ひとり暮らしであるはずの三船美優の起床時の蒲団のなかに、自分以外の者がいるようになってから、もう一月余になる。
スマートフォンのアラームをとめて、蒲団のなかでもぞもぞと体のむきをかえると、その日の朝も、やはりかたわらには人がいた。
高垣楓がいる。
もう数えきれないほどあるその事実を呑みこむために、美優にはいくらかの時間を必要とした。
楓の寝姿は、狭く殺風景な美優の部屋には不釣り合いなほどうつくしかった。
自分と同じ日本人なのか、同じ女性なのか、あるいはもっと、
――ほんとうに同じ人間なのか。
とさえ疑いたくなるほど、彼女はうつくしい人間である。細い眉も長い睫もよくとおった鼻梁も、いまはとじられている左右の色のちがう瞳も、高垣楓という人間だけがもつ、ただひとつの光彩である。
なぜ、その寝顔が美優の部屋の蒲団のなかにあって、おだやかな寝息をたてているのか。
べつだん同棲しているわけではない。ただ、数ヶ月まえから一緒に飲むことが増え、飲んだあとどちらの部屋ともなくあがりこむことも増えた。そのうち楓が美優の部屋にころがりこむほうに比重がかたむいていった。もうずっと美優は楓の部屋をみていない。
上等なマンションの上等な部屋に不満でもあるのか、美優の古いアパートの六畳の部屋にあがることを好んだ。ほんとうのところの理由は知らないが、あえて聞く気もない美優は、そう思うことにした。
手をのばして、指の先でそっと楓に触れる。うつくしい眉、うつくしい鼻、うつくしい頬、なぞっているうちに、思わず唇の端が笑った。うつくしい唇に、うつくしい顎に首、掛け蒲団の下に裸体がある。
自分と同じ、けれど自分とは全然ちがう白くうつくしい裸の体である。裸なのは昨晩ふたりで睦みあったからだ。白い肌膚が淫らな声をはなってゆれていた。美優の脳裡にいまも焼きついている。楓を抱いて、楓に抱かれて、だから同じように美優も楓の下で喘ぎ乱れたのだろう。朝になってそのことを思い返すといつも羞恥と後悔で顔が赤くなったり青くなったりする。
いつからこんな関係になったのか。半月ほどにはなろうか。体をかさねたのは、昨晩をふくめて、その半月のうち何回であったろうか。
美優にはもう思い出せない。
半同棲、そう言えるていどには、楓は頻繁に美優の部屋にあがったし、ふたりが体をかさねることもたびたびだった。きっかけがどこにころがっていたのかだって、美優にはさっぱり思い出せない。
ふしぎなのは幾度となく後悔をかさねながら、いっこうにこの関係をやめようと思わない自分がいることである。美優にはそれがほんとうにふしぎだった。もうこんな関係はおしまいにしましょうと口にだそうとするたび、それを強烈に押し退ける自分がいる。喉もとにいやにふてぶてしい自分がどっかと居座っている感じだった。
美優の心は、夜の行為を恥じて悔いる以上に、朝にある楓の寝顔のうつくしさに感動しているのだろう。この朝の風景を悪くない、と感じているために、関係をおわせることに拒否感をおぼえるのだろう。いちおう美優は、そう自分を納得させた。
楓の睫がゆれた。
――起きる。
と思った。そのとおりに、楓の瞼がほどなくひらかれた。
青と緑のうつくしい瞳がゆっくりと朝の光をその視界にさしいれてゆく。
目をさます寸前の、かすかにみじろぐ姿に、美優はみとれた。また唇の端があがる。
唇がちいさな呻き声をもらす。
ぱちりと楓が目を覚ました。
――ああ、きれいな、ひと。
やわらかい髪に手櫛をとおして、
「おはようございます」
と美優は言った。
「おはよう、ございます」
まだ眠気のある声で楓が言った。
「美優さん」
楓の白い手が、髪を梳く美優の手に触れた。
「どうして笑っているんですか」
「さあ、どうしてでしょう」
美優はくすくすと笑う。
「わたしが起きると、美優さんはいつも笑っていますね」
「楓さんがいつもわたしより遅れて起きるからですよ」
それでは理由になっていないか、そう思うとやはり笑いがこみあげてくる。
楓がいぶかしげに眉をひそめた。
美優は楓の髪から手をはなすと、
「朝食の用意しますね」
と言って体を起こして、蒲団からぬけだした。
箪笥から下着とTシャツとジャージズボンを出すと、それらを着て、台所に立った。
昨日の残りの味噌汁をあたためて、鮭の切り身を火にかけた。そのあいだに床に脱ぎ散らかしているシャツやスカートを洗濯機にいれてまわした。
卓に料理をならべるには、蒲団をどかさなければならない。
二度寝にはいっていた楓を蒲団から追い出して押し入れにあげた。
ふたりで卓をかこって朝食を食べる。
まだなかば夢のなかにいる楓が首をゆらしながら、箸をうごかしている姿は、うつくしいというよりかわいらしかった。
食べおわった楓が、箸を置き、手をあわせて、
「ごちそうさまです」
と言って、ゆらりと頭をさげる。
「おそまつさまです」
と美優は言った。
悪くない、と美優は思う。こういう朝は悪くない。
「美優さんのお味噌汁はほんとうにおいしいですね」
そう言って楓は微笑んだ。
なにをやっても絵になる人物というのはこの世にいるものらしい。美優はいつもこの微笑みにみとれてしまう。
――悪く、ない。
と美優は思うのである、このうつくしい現実も、このふしだらな現状に満足してしまう自分も、悪くないと思ってしまうのである。
「きのうの残り物ですよ」
「そうそう、きのう言いそびれちゃったので、いま言いました」
手をあわせたままそんなことを言うものだから、美優はまた懲りずにみとれてしまう。
――だってほんとうにきれいなんだもの。
と自分にいいわけしたところで、もはやふたりの不道徳をとめるおのれの姿は心のどこにもいない。このうつくしい顔を見られるいまの状態になんの不服があるのだと言いはるいやにふてぶてしいおのれだけが、心のまんなかにどっかと居座っている。
「その、おそまつさま、でした」
「いえいえ、ごちそうさまでした」
このところはずっとこんな朝をむかえている。
了