風と恋と少女と

 ひとをみて、体内に風を宿しているのではないか、と思ったのは、三船美優の二十六年の人生において、高垣楓が初めてだった。
 楓がなにかをするたびに、さっと風が吹くのは、どういう現象だろうか。
 たとえば写真撮影がある。カメラマンの指示であったり楓個人の判断であったり理由はさまざまだが、彼女は撮られるための、あるいは撮らせるために、さまざまなポーズをとる。そのうごきのたびに風が吹く。
 あるいはまた雑誌のインタビューがある。インタビュアーの質問に答えて話す、彼女のすこしかすれたような、しかし澄んだうつくしい声が発せられるときにも風が吹く。
 プロダクションビル内をただ移動しているときでさえ風は吹く。
 彼女がなにかをすると、おだやかな風が発生するのである。
 その風はどこに吹いているのか。
 美優はおのれの体内に風が吹きこんでくるのを感じるのである。
 楓の体から美優の体にむかってやわらかい風がとおりぬけてゆく。そういう感覚におちいる。
 はじめて顔合わせしたのは年始のことで、美優がいまのプロデューサーにスカウトされてちいさな建設会社の事務から美城プロダクションのアイドルに転職した翌月のことだった。転職して一週間もなかったと思う。
 新年会が催された。テレビの企画ではなく、川島瑞樹のプライベートの誘いが同世代の人間にいっせいにかかって、小料理屋の二階の座席に十数名があつまって酒を飲んだ。美優が参加したその席に、多忙極める楓もいた。
 楓はその新年会に出ていた全員と話をしていたから、美優がとくべつどうというわけでもなく、ただ順番がまわってきただけのことなのだろう。
 ともかく、美優は楓に話しかけられた。
「美優さん、飲んでいますか」
 楓はそういう、酒の席の決まり文句を言ったにすぎない。
 が、美優は驚きで目容を染めた。
「あ……」
 風が吹いた、と思った。その驚きは、美城プロの頂点というべき存在が、所属して間もないずぶの新人の名と顔を把握していたということと、名を呼ばれたとき、そこに風を感じたということである。
 むろん、風など宴席のどこにも吹いてはいない。それでも美優は風が吹いたと思った。
 いったい、体に風をもっている人間などいるのか、はなはだ疑問であるが、現実として風をもっている者が目の前にいるのである。
 楓はしばらく美優のとなりに座って、なにがしか話しているようだった。美優にはなにを話しているのかわからなかった。それどころではなかった。ただ楓が澄んだ声をはなつたびに起こる風に、驚きつづけた。
 美優のかれこれ五年ほどものごとに鈍感になっていた体を、ここちよい風がとおりぬけていった。
「美優さん、あのう」
 話を聞き流されていると思ったのか、驚き瞠目し、自分をみつめつづける視線をふしぎに思ったのか、楓は、
「どうされました? お酒、すすんでいませんが……」
「あ、いえ」
 美優はとっさに目をそらした。
 ――声も瞳もこのひとはうつくしい。
 自分がはたして彼女と同じアイドルを名のってよいのかすこし不安になった。
「にぎやかなの、ちょっと苦手で」
 ごまかすように笑って言ったそれが、ことばの選びとして正しかったのかどうか。
「まあ、美優さんも」
 楓は小声でそう言って笑った。
「え……」
 耳ざとくそれを拾いあげたのは、楓の発する風に、声に、夢中になっていたせいだろうか。彼女はいま、美優さんも、と言ったのではないか。それを、まるでうれしいことのように、たしかに言ったのだ。
「わたしも苦手なんです、ひとが多いのは、ちょっと」
 と言って、楓は片目をつむり、親指と人さし指を、空気をつまむようなしぐさをして、そのあいだをほんのすこしひらいた。
「根が人見知りなもので、きょうは瑞樹さんのお友達ばかりで、わたしも知っているひとが多いので、まだよいのですが、撮影の打ち上げなどはどこで関わっていたのかわからない謎の関係者さんとかいますよね、話しかけられたらもう困り果ててしまって」
「そうなんですか」
 まだ基礎レッスンと宣材撮影以外にこれといったアイドル活動をしていない美優には、その打ち上げのときにだけ出現する謎の関係者については知りようもない。芸能界の摩訶不思議をひとつ知った気分だった。
 きらびやかでだれをも惹きつける魅力でかえって困ることがあるらしい。ちかづく者を無碍にも拒めない立場の楓は、自分の不得手としているひとづきあいの矢面に立ちつづけなくてはいけない。
「意外です」
 と美優は言った。
「そうですか?」
