青黒い海である。その上に暗い色の空がある。そのせいか砂が黒ずんでいるようだった。黒い海に白い波が立ち、そこだけがくっきりとうかびあがって、暗く沈む景色のなかで、あざやかだった。
海水浴には無縁の季節であるが、サーフィンをやっている人間の影がいくつか波間にみえた。それ以外の客はほとんどいない。
美優は恋人の美波をともなって、東京にあるその海をおとずれた。いつか美波が故郷の広島の海をなつかしむようなことを言っていたので、せめてものなぐさめのつもりで、東京の海に連れて来たのだった。
広島の海と東京の海が全然ちがうものであることは、広島の海を知らない美優にもわかっていた。それでも美波はよろこんでくれたようで、となりを歩く彼女は、口もとをあわい笑みで染めている。
美優は広島の海をみたことがない。知っているのは東京の海ばかりで、自分の生まれ故郷であるはずの岩手の海さえ知らない。そもそも岩手が故郷であるという感覚を美優はもたない。家はいわゆる転勤族であり、たびたび住居を移していた、そのためだろうか。美優には美波のような、郷里をなつかしむ心がない。
青くうつくしい海であることを、美波は語ってくれたことがある。その目には憧憬があった。その海を名として生まれ育ってきたことへの誇りもあった。さまざまな感情が彼女の目にはやどっていた。きらきらとかがやいていた。
美優は、それを、うらやましい、と感じたことがある。
美波に愛情をうちあけられ、流されるようにしてつきあいだして、まもないころのことである。三ヶ月ほどまえになる。
まだ三ヶ月である、とは思わなかった。
――もう三ヶ月も経った。
というのが美優の心情だった。三ヶ月も経つというのに、おのれの心は実家の住まいとおなじように、どこといってさだまらないまま、ここまできている。恋人らしいことをひとつもしてやれないまま、三ヶ月という時間を浪費した。
美波を海に連れて来たのは、つぐないの意味もあったかもしれない。自分ではわからない。ただ、美波が笑ってくれたことで、美優がかかえていたうしろめたさは多少薄れた。
風が吹く。砂浜を歩いていると、そのたびに髪がなびいた。
「風、つめたいね」
と美優が言うと、
「でも、気持ちいいです」
と美波は言った。
海には早朝から美優の運転する車でいった。
オフの日が重なるのを待っていると、気づけば初冬だった。
誘うのがおそすぎた、と美優は思ったが、翌年の夏までみおくるわけにもゆかず、けっきょく寒風にまかれながら浜辺を散策することになった。美波がそれをよろこんでくれたので、美優はほっとしたが、また大いに反省すべきことでもあった。美波は笑っているが、
――気をつかわせている。
と美優は悔いた。なにせ美波は無類の気づかい屋なのである。おもてに出した表情とことばをそのままうけとるわけにはゆかない。
「美波ちゃん」
たちどまって声をかけた。ふりかえると、ふたりの足跡が点々としてのこっている。
美波も足をとめた。
「はい」
明るい声である。美波の声はつねに快活としていて耳にここちよい。
美優は、どれほどか、この美優にしてみるとはなはだ退屈な時間を、はたして美波がたのしんでいるのか、きこうとしたが、
「寒いね」
と言うだけにとどまった。
「そうですね」
美波は言った。
「もう冬ですよ」
ほら、と美波が指さしたさきに、消波ブロックにうちつける白波があった。
「あそこにも」
美波はまた、砂になかばうもれている枯れ葉を指さして、はしゃぐように言った。美優は美波の声の温度の高さにすこしだけおどろいた。
「冬、好きなの」
「季節がみせてくれる顔は、みんな好きです。でも、やっぱり夏がいちばん好きですね」
美優はそのことばを、美波がかすかにみせた甘えと拗ねであるととらえた。
「夏生まれだものね」
「はい」
美波の誕生日は七月で、名にも海にかかわるものがふくまれている。海といえばやはり夏だ。美波がよく口にする広島の海も、夏の季節に彩られたものだった。
夏に連れてゆくべきだった。美優はそう思った。夏の海でめいっぱい泳いでたのしませるべきだったのだ。美波は夏には大学のサークル仲間と海水浴にいったらしい。しかし、美優はそれとはべつに、自分こそが美波を夏の海に連れてゆかねばならないと思った。それが恋人というものだろう。
「海水浴しましょうか」
「えっ」
美波は目をみひらいた。いまここで泳ごうと言われたのだと美波はかんちがいしたようだった。それがみょうにおかしくて、美優はつい笑った。
来夏の予定などいまの段階ではとうてい確約できるものではないが、美優は、
「来年にでも」
と言った。
「あ、うれしい――」
美波は破顔してみせた。
美波との出会いについてはさだかではない。いつ、どこで、はじめて顔をあわせたのか、美優はしかとはおぼえていない。
おなじ事務所に所属するおなじアイドルで、だから正式に面識をもつまえに、すでに事務所ビルですれちがったり、かるくあいさつをかわしりしたことはあったかもしれない。そこのところは不明である。が、彼女のことを思うとき、いつも酒の匂いがぷうんとするような気がした。
おかしな話と言えばおかしな話である。
今年二十歳になったばかりの大学生である彼女は、当時まだ誕生日をむかえておらず、むろん飲酒できる年齢にはなかった。したがって彼女から酒の匂いがするはずはないのだが、美優は日本酒独特の濃い匂いを思い出さずにはおられなかった。
匂いのでどころはべつにある。美優は知っている。高垣楓だ。呑兵衛で知られる楓は、お気に入りであるらしい美波をそばにおいてよく酒を飲んでいた。酒席で並んで座る楓と美波は美城プロダクションの成人アイドルにはみなれた光景である。美波をとりまく匂いはここだろう。
