実家から送られてきたんですよ、と楓は言った。楓の実家は和歌山にある。
だから美優は、みかんやうめぼしを想像した。それもよく送られてくるものとして、楓がしばしばくちにしていたからだ。
ところが楓は冷蔵庫のまえに立ち(冷蔵庫にはみかんもうめぼしもないはずなのだ)、冷凍室をあけて、なにやら白っぽいやら緑っぽいやらな袋を二つとりだして、その一つを美優に寄越した。
「グリーンソフト……」
そうパッケージにはかいてある。
「いわゆる抹茶アイスですね。地元の名産のひとつです」
――夏にはぴったりでしょう? と、楓は片目をつむった。
楓が袋からとりだして、コーンのカップをはずし、そのグリーンソフトをくちにした。それをみて美優も食べてみた。いままで食べたどの抹茶アイスともちがう味がした。
「あまり、甘くありませんね」
「そうなんですよ。さっぱりしていて……甘さがおさえめで……、こどものころはそれが不満だったんですが、食べていくうちに慣れたんでしょうか、この味でないと、と思うようになりました」
と言った楓は、郷里を思い出したのか、なつかしむように笑った。
――たまたま大阪に友人とあそびに言ったときにスカウトされまして、しばらくは電車で大阪にかよいながらモデルをやっていました。高校生のときです。卒業してから東京に引っ越して、それでしばらくして知ったんです。これ、全国商品じゃないんだって。どこをさがしてもみつからなくて、当時のマネージャーさんに、グリーンソフト最近みませんねえって、なにげなくって言ったら、マネージャーさん、「なんですか、グリーンソフトって?」ですって、東京にはないですよ、って。それから彼女の実家のある静岡にもなかった。ようはローカル商品だったわけです。あのときはとてもおどろいたし、さびしくもなりました。もう食べられないのかと思うと。
つらつらと楓はそんなことを語った。
「夏場どうしてもがまんできなくて、コンビニでべつの抹茶アイスを買ったんですが、舌にあいませんでした。きっと慣れ親しみすぎていたんですね、地元の味に」
その日のうちに実家に電話をして、クール便でグリーンソフトを送ってもらったという。開封して食べたとき、なんともいいがたいきもちになり、ついには泣いてしまった、と楓が言ったとき、美優はたぶん、おどろいたのだと思う。自分はいま、心の底からおどろいている。
高垣楓がけっして完全な人間ではないと知っている。酒癖はよいとは言いがたいく、体は痩せっぽっちで、肌は白いをとおりこしてうす黄色い。体力もあまり豊富ではないし、それなのにセックスのときはどちら側にまわろうが加減知らずときている。
孤高であっても孤独をかかえているひとだと思ったことはなかったが、それでもやはり郷里を想い、さびしいと感じる精神があったことを、美優はおどろいた。おどろいた自分にもおどろいた。弱さだってきちんとかかえているひとだとわかっているつもりだったのに、なんてことだろうか。
楓はまたひとくち食べて、ほほえみながら、
「夏にはこれがないとおちつきません」
と言った。楓は美優をみながらそう言ったが、彼女の瞳には美優は映らず、郷里の景色がひろがっていたにちがいない。感傷に染まった表情が美優の目の前にあった。
転勤族で岩手生まれという以外にこれといった「地元」をもたない美優には、想像のしづらい種の感傷なのかもしれない。
ひょろひょろの体躯をささえる骨格のひとつに、それはある。脊髄に、血管に、流れているそれがある。
ひとくちふたくちと美優も食べる。
それほど甘くないさわやかな食感が、口のなかを、いま満たしている。
美優さんがうめぼしを食べています。
わたしはそれをみていると、むしょうにいとおしいきもちになります。
美優さんははちみつ漬けの甘いうめぼししか食べたことがないらしくて、母親仕込みのわたしの自家製うめぼしはそうとうすっぱいみたいでした。
もうほんとうにすっぱそうな顔をして、くちびるを真一文字にしたりすぼめたりともごもごさせて、それでも全部食べきろうとしてがんばっています。わたしの家の味になれようとがんばってくれるのが、とてもうれしいことで、それからたのしいのです。美優さんはたいへんでしょうから、ちょっともうしわけないのですが。
本場のうめぼしはこんな味なんですね、と、初めてくちにしたとき、目をつよくつむって、ゆっくりと咀嚼して、食べきって、それから深呼吸したあと、美優さんはそう言っていました。おいしいです、とも言ってくれました。これもわたしのたいせつな思い出のひとつです。
