日はすでに西にかたむいている。東の空遠くに移動した巻雲のあとには、遮るもののない光が、浅い角度から差し込んでいた。往来の人々はビル群から伸びる影を追うように早足に歩いているが、影を踏む足は灼けたように熱かった。風はそよりともない。
晩夏である。
――まだ、日が沈んでも、涼しくはならないだろうな。
美波は立ちどまって、ふっと熱のこもった息を吐いた。それからまた歩きだす。数メートルのさきには、もう彼女の所属する大手芸能事務所の巨大なビルがある。
事務所ビルの一階にある喫茶店に入ると、夏季休暇の課題とたたかう同僚の顔がちらほらとあった。店内の冷房はやや効きすぎなくらいで、彼女たちは薄手のパーカーやカーディガンを着ている。
美波はレジカウンターのそばに置かれているファッション雑誌を取って、奥のテーブル席に座った。ぱらぱらとめくり、表紙にちいさくその名をみつけた人物をさがす。それこそが美波の待ち合わせの相手であって、今日は雑誌のインタビューが一本入っているほかはなにもなく、ようするにふたりそろってほぼ閑な身であった。そういう日を選んだのである。
はこばれてきたアイスコーヒーを飲むと、急速に体温がさがってゆくようだった。
ミルクもシロップもいれずにアイスコーヒーを飲む彼女は、この年の七月、すなわち先月の二十七日に二十歳になったばかりの新成人であるが、その日のくるのを待ちかねていたように彼女にむらがり大小のぎらついた欲望でもって誘ってくる男性輩を、そのつど、
――こんどまた。
と鄭重に断わっているのは、事務所の先輩である瑞樹から言われた、――方便はなんでもいいからとにかく逃げなさい、という訓戒を忠実に守っていたと言えなくはないが、帰宅後ひとりで缶のカクテルをあけながら美波はべつなことを考えていた。
成人するまえから内輪の飲み会に参加することの多かった美波は、二十歳になったらいつかいっしょに飲みましょうと、おなじ事務所の先輩たちと約束してある。
最初は楓が言ってきたことだった。彼女が美波を初めて酒の出る夜の打ち上げに美波をひっぱりこんだ。そうしたことを何回かくりかえすなかで、あるとき楓はそう言ったのである。
――美波ちゃん、美波ちゃん、と酔っているような酔っていないような、まだ酒の知らない美波には判別できないくぐもった声で、楓はささやいた。
「美波ちゃんがおとなになったら、いつかいっしょに飲みましょうね」
そのことばに「はい」と、あっさりうなずいたのがはじまりだった。そこに瑞樹がわりこんできて、それからふたりは、美波ちゃんの誕生日が待ち遠しいと言ってしみじみ笑いあい、酒をあおいだ。そのあと目ざといほかの先輩たちがまたたくまに美波をかこって、つぎつぎに約束をとりつけていったのだが、ぞろぞろと集まってきた顔ぶれを律儀な美波はすべて手帳に書き留めた。
それが初夏のことだから、あれから三ヶ月経ったことになる。
美波は雑誌のなかばほどのページをひらいたまま、そこに映っている女性に視線をぬいつけた。
――美優さん。
手帳のリストにはない名である。しかしカレンダーの今日の日付には、美波の筆跡でしかと記されてある。
あの夜、美波を中心にしておこったにわかな喧騒からはなれた席で、美優は暗い表情でグラスをゆらしていた。
美優はこちらに無関心なのでなく、けむたげにするでもなく、ただ騒ぎにとまどいがちに座っていたのである。自分がここにいるのは場違いだとでも言いたげに、困り眉をつくって、視線を所在なくただよわせている。
美波にはまったく知らないひとだった。なにせ大きな事務所なので、同僚であっても面識のないひとは数いる。彼女もそのひとりなのだろう。
集まっていた酔っ払いたちが散らばってまた思い思いに飲みはじめると、美波は楓の袖を引き、
「あのひとは――」
と、たずねた。
「ああ、美優さんですね」
楓はあっさり言った。
耳になじまない名である。
「三船美優さんですよ。おはなしがあるのならお呼びしましょうか」
「いえ、いいです」
自分がいま話しかけてもあの困り眉をさらに困らせるだけだと思った。そういう経験がじっさいにいくつかある。相性の問題だ。