だから、美優が美波を思い出すとき、酒の匂いだけでなく、楓の話し相手になっている姿も一緒に思い出されるのだった。
出会いはそうした酒の席にあったと美優はぼんやりと想像している。たぶん、いつかの飲み会で、はじめて顔をあわせたのだ。
自己紹介されたときの闊達な声と笑顔を、美優は忘れられない。一二言ことばをかわしてすぐに楓のところにもどっていった背中も、おぼえている。酔った記憶のなかにそれらはある。
友紀の声がきこえる。
「たまにふたりっきりで飲みにいくんだって。ああ、美波ちゃんは飲まないけど。それで酔って眠っちゃった楓さんを家までおくりとどけて、美波ちゃんったら、ついでにお化粧おとして目覚ましセットして鍵かけて帰るって、こないだ言ってましたよ。すごいよね」
と言って、友紀はけらけらと笑った。
――笑いごとじゃない。
美優はそう思いつつ、微笑した。
酔った友紀の口からもれた話を、やはり酔った美優の頭は、それが酔いの言わせた与太話だと判断した。友紀の話を信じなかったのはなけなしの理性と言えた。そんなはずはない、と思いこんだのだ。美優のみたところ、楓は正体をなくすまで酔ったことはなく、どれほど飲んでも自分をみうしなわないひとである。
その認識にまちがいはなかったが、友紀の話は事実だった。
美波との交流が深まるにつれ、その与太話がほんとうであると美優は信じるようになった。その現場をみたわけではないが、あってもおかしくないと思った。多人数のいる席では楓はけっして醜態をみせなかったが、ふたりきりのときは、なるほど、そういうことは起こりうると思った。
他人を立てることで自分を立てる人間はどこかしらにいるもので、美波はそういう性格をしていた。楓はわざわざ酔ったふりをして、この面倒見がよく世話好きの後輩がつねに心の淵にかかえていた、おそらく本人のみとめたがらない、善意という欲望を、満たしてやっていたのである。
美波とつきあうようになってから楓に関する愚痴をきかされたことがある。むろん泥酔した楓についてである。愚痴を言いながらたのしげに笑う彼女をみて、美優は楓の真意をさとった。
――そんな器用さは自分にはない。
と美優にはわかっている。美優は美優のやり方で、美波の欲求を満たしてやらねばならない。美優にとっての美波は、ただの後輩ではなく、恋人なのである。
それは美優のまえに立ちはだかるひとつの大きな試練だった。
いま美優のとなりにいるのは、すでに成人した新田美波である。
美波はその場にしゃがみこむと、砂を指ですくった。
「美波ちゃん?」
「………」
美波はなにも言わなかった。美波は砂のついた指を払って、たちあがった。足もとをちいさな蟹がとおりすぎていった。蟹をすくいあげようとしたのかもしれない。
海風をうけて笑う美波の横顔は、二十歳という年齢よりもいくらか幼くみえる。同年代の女たちよりも成熟している彼女の、それが恋人にだけみせる顔であると、美優は自信をもって言えない。楓にも瑞樹にも早苗にも、あるいはまたずっと年下のアナスタシアにも、同様の顔をみせているにちがいなかった。
特別なことがなにもない関係とはなんだろう。ひとめにつかぬところでくちづけをあたえる勇気さえ美優はもたない。家族とともに暮らす美波の家に入ったことはなく、美波を自分のアパートの一室にあげたこともない。
アイドル、恋愛、同性、スキャンダルの要素はいくらもあった。用心を重ねると、ただオフの日に食事をするていどにとどまり、そこからすすまなかった。それらは告白されるまえとなにも変わらなかった。
お忍びデート、そう呼べるものなのかどうか。顔をかくすようなものは、なにもしていない。浜にひとはすくなく、ふたりの正体を気にかけるものはいなかった。面貌が似ているとよく言われるふたりだから、ひょっとすると仲のよい姉妹くらいに映っているのかもしれない。
――それでいい。
こんな浜辺散策くらいのことでけちがついてはつまらない。
ふたりは十一時まえには浜を出た。美優は丸一日オフだが、美波はそうではない。午後から仕事が入っている。みじかいデートだった。帰りに軽食屋に寄ってはやめの昼食をとり、美波のマンションまで彼女を送っていった。
美波は車を降りるとき、
「きょう、たのしかったです。また連れていってください」
と言った。
美波のほうをみると、彼女はきげんよく笑っていた。
「うん」
と、美優は美波につられるかたちで笑顔をかえした。別れ際にキスのひとつでもすべきかと、ちらと脳裡をよぎったが、美優の慎重さはそれをゆるさなかった。歳のはなれた友人同士で遊んでいるだけ、傍目にはそうみえていなくてはならない。その目はどこにひそんでいるかわからないのである。
若い美波の未来をつぶすようなまねはぜったいにしたくない。
それなら最初から彼女の告白を断わればよかったのだが、美優はそうしなかった。断われなかったと言ってよい。彼女が自分にむけてくる強烈な熱をしりぞけられなかったのである。流されるままにうけいれた自分をなさけないと思うことはある。が、後悔することもできなかった。それをするのはあまりにも美波にたいして酷であったし、もうしわけが立たない気持ちがあった。
美優の頭のなかには、遊園地だとか、水族館だとか、あるいはまたショッピングモールだとか、いわゆるデートスポットがさまざまにうかんでは消えていったが、美優はそれらを美波に言うことはできなかった。それもやはり勇気がたりないためのことだったろう。
つぎのデートの約束もないまま、美優は車を出した。
首都圏の安アパートの二階に美優の部屋がある。築十年ほどのまだあたらしい建物で、部屋は一間の洋室である。かたづいてはいるが、こざっぱりとしすぎていて、恋人を招待したくなるような空間ではとてもなかった。ここから仕事にゆき、帰って来て眠るだけの空間である。それ以外の機能をもちあわせていない。