「いえ、ひとが苦手そうだなっていうのは、なんとんなく、うすうす思っていたんですが」
「あ、やっぱり。瑞樹さんたちにも言わてしまいました。人見知りが顔に出ているって」
 でもそれでしたらなにが意外なのでしょう、と訊いてくる楓に、
「わたしなんかに、たくさん、そう、話してくれるなんて、思わなくて……」
 と美優は言って、顔をふせた。楓のようなスーパースターと会話していることが、きゅうにとんでもないことのように思われてきて、恥ずかしくなったのである。
 風が頭上をとおりすぎていった。

 ほどなくして美優は楓の下に付けられた。
 二十六歳の新人が二十五歳の人気アイドルの付き人になったのである。
 そういう世界は芸能界にかぎったわけではない。美優もOL生活最後の年は、自分より年上の中途採用の新入りにいちからものを教えて辞めていったのである。新人はみなどこでもそういうものなのだろうと美優はあっさり納得した。
 目で楓を追いかける日々が始まった。楓のあとについていって、楓の身のまわりの世話をしながら、楓をとりまいている現場のスタッフたちに頭をさげ、顔を覚えてもらうのである。
「物憂げな表情がよくお似合いなのですね」
 移動中の車内で楓に言われた。
「このあいだに宣材をみさせていただいたんです。笑ってはいるですが、どこかさびしげで、陰翳のあるきれいなおもざしだと思いますが、あの、これが美優さんの売りというか持ち味なのでしょうか」
 楓は身を寄せてきて、耳のちかくで言う。
「いえ、意識してやったわけではないんです。ただ、なにをしてもこんな顔になってしまうだけで……」
 美優は首をふって、
「かりにもアイドルなんだからちゃんと笑顔にならなきゃ、いけないのに、だめですよね、ほんとに」
 と言った。
 楓はシートにもたれて腕をくんだ。
「ふむ、美優さんはお好きではないのですね」
 そう言ってから、しばらく、ふむ、ふむ、となにかを考え、その考えに、なるほど、なるほど、としきりにうなずいていた。
 楓がなにを考え、なににうなずいているのか、むろん美優にはわからない。
 それはそれとして、美優は楓の付き人として方々にいった。
 楓は多忙なひとである。が、忙殺されないひとでもある。楓にくっついているだけの美優のほうが根をあげそうになった。足が棒になる。体が重い。肩が凝る。目が回る。
 ――このひとは……。
 なにものなのか、と美優は思った。楓は上背はあるが痩身の女性である。レッスンをして体力をつけたのであればもうすこし筋肉もついているだろうに楓の肉体にそれらしいものはみあたらない。激務に耐えうる体力と平然とそれをこなしているようにみせる気力だけが彼女の病人のような痩せた体にそなわっている。
 楓はある季刊発行の旅行誌に連載を持っている。各地を旅して、温泉に入り、そこの地酒を飲み、レビューを一筆するというものである。
 美優が付き人になって最初の取材は、箱根の温泉だった。取材班は楓と美優のふたりきりで、朝の電車にゆられて冬の箱根のちいさな温泉宿に泊まったのだった。
「美優さん意外といけるくちなのですねえ」
 と楓はうれしそうに言った。箱根の酒は楓の舌にも美優の舌にもよくのった。おいしいと感じたのが、思いのほか顔に出たのか、たんに楓がめざといのか。
「飲み会などではあまりそういう顔なされませんものね、美優さん」
 と言って楓は目をゆるませた。体も弛緩させたようで、美優にもたれかかっている。
「これくらいの人数でしずかに飲むのは、嫌いじゃないですから……」
「わたしと同じですね、ふふ」
 うれしい、と言って楓は笑った。
 風が吹きつづけている。
 けっきょく楓は泥酔するまで飲んでしまった。レビューを書けるのか、美優ははなはだ不安だった。起きたときにはもう酒の味を忘れてしまっているのではないか、と、ちらと思った。
 やがて正体なく畳に倒れて眠りついてしまった楓の体をひきずって、美優は二組ならべられた蒲団のうちのひとつに楓を寝かせ、自分はそのとなりで眠った。
 ところが、である。
 翌朝、美優が目を覚ますと、楓はすでに起きていて、煎茶のひとつでも飲みながら、ゆったりと座椅子に座って、持って来たノートパソコンに原稿を打っていた。
「楓、さん」
 泥酔していたのはわたしのほうなのか。そんなはずはない、げんにいま視界も思考もぼんやりしているのは眠気のせいであって、酒特有の重さはない。
「おはようございます、美優さん」
「おはよう……」
 そう言ったきり、美優はまたしても眠りのなかに落ちかけた。
