新田美波が高垣楓にともなわれて紀州K市をおとずれたのは、夏の盛りのころである。
「スケジュウルがあいているなら、わたしの実家のほうにいってみませんか」
こう言って楓はなかば強引に美波を里帰りにつきあわせた。断わる理由はいくらでもあったが、高垣楓という強烈なひかりをはなつ存在を生み育てた土地への興味がまさった。
東京から新幹線に乗り、新大阪で乗り換え、ながく電車にゆられたあと、K市にはいっていくつめかの駅で降りた。仮名がなければとうてい読めないような駅名だった。
改札口には若い男の駅員がひとり立っているだけで、自動改札機はない。
「切符、買っておいてよかったでしょう」
改札機をとおりすぎたあと、楓が言った。
「はい。ひさしぶりすぎて、ちょっと緊張しちゃいました」
と美波は言った。いつわりのない気持ちである。このところはめっきりつかう機会がなかった。地方ロケでも、切符が必要なときはマネージャーが用意してくれるものだった。
そのまえに楓が実家のほうに、連絡をいれた。これからむかうことをつたえたのだが、そのあともしばらくたあいない会話がつづいた。ときどき方言らしきものが楓のくちからとびでるのが、美波にはなにやらおかしかった。自分もそうだ。実家の母や父と電話をしていると故郷のことばが出てくる。
駅を出てばらく歩いた。着替えの服などを入れたバッグを提げて歩く。
頭上の太陽がちりちりと髪をこがしているようだった。
――暑い。
東京も暑いが、ここはさらに暑く感じられた。
のきなみ背の低い建物の上方に緑豊かな山がみえる。そこに点々とオレンジ色がちらばっていた。
道の左右をみわたしても、どこにでもこのオレンジ色はあった。
楓が以前、故郷は青とオレンジの郷と言っていたのを、美波はおもいだした。海の色と山の色、それに柑橘の色だ。海はここからは見えない。あるのはふるびた家と、個人経営であろうちいさな店、歯科や内科などのこれも小規模の医院、それからみかん畑。
すこし熱のこもった、ただし素朴な風が、ひたいの汗をかすっていった。この風をあびて高垣楓という人間の構築されていったのである。美波はそれをつよく感じた。
「暑いですねえ」
楓が言った。
「そうですね……」
美波は指でひたいの汗をきった。
体力にはことかかないし、けっして暑さに弱いわけではないが、こうも日射しがつよいのはかなわない。
「なにもないでしょう、ここ。美波ちゃんがたいくつしないといいのだけれども」
「みかんがたくさんありますよ」
そう言うと楓はちょっと笑って、
「空気みたいなものだから、地元をはなれてからでないと、意識することがすくないんですよね」
と言って、ちょっと空のほうをあおいだ。
美波にとって印象的なそれは、楓にとってあたりまえにある存在で、あたりまえにすぎてゆく景色だった。
楓はなぜ自分を誘ったのだろう。誘われて、諒承してからも、美波はなんどとなくそれを考えた。酒のはいっていないときの楓はつねに飄然としていて、なにを考えているのかわからないことがある。酒がはいれば多少わかりやすくなるが、いまの楓は酒を飲んでいない。かんぜんなしらふである。里帰りにさそわれたときもそうだった。
「楓さんは」
どうして、と訊きかけて、
「こういうあざやかな景色のなかで育ったんですね」
言いながら美波は自分の故郷をおもいだそうとした。海のある街だった。細い坂道があまたあった。青はあったが、このオレンジの鮮明さは記憶にない。
「あら」
楓は美波のことばにすこしおどろいたようだった。
「のどか、と言われるのかと思ったのに」
「のどかなところだとは思いますが……」
楓はあたりをみわたした。
「こんないちめんのオレンジ色、みたことないですから」
美波が言うと、楓はまた笑った。あたりをみわたして、
