって、出てきたり出てこなかったりで、そのせいなのか、変な鳴き声になるんですよね」
「くるっぽーくるっぽーが、くる、くるくる、って感じだと聞きましたが」
「ええ、そんな感じです。でも、ちゃんと十二時になると鳴いてくれますし。針には問題ないみたいですし、だからいまでもちゃんと使えますし、だから、その、物堅い、というのとはちがうと思います」
やさしい、というのとは、もっとちがう。これは心のなかでだけ言った。それにしても美波が我が家の鳩時計の壊れた鳴き声をおぼえていたとはおどろきである。十二時にしか鳴かないのに、いつ聞いたのだろう。そういえば最初の夜の、夜にあれやこれやがあって、ストレートに言うとセックスした翌日、昼まで彼女はいた気がする。そのときか。
――鳴いてたっけ。
記憶にない。
「すぐ壊れるようなものを贈ってしまってもうしわけないです。でも、ずっと使っていてくれたのですねえ」
しみじみ言って酒をひとくち飲んでから、
「ありがとうございます」
と言って、楓はぺこりと頭をさげた。
美優はあわてて首を振った。
感謝されるようなことはしていない。むしろ貰ってすぐに壊してしまった自分こそ楓に謝罪すべきだろう、と思った瞬間、美優は謝った。いや、まえまえから謝罪しようとはしていたのだ。が、なにぶんプレゼントされたのもいまとおなじ酒宴もたけなわのころである。だれに贈られたのかさっぱり思い出せないまま今日に至った。楓が言いださなければ、あの時計は、いつだれに贈られたかもわからない壊れた鳩時計として、部屋の壁にはりつけられつづけたことだろう。
――あれ。
美優はまた首をかしげた。なんだか話がおかしい。
「んん……」
「どうしました?」
「いえ、どうして鳩時計の話を、わたしたちはしているのかと思って」
鳩時計の話をするために楓は美優に話しかけたわけではなかった気がする。
「そうでしたっけ。いえね、美波ちゃんが美優さんの家の鳩時計って壊れているんですよ、鳴き声がなんだかおかしくて、と教えてくれたんですよ」
「そう、ですから、なんで鳩時計の話に」
主客が逆になってはいないか。これでは鳩時計がメインで美波がオマケである。まさか楓は鳩時計が心配でこんな話をしているわけではあるまい。
「美波ちゃんが教えてくれて」
なんだからちのあかないことになってきた。
「はい、そうです、その美波ちゃんのことで、心配してくださっていたのでは……」
「セックスしたんですか?」
考えるよりさきに手が出た。てのひらの一番堅いところを楓のきれいな唇めがけて突きだした。
楓はひっくりかえってうめいた。
あわてるべきなのだろうが、美優はふしぎにあわてなかった。
謝るべきなので謝った。
心配すべきだと思うので、だいじょうぶですか? と訊いた。
「口のなか切ってません?」
「ええ、それは、だいじょうぶだったみたいです。ああそれにしても美優さんはお酒がはいると大胆になりますね」
「はあ、自覚があるにはあるんですが、どうにも。禁酒したほうがいいかな」
「それは、やれともやるなとも、わたしには言いづらいですねえ。美優さんとのお酒はたのしいですし」
「ものずきですよね、楓さんって」
「ちかごろのおふたりきたら、みょうに艶っぽいですし、熱っぽい視線をかわしたりそらしたりですし、わたしとしてはそう推理するほかないのですが」
ひたいに手刀を落とす。
「あいたっ」
あんまりかわいくない悲鳴があがった。
「正直なところ、こういう話、ここでするの、どうかと思います」
と言ったのは、おそろしいことに楓だった。
「でも、聞きたいな、いますぐ知りたいな、って思ったら、なんだかいてもたってもいられなくってですね、つい」
かなしい人間のさがですね、と言った楓は、酔っていたのだろうか。どこまで正気なのだろうか。美優にはもう、判断できない。このひとの思考の深奥には、美優ではとうていとどかない。
楓は美波からは鳩時計の話ばかり聞いたらしい。いつどこで、かは、たぶん事務所内で顔を合わせたときにでも、世間話がてら、そんな話をしたのだろう。
なのに美優には、あきらかに不適切な場所で不適切な話をしようとした。
楓の意図はどうあれ、美優はその事実を深刻に受けとめなければならなかった。けっきょくのところ、そこにあるのは、二十歳になったばかりの大学生の美波と、それより六つも年上の、社会人経験のある美優のという現実である。だから楓は美波には生々しい話をもってゆかず、直接美優のほうにきたのだ。美優は負うべき責任としてそう受けとめなければならないのである。