 ――いけない、付き人の仕事しなきゃ。
 美優は頬をたたいて、それから起きあがった。
 ふたりとも浴衣姿なので、着替えを用意する必要はない。下に食堂があるが、楓がいると目立ちすぎるので、部屋まで運んでもらうことになる。内線を繋いで、朝食を頼んだ。
 それから、楓が飲んでいた湯呑の煎茶が冷めているようだったので淹れなおした。
 楓のむかいに座って、キーを打つ楓のめずらしくも眼鏡をかけている視線と、ときどき文章をおいかけているようにつぶやかれる唇とを、勉強のつもりでじいっとみつめた。
 キーをたたく姿がうつくしかった。
 風が吹いていて、その風が美優の体をとおりぬけた。
 だから楓をみないではいられなかった。なにをすれば、そのなにげないしぐさに至るまで、こうも一枚の絵画のように、さまになるものなのか。楓はアイドルらしく笑っているわけではない。それでもこれがアイドルなのだと美優はばくぜんと思った。
 みながみとれるアイドルにほかならないと思った。

 付き人といっても、むろん四六時中一緒にいるわけではなく、楓の送迎もやっていない。
 収録がプロダクションビル内でおこなわれる場合は、楓が来る二時間まえに入り、うち一時間にレッスンをいれた。高校の体育の授業以来、運動らしい運動をしていない元事務職の美優になにより足りていないのは体力だが、フィジカルトレーニングをそこに入れてしまうと楓の仕事についていけなくなるので、仕事まえのレッスンはかるくながす程度である。その分仕事をあがったあとはみっちりやった。
 二月ほど立つと楓の多忙さに目を回すこともなくなった。
「すっかり慣れましたね」
 と楓が言ったのは褒詞だったのかなんなのか。二月二十五日の美優の誕生日にチョコレートとともにそのことばを贈られた。
「バレンタインも兼ねてチョコレートにしました。ちょっと遅いですが。甘いもの、だいじょうぶでした?」
 と楓は言った。それにたいして、
「あっ、はい、だいじょうぶです」
 としか言えなかったのは、アイドルとしてなにも慣れていないように思われた。
 ――風が悪い。
 と美優は自分にいいわけした。風が吹いているから、それに気をとられて、まともに話せなくなるだけだ、と思うことにした。
 美優は二十七歳になった。
 その翌月にグラビアの仕事をもらった。
 いちおうそのことを楓に報告すると、彼女は手をたたいてよろこび、
「第一歩目ですね」
 と、美優の手をにぎり、首をかたむけて笑った。
 いつものような神秘性というものが全然なくて、なにか童女のように幼い笑顔だったのが、美優の心にいやに強烈に残った。
 それでも風は吹いていたのである。
 撮影は美城プロダクションのビル内にある撮影スタジオでおこなわれた。
 カメラマンからはどういうことかむりに笑顔をつくらなくてよい、と言われた。物憂げな表情がよいと褒められたことはあるが、それでも宣材写真は笑顔でなくてはいけなくて、なんどもリテイクをくらったのに、今回は笑わなくてよいらしい。
 わけのわからぬまま硬い顔をカメラのまえでさらしつづけた。ポーズだけはいろいろと指図されて、いろんな格好をしたが、美優は終始、仏頂面だった。内心ずっと、
 ――ほんとうにこれでいいのかしら。
 と不安になりながら、むりに笑顔をつくらなくてよいと言われたそれにすなおにしたがって、ぴくりとも笑おうとしなかったのは、われながら不遜であったと思う。
 撮影がおわって、カメラマンから、
「やあ、きみは写真を撮らせるのがうまい」
 と言われた。
 写真を撮らせる、の意味がわからなくて、ただ褒められていることだけはわかったので、ふかぶかと頭をさげて礼を言った。
「楓さんの付き人なんだってね。どうりで、きみはかなしみを知っている」
 と、つけくわえるように言ったかれのことばの意味は、美優にはほんとうにわからなかった。
 ――かなしみを……。
 楓に付いているから美優はかなしみを知っているという。では、楓がかなしみを知るひとということなのだろうか。おそらく、カメラマンはそう言ったのだろう。
「インタビューのほうがんばって」
 カメラマンは美優よりよほどよい笑顔でそう言うと、
「みんなおつかれさま!」
 と高い音のきれいな拍手をした。
 ――このひとも風をもっている。
 と美優はなんとなく思った。
 美優の記事が掲載される号は五月末に発売される。それをひそかなたのしみにしてアイドル活動にいそしむのが健全なのだろうか。すくなくとも同期はそうやっている。自分のなかではまだ一仕事おえたという実感がない。したがって発売日を待つたのしみも湧いてこない。
