檻の中にいる

 おそろしいほど隙だらけの檻である。ひとをとじこめるにはあまりにひ弱な檻である。
 なにせ格子はたったの四本しかない。
 新田美波をとじこめているのは、たった四本の格子である。三船美優を構成するもの、すなわち、両手と両足の四本である。
 ただの事故だ。足をすべらせてころんで、それに美波をまきこんでしまった。体を起こすと、下に美波を組み敷くかたちになっていた。それで格子が四本、美優の体はすっぽりと美波の体をおおった。
 おおよそのながれは、つきあいはじめてだいぶ経つというのに関係に進展がないこと、その美優の煮えきらない態度に不満を溜まらせた美波が、部屋におしかけてつめよったこと、そこから逃げようとした美優の腕を美波がつかんだこと、ふりはらおうとしてもみくちゃになって、ふたりでなかよくころんだということである。つまり全面的に美優が悪い。
 なのに美優は謝罪も心配もせずに、ただ自分の下にいる美波の、目のうつくしさだとか、ぬれた唇のつややかさだとか、それから恋人を組み敷くという構造そのものに、心臓をどきどきと高鳴らせている。
「顔……真っ赤ですよ」
 みあげる美波がそう言って笑う。彼女は逃げない。檻から出ない。体は指一本とうごかさない。
 美優はうごけない。指一本とうごかせない。美波を檻から出せない。
「美波ちゃん、だって」
 赤いじゃない、と言おうとした口は、とちゅうで無惨にゆがみとじられた。
 じっさいのところ美波の頬の色は平常そのものにみえた。動悸は美優のものばかりがやけに大きな音で部屋中に響いている。美波はおちついたものである。
 二十歳と二十七歳、どちらが上でどちらが下なのか。立場はもう、わからない。
 ――うごけない。
 なぜなのだろう。
「わたし、顔、赤いですか」
 さあ、縦に振るか横に振るか。
 美優は縦に振った。
「ほんとうに?」
 美優はまたうなずいた。
 じりじりと体重を左側にかけ、べったりと床にはりついたままだった右手をはなす。それからしばらくじっとうごかなかった。
 その動作を美波はふしぎそうな目で追った。なにをしようとしているのか、美波にはわからなかったのだろうが、美優にもわからなかった。
 この右手のおとしどころを、美優は考えなければならなかった。頬にあてて、顔が赤いことを伝えようかと思った。あるいは唇を指でなぞって、その上からキスのひとつでもしてやろうかと思った。それくらいならいままでも経験があった。
 結局、美優の右手は美波の胸のほうにおりていった。心臓のあたりに手をそえ、こう言った。
「どきどきしている」
「していますね」
 美波はすなおに認めた。
「でもどきどきしているのと、顔が赤いかどうかは、べつですよ」
「赤いのよ。りんごみたいに真っ赤になっているの」
「そんなに」
「そう、こんなに」
 と言って、美優は右手をのぼらせて、今度は美波の頬をなでた。
「赤いし、どきどきしている」
 それから美優は、頬から顎へ、顎から喉へ、喉から鎖骨へ、鎖骨からさらにくだって、シャツのボタンを、まずはひとつ、はずした。
 美波がまたくすりと笑った。
「顔、真っ赤ですよ」
 またそんなことを言う。左手をもちあげて美優の胸にあて、
「どきどきしていますね」
 と言う。
 美波のシャツのボタンがひとつはずれている。美優がつくったなさけない檻の格子もひとつはずれている。美波はそこから逃げない。
 ボタンがまたひとつはずされた。
「美波、ちゃん……」
 かすれた声でそう言って、服をぬがせてゆく。ときどきキスをした。体勢を変えてなんどもキスをした。格子はもう全部はずれている。檻はもうかたちを為していない。それでも美波はそこから逃げない。
 抵抗するならしてほしい。できるだけ、早く、早く――そう願うのは、われながら無責任だと感じたが、美優の思考は半分はそれに染まり、もう半分はこれからさきどう美波を愛するかに染められた。
 ――檻はまだあるのかもしれない。
 がんじがらめのいびつな檻が美優の心にあって、思うようにみうごきがとれなくなっている自分がいるような気がした。
 しがらみのようなそれをすべてとりのぞいて、美優は、はじめて美波を美波の望むようなかたちで愛せるのではないか。そう思った。それはたぶん美優自身ののぞむ愛し方にちがいなく、いままでさんざんに逃げてきたものにもちがいなかった。
「ごめんなさい」
 美優はようやく謝った。
 美波の顔から微笑が消えた。
「これからは、ちゃんとする、から。いえ、いまから、ちゃんとします」
 美優はそう言うと、熟れたからだにくちづけた。
 やがて美波は身をふるわせ、蕩かすような声をあげ、両手をのばして、美優の首を抱きこんだ。

 ――檻は、まだ、ある。

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