楓さんが風邪を引いたそうです。
体調管理のじょうずなひとだと思っていたので、そのことを瑞樹さんをとおして知ったときはすこしおどろきました。
多忙なひとでもあるので、それが原因でもあったかもしれません。楓さんは身長は高いですがひょろ長いかんじで……なんといいますか、失礼ないいかたをすると枯れ木のような体つきをしていますし、管理をおこたっていなくても、やはり引くときは引いてしまうのでしょう。
そんなことは、だれだって、たとえばスポーツ選手だってあることなので、おどろくことではないのかもしれませんが、とにかくわたしは、それをきいてあわててしまって、その日の仕事がおわるとまっすぐに楓さんの家にむかったのです。
そんなに心配することもないだろうし、きっとマネージャーさんが病院に連れていってくださって、お薬をもらって、それを飲んでいまごろは眠っていて、そうしてあしたには元気になっていると思います。
それでもわたしは楓さんのところへゆかずにはいられませんでした。
マンションのフロアーでインターホンのボタンをおします。わたしの住む古いアパートにはない機能で、こういうささいなところに差をかんじては、かってに傷をつくっているわたしがいます。楓さんはそんなこと、気にするようなひとではないのに。
楓さんの声が聞こえました。すこししゃがれ声でした。いつものきれいな、すきとおった声ではありませんでした。ツアー明けの疲れのある声に似ていたかもしれません。
「美優です。お見舞い、だいじょうぶですか」
とわたしは率直に訊きました。
「ありがとうございます」
楓さんは言いました。それから、
「熱はすっかりひいて、いまはひまをもてあましていたところなので、どうぞあがってください」
なんとなく、これはうそだな、と直感しました。熱がひいたのはほんとうでしょうが、やはりぐっすりと眠っていたのだと思います。
わたしは首をすぼめながらエレベーターをあがり、楓さんの部屋のまえに立ちました。
そこでもインターホンをならすと、扉がひらいて、楓さんがでむかえてくれました。マスクをしていました。
「おかげんはどうですか? 病院にはいかれましたか?」
「ええ、お薬を飲んで、だいぶん楽になりました」
「すみません。おしかけてしまって、おやすみになっているところに」
「心配してきてくださったのでしょう。そんな顔をしないでくださいな。こっちこそ心配をかけて、すみません」
いえ、とわたしが手をふると、楓さんは、いえいえ、と言って、いえ、いえ、とふたりでそんな応酬をしばらくしました。
「どうか、横になっていてください。ごはん、なにか食べましたか?」
楓さんをベッドに寝かしつけて、わたしはそう訊きました。
「お昼にヨーグルトを食べたくらいですね。じつはぺこぺこなんです」
そう言ってあおむけに寝ている楓さんは言います。
「なにか食べられそうですか?」
とかさねてわたしが訊くと、しばらく楓さんは黙って、それから、
「茶粥が」
と言いました。
「茶粥、食べたいです」
そういって、色違いのきれいな瞳が、まっすぐにわたしを見つめました。
「ちゃがゆ……お粥、ですよね。たしか、楓さんの故郷の……」
「体調が悪いときは、いつも、母がつくってくれたんです」
楓さんはちょっとさびしそうに笑いながら、そう言いました。
わたしは茶粥をつくることになりました。ですが、つくったことはありません。わたしがつくったことがあるのは、白いお粥だけです。
スマートフォンで「茶粥」で検索して、つくりかたを調べて、そのとおりにつくってみました。薬味は、楓さんお手製のうめぼし。わたしにはすっぱすぎて、いまだにちょっと慣れない、でもだいすきな味。
それから台所に置かれていた薬袋のなかから、食後のお薬をとりだして、お盆にそれらを乗せて、楓さんのところまで持ってゆきました。
「あーんしてください。でないと食べません」
このひとは、いつもとあいかわらずの、おどけたような口調で、あまえんぼうなことを言い、そっぽむきました。心配ないですよ、と暗に言われている気がしました。
れんげでお粥をすくい、ふーふーとさましてから、楓さんの口もとまで、はこびます。
ひとくち食べて楓さんは言いました。
「おいしい……」
やっぱりちょっと、さびしそうでした。
でも、しばらくすると、ぱあっと、眉をひらいて、とても明るい表情で、
「これが、美優さんのお味、なんですね」
そう言ったのです。
了