 グラビア撮影とインタビューがおわると、美優はまた楓の付き人にもどった。
「五月末ということは六月号なんですよねえ。いつも思うのですが、どうしてそうなるんでしょうか。五月に出るのなら五月号では」
 楓はそんなことを言った、
「印刷所の都合でしょう」
 と美優はにべもなく言った。それを楓はどう受けとめたのか、
「ふふ、たのしみです」
 とだけ言って、また幼い顔で笑った。
 その顔はかなしみを知っている顔にはみえなかった。
 かなしげな顔で写真に映っているのをみたことがある。そういうコンセプトの写真があった。が、かなしげな顔とかなしみを知っている顔は同じであろうか。
 美優はこの日から楓の表情を注意深く観察するようになった。

   *

 楓を熱心にみている目がある。
 その目は若いエネルギーに充ちている。
 新田美波という十九歳の大学生の目であった。
「美優さんにそっくりな子が入ってきたんですよ。きのう、あいさつされました」
 と楓が言っていたのは、たしか四日ほどまえだったと思う。
 きょうは午前中に楓のダンスレッスンがはいっていたので、美優もそれにつきあった。壁にもたれて一息吐いたところで、レッスン場にあらわれたのが美波だった。
「あら、美波ちゃん、お早い到着」
「え、あ、ああ、あの子が」
 美優はあわてて顔をあげた。
 入口のところに新田美波がいた。
「おはようございます、楓さん、それから……美優さん、ですよね。おはようございます」
 と言って彼女はにっこりと笑った。颯爽とした明るい笑顔だった。
 なるほど、たれた目もとがなんとなく自分と似ているような気がしないでもない。が、そっくりだとは思わなかった。自分の目にあんな活力も人当たりのよさも自信もない、と知っている。
 おこがましい話ではあるかもしれないが、美優は自分は楓にちかい人間だと思っている。人見知りで、大勢の人間にかこまれるのが苦手で、会話がうまくない。その点で楓と美優はそっくりだが、美波はそういうのとは無縁の、つねに大勢の人間にかこまれて、明るく会話して、だれにでもすぐうちとける、そういう快活さを一目みればわかるというほど心身からあふれさせている。
 楓のレッスンを見学するつもりで早めに来たという美波は、練習着に着替えてからもすぐにレッスンははじめなかった。美優は楓が再開してからも壁際に座ったままじっと楓をみつめていたが、美波もそうして、楓をみていた。
 楓のダンスをみていると、美優はトレーナーがいつか言っていたことを思い出す。十代のころに体幹をつくっていれば、バレリーナにでもなれただろう。そんなことを言っていた。楓は二十代を超えてからモデル部門からアイドル部門に、これまでのキャリアをみずから捨てて異動してきたという変わり種である。そのモデル時代を体幹づくりにつかっていれば、そうとうな腕前になっていた、と言ったトレーナーの真意は、美優にはよくわからない。楓の資質の高さを褒めているような、現在の楓の足りないものを指摘しているような、そんな感じだった。
 体幹と言われても美優の興味はそこにはない。美優は首から下の言ってみれば楓の貧相な体をみていない。ただ表情をみている。
 美波は全身をみているようだった。
 いちいち美波のほうをみてその視線を確認しているわけではないが、ときどき、ほんとうにごくちいさな声で、美波はなにがしかをつぶやいた。楓のダンスをことばでなぞっているのだと美優の耳は聞きとった。
 髪の先から足の爪先まで、彼女の唇は楓のうごきをなぞっているように感じられた。
 活力にあふれた若い目が楓を熱心にみつめている。
 ぴたりと楓のうごきが止まったとき、三人同時に息を吐いた。緊張がとかれた瞬間だったかもしれない。
 そのせいで気が抜けたのだろう。美優の人見知りの口がちょっとばかし軽くなった。
「美波さんは風を知っていますか?」
「風ですか?」
 なんの、とその艶っぽい唇がかすかにうごいた。
「楓さんの風」
 そうみじかく説明しても美波のしばたたかせるだけだった。
「あのひとがなにかすると、風が吹くんです」
「風……」
 美波はそうつぶやくと、レッスンをおえてこちらにちかづいてくる楓をみて、しきりにまばたきした。
「あら、おふたりでなにかお話ですか。わたしもまぜてくださいな」
 楓が口もとに笑みをたたえてそう言ったとき、さっと風が吹いた。
「いま、吹いた――」
 と美優は美波の袖をひいた。
「え――」
