雪をみて感動したのはほんの幼いころだけで、成長するとすぐに、絶えず生活にまとわりついてくる雪という天災が嫌いになった。雪国の人間はみなそういう経験をして、ほんのわずかな期間だけ雪に情緒をみることのできた年齢を、後年懐かしむことがある。
十一月の初頭に、三船美優は東京に来て最初の雪をみた。
早朝、きのうまではなかった寒さに身をふるわせながら蒲団から這い出ると、雪が降っていた。
カーディガンを羽織って窓辺に寄った美優はそれを、なつかしい、と思うよりさきに、もうそんな季節か、とげんなりする気持ちでいっぱいになった。
建物が雪のなかに埋もれるほど降ることはあるまいが、生活の足枷にしかならない雪に、なんらよろこびを感じなかった。これは北の人間が生涯かかえてゆく憂鬱なのかもしれない。
南のほうのひとは台風が来れば年甲斐もなく興奮しているというのに、この差はいったいなんなのか。
台風警報がテレビにラジオに流れるなか、風に吹かれ雨に降られて事務所にやって来た面々の、どことなくたのしげなようすが、台風にはほとんど縁のない岩手の出の美優には、理解できなかったし、多少うらやましくもあった。
台風が来てうれしいのは学校が休みになるからだと思っていたが、学校が休みで仕事に来ている学生たちも、いい歳をしたおとなたちも、みな総出で台風にうかれているのは、どういうことだろうか。直撃した地域のひとたちにはたまったものではない災害という点では、雪とおなじはずなのに、美優にはわからないことが多い。
「なぜでしょうねえ。なぜかわかりませんが、なんだかわくわくするんですよねえ」
台風一過の翌日の夜、バーのカウンター席で感慨深げに言ったのは楓だった。
「こちらの台風は、北国でいうところの雪のようなものだと思っていましたが、ちがうものですか」
「大雪が降ってどれだけ積もっても、かきわけて学校に行きました。来るかもしれない、で休んだりっていうのはなかったし、歩きづらいし、疲れるし、わくわくなんてとても」
そう言ってグラスに口をつける。
「ああ、でも、体育はかならず体育館になるので、そのときのバレーはたのしかったかな……」
が、雪のない季節でもバレーはするから、バレーのたのしさに雪は関係ない。美優は苦笑した。ただバレーが好きだっただけの話で、もっというと美優は体育の授業自体が好きだったのだ。
「美優さんって意外とスポーツがお好きですよね」
「そうですね、思いかえしてみると自分でも意外です」
からん、と氷のころがる音がした。
楓がグラスをゆらしている。
「ふふ」
楓はもう話にはのってこないで、ただしずかに笑った。
ふだんはまっ白い肌が、酒のために赤くなっている。灯りの色とまざりあったそれは微妙なオレンジに染まってみえた。
夕日に照らされた雪がちょうどそんな感じだったと美優は思った。夕日に化粧された雪のように、うつくしい笑顔だと思った。
はらはらと降る雪をみながら、美優はそのことを思い出していた。オレンジ色の雪が脳裡をよぎった。が、きょうあしたにそれがみられるかといえば、
――積もりそうもない。
と、わかる。アスファルトに溶けて消えるだけの雪である。
美優は窓をはなれた。
――きょうの、スケジュールは。
たしか午前中にレッスンがあって、午後から雑誌のインタビューが一本はいっていたはずだ。
時計をみればまだ七時まえでレッスンにはそうとう早い。
二度寝しようか一瞬迷ったが、蒲団にもどればもう出たくなくなるような気がしてやめた。雪国出身だからといって寒さにつよいわけではない。沖縄人だろうが北海道人だろうが、それから美優のような岩手人であろうが、冬は寒く、蒲団のぬくもりは抗いがたい。
蒲団をしまい、テレビとこたつの電源をつけて、それからコーヒーを淹れた。朝食は買い置きのバターロールとバナナですませた。料理をするのは億劫だった。
てきとうにザッピングしてもニュースばかりが映る。きょうは雪、あしたは雪、のち、雨。いま降っているのはあしたの午後には水になってしまうらしい。あしたの午後までは雪がつづく、ともとれる。思ったよりも寿命が長いと言える。
「はあ……」
コーヒーを飲みほして、天井に息を吐く。
この息には複雑な色合がある。
はっきり言えば外に出たくない。二時間後に家を出る自分を想像したくない。
数ヶ月前までちいさな会社のしがない事務員だった。いまの肩書きはアイドル。今年、二十六歳でデビューした新人アイドルだ。
なぜ、こうなったのかは、たった数月前のことなのに、もう美優には思い出せない。