そとの天気にかかわりなく、部屋のなかは暗い。物はない。調度品はすこしばかりある。暖房もあれば、タンスもあり、テレビもテーブルも座椅子もある。台所には料理道具も揃っている。それでも、物はない、と断言できるのは、その物たちが呼吸をしていないからである。ただそこに置かれているだけだからである。
つねに颯爽として活力で溢れている美波に、この部屋の在り方はいかにも似つかわしくなく、そう思うと招く気がしない。
東京に出て来たばかりのころから住んでいる部屋であるが、べつだん愛着もなければ、心おちつくようなこともなかった。仕事から、あるいは美波と別れて帰って来ると、いつもやりきれないような孤独を感じた。アイドルになって多少は自分を変えられたと美優は思っていたが、こればかりは東京に来たばかりのときとなにも変わらなかった。ひとり暮らしであるが、孤独という同居人がいるような感じだった。おかしなことに美優はときどきその孤独と会話した。その癖はいまもある。
「こういうところから変えないといけないのかな……」
と、つぶやいて、美優は乱雑に上着を脱ぐと、あおむけにたおれた。
低く狭い天井である。美優はぼんやりとみつめた。溜息を吐けばたちまち自分の口にもどってくる。
――わたしはあの子を愛しているのか。
と問いかければ、美優には自信がない。
目をつむって、きょうのことを思いかえしてみた。海に連れてゆき、昼食をともにした、ごくみじかいデートのことを、美優は思い出す。そうして美優は、何度目かもわからない自己嫌悪に陥る。目をひらき、ひたいに手の甲をおしあてて嘆息した。その息はすぐ美優の鼻のてっぺんにおちた。
――どうしてこうなのか。
立場が逆であれば美優は自分の恋人にものたりなさを感じただろう。
これまでにつきあってきた男性は、みな美優に失望して去っていった。美波がそうならないとは言えない。
おそろしいことに美優は美波への執着をもたない。男たちにたいしてそうであったように、美波にたいしてもまた、自分のもとから去ってゆくならそれは仕方がない、となかば諦めている。すると、
――わたしは愛情が薄い。
と美優は考えざるをえない。
美波の清廉な目は、すでにそうした美優の薄情をみすかしているのではないか。そんな気がした。
翌朝、雨が降っていた。つめたい雨である。
――天気予報だと雨は午後からのはずなのに……。
寝床を出た美優は窓辺に寄った。
呼吸をすると窓が白む。
――寒い。
美優は身をふるわせた。
雨音がきこえる。
以前は雨の音をきくと心がおちつき、いやな気分もすべて洗い流されていったものだが、いまの美優にとって雨は陰鬱そのものだった。雨の音に同調することにうっとうしさをおぼえはじめたのである。
あれほど好きだった雨を嫌いになったことは、美優にすくなからず衝撃をあたえた。雨を嫌うようになったのは、美波とつきあいだしてからである。美波には曇天もなければ雨もない。晴天に吹く爽やかな風ばかりがあった。その風に寄り添う者として自分はふさわしいのか、はなはだ自信がない。
――どうしてわたしなのだろう。
美波が恋慕する理由が美優にはわからない。自分には魅力がない、と言いきってしまえば、アイドルとしてかたなしになるが、つきあう相手としては味気ない存在であるという自覚はもたざるをえない。美波は美優のなにに惹かれて、愛情をうちあけたのだろうか。むろん、直接きく勇気など美優にあるはずもない。
流されるままに美波とつきあいだした美優は、いまも流されつづけている。悪い流れはどこかで堰きとめなければならない。わかりきったことである。が、美優にはどうしてもできない。ひとづきあいのむずかしさ、というより、ひとを愛するむずかしさ、だろう。美優が痛感しているのはそれである。
雨はアパートを出るときも降っていた。美優は手袋をはめたが、ななめに降った雨が傘を持つ手を濡らした。コートにも雨がかかった。
――なにも流してくれない。
それがいま美優の耳にきこえてくる雨音だった。
駅まで徒歩でゆき、そこからは電車を乗り継いで事務所にむかう。駅を降りるとそこからまた歩く。ゆきさきが変わっただけで、この道中のルーチンはOL時代からつづいている。
ビル内に入ると、美優は傘をたたみ、コートを脱いで、脇にはさんだ。
ちいさな影がふたつ、ちかづいてきた。そのこどもたちは、
「みなみちゃん、おはよ――」
と言ったところで、ひとちがいだと気づいたらしく、「わっ、わっ」と、おどろいてのけぞると、つぎにはあわてて頭をさげて、
「ごめんなさい!」
と言い、走り去っていった。いいのよ、と言ういとまもなかった。
――莉嘉ちゃんとみりあちゃん、だったかな。
それにしても、いつまで経ってもこういうことが多い。
美優は自分の頬をたたいた。そんなに似ているのだろうか。あるいは顔ではなく髪型のせいか。前髪を指でいじる。それから首をひねる。
――わからない。
なぜだろう。似ていると言われることを頭から否定するつもりはないが、こう頻繁にまちがえられるほどのものでもないと思う。美波は美優よりも輪郭がしっかりとしていて、背もしゃんと伸びている。髪の色も美波はきれいな茶髪で、美優のそれはただれたように赤みがかっている。
ぼうっと立っていると、
「おはよう。レッスンおくれるわよ」
と肩をたたかれた。ゆっくりとふりかえると留美がいた。
「おはようございます……」
「どうしたの。いつもむだに気を張っているのに、ぼんやりして」
「ううんと」
美優はちょっと迷ったが、
「美波ちゃんとまちがえられたんです、また」
と言った。
留美はくすりと笑って、
「ふしぎね」
「ほんとうに」
つられて美優も笑った。