「どうでした? 女のひと同士ってその、いろいろとむずかしいって聞きますけど」
でも、さすがにしつこい。
「むずかしかったですよ」
美優はそれにのっかった。もうどうでもいいや、と思ったわけではない。酒宴の喧騒のなかで、ふたりの会話などほかに聞いているものなどいない。そう判断したのである。その判断力が正常かどうかなんて、知らない。
「むずかしい、ですね。……」
グラスをゆらして飲んで、またゆらして、飲んで、ついに中身がなくなった。今日はこれでうちどめにしよう。考えることが山ほどあるから、これ以上思考をにぶらせるわけにはいかない。いまさら手遅れだろうが、飲みつづけるよりいくらもマシだ。
「楓さんって」
こんどは美優から話をきりだした。
「しょっちゅう美波ちゃんに家まで送っていってもらっていますが、聞いたところによると、お化粧おとしから着替えから目覚ましのセットから、はては朝食の準備まで、世話になっているそうですが」
「朝食はなかったと思いますが、ええと」
「なにもなかったんですか」
「なにと言いますと」
どこまで本気で問うているのか。とおたがいに思ったことだろう。楓はわかっていてとぼけているのか、さてはて。
「酔っ払いがですね、家に若い女の子を連れこむんです」
「まあ、その文面だけだと、とても危険なかおりがしますね」
「なにもなかったんですか」
「お化粧をおとしてもらって、お着替えをてつだってもらって、お布団に寝かせてもらって、目覚ましのセットをしてもらって、ええそれから記憶にないですが、もしかしたら朝食の用意もしてもらったかもしれません」
いろいろありましたね、と楓は言う。美優はそれで確信した。楓はすっとぼけているだけだ。情愛のからんだ生臭みのある話をしようとする美優の問いをわざと意図とはちがうふうに受けとり、ことばを返している。
「わたし、楓さんのことずっと、ひどいなって思ってたんですよ。いえ、めぐりめぐってわたしもひどいし、ほかのみんなもひどいですけど、楓さんたってのお願いだから、とめづらいし、彼女は断わりづらい……し? のかな?」
「酔っ払いの面倒をみさせることですか」
「そう、だって、いまはともかく、ちょっとまえまで、あの子、未成年で、なのに、飲み会に烏龍茶で参加して、その上酔いつぶれたあなたを」
ひどい、と言おうとしたのに、唇が、うらやましい、とうごきそうになった。
――ちがう、ちがう。
美優はぶんぶんと首を振った。ほんとうに言いたいのはそういうことではない。
しかし楓は、あれだけ酔っていても、自分を見失わないのか、あるいは気を失っているだけなのか、ついに美波になにもしなかった。
美優はテーブルにつっぷした。けっこうおおきな音がした。ひたいが痛い。
「死にたい」
「美優さんいきなり自殺志願者になるのやめましょうね!?」
「わたし楓さん以下だ……」
文法的には楓さん未満、が正しいのかな、頭のなかでぼんやり思った。
そう思ったあとふいに、美波ちゃんに謝らなきゃ、と思った。楓に鳩時計を壊したことを謝っている場合ではない。
美優はがばっと顔をあげ、やにわに立ちあがると、
「おさきです」
と言ってそのまま退出した。
時刻は十一時十六分。微妙なところだが、LINEで確認をとってから、起きているようなら行ってみよう。広島から東京の大学に進学して、ひとり暮らしをしている彼女のマンションの住所は、いちおう本人から教わった。
〈あいていますか〉
とだけ送った。
〈はい〉
とだけ返ってきた。
〈いま行きます〉
いとしいあなたに会いに行きます、と口のなかでつぶやいた。
住所は知っているが、じっさいに行ったことはない。案の定美優は道に迷った。電話でいまここにいる、なにそれの看板がみえる、などと雑な状況説明をしつつ、美波の的確な案内もあって、どうにか目的のマンションにはたどりつけた。
美優よりも上等な部屋に住んでいるのは外からみてもあきらかだった。
「どうぞ、あがってください」
と美波が言うのを、美優は一階のフロアーでなんだかよくわからない機械ごしに聞いた。
美城プロダクションにも似たようなシステムがあったような気がする。最近のマンションはえらく進んでいるものだ、と酔った頭がしきりに感心した。
美波の部屋にはいると、やはりというべきか、美優の部屋とは全然ちがって、女の子の、それもちゃんと成人済みの大学生らしい、かわいらしさとおちつきのある内装だった。
「ごめんなさい、こんな遅くに」