「東京に来るまでは、わたしはこの景色しか知らなかったの。修学旅行で京都にいったり、クラスメイトと大阪に遊びにいったりはしていたけれど、それくらいで」
ここには高い建物がほとんどない。上に空が、下にみかん畑がひろがっている。はじめて大阪にいったときはビル群の威容に圧倒されたという。
「みかんがない以外は、わたしのところもおなじ感じです」
と美波が言うと、
「それちょっとうれしいかも」
と、さしてうれしそうでもなさそうに楓は言った。
「芽衣子ちゃんは都会っ子だから、同郷と思ってお話してみても、意外とお話があわないんですよね。あんまりこういう、ばあっとみかん畑がひろがっているところはないみたいで」
それを聞いて美波のほうがすこしうれしい気分になったのは、自身でもふしぎだった。
「ああ、あれ、家よ」
歩きつづけて楓が指さしたのは、なんてことのない、周囲となにもかわらない、ふつうの一軒家だった。
高垣
と表札にあるのが、唯一ほかとはちがった。
玄関戸をあけた楓は、すこし声をたかめて、
「お母さん、ただいま――」
と言った。
奥から女性が出てきた。楓の母である。
「ただいま」
「おかえりぃ。あら」
楓の母は楓の背後にいる美波に気づいたらしく、視線をうつししてきた。
「こんにちは、はじめまして、新田です」
美波は頭をさげた。
「あら、あなたがうわさの美波ちゃんねえ」
楓の母はいったん框から降りて美波の肩に手をおいて家のなかにおしこむと、
「さ、あがってって。暑かったでしょう。いまお茶いれてくるからね」
と言って、あわただしく台所に走っていった。
「あいかわらずいそがしなぁ……」
楓がそうつぶやいたのを聞いて、美波はおもわずふきだした。
いつもとはちがう発音の、いつもとはちがう調子の、いままで聞いたことのないような呆れた声が、美波にはやはりおかしかったのである。
「あれ、美波ちゃん笑っているの。わたし、きょうはいちども言っていないはずなのに」
楓は不可抗力のだじゃれに美波が笑ったのだとおもったらしい。
「楓さん、なんだかかわいいなって、おもって」
「かわいい……、んん……」
楓は首をひねったが、すぐにきりかえて、
「いま、居間に案内しますね」
と、にこやかに言った。美波はそれには笑わなかった。
居間にはエアコンが効いていて涼しかった。お茶をはこんできた楓の母は「ゆっくりしてってね」と言うと、居間からしりぞいた。
冷えたほうじ茶を飲みながら休んでいると、体内にこもった熱がしずまっていった。
居間からは庭がみえる。
柑橘類の木はみあたらない。ここに来るまでにいくつかの家の庭にみかんかなにかの木が植えられているのを美波はみていた。
「楓さんのところは、みかんをつくっていないんですか」
「うちですか。うちは親戚の方が農園をもっているので、毎年そこからもらっているんです」
と楓は言った。
「あしたは海にいきましょうか。和歌山港ほどではないですが、けっこうおおきな港があるんですよ。風がきもちよくて……」
楓はずっとにこにこしている。
もともと童顔であるが、実家についてからはさらに幼さがましているように美波には感じられた。童顔であってもおとなっぽさをうしなわないひとだとおもっていたのに、いまの楓は表情も仕草も口調もみょうにはしゃいでいる。
「わたしの地元にも港があるんです」
「広島の港は有名ですものね」
「いえ、その有名どころじゃない港なんですが、そこもやっぱり風がきもちよくて」
「港風はいいですよね。ほんとうに」
楓は目をつむった。口もとには笑みをたたえたままでいる。風をかんじているのだと美波は思った。目をふせるといっそう幼くなる。
美波は言った。
「浜辺にも」
だからすこし期待したのだ。
「浜辺にもいってみたいです」
「あ――」
そうすれば、このかわいいひとの、かわいらしい表情が、もっとみられるかもしれないとおもったのだ。
了