いつのまにか美優のとなりに瑞樹が腰をおろして、なにやら話しかけていた。美優はますますからだをしぼめる。
やっぱり、と美波は思った。美波や瑞樹のような活発な人間とはなかなか波長があわないのだろう。いごこちのわるそうにしているのは、にぎやかな空間が苦手だからと思われた。
さすがに瑞樹は年長者であって、しばらく経過をみていると、美優は瑞樹の人格に馴れたように、やわらいだ表情をみせた。
――みふね、みゆ、さん。
美波はそのふしぎなひびきをもつ名を心のなかで反芻した。
年齢は楓のひとつ上、学年はふたつ。事務所には昨年の暮れにスカウトされた。生まれは岩手で、実家では犬を飼っていた。犬種はゴールデンレトリバー。地元の大学を卒業後、首都圏にあるちいさな会社に事務員として入った。それから二人の男性と交際した。一人は父が亡くなったとかで家業を継ぐために突然帰郷し、それきり連絡が途絶えた。別れるための方便だったのかもしれない。もう一人は妻帯者であったが美優には知らないことだった。浮気がみつかって一月ほどで関係はおわった。それ以来なんとなく趣味のアロマテラピーをやめてしまったが、最近またやりはじめた。プロフィール欄をうめるのにつかってしまったので、もうしわけなくなったのである。
楓は妙に詳しかった。プロフィールに書くはずもないことやインタビューで答えるはずのないことまで知っている。
「お顔が好みだったものですから、くどきおとそうとしたんですよね」
そのときおうかがいしました、と楓は言った。
美波はぎょっとした。楓のほうにふりかえると、とらえどころのない笑みが口もとをそめている。
――本気かな。
美波には楓の真意をはかりかねた。いつもの戯言かもしれない。それならまじめにうけとめる必要はない。美波もいつものように笑ったり怒ったふりをすればよいのだ。
「ふられましたけど」
つけくわえられた一言はあきらかによけいだった。
どうして、あのとき約束をしたわけでもない美優に声をかけたのか、美波は自分でもよくわかっていない。じょうずなお酒の飲み方をおしえてあげますね、と笑いながら言ってくれたのは、楓であって美優ではないのである。
だが、美波はロッカールームでいれちがいに出てきた、自分と似たような青いジャージ姿の彼女の小走りに走り去る背に、自分でもちょっとおどろくほど大きな声で呼びとめた。
「あの、三船です。おはよう……」
と、ふりむいた美優が自己紹介したのは、たぶんだれかべつのひととまちがえられたと思ったのだろう。
「はい、新田です。おはようございます」
そのあいさつはさっきしたが、美優が言ったので美波もあらためてそう言った。それから、
「こんど、いっしょに飲みにいきませんか。ふたりで」
と、やはり自分でもおどろくくらい唐突に誘ってみたのだった。
ほとんど脊髄反射でうなずいた美優は、しかし、あきらかに困惑していた。それはそうだろう。ふたりの面識はほとんどない。おなじ仕事を担当したことのない職場の同僚で、知人のそのまた知人くらいのものでしかない。
「ふたりでって、え、――」
とまどう美優の目が、そういえばおなじ高さにあると、美波は意外に衝たれた。背丈がおなじなのだ。だから視線の高さもおなじなのであって、そのプロフィールはずいぶんまえから公開されているのに、美波には新事実のように感じられた。もっと小柄なひとだと思っていた。
「先月――というか、先週ですが、誕生日だったんです。二十歳になりました」
「あっ」
と美優はびくりと肩をふるわせ、ついでばつのわるそうな顔をした。
当日とその前後にいろいろなひとから祝いの言葉や物を贈られたが、美優からはなにもなかった。それもそのはずで、この間の都合三日ふたりは会っていなければ、携帯電話の番号もメールアドレスもLINEのアカウントもお互い知らないのである。
「あの、おめでとう」
「ありがとうございます」
「ごめんなさい、いま、なにもない……」
そう言うと、美優は青いジャージのそこらじゅうを両手でぱしぱしとたたいた。プレゼントをねだったつもりはないが、美優があまりにももうしわけなさそうな顔をするので、美波のほうこそもうしわけない気持ちになった。それを明るく笑って、