慌ただしいようなそうでないような時間が急速に過ぎていった。月曜日から金曜日まで決まった時間に仕事があるわけではない。新人の美優は顔見せの場に駆り出されることが多いのでその点では忙しいが、仕事自体はまださほどはいってこないので、そのあたりのスケジュールはわりとぽっかりあいている。あいた時間は、だいたいレッスンで埋められる。練習も大事な仕事なのである。結果的にほとんど毎日なにかしらアイドルに関わることをしている。
夜は家でひとりでビールを飲むことが多かった。いまはなにかに理由をつけて飲みに連れ出されている。女ばかりの飲みで、いやな上司や同僚と顔をあわせることはない。ただ、いやなひとはいないが、苦手なひとが増えたと思う。彼女たちのきらびやかさもやさしさも、それがそのまま美優の苦痛になった。極力感性を鈍くすることでいやらしい現実に耐えてきた面がある。アイドルになった以上鈍感ではいられない。てきとうにひとをかわすのはもともと苦手で、石のように耐えるのがこれまで美優だった。アイドルが石であってはいけないのである。
「むずかしい、な」
ぼそりともらしたつぶやきは、美優以外のだれにも聞こえない。
――それにしても……。
きらきらとそれこそ宝石や星みたいにかがやく同僚たちのなかで、高垣楓のうつくしさは際立っているように思われる。モデルという前歴にもなっとくのゆく美貌に、立ち居振る舞い、それから元モデルらしくもなければアイドルらしくもない、はなはだつまらないだじゃれのセンス……あれはなんなのだろう、本人はたのしそうだけれども、ファンが泣くからやめてくれとプロデューサーに言われるくらい、たしかに高垣楓のイメージにはそぐわない。
――あのひとは、自然のひとだ。
と長らく鈍らせていた美優の感性が言った。自然体のひとだ、という意味ではない。楓は大胆にみえてあんがい気づかい屋である。だじゃれも好きは好きなのだろうが、場をなごませようという彼女なりの配慮もあるだろう。それがどれほどくだらないものでも、じっさい美優は楓のだじゃれに救われた経験がある。あれを聞くと、ふしぎに体も心もほぐれるのだった。
楓は自然そのもののひとで、肌は雪のようであり、瞳は空と海のようであり、唇は果実のようであり、また声は雨打つようであり、踊る姿は陽炎がゆらめくようであり、歩く姿はそよ風のようであり、その足音は枝葉のすれあうようであり、人柄は雲のようにつかみどころがなく、またゆるやかに流れるようであった。
高垣楓とはそんな人間だったのである。そうでありながら、彼女のうつくしさは、人間そのものだった。人間でなければとうてい現出させられない、生身の美貌であった。
すくなくとも三船美優にとってはそうだった。
――会いたい。
と急にそんなことを思ったのは、雪を見たせいだろうか。雪のような肌の楓を思い出したためだろうか。
どちらでもかまわない、と思った。会いたいのだから会いにいってしまおう、と自分にしては積極的なことを考えた。会いにこられることはあっても会いにいったことはないし、飲みに誘われることはあっても飲みに誘ったことのない美優である。
楓とつきあっていると気組みがはずれる。緊張というものがなくなる。いま脳裡に楓を思いうかべているだけで、そうなっている。どこまでも放胆になる自分が出てくる。
電話をかけることにした。LINEの使い方はいまだによくわからない。メールも文面を考えるのがめんどうだし、返事がくるかどうかわからない。
電話をしてしまえばそれでおわる。楓が出てくればそれでおわるのだ。
着信履歴から高垣楓の名前をさがして、呼び出す。
音が鳴る。専用の、彼女の歌が、簡易なメロディーになってながれる。
楓はなかなか出てこない。
コーヒーカップを指で叩きながら、短気をおこしていると、テレビの上部に表示されている時間に気づいた。
――しまった。
七時三十八分。夜出勤して朝帰宅するようなことが多い楓が起きている可能性は極めて低い。もし電話に出たとしたら、それは美優が起こしてしまったことになる。
しまった、と思ったときにはもう遅かった。
「はいはあい、美優さん、どうしました? 眠れませんか? 子守唄歌いましょうかんむにゅ」
頓狂な声が聞こえてきた。寝ぼけているのだろうか。だとしたら悪いことをした。が、起こしてしまったものは仕方がない。美優は腹を据えた。
「きょう、お時間あいてますか?」
「はい?」
寝ぼけた声だった。やはりいま起きたところで、まだ眠いのだろう。