「いきましょう。いい歳のおとながトレーナーに叱られちゃつまらない」
「ええ」
ふたりは早足でロッカールームにむかった。
途中、
「きょう、夜、あいてる?」
と、きかれた。
「え、あ、はい」
「じゃ、ちょっとつきあって。瞳子さんも誘って、ひさしぶりに三人で飲みましょう」
「はい」
と、われながらおどろくほどすばやく、またどこかうかれたような声で言ったのは、やはり気心の知れた少数の友人としずかに飲む空間を、美優が好んだからにほかならないだろう。にぎやかなのは性にあわない美優である。
ロッカールームに入ると、ちょうど瞳子がいた。さきにあったことを話すと、瞳子もまた、
「それはふしぎね」
と言って笑った。
なんとなくだが、留美も瞳子も、そう言うわりにさほどふしぎがってはいないように美優には思われた。
瞳子は、
「美優さんときたら意外と体育会系だから、そのあたりが似ているのかもしれないわ」
と言って、また笑った。留美も笑っている。美優にはそれこそがふしぎだった。
「それって、見た目は関係ないですよね」
「そうね、関係ない」
「じゃあ、やっぱり髪型のせいかしら」
ジャージに着替えた美優は、そう言って、まとめあげた髪をさわった。
「なんなら、美波ちゃんとみまちがえるひとたちに、直接きいてみなさいな。どこが似ているのか。ひとりで考えても美優さんにはきっとわからないと思うから」
そう留美に言われたのが、すこし釈然としなかった。
「留美さんと瞳子さんは知っているんですか」
「さて、ね」
「さあ、どうでしょう」
美優の疑問はするりとかわされた。だから美優はまた首をひねらなかればならなかった。
美波はつねにはつらつとしている。そのところがまず美優とは全然ちがった。アイドルをつづけているうちに笑顔が増え、たのしいと思える時間も増えていったが、それでも自分の本性というものは依然暗いのだと美優は思っている。笑顔がつくれないときの陰気な表情を絶賛されたことさえある。が、美波は光に充ちている。
――似ても似つかない。
それなのに似ていると言われる。そのたびに、美優はなんとなく美波にもうしわけない気持ちになる。美波は美優よりもはるかに高潔な存在である。
「たれ目がちなところかしら。あと髪型も似た感じだし、ぱっと見のふんいきがそっくりなのよ、うしろからみるととくにね。ごめんなさいね」
昼食をとりに事務所ビルを出たとき、やはり背後から、
「あら、美波ちゃん、これからお昼?」
と声をかけてきた瑞樹にきいてみたところ、そのような回答があった。
留美と瞳子はいない。一緒であればまちがえられなかったろうか。目もとと髪型が似ているというのはなんとなくわかる。美波の面貌を特徴づけるものとしてたれた目があげられるが、その点では美優も負けていない。が、ふんいきはどうだろう。それこそがもっとも似ていないと美優は思うが、瑞樹はそっくりだと言う。
――この陰気な背中のどこが。
瑞樹が去ったあと、美優は体をよじって確認した。わからない、わからない、わからないことだらけだということが、とりあえずわかった。
夜になると雨はすっかりあがっていた。天気予報はまるであべこべだった。
飲み屋に入ると、美優はさっそく、瑞樹に言われたことを留美と瞳子に話した。
ふたりともくすくすと愉快そうに笑うだけだった。
「けっきょく似たもの同士なのよ。美優さんはどう思っているのか知らないけれど、そっくりよ、あなたたち」
と留美は言った。
美波と恋人関係にあることは、だれにも教えていない。仲のよい先輩と後輩という皮を被りつづけているつもりである。が、留美たちはすでにそのことに勘づいているだろう。
そのうえで、こんなことを言うのである。
からかわれたような気がして、美優はすこしむっとした。
――似たもの同士だなんて。
美優はゆるゆると首をふった。
ふつう、そうした表現は、性格や趣味、価値観などが共通しているときにつかわれるものである。見た目が似ているだけの自分たちにもちいられるようなものではない。
「似ていませんよ、どこも。そんなの、美波ちゃんに失礼です」
――わたしなんかと。ついそう思ってしまうのは、生来の自虐的な性格のせいだろうか。美優には自己肯定の気がとぼしい。アイドルとして紙面にデビューしてからそろそろ一年になるが、こういったうしろむきな性格はなかなか修正してもしきれないものがあった。
「でも、だめですよね、これじゃ……このままじゃ……」
グラスにじっと目をおとしながら、美優はぼそりとつぶやいた。だれにたいしてそうつぶやいたのか。留美か、瞳子か、自分か。
その後も、ふたりの関係にこれといった変化はない。しいてあげれば、LINEですますようなことでも、電話で話すようになった。夜になると五分かそこらのみじかい会話の時間をつくった。それは「おつかれさま」だとか「おやすみなさい」だとか、あるいはまた明日の予定だとか、そんなていどのことにすぎなかったが、とにかく声のやりとりをする、ということに、美優は意味を置いた。
仕事に勉強にと忙しいにちがいない美波の気をわずらわしているのではないか、とは思わないようにした。そうしたうしろむきな感覚のほうこそ、美波の気をわずらわすことになるだろう。
彼女の声をきくのはたのしかった。美優は、これは自分のためにもよいことだと思った。美波のほうでもこのわずかな会話の時間をたのしんでくれているとすれば、なおよい、とも思った。しかし、それについては、声をきいているだけでは、美優にはわからない。美波の声はいつも明るくたのしそうなのである。そうでないときがないので、美優には彼女の感情の起伏をうまくよみとれない。わかるのはせいぜいが、きょうはすこし疲れているかもしれない、ていどのことだ。