それから何度となく美優さんはわたしの自宅にあがり、いっしょに食事をして、おなじうめぼしを食べました。
苦手なのがわかっているのだから、いいかげん美優さん用にはちみつ漬けのうめぼしを冷蔵庫に常置すべきなのでしょうが、わたしにもやはり県民としての誇りがあるのでしょうか、どうにも抵抗があります。あの甘いうめぼし。ちょっと食べたことがあるのですが、こっちのほうはわたしがだめでした。美優さんはおいしそうにたいらげていましたが。
いえ、そうではありませんね。いっしょけんめいに食べようとする表情が、しぐさが、あんまりにもかわいらしいから、それがみたくって買わないだけです。
それからみかんです。和歌山のみかんの特徴としてちょっとつよめの酸味があるのですが、これも甘いみかんしか食べたことのない美優さんにはなかなか慣れない味らしくて、わたしの実家からおくられてくるダンボール箱いっぱいのみかんを、ふたりで食べているときには、やはりあのかわいらしい、すっぱそうなお顔をします。でも、がんばって慣れてくれようとしています。
美優さん、わたしの地元の味を好きになろうとして、すごくすごくがんばってくれているんです。
うめぼしもみかんも、忘れられないふるさとの味です。
それをいっしょけんめいに食べる美優さんのお顔、これがまたかわいらしいのです。
ながながと話しすぎましたでしょうか。すみません、思い出すたびにたのしくなってしまって、つい。
しあせそう……ですか? わたしが?
そうですね、とてもしあわせです。
そうそう、今度岩手のほうにふたりで旅行にいって、郷土料理を食べる計画を立てているんです。
たのしみですね。
楓さんが風邪を引いたそうです。
体調管理のじょうずなひとだと思っていたので、そのことを瑞樹さんをとおして知ったときはすこしおどろきました。
多忙なひとでもあるので、それが原因でもあったかもしれません。楓さんは身長は高いですがひょろ長いかんじで……なんといいますか、失礼ないいかたをすると枯れ木のような体つきをしていますし、管理をおこたっていなくても、やはり引くときは引いてしまうのでしょう。
そんなことは、だれだって、たとえばスポーツ選手だってあることなので、おどろくことではないのかもしれませんが、とにかくわたしは、それをきいてあわててしまって、その日の仕事がおわるとまっすぐに楓さんの家にむかったのです。
そんなに心配することもないだろうし、きっとマネージャーさんが病院に連れていってくださって、お薬をもらって、それを飲んでいまごろは眠っていて、そうしてあしたには元気になっていると思います。
それでもわたしは楓さんのところへゆかずにはいられませんでした。
マンションのフロアーでインターホンのボタンをおします。わたしの住む古いアパートにはない機能で、こういうささいなところに差をかんじては、かってに傷をつくっているわたしがいます。楓さんはそんなこと、気にするようなひとではないのに。
楓さんの声が聞こえました。すこししゃがれ声でした。いつものきれいな、すきとおった声ではありませんでした。ツアー明けの疲れのある声に似ていたかもしれません。
「美優です。お見舞い、だいじょうぶですか」
とわたしは率直に訊きました。
「ありがとうございます」
楓さんは言いました。それから、
「熱はすっかりひいて、いまはひまをもてあましていたところなので、どうぞあがってください」
なんとなく、これはうそだな、と直感しました。熱がひいたのはほんとうでしょうが、やはりぐっすりと眠っていたのだと思います。
わたしは首をすぼめながらエレベーターをあがり、楓さんの部屋のまえに立ちました。
そこでもインターホンをならすと、扉がひらいて、楓さんがでむかえてくれました。マスクをしていました。
「おかげんはどうですか? 病院にはいかれましたか?」
「ええ、お薬を飲んで、だいぶん楽になりました」
「すみません。おしかけてしまって、おやすみになっているところに」
「心配してきてくださったのでしょう。そんな顔をしないでくださいな。こっちこそ心配をかけて、すみません」
いえ、とわたしが手をふると、楓さんは、いえいえ、と言って、いえ、いえ、とふたりでそんな応酬をしばらくしました。
「どうか、横になっていてください。ごはん、なにか食べましたか?」
楓さんをベッドに寝かしつけて、わたしはそう訊きました。
「お昼にヨーグルトを食べたくらいですね。じつはぺこぺこなんです」
