彼女の手にふれて、指をからませたとき、みょうなところに「たこ」ができていることに気づいた。すくなくとも自分には存在しないものだった。
美優は指先がとらえた違和感に一瞬首をかしげたが、すぐに、
――ああ、ラクロスの……。
と、思いあたった。ほとんど同時に、美優はおそろしくなって、横腹をなでていた指をおもむろにはなした。
脳裏にうかんだ疑心が全身にひろがってゆく。その感覚がはっきりとある。汗がふきだすのがわかる。冷房のぬるい風がその汗の表面をかすめた。皺をよせた鼻先から玉になった汗が美波の鎖骨に落ちた。それをぬぐったのをさいごに美優は美波にふれるのをやめた。
いまさらになって美優はこの状況に愕然とした。
あおむけになっている裸体は、その胸も、腿も、腹も、ふれるところすべてが強い弾性をもっている。角張った感じはないが、目容からくる印象ほどやわらかくもない。しなやかな輪郭線をえがきながら、その肌膚の下で強靭な精神と肉体をつくっている。この健全で均整のある、ひとつのうつくしいものを破壊しようとしている、と美優は自覚した。
美波が重い息を吐いて瞼をひらいた。これまで美優の愛撫にかすかに身じろぎするだけだった美波が、そのときはじめて、うごきをとめた美優のほうに意識をむけた。
指の腹をこすりあわせる美優を、彼女はふしぎそうに見つめた。美優は視線からにげるように顔を逸らせた。そこにおりたたまれたふたり分の衣服があった。
――服を脱がせて、わたしは、なにをしているの。
と美優が考えたのは、酔いが醒めはじめたあかしだろう。昼間から飲んでいたわけではないが、室内に充満する甘ったるい空気に酔ったのはたしかである。むろん、この日炊いたアロマにそうした効果はない。
こんなことをするために彼女を部屋に招き入れたのか、というと、美優は心のなかで首をふった。そんなはずはないのである。そんなことをする関係ではない。が、重なり合うふたつの裸体は、テーブルに置かれた飲みかけの紅茶とアロマテラピーの本をなんら意味のないものにしてしまっている。これにはいいわけができない。
美優がまごついているあいだに、美波はベッドから抜け出し、さっさと服を着た。背をむける彼女の表情は美優にはわからない。美波は仕上げに家に来た当初はつけていなかったヘアゴムで髪を束ねた。気持ちを切り替えるためではないかと美優は想像した。
――失望させたかな。
そう思いながら美優はほっとした。シャツに袖をとおす美優のうごきがいつになく軽快だったのは気重さからまぬかれたためにほかならない。
美波は黙ったままベッドのはしにちょんと座った。怒ってすぐに帰るという感じではなかった。美優にとりつくろう時間をくれたのかもしれない。美優は音をたてないように深呼吸してからとなりに腰をおろした。
だから、美優から見えるのは美波の横顔でしかないが、彼女が本来もっていたはずの活気がうしなわれていることは、それでもよくわかった。ひたいから鼻筋をとおって顎のあたりまで陰翳がさしている。眉だけはいつものようにきりとあげられていたが、全体的に暗く沈んでいる。
美波はさっきからひとこともしゃべらない。なにか沈思するようにくちびるをむすんでいる。それがときどき拗ねたようにとがる。そのたび美優はどきりとした。とうの美波は自分のしぐさに気づいているようではないので、すくなくとも美優への意思表示ではない。が、じっさい拗ねているのだろう。いま、美波の機嫌が、いいはずはないのである。
やがて、美優は観念したように、息をいれた。それから膝に視線を落とすと、美波のほうはなるべく見ないようにして、彼女の背にてのひらをあてると、ゆっくりとさすりはじめた。
美波がこちらをむいたらしい。目をあわせようとしない美優をどう思ったのか。なにか言おうとしたようだが、美優にきこえたのは息をのむ音だけである。
背をさするのは、なだめようとしたのでも、なぐさめようとしてのでもなかった。めずらしくも曲がっている背をまっすぐにしたかったのである。
美波の背なかに入っている筋金は、強固だが融通のきかないことはなく、もともと柔軟にかたちを変えられるものであったが、歪んだことはなかった。歪んでいるということは状態が正しくないということである。正しいものを正しくなくしたのは美波自身であり、そそのかしたのは美優である。
初めはそのつもりはなく、ただ場の空気に酔って、その気になって、理性を棄て、思考を停め、勢いに任せ、ことに及ぼうとした。それはずいぶんとこのふたりらしからぬ行動だった。すこしも常識的でなく、道徳的でなく、一般的でない。
美優はなかなか手をとめない。美波の戸惑いが、てのひら越しにつたわってくる。美波はあいかわらずひとことも発しないが、美優だってなにもしゃべっていない。謝罪も弁解もしていない。相手の感情の居場所がわからないのは、おたがい同じだろう。
美波は怒っているにちがいないのに、いまはまったくおとなしい。ベッドの上でもそうだったと美優は思った。
さすっているうちに、美優のてのひらはあたたかくなってきた。美波の背もそこだけ体温があがっている。
そろそろやめどきかもしれない、と思ったとき、視界がわずかに揺れた。それがなんなのか、驚くまえに、頭をなでられているのだと知った。
美優は、はっと腕をおろしたが、ぎゃくに美波の手は、美優をはなさなくなった。
こんどは美優が大いに戸惑う番だった。
いったい美波は、いまどんなことを考えているのだろうか。なにを思って美優の頭をなでているのだろう。意図しているものがなんなのか、美優には全然読めない。これがいつまでつづくのかということも見当がつかない。
美優は顔をあげられなかった。自分の膝を見つめているしかなかった。美波は背をなでられているときからずっとこちらを見ている。すこしも視線をうごかしていない。そのことに気づいたのである。顔をあげればかならず目が合う。
長いのか短いのか、時計で確認していたわけでもないので、はっきりとしない。
「うん」
と美波がちいさく言って、それで終わった。
美優はそろそろと美波のほうに目をやった。美波はさっぱりとした表情で、なにかやり遂げたという満足感が口もとを染めている。怒っているふうではない。背筋もぴんとしている。背を曲げているのはいまや美優のほうである。
下からのぞきみたところ、美波はすっかりもとの美波であり、どこにも暗い翳はなかった。
すっと腰をあげた美波は、
「また来ますから」
と彼女らしい快活な声で言った。
――また、は困る。
とは、美優は言えなかった。
「時間が合えば……」
と言い、せいいっぱいつくり笑いをした。
けっきょく美優は謝罪も弁解もしなかった。
美波は帰っていった。
玄関の戸を閉めて、ベランダに出た美優は、眼下のうしろ姿をしばらく見ていた。その影が曲がり角に消えると、美優は空をあおいだ。
日はまだ西の空の高いところにある。空は青い。雲は午前中より減っているようだった。風はない。むっとするような空気である。
――次も同じ流れになる。
これは予感である。この予感はたぶんはずれない。
ベランダからもどった美優は、室内を見まわすと、嘆息して、掃除をはじめた。美波の痕跡を消すのに必死だった。
了