 美波は驚いて楓と美優をみたが、やはり要領を得ないのか、首をかしげつづけた。
「なにが吹いたんですか、美優さん」
 楓が中腰になって訊く。
「風が吹いたんです」
 と美優が言うと、楓は腰をあげ、乾いた人さし指を立てた。風が吹いているかたしかめようというのだろうが、そのやり方は指を舐めて濡らさないと意味がない。
「美優さん、お風邪をめされたので?」
 またこのひとは頓狂なことを言って、と美優は思ったが、この場において頓狂な発言をしたのは美優ただひとりである。
「風はわかりませんが、風のようなひとだと思います」
 あとで美波がこっそり美優の耳もとでささやいた。
 楓が風を吹かせるのであって、楓が風そのものなのではない。その返答は美優にはすこし不満であったが、美波なりにきちんと美優の頓狂な問いに答えようと真剣に考えてくれたのだろう。それがわかったので、美優は、
「そう、そうです。風があるんです。あのひとのところには」
 と言った。
 美波はほっとしたようにごくちいさな息を吐いた。ほんのわずかに唇の端がゆるんだ。
 さまざまな気づかいをする娘だと美優は思った。そういうこまやかさが自分にあるのかといえば、首をよこにふるしかない。他人に気をまわしたことがまったくないわけではない。それが十中のいくつほど他者のためであったかといえば、十分すべてが自分のためであり、OL生活のなかで培ったほんとうに最低限の処世術にすぎない。他人を気づかうというより他人の目が気になっていただけだろう。美優はおのれをふりかえってそう思う。
 ――やっぱり、そっくりじゃない。
 髪の色がちがえば、眉もちがい、鼻のかたちも唇のかたちも耳のかたちもちがった。目もとがほんのすこし似ている。それだけである。
「ありがとう」
 と言って美優は美波の前髪をなでた。なぜそんな幼いこどもにたいするようなことをしたのか、自分でもわからない。ただ突然のことで、
「きゃっ――」
 と花やいだ声をあげたのが、おとなびたふんいきに似つかわしくなく、かわいらしいと思った。
 それにしても、
「あら、うらやましい」
 と言った楓は、どこまで本気だったのだろうか。

 美優は以来しばしば美波と話すようになった。
 美波と会話するのはみょうにたのしかった。たのしい、よりも、ここちよい、のほうが、正確かもしれない。彼女の話し声を聞いているとふしぎに心がおちつくのだった。美波は饒舌であり性格も快活さをもっているが、こちらに押してくるような感じではなく、どちらかといえば話し方はおだやかである。その点でも美優は好感をもった。話していて気疲れしない相手は好きになる。
 美優は美波のいろいろなこと知った。
 彼女が所属しているシンデレラプロジェクトがあとすこしというところで欠員が出て頓挫したことや、大学ではラクロスをやっていること、それから資格取得が趣味であることなどである。
 活力の源は豊富な知識欲と好奇心らしい。こういうなんでもやってなんでもできる人間はいるものだ、と美優は思った。欠点のみえてこない人間、ということである。超人的な楓にも欠点はある。が、十九歳の美波からはそれがみえてこない。
 あるいは、みせていないだけか。まだそれほど深いつきあいがあるわけでもない。それに詮索する気もない。美波の欠点を知ったところで、どうというものでもないのである。美優の淡い興味はすぐに消えた。
 翌る月に美波のCDデビューが決まった。あわせてライブもするという。その報せを美優は美波本人からメールで受けた。自宅にもどってからそれに気づいた美優は、みじかいメール文を打ってそれを祝った。そのあと思いついたことがあって、
〈空いてる日か時間があったらおしえてください〉
 と送った。
 年下の友人のせっかくの祝い事である。どうせなら一緒にショッピングにでも出かけて、服のひとつでも買い、すこしくらい豪勢な食事でもおごってあげようと思ったのである。
 返信を待つあいだに風呂に入って、夕食をとった。豪勢な食事を、と思いついた先の、質素で孤独な夕食だったが、さびしさはなかった。かといってOL時代のようなただ腹に物を詰めるだけのような乾いた食事でもない。なんとなくだが、すこし心がたのしかった。
 テレビをつけて寝るまでの時間をつぶしていると、美波から電話がかかってきた。
「デビューおめでとうございます、美波ちゃん。そう、それで、今度食事にでもって思って……うん、お祝いですね。あさって? あさっては……午前中はあいてる。そう、そっか、来週から忙しくなるんだ……うん、おめでとう」