「当日はちょっとした誕生会をやってもらったんですが、時間的な都合でジュースだけ飲んですぐに帰っちゃったんです。だから、まだどなたとも飲んでいなくて。それで美優さんをみかけたものですから、どうかなと思って」
と美波は一気に言った。
美優は目をまんまるくしている。それでも多少混乱をおさめたようで、
「わたしはかまわないけど……」
と、快諾とは言いがたいが、ひとまず承諾してくれた。
「でも、ふたりというのは、ええと、ふたりっきりで」
「ふたりきりですよ」
「みず……川島さんや楓さんは、いいの、誘わなくて」
美優は当然の疑問を言った。その疑問は美波にもある。われながらおかしなことだ。
この事務所には酒好きが多いのだから、美優といっしょに飲みたいのであれば頻繁にひらかれている内輪の飲み会に同席させてもらばよい。それだけのことだ。が、美波はそうしなかった。
ほとんど突然、美優とさしむかいで飲みたくなった明確な理由を、美波はうまく説明できない。説明できないから、その説明できないものをおしつけられたかっこうの美優は、ついにいたたまれなくなって、数分まえまで美波が汗をとばしていたレッスンルームへ早足でいった。
いちどこちらにふりむいて、問うような目をむけたが、美波はそれに会釈して、ロッカールームに入る。汗はひいている。ジャージを脱ぎながら、今夜はビールをためしてみようかとぼんやり考えた。
なぜ彼女でなければならなかったのか。あえていうなら感覚に身をまかせた結果であって理屈のはなしではないと思う。自己分析すればそうなる。それでも理由が必要であれば「美人だから」と答えるしかないが、それが自分の本音だとしたらとんだ笑いばなしだろう。楓を笑えない。
その楓は美波の意中にあるものを知ると、
「あら、わたしはまたふられてしまいましたね」
と真顔で言った。口調に深刻さはなく、いたってかるい。楓ほど美波の成人する日をたのしみにしてくれたひとはいないわけで、あとまわしにしてしまったことへのもうしわけなさが美波にはあり、楓のかろやかな声はそれをいくらか払拭してくれた。
頃合の日をみつけて、その日にゆくことになった。折り重なっていた夏の大型イベントのあらかた終わったあとにぽっかりとあいた閑日だった。場所は美優が親しい友人とよく飲んでいるという事務所近くの小料理屋だったが、美波はその店を全然知らなかったし、自分の同僚であるはずの美優の友人のことも顔と名前をなんとなく知っているだけだった。
雑誌をひらいたまま、美波はソファに凭れた。天井をみあげる。にわかな無聊におそわれて、数分そうやってじっとしていた。さほど広くない店内に響く音や声がやけに遠くに聞こえる。
美波は姿勢をもどすと、腕時計をみた。約束の時間まで十五分ほどある。時計は今年の誕生日祝いに実家の両親が贈ってくれたもので、銀色の金属ベルトが真新しく光っている。
時計から目をはなして、顔をあげたとき、店のドアが開いた。
美優が入ってきた。美波が声をかけると、こちらをふりむいて、あっ、と唇をうごかしたあと、破顔した。
美波はそれに微笑をかえしてから、雑誌をとじて、ソファの上に置いた。
「美波ちゃん、おまたせ――」
ほそい声がそう言った。ほそいが、明るくてはきとした声である。目尻と眉尻がおだやかな笑みをたたえている。唇をかたくもちあげて不器用な愛想笑いをする癖も、ぼそぼそと床にむかって話す癖も、ちかごろはめっきりなくなったときいた。じっさいそのとおりだろう。
颯爽とした挙措は、三ヶ月まえの彼女と比べると別人のようである。
おかしなことに、美波は美優の身長が自分とおなじであることさえ最初気づかなかったのである。そのころの美優は、カメラのフォーカスを外れると、途端に美貌が目立たなくなるのだった。すらりとした手足もやわらかい頬も赤みのあるうつくしい髪も全然みえなくなった。たぶん、美優はわざとそれらを隠していたのではないか。美波の想像である。確証はない。が、容姿のよさが隠れなくなった理由はなんとなくわかる。
いま美波のまえにあらわれた美優の笑貌は活気に満ちていている。まとっているふんいきはつねに清らかでやさしい。それは彼女を構成する人格そのものだった。