「いいえ」
美波はにこにこと笑って、美優の突然の来訪を歓迎してくれた。
「どうでも、話したいことがあって」
案内されて、ソファに座って、美波が持ってきた氷水を飲んだ。ほんとうは彼女の淹れる紅茶が飲みたかったのだが、酒臭い息をかげば、だれでも水を、まず差し出すだろう。
それをぐいと一気に飲んでから、
「楓さんとはなにもなかったの」
「はい?」
美波のうつくしい面貌が、めずらしい形にゆがんだ。
「たくさん、だって、たくさん、あのひとの家に行ったでしょう。酔ったあのひとを送っていって、あれこれ介抱して、化粧おとしから朝食の用意まで、いろんなこと、したんでしょう」
「そうですけど……、なんでそんな、いきなり……」
美波は困惑しながら言った。いきなり家にやって来たと思えばそんなことを問い質す人間がいるのである。困惑しないでいられようか。
「キス、とか」
「へ?」
「あ、……そ、そういう、こと、とか」
「あの」
最初の目的とちがうことを言っているのはわかっている。およそすべきことではない最低なことをしでかしたことをあらためて謝罪に来たはずなのである。その後の態度にも問題があったからそれもふくめて謝罪にきたはずなのである。
「お酒、たくさん飲んでるひとと、一緒にいて」
けれどことばは全然思いどおりに出てこない。頭のなかにとどまって耐えて堪えて出さなかった感情が、酒の勢いで(またこれだ、と美優は思った)どんどん吐き出されてゆく。
「美優さん」
困惑が最初にあって、怒気をまじえたように目尻がひくついて、それから呆れたように息を吐いて、最後に、またなんだか、にこにこと笑った。
「かわいいひと」
そう言って美優の頭をなでて、笑ったのだった。
「楓さんの介抱をしただけで、なにもありませんよ。朝食は……作ったことなかったと思います。ほかはしましたけど」
やわらかくなでられているだけのはずなのに、美優の頭は強い力で押しつけられているみたいに、どんどんうつむいていった。
「美波ちゃん……」
うつむいたまま、美優はぼそりぼそりとしゃべりはじめた。
「未成年に面倒みさせる楓さんって、ひどいなって、思って。とめないわたしたちもひどいんだけど、楓さんは美波ちゃんじゃなきゃいやだっていうし。むかしも、いまも」
「はい」
なににたいする「はい」なのか、美優にはわからない。一部かすべてか。
「これからも……、なのか、なって、思ったら」
泣けてきたので泣いた。
「これからも楓さんの介抱はしますけど、なにもありませんよ」
美波はまだ美優の頭をなでている。なで方が、すこし変わったように思われた。なぜ変わったと思ったのかは、やはりわからない。ただばくぜんと、切り替わったと思った。手のぬくもりがもつものが、よろこびからいつくしみにかわったような、そんな感じだった。美優が自覚しなければならない二十歳と二十六歳の差はこのときまったく意味のないものになっていた。
「悔やみつづけるって言っておいて全然悔やんでなくて、ごめんなさい」
美優は言った。
「嫉妬……しちゃったりして、ごめんなさい」
たぶん、このもやもやとして判然としない感情の正体に名をつけるなら、それになる。
「美優さんはわたしを介抱してくれるほうですもんね」
「そうあるべきだと思ったから」
それが年上のおとなとしての役割だと信じていた。が、いまのありさまはなんであろうか。
とはいえ、楓が酔って美波に介抱されるのと違い、美優は死にたくなって死のうとしているのを美波にとめられている。性行為の果ての自殺衝動とはいえ、美波へかけた迷惑は楓よりもひどいのではないか。
美波の手が美優の頭をなでるのをやめた。
「美優さん」
細い両手の指が、美優のほほをつつむ。
「キスして、いいですか」
美波は美優の返事を待ってはくれなかった。
「だいじょうぶですよ、わたし今日はお酒飲んでいませんから」
そのことばとともに、
「あ、……」
唇をおしあてられた。
外側はやわらかった。なかは熱く、甘かった。
時刻は夜の十二時ちょうどを指していて、もちろん鳩時計は鳴かなかった。
キスしていいですか、と美波は言った。
やわらかいソファがしずんだ。美波がせまってきたのと、美優があとじさったせいで、そうなった。
美優が美波の問いに答えるまえに、美波は美優にキスをした。
あたたかい唇の感触があった。そこから舌がちらとのぞかれて、その舌が美優の唇を舐めた。美優は唇をひらいた。すると美波の舌がなかに入ってきた。熱く、甘い、粘性のある感触が口内をゆるゆるとかきまわした。