 電話をきってから美優は自分の心が弾むのを感じた。その弾みがおちついてから、ふと、
 ――祝うなら楓さんと一緒に祝ってあげたほうがいいのかな。
 と思った。
 いちおう楓を経由して知りあったようなものなのである。ただ、ちかごろは楓をあいだにはさまず、個人的にやりとりすることが増えたので、そのあたりのことは美優の頭からすっかり抜け落ちていた。
 あさってのスケジュールは、午後から楓が都内のスタジオで撮影が二本ある。午前中はそろって時間があいているので、デビュー祝いの買い物と食事に楓を連れていこうと思えば、楓が誘いに乗ってくれさえすれば可能である。
 いちおう楓に電話してみた。きょうは彼女も家に帰っているはずである。
「もしもし高垣です。どうしました美優さん」
「あ、楓さん。あの、あさって美波ちゃんと食事にいくんですが、一緒にどうですか」
「あら、CDデビューのお祝いですか」
「はい」
「それはもうぜひ」
 と楓は即答した。
「じゃあ、美波ちゃんにそうつたえておきますね」
「ええ、お洋服とか、あんまり高そうなのは遠慮されちゃうでしょうから、かわいい小物とかも、プレゼントしてあげたいですね」
「ええ、ええ」
 美優はあいづちをうった。自分もそうしてあげようと思っていたのである。
「メモ帳とか、ボールペンのほうが、喜ばれるかもしれません」
 と美優が言うと、
「たしかに、そのほうが美波ちゃんらしいですよねえ」
 と楓は答える。
「ハンカチや髪留めよりもスポーツタオルやリストバンドなどのほうがよいのかしら」
 と楓が言うと、
「ラクロスの試合も時間があえば見にいきたいですね。ライブは何日にやるのかな……」
 と美優は言った。
 入学を控えた娘をもつ親の気分とはこういうものなのだろうか。それとも全然ちがうのだろうか。
 楓とのなごやかな会話の片隅で、美優はそんなことを考えたのだった。

 約束の前日になって思いだしたのだが、美優はこれまであまりおしゃれというものに気をつかったことがなかった。
 クリスマスに自分へのプレゼントのつもりで買った赤いストールだけが唯一美優がみずから意識してやったおしゃれらしいおしゃれだった。が、すこしずつ暖かくなってきているいま、さすがに季節はずれかもしれない。
 美優は着てゆく服に困った。ありあまるなかから選びきれないだとか、数だけはあるがふさわしいものがないだとか、それならまだしも自分にいいわけできようものを、はなからひとつもない。
 しかしながら美優は多少あわてたものの、すぐにないならないで、あるものから着てゆくしかないとひらきなおって、出かけるしかないと思いなおし、手持ちの外出着でいちばんこぎれいなワイシャツとカーディガンとパンツを選んでハンガーにかけた。
「これでいいかな」
 満足というほどではないが、問題はないと思う。
 美優の目は他人の目を気にしているようで気にしていない。いったいどれほど自分は他者に無関心で生きてきたのだろうと美優はおのれに呆れた。が、これからはそうはいかないだろう。アイドルとは他人に見られるために存在しているようなものなのである。
 それはさておき約束の日になった。
 プロダクションビルのまえで待ち合わせた。美優が着いたとき美波はすでにいた。時間の五分まえに楓が到着した。
 集まってみてあらためて美優の思ったのは、やはり自分のかっこうがいちばん地味だということだった。ただし、楓にしろ美波にしろさして目立たぬかっこうではある。
「いきましょうか」
 と楓が言った。
 その声にもやはり美優は風を感じた。さっと風を切るように歩く長身痩躯の楓は、じつは風を発生させている張本人であった。
 歩きながら楓の風にここちよさを感じていると、
「風は吹いていますか」
 と美波が耳もとでささやいた。
 美優はうなずいた。
 美波のたれさがった目が、先頭を歩く楓を熱心にみつめた。
 ――いい子だなあ。
 と美優は思った。きっと美優のざれごとのようなことばを真剣に受けとめ、風を感じようとしているのだろうと思った。そういう真摯な熱をもった目を楓にむけてる。
 ところで美波を祝うために街に連れだそうと言ったのは美優だったが、当日の行き先の手配などはすべて楓がやってくれた。買い物をするよい店も料理のおいしい店も美優は知らなかったためである。
 ショッピングモールにはいって買う物をさがした。プレゼントは美波が喜びそうなものならなんでもよかったが、かといって美波にさがさせるのはいかにも芸がない。ふたりのほうでいくつかピックアップして、そのなかでとくに反応がよかったものを選んで買い渡した。