ひとの顔色ばかりみて生きてきた。声もひっしでききわけて、相手のきげんをうがかっていた。それでも美波についてはわからないことだらけだ。うれしい、たのしい、そういう顔をみせ、声をきかせてくれる、美波が用意してくれたものしか、美優にはひろいあげられない。
たとえば、美波がおちこんでいたり、怒ったりしたときに発せられるわずかな信号《シグナル》を、自分は気づけているのか。あるいはもっと、そうした感情をぶつけられるだけの信頼関係を構築できているのか。たぶん、それはまだ、できていない。
――変わろう。
OLを辞めてアイドルの道に踏み込んだとき、そう決意した。一年経って、どこまで変われたのか、自分ではわからない。しかし、変わろうと思った。美優はこんどは美波のためにもそうしようと思った。
なにかとあわただしい年末年始が過ぎ、仕事量もおちついてきた、一月も終わりのころになると、美優はひさしぶりで美波をデートに誘った。初冬の海辺散策以来、それと呼べるようなものはひとつもしてこなかった。せいぜいが事務所ビルのカフェで一緒にお茶をするていどだった。
車に乗ってどこかへ出かけるのは、ほんとうにひさしぶりのことになる。
まだ寒い。
車内が暖かくなるまですこし時間がかかった。
免許は短大の在学中に取った。いま乗っている軽自動車を買ったのは、社会人四年目のときである。あのころから美優はあがいていた。なにをしてもうまくいかない自分を変えようとしてひっしだった。あがき、くじけ、またあがく、そうしたことをくりかえした。ダメージジーンズやストールなど、かたちから入ってみたのもそれである。この車も抑圧された環境から脱したい気持ちで、安い中古車を買ったのだった。
そのときはとうてい役に立ったとは思えなかった、自分のために買ったものが恋人をたのしませる一助になっているのだとしたら、人生はどこでどうころぶかわからない。
会話はなかったが、美優の心はなんとはなしにはずんでいたし、窓の外に目をやっている美波も、なにやらたのしげに笑っている。運転をしている美優には美波ほど景色をたのしむ余裕はないが、美波がたのしんでくれているなら、ひとまずこれでよいと美優は思った。
車は海岸沿いの道を走ってゆく。交通量はさほど多くない。目的の水族館まで、まもなくである。
平日で、やはり客はそれほどいなかった。その多くない客のほとんどが親子連れだった。
ぶあついアクリルガラスのむこうにある青い世界には、無数の魚や海洋哺乳類が泳いでいる。
「海のなかにも酸素があるのよね」
美優はそんなことを口にした。
美波がふしぎそうにこちらをみているのがわかる。突然こんなことを言いだした恋人を、目をしばたかせながらみている。それがガラスに映っている。美優は彼女のほうをむかず、魚をただみつめながら、
「息苦しくないのかなって――それを知らなかったから、こどものころは魚はどうやって水のなかで生きているのか、ずっとふしぎだった」
幼いころ、美優は、水中に生きる生物はみな満足に呼吸ができずに苦しんでいるのだと思っていた。テレビでイルカやシャチのショーをみても、ジャンプした彼らは酸素を求めて飛んだのだと信じた。息苦しさから脱出しようとしたのだと。そうではないと知ったのは、何歳のころだったろうか。
美優は海を知らない。学校のプール授業も好きではなかった。水泳はいまもろくにできない。
それと比べて、美波は水泳が得意らしい。泳ぐのが好きだときいたことがある。夏にプールや海に連れていっても、美優はそれにつきあうことはできないだろう。気持ちよさげに泳いでいる美波をはなれたところからみているだけである。
――だめ。
美優は首をふった。
目をふせて苦しげにうめいたあと、顔をあげると、目の前をサメが泳いでいった。それを目で追う。
水槽のガラスが割れて、水がどっと溢れてきたらどうなるのだろう。ふと、そんなことを考えた。モンスターパニック映画のような光景を、美優は想像する。
美優はかばうようにして美波の肩を抱きよせた。ただの妄想だ。現実に水槽が割れることなど、まずない。だからサメは襲ってこない。それでも美優はそうせずにはおられなかった。
「美優さん」
どうしたんですか、と美波の唇がうごいた。
「水のなかは……」
美優は言った。
「苦しい?」
美優はじっと美波をみつめた。顔がちかい。暗い館内でも美波の目はらんらんとかがやいている。自分の目は、彼女からみて、どうなのだろう。
はい、とうなずくのがわかった。
「苦しいけど、ここちのいい苦しさです。ダンスレッスンやボイスレッスンとおなじですね」
と美波は答えて、ほのかに笑った。
「ああ」
美優もまた笑った。
「それならすこしわかるかも」
レッスンは苦しいが、たのしい。呼吸がみだれて、それをととのえる、そのときの心音が、美優は嫌いではない。むかしでは考えられなかったことだ。ちいさな運送会社のしがない会計事務員にすぎなかった、あのころにあった心臓の高鳴りは、恐れをともなった緊張である。失敗にたいする叱責を恐れる心である。
いま、ラジオやテレビに出たり、ステージで歌ったりするときに、ぴりぴりと走る緊張は、けっして恐いものではなかった。そこにはここちよい興奮があった。
小魚が群で泳いでいる。なんの魚かはわからない。サメが追いかけている。サメが群の最後尾をつついた瞬間、小魚たちはさっと散開し、またすぐに群を形成した。それがきれいだと美優は思った。
サメの標的になっていない魚たちは悠々と泳いでいる。
美優はもう息苦しさを感じなかった。
ひととおりみてまわってから、ふたりは水族館を出た。
なんとなくだが、美波はペンギンをみているときがいちばんたのしそうな表情をしているような気がした。ペンギンが好きなのだろうか。
――思いのほか、なにも知らない。