そう言ってあおむけに寝ている楓さんは言います。
「なにか食べられそうですか?」
とかさねてわたしが訊くと、しばらく楓さんは黙って、それから、
「茶粥が」
と言いました。
「茶粥、食べたいです」
そういって、色違いのきれいな瞳が、まっすぐにわたしを見つめました。
「ちゃがゆ……お粥、ですよね。たしか、楓さんの故郷の……」
「体調が悪いときは、いつも、母がつくってくれたんです」
楓さんはちょっとさびしそうに笑いながら、そう言いました。
わたしは茶粥をつくることになりました。ですが、つくったことはありません。わたしがつくったことがあるのは、白いお粥だけです。
スマートフォンで「茶粥」で検索して、つくりかたを調べて、そのとおりにつくってみました。薬味は、楓さんお手製のうめぼし。わたしにはすっぱすぎて、いまだにちょっと慣れない、でもだいすきな味。
それから台所に置かれていた薬袋のなかから、食後のお薬をとりだして、お盆にそれらを乗せて、楓さんのところまで持ってゆきました。
「あーんしてください。でないと食べません」
このひとは、いつもとあいかわらずの、おどけたような口調で、あまえんぼうなことを言い、そっぽむきました。心配ないですよ、と暗に言われている気がしました。
れんげでお粥をすくい、ふーふーとさましてから、楓さんの口もとまで、はこびます。
ひとくち食べて楓さんは言いました。
「おいしい……」
やっぱりちょっと、さびしそうでした。
でも、しばらくすると、ぱあっと、眉をひらいて、とても明るい表情で、
「これが、美優さんのお味、なんですね」
そう言ったのです。
梅の実の匂いが鼻につーんときました。
もう匂いだけですっぱいのがわかりますが、この青い梅の実を食べるわけではありません。
今日は楓さんのおうちに梅干しを漬けるお手伝いをしにきたのです。楓さんは毎年この季節になると(この季節というのは六月なかばのことです)梅干しを漬けるそうで、漬け物と言えばたくあんや白菜でさえお店で買うばかりで、糠床ひとつもたないわたしには、梅干しをつくるなんていうのは、あたりまえですがはじめてです。梅干しって家でつくれるんですね、知りませんでした(と言うと楓さんはたいそう驚いて「梅干しってお店で買うものなんですか」と言いました)。
今日は梅干しづくりの下準備の日です。梅の実を水で洗い、布巾で、拭き、ヘタをとります。形のわるい梅はよりわけて、これはあとで梅酢をつくるのにつかうそうです。拭きおわるとベランダに干します。これが本日の全行程です。
わたしと楓さんは無言で梅の実を拭きました。ひとつひとつ摘みあげて水分を拭います。大きすぎる梅もよけてくださいと言われたので、どれくらいですかと聞くと、これくらいの、と楓さんは指で輪をつくりました。なのでそれくらいの梅の実をべつのお皿によけました。
梅の実を拭きます。
水を拭います。
梅の実をよりわけます。
ヘタをとります。
梅の実の水分をとります。
ひたすらおなじことをくりかえします。
蟹を食べているときのようだと思いました。
そう思っていると、
「蟹を食べているときみたいですね」
と言いました。
ベランダに梅を干しおわると、外はすこし暮れの色に染まっていて、わたしたちはすこし早い夕食をと、評判の鍋物屋さんにゆきました。
「梅干しができたら、また家にお招きしていいですか?」
「ごちそうしてくださるんですか。それはぜひ……あ、でもわたしはちみつのものしか食べたことなくて……」
と言うと、
「それはすこし」
楓さん笑って、
「美優さんにはきついかもしれないですね」
――でも梅はうめえんですよ。
って、そのだじゃれはちょっと言うのが早くないですか、楓さん。
楓さんははっさくをむけない。
こつがあるんですよ、と楓さんは言った。
例によってご実家からおくられてきたという段ボール箱いっぱいのみかん。みかんだけじゃなくほかにもいろいろな柑橘類がはいっていた。
それで、楓さんのおすすめがはっさくだった。
皮むきに悪戦苦闘するわたしからはっさくをとりあげた楓さんは、
「こう、ぐっと、ちからをこめて、ずいっと指をおしすすめて、べりっと……」
もう最初の、ぐっ、のあたりでもう、楓さんはにっちもさっちもいっていなかった。
とにかくかたて、これでもかとかたいはっさくを、楓さんはどうすることもできなかった。口ぶりからは食べなれているようすだったのに。(あまずっぱくておいしいらしい。楓さんはすっぱいのが好きみたい。わたしは苦手なたちだから、ごはんの趣味があわない。料理のときなどにちょっと困る)
