いただきにくちづけするひと

 高垣楓と初めて顔をあわせたとき、彼女はすでに頂上にいた。
 もっといえば美優がスカウトされるよりずっと以前、楓がまだ美城プロダクションのモデル部門にいたころから、彼女はとびきりの有名人だった。それこそ女性であればその名を知らぬ者はいなかった。
 服飾にさほど興味はないがまったく無関心になるほど人生に枯れてもいない美優は、あらゆるファッション誌の表紙を飾る楓のきらびやかな姿を何度も目にしていた。
 それが分類上は同じアイドル≠ノなったのは、どういう人情の綾だろうか。
 年齢は美優のほうがひとつ上だが、美優には楓のようなかがやかしい前歴などない。ただのOLが突然アイドルになった。スカウトするほうもスカウトするほうだが二十六歳のただのOLがそれにほいほいのるのも、いま思うとそうとうにおかしな話だ。
 自分はいったい、なにを考えてそんな誘いにのってしまったのだろう。
 ともかく美優が美城プロのアイドル部門の所属になって最初にあたえられた仕事は、楓の付き人だった。スタート時の年齢がいくつであろうと下積みは必要というわけだ。
 そのおりに、
「彼女を見て、なにかを感じるようでしたら、そのままつづけてください。なにも感じないようであれば、わたしにそう言ってください。責任をもって再就職先を斡旋します」
 とプロデューサーが言ったのは、義理堅いというべきか、寒々しい現実というべきか。
 実際楓の下に付いてから、彼女を見てなにを感じたのかといえば、一般人としてモデルを見ていたときと変わらない、
 ――きれいなひと。
 そういう淡い感動があるだけだった。
 かつての高垣楓は静止された世界のなかでその美貌を写し留めていた、いまは踊りもすれば歌いもする。目まぐるしく動いているを見るのは、アイドル高垣楓の活動をそれほど知っているわけではない(あまりテレビを見ないので)美優には新鮮だったし、なんとなくふしぎだった。
 あるとき楽屋でコーヒーを淹れていると、楓がぽつりと言った。
「こう、横にですね、すーっと動いたんですね」
 ほおづえをついてぼんやりコーヒーがはいるのを待っていた楓は、唐突にそう言って、ひとさし指を横に滑らせた。
「なにが、ですか」
「わたしがです」
 首をかしげていると、
「縦にですね、こう、上に」
 と楓は今度は下から上に線を引いた。
「いくつもりはないのか、と怒られまして、まあ、まえのマネージャーさんとか、クライアントの方とか、その他諸々のいろんな人に怒られてしまって」
「上って、モデルの上に、ということですか」
 コーヒーカップを差し出して、美優も腰をおろした。
「そう、そうです。ありていにいうと海外とかになるんですが、あつッ」
 みじかい悲鳴のようなものをあげて、楓はコーヒーに息をふきかけた。
「でも、アイドルをやってみないかと言われて、わたしも歌やダンスに興味がありましたし、じゃあやってみよかなって」
「ずいぶんと軽い感じに決めたんですね……」
 それは怒られてもしかたがない。楓はもしかしたら、もとのマネージャーなどにも、とくべつまじめくさった顔をせずに、いまのような調子で「アイドルやります」とでも宣言したのではないか。
「わたしなりに一大決心して決めたんですけど」
 とてもそうは思えない。
「ほら、ずっと同じことしてると、違うことしたくなるじゃないですか。それで、すごく近いけど遠いおとなりの世界に、アイドルっていうモデルとはまたべつなきらきらしたのがあって、そこにいこうって誘われたら、いきたくなりませんか?」
 楓の口調は軽やかで、一大決心という大仰な表現の重みを感じない。
「それで横移動ですか」
「そうなんです。おとなりにお引っ越しですね」
 楓は手をたたいて笑った。さっとそよ風がとおりぬけるようなきもちのよい笑顔だが、みとれている場合ではない。
「悩んだりしなかったんですか?」
「いえ?」
 今度は楓が首をかしげた。
 美優は眉をひそめた。一大決心ではなかったのか。どういうことだ。
「いこう、って言われたら、はい、って言う以外ないでしょう?」
「いや、考えさせてください、って言う以外にないと思うんですが」
 かく言う自分もさして悩むことなく、ふらふらと芸能界に足をつっこんだので、楓のことをどうこう言える口ではなかった。
 美優もけっして軽々しくアイドルになろうとしたわけではない、と自分では思っていた。が、べつだん一大決心をしたわけでもない。
 ――流されただけ。
 そう言ってしまえばそれまでのことである。
 満たされないなにかを満たしたかった、持たざる自分がなにかを持てるかもしれないと思った、なにもない自分にもだれかになにかを与えられるものがあるかもしれない、……そんなことは全然心の片隅にもなかった。
 ほんとうに、言われたから、はい、わかりました、と五年のOL生活のなかでつちかった脊髄反射的な事務返答をしただけの話だ。
 ――軽い感じに決めたのはわたしのほう、か。
 美優は溜息を吐いた。
 その溜息を拾ったのだろうか、楓は、
「ねえ、三船さん、今夜飲みにいきませんか」
 と言った。
「三船さんときたら、いつも定時退社していますが、アフターケアも付き人の仕事ですよ」
 楓の仕事が一般的な会社でいうところの定時に終わることはまずないから、美優のほうも定時退社なぞこの業界にはいってから一度もしたことはないのだが、そのあたりはただの言葉の綾だろう。いつも楓よりさきに上がるのはたしかなのである。
 美優はおとなしくうなずいた。
 それが仕事なら、楓が酒を飲んでいる姿を見るのも、たいせつなつとめだ。