「事務所でも撮影現場でもレッスン場でもどこでもいいんですが、お時間あけてもらえますか?」
「は、あ……」
「場所はどこでもいいんです。いえ、あの、じゃなくて、夜あいてます?」
「夜はいつでもオープンですが……あの、美優さん? 三船さん?」
「飲みたいだけなので、楓さんちにお邪魔してもかまいませんか? べつに、どこかお好きなお店でもいいんですが……なんならうちで飲みますか」
「美優さん、美優さん」
おちついて、という、おちついた声が、電話のむこうからした。
「あ、すみません。まくしたててしまって」
「いえいえ」
楓の声はもう明瞭で、すっかり目も頭も覚めたようだった。
「せっかく美優さんのほうから会いにきてくださるのですし、今夜はわたしの家にご招待しますよ。おいしいお酒もありますから」
と楓は言って、
「お昼ごろにこちらから連絡しますね。きょうはオフなのでいつ来てくださってもかまわないのですが、せっかくですのでエスコートさせてくださいな。待ち合わせの場所と時間、考えておきますので、あとでメールしますね」
それから、
「あら、でも美優さんはきょうは夜まであいてないのでしたっけ。でも遅くとも十六時にはあがりですよね」
「そうですね。お願いします」
「はあい、お願いされました。うふふ」
楓は電話を切った。
電話の切れたむなしい音がながれる。
はたと、
「あのひと、どうしてわたしのスケジュール知って……」
あっけにとられた美優は、しばらくスマホの画面から目をはなせなかった。
十七時に事務所近くの公園で待ち合わせることになった。
インタビューがおわったのは十五時まえのことで、そこからすぐに公園にいった。目印の噴水に着いたとき、時刻はまだ十五時半にもなっていなかった。
美優は公園のベンチに腰かけた。
雪はまだやんでいない。
こころぼそいほどすくなくておそい雪が、しんしんと降っては溶けている。すくない雪でも周囲の音を吸収するのか、それともそもそも音など存在しないのか。
あたりはしんとして静かだった。
バッグのなかに手袋ははいっていたが、なんとなくその気分でなくて、しまったまま出していない。指先がかじかんでかなわない。息をふきかけてあたためようとしたが、たいした効果はえられない。
美優はこれといった意味もなく、約束までの一時間半ものあいだ、ただ白い息を吐きつづけた。
「美優さん――」
遠くから声が聞こえる。遠くの声なのに、ほかのなにものにも遮られることのない澄んだ声が美優の鼓膜をやさしくたたく。
「お待たせしちゃいましたか」
「いえ……」
美優はベンチから腰をあげた。
楓は腕時計に目をやった。十七時をすこし過ぎている。
「すみません、ちょっと遅刻しちゃいました」
「いま来たところじゃないですけど、べつに待ってはいなかったので」
うそではない。美優には楓を待っていたという感覚はない。一時間半、意味もなくここで過ごしていただけである。
ほんとうに、なんとなくそうしただけで、意味はなかった。
「ああっ」
楓が驚いたようにちいさく叫び、美優の手首をわしづかみにした。
「美優さんったら、待っていなかったなんて、どうしてそんなことを」
そう言ってから、手袋をはずして、美優の手をつかみなおし、真っ赤になった十本の指を両手でやわらかくつつみこんで、もみはじめた。
「待ってはいないんです。ずっとここにいたのはそうなんですけど、ほんとに、待ってたわけじゃなくて」
「ずっと? ずっとってもしかして、お仕事がおわってからずっとではないでしょうね?」
「はい、まあ、そうです」
「美優さん――」
そうつよい声で名を呼んだ楓は、めずらしくすこし怒っているようだった。
「レア顔みちゃった」
へらへらと笑う美優にますます怒ったような顔をして、両手はけんめいに美優の冷たくなった指をあたためている。
「どうして、とは訊かないでください。わたしにもわかんないので」
と美優は言った。
「わかりました」
思いのほかすなおに楓は諒承した。
「これ以上、お体を冷やしてはいけません。はやく行きましょう。なにごとも体が資本ですから」
そう言うと楓は美優の手に自分の手袋をはめようとした。美優はそれを拒んだ。
「美優さん」
「いやです」
「でもそれでは手が」
「手袋よりあなたの手のほうがあたたかいです」
そうして美優は楓の手を握りしめると、雪のおちる地面をふみだし、楓の家にむかって、楓をひっぱっていった。
楓の手は、彼女の心がもつぬくもりそのものだった。
了