と美優は自分と美波のこれまでの関係をふりかえった。資格取得が趣味であることは知っている。事務所のホームページのプロフィールにそう書かれていた。が、どんな資格をもっていて、このさきどんな資格を取ろうとしているのかは知らない。大学ではラクロスサークルに参加している。これもホームページでみた情報だ。試合をみにいったことはない。お嬢様御用達の上品なスポーツだとかってに思っていたが、じっさいのところはアイスホッケーに似て当たりの強い種のものだと知った。それを教えてくれたのは瑞樹である。部活動でなく、あくまでサークルだから、そうはげしい練習や試合などはしていないだろうが、ふだんの穏和な美波からはちょっと想像のつかない過激なスポーツであるらしいことはわかった。
知っていることもあるが、それらは美波の口からきいたものではない。
――きっとむこうもおなじだ。
美優の趣味がアロマテラピーであることは、むろん美波も知っているだろう。しかしどんなアロマを好むのかまでは知らないにちがいない。かりに知っていたとしても、それは恋人同士の会話のなかで知ったのではなく、美優がラジオなどで話したことをきいたのだ。
美優は美波を自分の部屋にあげたことがないのだから、当然、美波は室内に置いてあるアロマの香りをかいだこともない。
「フローラルがね、好きなの」
エンジンをかけながら美優は言った。それから、
「アロマの香り。うちではフローラル系をよく焚いている」
とつけくわえた。
「まえにラジオでそう言っていたの、きいていました」
「はは、やっぱり」
美優はなかば呆れた。情報源はふたりの関係からかけはなれたところにある。お互いのことをさしむかいで知るのではなく、外部から情報を得ている。
車を発進させる。
「美波ちゃんは、たしか水泳が得意なのよね」
「得意というほどでは。でも、泳ぐのは好きです」
「クロール、それとも平泳ぎかな。もしかしてバタフライ、とか」
「だいたいはクロールですね」
「ラクロスのポジションって決まっているの?」
「アタックウィングです」
知らない単語が出てきた。アタックとついてるからにはアタッカーなのだろうが、美優のとぼしい知識と想像力では、美波の活躍を頭に描くことができない。
「どういう仕事?」
「アシストです。いわゆるミッドフィールダーですね」
いわゆると言われても美優にはミッドフィールダーがなんなのかもわからない。
「攻撃はしないの?」
「たまにします」
駐車場を出て、公道に入る。海岸沿いの道を車は走る。
「美波ちゃんってペンギンが好きなのかしら。あそこにいたときが、いちばんたのしそうな顔をしていたから、そうなのかなって」
「好きですよ。あっ、でも、いちばん好きなのはシャチです。小学生のころに家族でいった水族館にいたんですが、ショーでジャンプしたシャチがすごく大きくてかっこよくて、飛沫がとてもきれいでした」
「じゃあ、こんど、シャチをみにいきましょうか」
と美優があっさりと言ったせいなのか、美波はおどろいて、
「いいんですか?」
と、ききかえした。声がすこしうわずっているようだった。ちょっときいたことのない感じの声である。
めずらしく会話がはずんでいると美優は思った。相手の趣味やプライベートにかかわることをあれこれときくのは、以前にはなかったことだ。そこまで踏み込む勇気を美優がもたなかったということでもある。同時に、美波に踏み込ませる勇気もなかった。が、やってみれば、
――なんだ、こんなことか。
と思った。拍子抜けしたといってよい。二の足を踏みつづけていたのは、こんなていどのことだったのである。
「わたしもシャチをみてみたいから」
きょういった水族館にシャチはいなかった。どこの水族館でならシャチをみられるのか、調べておかなければならない。それはあとでやるとして、
「うちによっていかない?」
美優は、はじめて美波を家に誘った。
「おじゃまします……」
いつもはきはきとして活気のある美波が、なにやら恐縮したように肩をすくめながら玄関をあがるのが、美優にはなんだかおかしかった。それとはべつに、ほっとした。あの美波でも、恋人の部屋にあがるのはやはり緊張するものらしい。それを特別なものとして感じているから緊張するのである。
「せまくるしいところだけど、くつろいでいって」
美波をベッドよこに座らせると、美優はキッチンのほうへいった。
「コーヒーでいいかな。インスタントだけど」
「あ、はい、いえ、おかまいなく」
らしくもないことを言う美波である。まだすこし緊張しているらしい。美優は美波に背をむけてまた笑った。しかし、愉快なのはそこまでだった。
コーヒーの瓶を棚から出したところで、美優は愕然とした。自分が美波の味の好みについてまったく無知であることに気づいた。ミルクや砂糖を入れるのか、入れるとしてどれくらいの量なのか、まったく把握していない。
これまで喫茶店などでさんざんみてきたはずなのに、美優にはその姿を思い出すことができない。そもそも彼女は飲み物にはなにを注文していたのか。コーヒーか、紅茶か、あるいはメロンソーダか、ジンジャーエールか。おとな連中の飲み会にまきこまれたときには烏龍茶をよく飲んでいた。それはおぼえている。が、それだけだった。
ふたりきりのとき、喫茶店やレストランで食事をしていたとき、彼女はなにを飲んでいただろう。最初にはこばれてくるお冷や以外のなにを。
「全然、知らないんだ」
呆然としながらつぶやいた。
それから、美波にきこうかどうか迷った。二分か三分くらいのあいだ考えて、けっきょくコースターにコーヒーフレッシュとスティックシュガーを添えた。いらなければ入れないだろう。たりなくても、きっと美波は気をつかってなにも言わずに飲む。
――それでいいの?