「だから、こう、ぐっと。あの、ぐっと」
ぐ、ぐ、とめいっぱいちからをこめているのはわかる。
でも、楓さんのたてた親指は、その長い爪の半分もはっさくの表皮にくいこんではいなかった。
わたしは段ボール箱からもうひとつはっさくをとりだして(似たようなのがいくつかあったけど、これが一番かたいからきっとこれがはっさく)
「ぐっ、ですよね」
ぐっと指をたてる。なかなか爪がはいらない。ちからをこめて、たてる。たてる。つきさす! 指をおしすすめて、ぱかっ。
はんぶんに割れた。
なかをみるとびっしりと薄皮がはりめぐらされていて皮と房を強固につないでいる。これはそうそうむけるものじゃない。割るのが正解だったのかな。楓さんはそうは言わなかったけど。果肉のはしっこがちょっとつぶれていて、果汁がすこしもれていた。それが親指についているので、わたしははしたないと思いながら、指をちょっとなめていた。す、すっぱい。
すっぱい顔をしていると楓さんがにこにこしていた。親指をたえまなくはっさくにつきたてながら。
わたしがこういう顔をすると楓さんはにこにこする。
なにがおもしろいのだろう。
いっこうにむけないようなので、わたしは楓さんからはっさくをとりあげて、ぐっ、ずい、ぱかっ、と割ってあげた。皮をむくというより皮から身をはがすかんじ。うん、こっちはいくぶんらくだ。
「あーん」
と楓さんが言ったので、果肉をひとつとって薄い皮をめくり、あーんしてあげた。
楓さんもすっぱそうに口をもごもごさせながら、しあわせそうに笑った。
「あんまり甘くないですね」
「そこが、おいしいところなんですよね」
楓さんはすっぱいものが好きだ。
わたしは苦手。
でも、はっさくはおいしかったです。
三船美優です。
突然ですが、和歌山って独特のむき方ありますよね。おみかん。
わたしもそれを習ってみようと楓さんのおうちにおじゃましたとき、言ってみたのです。
「なんちゃらむきですか? なんちゃらといっても和歌山むきとしか言いようがないですが、ええ、ありますねえ」
と楓さんはおっしゃいました。
「残念ですがわたしからはなんとも、お教えできません」
「それはなぜ」
じつは和歌山秘伝のむきかたなのでしょうか。わたしは一瞬そう思いました。でもそのわりにネットに動画が上がっていた気がします。かくいうわたしがそれでそんなむき方があることを知ったわけでして。スーパーでおみかんを買ってその動画どおりにしてみたのですが、どうにもうまくいきません。やっぱりこつがあるのでしょうか。
そんな失敗談を楓さんにお話ししますと、
「かんたんにすばやくむける!(わたしのスマートフォンで見せた動画のタイトルです) ようで、あんがい、むずかしいんでしょうねえ」
とぼんやりお答えになりました。
なにか他人事のようなくちぶりが気になりました。楓さんは和歌山の出身だったとうかがっているので、きっとおみかんのむき方も和歌山流のとても上手なむき方なのだとばかり思っていたわたしは、首をかしげてしまいました。
「父や母はそんなむき方でしたね。わたしはしませんでした」
と楓さんは苦笑しながらおっしゃいます。
「しません、はちがいますね。できないんです。なんどやっても房がつぶれちゃって」
部屋の隅には段ボール箱があります。段ボール箱いっぱいにおみかんがあります。楓さんはそれを二つ、手に取って、一つをわたしにくださりました。
楓さんがおみかんをむきます。和歌山むきといものです。実は皮ごとつぶれ、汁がとびちり、割った瞬間に薄皮がやぶれて中身がバアっとひろがりました。大失敗です。
「これです」
「それはそれは……」
楓さんは意外に不器用なようです。
そういえばこのひとははっさくをむくのも苦手でした。
仕方がないのでわたしはふつうのむき方で皮をむきました。
「おひとつどうぞ」
一房とってさしだします。
「これはこれは、どうも」
楓さんはあたりまえのように手ではなく口でうけとろうとします。
わたしはひとつ、仕方ないひとですね、って笑いながら、口のなかにほうりこみました。
「おいしい……」
「ですね」
わたしも一房食べます。
楓さんはまた口をさしだして催促しました。
しょうがないひとだとおもいます。
甘えん坊さんだとおもいます。
けれど、わたしは。
わたしはそれが、だいぶん好きなのです。
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