――なぜ、こんなことになっているんだろう。
熱にうかされそうになる頭の片隅で、美優はそんなことを考えた。こうなってはいけないはずだった。こうならないために、美優は今夜、美波の部屋をおとずれたはずだった。
なにもかもが、最初の予定からはずれてしまっている。
唇がはなれたとき、美波の濡れた目が映った。その目はほのかに笑っている。よろこびような、かなしみのような、そんなあいまいな笑みだった。
ふたりはキスの余韻を吐きだすように、ほうっと熱い息を吐く。
その吐息のつぎにことばを発したのは、美波がさきだった。
「楓さんのこと、嫉妬、してくれたの、すこしうれしかったです」
と美波は言った。
美優はなにも言えなかった。よろこばれているようではいけないのである。美波のむけてくる熱の帯びた好意を、きっぱりと拒まなければならず、それを決意したはずなのである。であるのに、それがてんでできていない自分の、なんとなさけないことか。
「どうして」
ようやく美優は、しぼりだすようにかすれた声をだした。わたしなんかを、とつづけようとしたが、なんかを≠ニ、そういう言い方をすると怒られそうな気がしたので、
「美波ちゃんはわたしを、そんなふうに」
求めようとするの、という声は、ちいさすぎて、美優自身にもよく聞こえなかったが、美波はどうだろうか。
「好きだからです」
美波の理由はいたってシンプルだった。
「はじめて、キスしてくれたときに、好きになったんです。わたしのために抱いてくれたときから、ずっと」
はきとした明るい声だった。美優は耳をふさぎたくなった。それができないかわりに両手で顔をおおった。
「あのときのわたしは、お酒を飲んで酔っていました。それでとんでもないことをしてしまった。それに美波ちゃんも酔っていました。だから、きっとそれは、酔いが――」
そこまで言いかけたところで、
「はい、酔っていました。でも、好きです」
まっすぐな告白である。
あべこべだ、と美優は思った。本来は自分こそがもっと毅然としていなければいけないのに、現実には毅然としているのは二十歳になったばかりの美波のほうで、二十六歳の美優は両手で顔をかくしている。なさけない顔をみられたくなくてそうしている。
ところがその両手は美波によってひきはがされた。
なかば泣き面になっていた顔を、八の字になった眉を、ゆがんだ唇を、皺のよった鼻を、ぶざまな顔を、美波にぜんぶみられてしまった。
「たとえ美優さんがこのさきも、またあのときのことを悔やみつづけようとしても、わたしはそうはしません。これはわたしが決めたことです。わたしはずっと、美優さんに抱かれたことを幸せに思いつづけます」
「美波ちゃん、それは……」
「そう思いつづけることは、美優さんにとって不幸なことなのかもしれませんが、それでもわたしは、後悔したくない」
これが新田美波という人間なのだろう。目鼻立ちが少々似ているだけで、それ以外はなにもかもが自分とは違う。新田美波という強烈な自己をもった人間のきらめきだ。
美優は一度うつむき、唇をむすんで、しばらく黙考した。考えるべきことのすべてを考えた。自分の年齢、立場、これまでの言動、美波のことも考えた。思いかえしては、それについて考えた。
――世のなかにはどうしようもない流れがある。
いつかとおなじことを美優は思った。
美優はいま酒を飲んで多少酔っているが、美波は一滴の酒も飲んでいない。美波は正気である。フィジカルもヴァイタルも美優が美波に勝てるものはなにもない。抵抗されたら美優は手も足も出ない。が、それはない、とわかりきっている。
――だから……。
「後悔は、しつづけます。なんども。これから、なんども」
そう言って、美波の肩に手を添えた。美波はあっさりとソファにたおれた。
美波のワイシャツのボタンをすべてはずして、ブラジャーをめくりあげた。乳房がゆれた。谷間に指をそえると、とくとくと心臓の高鳴りを感じる。そこからさがっていって、へそのあたりを指で押す。ここも呼吸をしている。美優は美波のだらりとソファからおちている手をつかんで、自分の心臓部分にあてた。
「どきどきしている」
「そうですね」
美波は泣きそうな顔で笑っていた。
その顔中にキスをして、乳房を揉んだ。先端をこねまわして、かすかに爪をたてておしつぶした。みじかい悲鳴のような声があがる。
歓喜のなかにいると思う。が、恐怖がまったくないわけではないとも思う。なにせいまの美波はしらふである。前回のような酒の力の助けはうけられない。