自問はやまない。
はこんできたコーヒーカップをふたつ、卓の上に置く。
美波のまむかいに座って、ようすをうかがう。
「いい香りがしますね」
「スーパーの安売りのインスタントなのに」
「いえ、アロマの香りがです」
「ああ、そっち……。換気はしてるんだけど、やっぱり匂いはちょっとのこっちゃうみたい」
「そうですか……」
美波の声にはやわらかさがあった。緊張はもう解けているようだった。アロマの効果か。だとすれば自分の趣味も捨てたものではない。
美波はフレッシュも砂糖も入れず、そのままカップを口にはこんだ。
――そうだ、そういえばそうだった。
美波の味の好みを思い出したのではない。美波の飲み方をみて、見栄を張って自分もなにも入れないで飲んでいたことを思い出したのである。ひとりで飲むときは砂糖をたくさん入れる。
にがい、にがい、と頭のなかでくりかえしながら、美優はコーヒーを飲んだ。
「美優さん、あれ――」
と美波がテレビのよこに立ててある本を指さした。アロマ関係の本が並んでいる。そのなかには資格に関するものもあり、美波はとくにそれを指して、
「検定、受けるんですか」
「そう思って買ったんだけど」
と言いながら、美優は首筋を撫でた。あまり読んでいないし勉強らしいこともしていない。まめに掃除をしているので埃をかぶらずにすんでいるが、状況はそれと変わらない。
優位に立ちたかった。美波が美優に影響されてアロマテラピーに興味をもちはじめたことは知っていた。資格取得が趣味の彼女にしてみれば、いずれアロマ関係の検定を受けるだろうことも予感としてあった。そうなると自分の立つ瀬がなくなる、と美優は思った。アロマテラピーはたしかに美優の趣味だが、知識をためこむことで、美優の自信にもなった。得意分野くらいは美波をリードしたい。つまらない自尊心と言ってしまえばそれまでのことである。
さすがにそこまで美波には言えないが、
「美波ちゃんのね、まね、したくなって」
と美優は苦笑した。
「ほかの本はなんども読みかえしているんだけど、ああいう資格の本になると、なんだか途端にむずかしくて、あんまりおもしろくないなって思っちゃうと、もうだめね」
趣味のことで苦痛や退屈をおぼえたくはない。むかしは現実逃避の目的もあったからなおさらそうである。
「美波ちゃんはアロマの資格に興味があるの?」
「取ってみたいと思っています。美優さんも――」
「わたしは……」
言いかけて、答えのないことに気づいて、美優はまたひとくちコーヒーを飲んだ。やはりにがい。美波はよくもこんなにがいものを好んで飲めるものだ。そう思うと、なぜかむしょうにおかしくなって、美優はくつくつと笑った。
「にがい」
見栄を張りたいならひっしに勉強して資格を取ればよいのである。コーヒーを無糖で飲んでいるように、美波に先んじて資格を取って見栄を張ればよい。自分のほうが先輩なのだと、主導権を握ればよい。美優のやっていることは、なにかちぐはぐで中途半端だ。
「わたしね、にがいコーヒーってだめなの」
笑いながら言うと、美波は意外に打たれたように目と口をまんまるくひらいた。
「いつもはお砂糖をたくさん入れる。けど、美波ちゃんがブラックで飲むから、七つも年上のおとななのに甘いコーヒー飲んでいるなんてかっこわるいって思って、にがいコーヒーを飲んでいたの、ずっと」
言うだけ言ったら胸がすっきりした。
「かっこつけたかった」
だれのまえでかっこうをつけたかったのか、後輩なのか、恋人なのか、美優にもわからない。とにかく美波に憧れの目をむけらるような存在でありたかった。うわべだけでもそうなりたかった。
そして、たったいま、それをやめた。
「もうかっこつけないんですか?」
「うん」
スティックシュガーの封を切ってカップに入れた。それでもまだたりない。コーヒーはにがいままだ。美優は唇の端をあげた。笑ったのである。
テレビのほうをみれば真っ黒い画面にふたりが映っている。輪郭はぼやけて、目鼻のかたちもさだかではない。
「ねえ、美波ちゃん」
なにをみるでもなく、美優は電源の点けられないままのテレビに視線を固定しながら、
「似ていると思う?」
「顔、ですか?」
「ふんいきとか性格とか」
と言った。
「わかりません。でも、似ていると言われるのは、うれしいですね。美優さんみたいなすてきなおとなに、すこしはなれたかなって思えるから」
「ほんとうにすてきな女性なんて、事務所にたくさんいるのに」
こういう言い方をすると、美波はむきになって言いかえしてくる。楓とのやりとりをみていておぼえたことだ。
美波の人格にはまっすぐで強固な芯がある。その芯は正義と呼ばれるものである。彼女は彼女の信じるところの正義からはずれることをゆるさない。
案の定、美波は怒った。
それからずいぶんとながい時間、美優は美波に説教された。三船美優という人間がどれほど魅力的であるのかを、美優本人にわからせるために、美波はことばと情熱をそそぎこんだ。
そのことばも情熱も美優の胸にはあまり響かなかったが、怒って顔を真っ赤にしている美波をかわいいと思ったし、自分のために熱弁をふるい、肯定してくれることを、またうれしくも思った。だから美優は、反省するどころか、にこにこと笑ったし、それをみた美波はさらに怒った。
ずっと思っていた。
――どうしてわたしなんだろう。
美波が自分のなにに惹かれたのか、美優には全然わからなかった。いまこうやって美波からその容姿から人格までを褒めちぎられても、美優にはぴんと来ない。アイドルとしての美優が評価されるのはたいてい愁えをおびた陰翳の濃い表情だ。
陰気な自分が美優はいやでたまらなかった。美波のまえではそうではない自分でいようとして、できなかった。明るく笑えるのは、やはりアイドルとして仕事をしているときで、つくられた笑顔だった。