 まったくきれいでもなんでもなかった。飲んでいる姿もさまになってうつくしいんだろうと想像していたが、まるでそんなことはなかった。
 べろんべろんに酔っ払ったただの二十五歳の女しかいま美優の視界には映っていない。
 飲んだくれて、まわらない舌でぐだぐだとくだを巻いている。溜まりに溜まった仕事の愚痴をこれでもかと吐き出している。
 あの感じの悪いディレクターのセクハラに気づかなかったのはほんとうにもうしわけなかった。でも気づいていたとしてもとめることはできなかったろう。そんな立場に美優はいない。マネージャーはどこでなにをやっていたのか。と思ったがマネージャーも女性であるし、あまりその方面で頼りにできる存在ではなかった。
 それにしてもこれがあの高垣楓か、と本気で疑いたくなるほどの醜態である。
 あれほどきれいな瞳がどろどろに融けて、あれほどきめこまやかな肌が真っ赤に染まって、食生活が心配になるほどほそいものの、均整のとれた体は、美優の体のラインをなぞるようにかたむいている。
 ようするに美優は楓に、べったりとはりつかれていた。
「美優さん、美優さん。ほら、飲まないんですか、おいしいですよ、なんだかわたしばかり飲んでもうしけないですね、もっと、こう、ぐいっといきましょうよ」
「飲んでます、飲んでます」
 はりついた楓が邪魔でグラスが持ちづらい。飲みづらい。はなれてほしい。くっついる体がひどくあつい。
 ちびちびと甘いカクテルを舐めるように飲む。
 楓はいろんな意味で高そうな酒をぐびぐびあおっている。ビールではないのだからその飲み方はちょっともったいない気がした。
「ふたりして悪酔いしたら帰れなくなるじゃないですか、わたし付き人ですし……」
「付き人なんですからお酒に付き合わないのはおかしいですよう」
「付き合ってるじゃあないですか」
「じゃ、なくてえ」
 美優の首に両腕をまわした。
 くいと楓のあごがもちあがった。
 色違いのとろんとした目が美優を見つめる。
 吐く息が頬にかかる。熱い。
 ――きれい。
 と思った。
 酔って蕩けきった目も、濡れた唇も、赤く染まった頬も、それから、鼻梁、眉、ひたい、……ぜんぶがきれいだと思った。
 自分は付き人だからちゃんとしていないといけない。酔っ払った楓をとどこおりなくマンションまで送りとどけられるように、酩酊するまで飲んではいけないと自重していたはずなのに、どういうことだろうか。
 まるで自分のほうが、頭のてっぺんから爪先までくまなく酔いきっているようだった。
「高垣さん。……」
 だからふいに近づいた顔に、心臓の音を高鳴らせながら、その濡れそぼった唇にくちづけたのは、美優だった。

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