「怖くない」
と美優は訊いた。
「怖いです。けれど、うれしいです」
と美波は言った。でも、と美波はつづけた。
「うん?」
美優は美波の脇の下をなでた。
「んっ、美優さんは怖く、ないんですか」
そう言われて、美優は一瞬なにを言われたのかわからなかった。いやな言い方をすれば犯されるのは美波のほうで、犯すのは美優のほうなのだから、こちらに恐怖があるはずがない、と美優は思った。なぜそんなことを問うのか。不安の裏返しがそんなことを言わせたのだろうか、そう思った美優は、美波のひたいにキスをして、頬をなでた。
美優の愛撫をうけながら、美波はそれでも言葉をつづけた。
「後悔、しつづけるって」
「うん。します。まえのことも、いまのことも、します」
美優はきっぱりと言った。
「どうして……」
眉をひそめて美波が言う。なんのためにひそめられた眉なのか、美優にははかりかねた。
「後悔、させたくないから」
すこし顔をそむけて美優は言った。美波の目をみて言う勇気が、このときにはまだ美優にはなかった。
スカートのなかに手をいれる。ショーツをずらして、外側のやわらかい部分にふれた。
濡れた粒をつまんで、おしつぶして、指ではじく。そのたびに美波の喉が鳴る。すこしおさえぎみのその声が、かわいらしくて、いじらしい。
――ああ、なんだ。そんなことだったんだ。
と、美優はにわかに得心した。
抱かれることを後悔したくないなら、後悔させたくない。抱かれることを幸福と思うなら、その幸福を与えつづけたい。おそらくそれは、なかば本音で、なかばは自分の都合であったろう。後悔しつづけるという決意があっさりゆらいだこと、楓との関係に嫉妬すること、そういう諸々を美波を抱くことでごまかそうとしたのかもしれない。
それでも半分はほんとうに美波を思ってのことに違いない。
そういう意味では、やはり美優も美波のことが好きなのだ。美優はようやくそれを知った。
求められたから抱くのでもなくて、酒の勢いに流されるのでもなくて、ただ自分のもつ愛情で相手をくるんでやりたい気持ちが、美優のなかにあったのである。そしてそれをべつのことばで表現すれば、幸福、となることもわかった。
「みゆ、さん」
はやく、と名を呼ぶ声は言っている。なかに、と言っているのである。
「美波ちゃん……」
求められている。が、求めている。もっとも熱く、もうひとつの心臓のようにうごめいているなかを、美優は求めている。ほかのだれでもない、美波のそれに触れたくて、懸命に指をおしいれてゆく。襞にはばまれながら、すすんでゆく。
声が聞こえる。
美波の喘ぐ声が聞こえる。
いつもよりすこし高くて、甘ったるくて、三船美優という人間をつよく求める声が聞こえてくる。
てのひらを上にむけて、指を腹にむけてつきあげる。ひときわ大きな嬌声があがる。
もう一方の手は乳房を揉み、唇は、はだけている上半身のあちらこちらにキスをおとした。
美波の両腕が美優の首にまわされる。ぐいとひっぱられて、肩口に顔をうめられた。
美波は嬌声をこらえるように、美優の服を噛んで、ふ、ふ、と息を吐いている。
ふっと思いついて、美優は美波の鼻をつまんだ。服を噛んでいた歯はあっさりはなれていった。首にまわされていた両腕もほどかれた。
指をぬきさして、粒をおしつぶして、
「かわいい、子」
美波が果てる瞬間にみせた涙と唾液でぐちゃぐちゃになった顔が、どうしようもなくかわいくて、いとおしいと思って、その目尻と口もとにキスをした。
おわったころには、深夜もよいところだったので、その日はけっきょく美波の家に泊まることになった。
それでその翌朝になると、美優は案の定、とんでもないことをしてしまったと後悔にまみれ、勢いベランダのほうに走って、窓に顔面をぶつけ、鍵をあけて、外に出ると、オレンジ色の朝の空のをみて、
――ああ、きれいだな。
と思った。死にたいという気持ちはきれいに霧散した。
気がつくと美波がとなりに立っている。
「ずっとくりかえすんですか?」
「性分ですから、そうなるしかないの」
嘆息した。こうなるとわかっていても、やってしまったものはもう仕方がないし、これからもそうするのだろう。
「でもね、美波ちゃん」
あっさりと自殺衝動のおさまった美優は言った。
「あなたに後悔はさせないし、不幸にもさせない。わたしのために、そうなってしまうなら、わたしがそれをとめるから」
それから美優は、自分によく似た目をぱちくりさせている美波の唇にそっとくちづけた。
了