「ありがとうございます」
 と多少興奮した声で美波は言った。遠慮もずうずうしさもみせずに受け取るところに、美波の微妙なやさしさの表現があるのだろう。贈る側からしてみると過ぎた遠慮はかえって困るものである。美波はきちんとこちらの祝福を受け取ってくれるので、気が楽だった。
 美波が選んだのは水色のハンカチだった。
 買い物を済ませたあとショッピングモールを出て、楓がパスタのおいしいイタリアンレストランがあるというので、そこにいった。楓は自分の言い方がおかしいと思ったのか、
「あら、でも、パスタがおいしくないイタリア料理屋ってあるんでしょうか」
 と自分のことばに首をかしげていた。
「どこにでもそういう店のひとつやひとつあるんじゃないですか、潰れるでしょうけど」
「まあ、美優さんは手厳しいですのね」
「口が悪いだけですよ」
 美優はそっけなく言った。じっさいそのとおりだと美優は思う。
 美波はにこにこと笑いながらそのやりとりをみている。
 レストランに着いた。
 女性店員に案内された奥の窓際の席に座った。
 イタリアンレストランだけあってパスタひとつにも豊富な種類がある。
 名前を読んでも写真を見てもぴんとこないものもたくさんあった。
 楓も美波も食べたことのないものを注文した。楓は二、三回ここに来たことがあるが、むろんそれだけではこの店のパスタを食べ尽くせるはずがない。
 美優はナポリタンを頼んだ。外食のときでも食べ慣れた味でないと安心できないたちなのである。
 ――もっとこのふたりをみならったほうがいいかな。
 と美優はつくづく思った。彼女たちはアイドルだから、と心のどこかで諦めている場合ではないのである。美優もアイドルになったのだ。
「イタリアンのお店にもナポリタンがあるんですねえ」
 楓ははじめて来た客のようなことを言った。
 ところがこのナポリタンがかつて味わったことがないほどおいしかった。美優はおどろいた。
「あ、おいしい」
 という声は美波のほうからもあがった。
「それはよかった」
 フォークをくるくるまわしながら楓が笑った。
 美波のデビューを祝うための席であるが、だれもそのことに触れなかった。三人とも話の俎上にあげることを意識的に避けていた感じだった。
 美優がしないのは、おめでとう以外のことばを吐き出せそうにないからである。ひとつの助言もできそうにないと思った。じっさいなにひとつ美波に言うに適切なことばはうかんでこなかった。
 楓はどうなのだろう。キャリアの長い楓であればいろいろなことばを美波に贈ることができるだろうに、たあいない世間話に終始しようとする意図はなんであろうか。
 ──まあ、あんまり説教くさいこといったらしらけるし。
 美優の推測はそのあたりでおちついた。
 食べおわるころには十一時を二十分ほど過ぎていた。そろそろ午後の仕事がちかい。三人は店を出た。
「きょうはありがとうございます」
 そう言って美波は頭をさげた。深くも浅くもない角度で、ここにも美波の気づかいがみてとれた。
 美優は、
「今度はあなたのパートナーの……」
「アーニャちゃんですか」
「そう、アーニャちゃんと一緒にいきましょう。ライブの成功祝いにでも」
 そう言った口もとがほのかに笑いをつくった。われながら自然に笑みがでた、と美優は自分に感心した。こういうおだやかで自然な笑貌はひさしくなかった。目もゆるんだし、眉もたれさがった。
 全体的にみて美優は笑っていた。

 プロダクションビルにもどって、そこで美波と別れた。彼女はこれからレッスンがあるという。
 楓は都内のスタジオで撮影がある。美優はついてゆく。美波と別れると楓のマネージャーがすぐにくるまを出してくれた。スタジオにむかう。
 車中、美波のことが話題にあがった。
 ふたりで美波のいずまいのよさを褒めて、これからの成功を願い、そして祝った。きっと成功するだろうとばくぜんとした確信があった。
「失敗しない子ですよね、あの子」
 美優はそういうふうに思い、そうくちにした。
「そうですね、なんでもきっちり求められている線をクリアーして、その半歩先を歩く子です」
 楓は、半歩、とびみょうな言い方をした。
「一歩ではなくて?」
「一歩も進むとついてこられなくなる子がいると思っているのでしょう。そういう子もじっさいにいますから」
 楓はついと窓の外に顔をむけた。窓に映る楓の顔は笑っていない。
「それで半歩……」