早苗や瑞樹のようにはどうしたってなれない。これをみとめるのはつらかった。美優はもともと諦めが悪い。諦念に沈もうとして沈みきれないものを生来もっている。陰気さも諦めの悪さも、こどものころからずっと変わらずに、美優のなかにある。
浮沈をくりかえした末に、美優はアイドルというきらびやかな舞台にあがった。そこに美波がいた。
美波の頬が赤らんでいる。目尻に涙がにじんでいる。
涙をぬぐってあげなければ、と思いながら、手はぴくりともうごかなかった。なにかためらいがあった。
「美波、ちゃん」
「どうして」
息をきらして美波が言う。しゃべりづめにしゃべったせいか声が嗄れている。冷えたコーヒーを飲みほして、美波は濡れた目でまっすぐに美優をみる。
――この目から逃げてはいけない。
美優は背筋を伸ばした。
「どうして、うけいれてくれたんですか。どうして、断わらなかったんですか。わたしの告白なんか。コーヒーだって、にがいのは飲めないのに、わたしにあわせて……、どうして……」
「そういう性分だから」
「それだけ――」
「むかしから、そう。流されて生きてきた。こうして、と言われたら、はい、って言うだけ」
自分がいまどんな顔をしているのか、美優にはわかっている。笑っているのだ。まなじりをさげて笑っている。口角をやんわりとあげて笑っている。美波の感情の高ぶりに比べて、美優のそれはおだやかである。
「あのね、美波ちゃん」
「なんですか」
美波はまだ怒っている。声にちょっと棘があった。
「好きよ」
と美優は言った。まっすぐな美波の目を、やはりまっすぐにみつめて、美優はそう言った。
「好き。恋かどうかは自信がないけれど、美波ちゃんのこと、好きだから」
「恋でないのなら、美優さんのそれは、なにになるんですか」
「わからない。でも恋する。いまからでも、美波ちゃんに恋する。美波ちゃんの気持ちのかたちを、わたしの気持ちにもつくる」
美波はうつむいた。うつむいて、しばらく黙りこんだ。卓に視線をおとしたまま、まばたきひとつせずにじっとしている。やがて盛大に息を吐いて、
「それでいいです」
と言った。
美優のことばは美波を失望させたろうか。深い溜息にこめられた意味とはなんであろうか。それはこれから美優がさがしてゆかなければならないことだろう。
美優は立って、美波のとなりに座り、体を寄せた。美波の体がかたむき、頭が肩にのった。
それからまた、しばらくのあいだふたりは無言になった。
チッチッと壁掛時計の音がする。
「美優さんみたいなおとなになりたかったんです」
美波がぽつりぽつりとつぶやいた。
「むかしから興味のあることにはなんでも手を出して、でも、こうなりたいっていうしっかりとしたものはなくて、自分がどうなりたいかもわからなかった。それをみつけたくていろんなことをやって、アイドルになったのもそのひとつでした」
美波はすこし身をよじった。肩にのせられている頭がうごいた。はねた髪が美優の鼻にかかってくすぐったかった。
「アイドルになって、美優さんと出会って、こうなりたいって、はっきりとしたかたちが、自分のなかにできたんです。わたしはどちらかというとさわがしいほうだから、美優さんみたいな、ものしずかな、おちつきが、とても魅力的だった」
「なにか話して、そのせいで相手のきげんを損ねるのが恐くて、おとなしくしていただけなの、わたしは。臆病者だから」
「でもわたしは、うらやましかった」
「となりの芝だった?」
「かもしれません」
美波は笑ったのかもしれない。すんと鼻を鳴らす音がきこえた。
「それに、美優さんって、水着とか、花魁とか、露出の多い衣装を着ていても下品な感じがなくて、いつも清潔だから、わたしには、それはできないことだから、いつかああいうふうになりたいって、どうすればなれるのか考えて、どうやっているのか知りたくて、ずっとみていました、美優さんのこと」
こんどは泣いているのだろうか。ぐずぐずと鼻を鳴らす音がする。
「ずっとみていました」
そうして抱いていた憧憬は、いつか恋になった。いつそうなったかも、なぜそうなったのかも、美波にはわからないという。
「似ているって言われるのは、ほんとうにうれしかったんです。美優さんにちかづけたと思った」
「わたしは言われるたびに、もうしわけない気持ちでいっぱいだった」
と美優が言うと、美波はくすくすと笑った。
つられて美優も笑った。
「全然、気があいませんね、わたしたち」
「うん」
似たもの同士、とはだれが言ったのだろう。
なにも似てやしないのである。
ただ、ちょっと、おなじような目鼻立ちと髪型と、あとは陽気や陰気の裏にかくされた、融通のきかない意固地な一面があるだけだ。頑なさのあるそれが、自己肯定か自己否定かのちがいでしかない。
いつか、と美優は思った。
体の片側に美波の温度を感じながら、美優は考える。
いつか、手をつないで歩こう。場所はまた海がいい。夏の海辺をふたりで歩く。手をつないで歩くのだ。
プールにもゆこう。そこで美波に、泳ぎ方を教えてもらう。泳げるようになったら美波と一緒に海で泳ぐ。それもやはり夏の海だ。
いつか、キスをしよう。この地味な部屋に招いて、お茶を飲みながら、たのしくおしゃべりをしたあと、体を寄せ合い、キスをする。
そして、いつか、告白しよう。愛していると彼女に言おう。そう、ぎゅっと抱きしめて、彼女の名を呼びながら、愛していると言うのだ。
いまはまだ、そのことばは口にできない。
だから、いつか、と美優は指を折って、その日が来るのを想像した。
いつか、この年下の恋人と、新田美波と恋をしよう。
溢れ迸るような、つよい情熱で抱きしめて、三船美優は恋をする。
了