コーヒーのかおりがした

 美波の成人祝いにかこつけた楓主催の飲み会がひらかれたのは、誕生日から二月ばかりも経ってからのことだった。
 主役をわきにして大いに盛り上がったあと、十二時をまわったあたりで、酩酊した参加者たちのほてった体は、すこしは涼しくなったような気がする九月の夜の下にほうりだされた。
 ――そう飲むほうではないらしい。
 と、美優はこの日ようやくそれを知った。美波が飲酒のできる年齢になってからじっさいに酒の席をともにしたのはこれがはじめてだった。たまたまそうなっただけのことだが、なにかこの二月ほどは顔をあわせる機会がとんとなかった。
 駅のタクシー乗り場までまで千鳥足で歩いてゆく。
 飲み会の主役はてきぱきと酔っ払いどもをタクシーに乗せて、自宅まで送らせた。こういうところは未成年のころからすこしも変わらない。
 美優の番は来なかった。
 美波も美優もタクシーには乗らず、夜の道をふたりで歩いた。
 美優の自宅へむかう。どちらが言うでもなく自然とそうなったのは、二月まえの、より正確には、美波の誕生日の三日まえの、彼女が美優にうちあけた愛情を、おぼえていたからか、あるいはすっかり忘れていたからか。
 無言でアスファルトの道を歩いた。
 安アパートの二階の部屋に美波を招き入れるのは何度目だろうか。三、四回目だろうか。
「どうぞ」
 と美優が言うと、
「おじゃまします」
 と美波が言った。みじかいやりとりが、その日ふたりがかわした最初のことばだった。
 気に入りの、座りごこちのよいすこし値の張った座椅子に美波を座らせた。すると彼女はシャツのボタンのいくつかをはずしてくつろがせた。
「なにか、飲む」
「いえ、おかまいなく」
 と言った声が、どこか気怠げで、それが彼女らしくなくすこし横柄な感じに聞こえた。ほんとうになにも飲みたい気分ではないのかもしれない。
 とはいえなにも出さないわけにもゆかない。
 それで美優はどういうことか、自分でもふしぎなことにコーヒーをえらんだ。
 それもアイスコーヒーではなくホットにした。楓が懸賞で当てたと言っておしつけてきたコーヒーメーカーをつかって、熱いコーヒーを淹れることにした。どうしてかは、わからない。
 美波は座椅子に座ったままじっとしている。すこしだけあごをあげて、ぼんやりとしたまなざしを、天井よりやや下方にあてている。
 しばらくコーヒーメーカーのたてる音だけが、夜の室内をしずかにみたした。
 それ以外は無音だった。
 ふたりは無言で、美優はコーヒーメーカーのまえにつったったまま、美波と顔をあわせなかった。
 こぽこぽと音をたてる小憎たらしい機械に視線をおとしながら、二月まえに美波からうけた愛情の告白をおもいだしていた。
 夕焼けの色とともにおもいだす。
 なぜ、美波は、自分の誕生日の三日まえという日をえらんだのだろうか。祝事をまもなくにひかえて、うけいれられるかどうかもしれないことを、あえて言ったのだろうか。
 あのとき美優はろくな返事をしなかった。応とも否ともはっきりとさせずに、あいまいなことばでごまかして、客の少ない事務所のカフェテラスからにげだした。
 それから二月ほど、まったく顔をあわせなかったのは、意図して避けていたわけではなく、ただの仕事の都合にすぎないが、すすんで顔をあわせようとはしていなかったことも事実である。
 それが今日破られた。取り決められたことでもないことではあるが、とにかく破られた。
 ふたりとも酒を飲んではいたが、酩酊するほどはやらなかった。いたって正気であり、ただ、どういうことか、いまふたりはひとつの部屋にいる。
 美優は熱いコーヒーを美波にさしだした。ぺこりと美波が頭をさげた。酔ってはいないが、酔ったようなとろんとした目をしていると思った。なにかをたくらんでいる目ではないかと美優は思った。
 美波がコーヒーをひとくち飲んだ。それからふっと息を吐いた。その息がみょうにつやめかしい。美波には自覚があるのか、ないのか。ある、と美優は判断したくなる。
 座椅子のとなりに座布団をひっぱってきて、その上に座ると、美優もコーヒーに口をつけた。
 ふたりがコーヒーを飲むたびに、ごく、と音がなる。喉がなる。
 カップのなかになにものこらなくなったとき、美優は美波の肩に手をそえ、ついと押すようにして、自分と対面させた。
 肩から手をはなし、親指をたてて、美波の唇にそっとあてる。
 みゆさん、と、かたちのよい唇がそう言った。
 その上にくちづけた。
「みゆ、さん――」
 ちいさな声だった。かすれた声だった。
 美優は唇をはなした。
「ありがとう、ごめんなさい」
 顔をあわせられないから、うつむいて言った。
 指に熱い息がふれる。
 コーヒーの香りがかすかにした。

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