夜も四更のころに、美波は恋人の呻き声で目を覚ます。
何度目だろう。
このひとの部屋に泊まりにくるたび、美波はこの時間に目を覚ます。おそらくは悪い夢にうなされている、彼女の声で目を覚ますのだ。
上体を起こして、美波は美優をみおろす。ふたりで眠るには少々手狭なベッドで、月明かりに青白く照らされた美優のひたいには、汗がにじんでいる。それ以上に、目尻に涙がにじんでいる。
それがこぼれおちて、こめかみをつたってベッドシーツにおちようとする寸前に、美波はそれを指ですくいあげる。
どうすればいいのか、美波には全然わからない。
美優は夢の内容をおぼえているのか、いないのか。起きてからはなにも言わない。おぼえているとすれば、美波に迷惑をかけたくないと思っているのだろう。
美波の知らない美優がいる。出会うまえ、アイドルになるまえ、まだ美優が会社員だった時代に、その暗闇がある。あるいはそれよりさらに以前の大学か、高校か。なんにしろ美波の知らない美優の過去だ。
はじめてからだをかさねた、あの夜から、美優はうなされるようになった。美優が悪夢をみるのは、きまって情事にふけた夜である。
傷口を刺激したのだと美波は思った。美優がかかえている、美波にたいしてかくしつづけている傷にふれてしまったのだろう。
それはたぶんトラウマと呼ばれるもので、美波の人生にはひとつも存在しないものでもある。だから美波は美優に寄り添うことができない。美優の心に沈殿する痛ましい記憶をなぐさめることができない。やり方がわからないのだ。
あけすけに言えば美優は処女ではなかった。男性経験は豊富にあるようだった。ただ、その経験が、彼女の男性遍歴が、かならずしも彼女に幸福をもたらしたものではないと、美波にもわかった。
行為をはじめるとき、ベッドによこたわる美優は、きまって目をつむり、顔をそむけ、唇をかみしめる。そうして、その「時」が一刻も早く終わることを、じっと耐えて待つように、からだをこわばらせる。
――おびえているんだ。
と思った。
これまでつきあってきた男性からどういうあつかいを受けてきたのか、それでおおよそ知れた。
それでもやめなかったのは、上書きしてやりたい気持ちがはたらいたからだった。まじわることがけっしていやなことではなく、よいものになるように、美波は美優を、めいっぱいのやわらかい愛情でくるもうとした。しかし、その思いはいっこうに果たされなかった。
だから今夜も、美優は夢にうなされている。
美波はそっと手を伸ばし、美優の首をつつみ、親指でのどのあたりをおさえこんだ。
ぴくりと美優のからだがはねた。
呻き声がぴたりとやんだ。
まだ眠っているのに、からだは起きているみたいに、もどかしげに眉をひそめて、ほそい吐息を、みじかい間隔で吐いた。
――このひとは……。
美波は嘆息した。
首を絞めると、美優のからだは快楽にふるえる。腹の下にあるもっともやわらかい粒にかみつくと、甘ったるい声をあげる。鎖骨に歯を立て、背中に爪を立ててひっかくと、もっと、とねだる。
そういうからだにされてしまっている。そうしてほしいとみっともなく唾液をたれながしながら、美優は言ったことがある。
美波は躊躇したが、美優が、七つも年上のこの恋人が、すがりつくようにして言ってくるので、しぶしぶやってみたことがある。たったいちどだけ、そんなことをしたことがある。そしてたぶん、そのときがいちばん、美優は感じていた。緊張が解けて、みだらに腰をゆりうごかし、おわったあとは弛緩したからだをベッドになげだしていた。
なのに、美波がやったそれと、おなじことをされている夢をみている美優は、こんなにも苦しそうだ。
愛情のそそぎ方がわからない。美波は美波の望むやり方で抱いてあげたいのに、それは美優の望むやり方ではなく、しかし美優の望むやり方でやれば、美優はそれにも苦しむ。起きて苦しみ、眠ってまた苦しむのである。
美波は美優の首から手をはなした。それからしばらく美優をみつめていた。青白い顔は、いくぶんやすらいでいるようだった。寝息はおだやかさをたもっている。
美波はまた蒲団にもぐりこんで、そのなかから、美優をひしと抱きしめ、頬にくちづけた。そのあと、むしょうに泣きたくなった。このひとのためにしてやれることが、美波にはなにひとつもわからなかった。
美波はどうしようもなくかなしくなって、すすり泣いた。声をあげないように、おしころして、泣いた。
眠っている美優に、その泣き声はもちろんきこえない。
了