「あの子、大胆ですよ。堅実で、大胆です。大胆な行動をとれるのは、堅実につみかさねてきた力量がつねにあの子の自信を裏づけているからです。だからあの子はいつも前進する。まわりをみて、ときどきたちどまって、迂路をとりながら」
「ずいぶんと詳しいですね」
 というより、断言するものだ、と美優はなかば呆れながら思った。ふたりは存外つきあいが深いらしい。が、まさか泥酔した楓を美波がマンションまでおくりとどけていることまでは想像もできなかった。
「いまどきあんなにわかりやすい子もいないですから」
 欠点のみえてこない娘だと思っていた美波の欠点のような不安定な部分を、楓の色違いのふしぎな目はみていたのかもしれない。
 美優自身は美波と仲がよいつもりだった。楓より劣っているか優っているかなどとは考えもしないが、それでも美波の長所のような短所のような線引きのしづらいところを、よくしゃべる楓をみていると、なんとなく胸にひっかかりを感じないではいられなかった。
 あのよくできた後輩をどうやら楓も気に入っているらしい。
 いつも表情のとぼしい美優の唇がむつと不機嫌に結ばれた。ただし、とうの美優にそうした自覚はない。
「一度はでに転んだほうが人生いいと思うんですが、歩くのが上手すぎるのも考えものですねえ」
 それなのに楓は、そんなことを言うのだ。
「体験談ですか」
 そう言った美優の声にわずかな棘がまじった。
「大きな失敗も小さな失敗もたくさんしましたよ」
 楓はめずらしく、愛想もなにもなくただぼそりと言うのだった。
「美優さんも……」
「はい?」
「転びそうなときは、ちかくにひとがいるときにしてくださいね。転ぶと痛いですし、痛いことはいやでしょうから、すぐに手当てできるように」
「わたしがスカウトされたときにヒール折れて転んでたこと言ってるんですか」
「いえ、自分で手当てができるのも、やっぱり考えものだなあって思いまして」
 やっぱりそっくりですね、と楓は言った。
 美波はいやにまえむきで、美優はいやにうしろむきに、それでも、他人を頼らず、他人に手をさしのべるところは、ふたりはそっくりだった。楓はそう言った。美優は心外だった。他人を頼りたがらない性格はわかるが、ひとに積極的に手をさしのべたことはない。が、楓のことばを借りれば美優の場合はいやにうしろむき≠轤オいので、自分ではわからない自分がそうやってうしろむきにひとを助けたことがあるのかもしれない。ただ、うしろをむいているせいでまるでわかっていなかっただけで。それにくらべて美波の救済の手はわかりやすい。
「並んでいると姉妹みたいなのに、性格まで似ているんですもの。わたしのほうがさきに知りあったのに、おふたりのほうがすっかりなかよしさんですし、ちょっと妬いちゃいますね」
 窓のなかで楓が苦笑した。ごまかすような苦笑ではなく、ほんとうに苦いものを噛みつぶしたみたいにぎこちなく笑った。それからうつくしい目はどこか、かなしげであった。写真でみたことのあるつくられた顔ではない、生の顔である。
 が、それがかつてカメラマンの言っていた、かなしみを知る顔、なのか、どうか。
 ――風がない。
 と美優は思った。風が落ちている。
 いまの楓から美優は風をまったく感じなかった。
 どういうわけか、このとき楓から、風というものがいっさいなくなってしまっていた。
「楓さん、どうしてそんなに泣きそうな顔をされているんですか」
「そんな顔をしていますか、わたしったら」
 これから撮影なのに、と言って、楓は今度こそごまかすように笑った。その笑貌もやはりどこかかなしそうであった。
 ――なにがかなしいのか。
 美優にはわからない。
 楓が、かんじんの部分をぼかして言っていたことに、美優は気づかない。
 じっさいのところ、楓はどちらに妬いていたのだろうか。はたして美優に妬いていたのだろうか。ひとを容易に受けつけない美優に、すばやくうちとけた美波ではなかったか。あるいはそれは嫉妬ではなく、生来人見知りで、他者とのつきあい方にどこか不器用さをもつ自身へのあきらめのまじったかなしみだったかもしれない。
 ――わからない。
 楓についてすこしもわからない自分に、美優はいらだった。
 おたがいの胸に生じた感情がなんなのか、ふたりは知らない。
 美優も、楓も、まだ湧きおこる感情の正体を知らない。
 その足音が聞こえてくるのは、もうすこし先のことである。

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