ところが、雑誌の写真などでみられる美優は、どちらかというと妖しいのである。眉に落ちる陰翳に独特の艶があり、柔弱なものがなくなってちからづよい存在の輪郭線をえがいている。
――どっちだろう。
美波は、記憶にある艶やかな美優と、いま目のまえにいる美優とを、頭のなかで比べてみた。美優をスカウトしたひとはどちらをみたのだろう。寒空の下で折れたヒールをどうすることもできず、半泣きでうずくまっていたところに声をかけられた、と美優は言っていた。そこに艶やかさや清らかさがあるとは思われない。ただ不運にとりつかれた哀れな女性がからだを折り曲げていただけだろう。
ふと、美波は自分の所属するプロジェクトのプロデューサーのいかつい風貌を思いだした。渋谷凛の笑顔が出色だと言ってスカウトした、そのときかれは凛の笑顔をまだみたことがなかった。美優もそれかもしれない。
かれらには、ふつうのひとにはみえないものが、どうやらはっきりみえるらしいのである。
美優は席につくと、メニューをみないでカフェオレを注文した。それでたったいま思いだしたように、美波は手もとのカップをもちあげて飲んだ。
それから手帳をひらき、十六時の開店の美優のいきつけの小料理屋にゆくための最終的な段取りを確認をする。
奥の座敷席を注文してある。そこからみて化粧室がどこにあるのか、最寄駅はどこで、タクシー会社の電話番号は何番か。あるいはまた、ごはん小が中くらいのボリュームなので注文するときはごはん小の少なめと言うとよいとか、ただそれより茶漬けが食べやすくておいしいだとか、ごはんに比しておかずは小ぶりで少なめなだとか、そのなかでからあげチリソースがけが絶品だとか、八月いっぱいまで夏季限定マンゴームースがあるのだとか、そんなことを美優はおしえてくれた。
美優がさっぱり酒についてふれないので美波はおかしみを感じた。ふきだしそうになるのを空咳でごまかすと、美優が心配そうにのぞきこんでくる。だいじょうぶです、と言おうとしてやめ、喉が乾燥してしまったみたいで、と言ってから、コーヒーをひとくち飲む。美波のカップはそれを最後にからになった。
美優に他意はない。もったいぶっているのでなければ、ましてや美波をからかっているのでもない。アルコールを抜きにしてもたのしめるようにと美波を気づかってくれているのだ。酒が舌にのらないようであれば、ただおいしいごはんを食べて、お茶などを飲んで、食後のデザートも食べて、家に帰ればよい。そう思う美波の胸の深いところに、美優の人格が染みてきた。
ふたりは喫茶店を出た。熱をはらんだ風が冷えきった肌をなでた。
美優がうんざりした表情で大息する。おなじ息を美波も吐いた。その息にはまだいくぶん冷たさがある。
美波は腕時計を確認した。十六時半をすこしすぎている。店はもう開いているが、これから飲み会にゆくのだと考えると、時間としては早いほうだろう。
ふたりは広い敷地を出ると、ここから徒歩二十分とかからない場所にたっぷり三十分以上かけてむかった。
――これでいい。
と美波は思った。どうやらこれくらいが美優にはいちばんリラックスできるらしいのである。瑞樹がおしえてくれた。それを美波にあてはめるとだいたい六分のちから加減になる。ふだんの美波は小刻みに素早く時間を消費する。が、それだと美優がついてゆけなくなるので、瑞樹はそう言ったのだろう。なんとなく美波の腑に落ちるものがあって、朝から意識していた。
ただし、この活動の呼吸は美波にとってまったく未知のものではなく、美波のユニットのパートナーであるアナスタシアとほぼ等しく、なじみがあった。それを思いだしながら、体格のかわらない美優の美波よりいくらかちいさな歩幅にあわせて、美波はいつもよりゆったりとした動作で歩いた。
「美波ちゃんは――」
美優がくちをひらいた。
「はい」
「味の好みとか、これはだめっていうのは、ありますか」
――いま、それを訊くんだ。
美波は内心また微笑した。
「缶のカクテルとビールくらいしかまだ試したことがないので、なんとも……。とりあえず下戸ではないと思うんですが」
つい試すという言い方をしたが、美波はじっさいそんな感覚であった。飲みたくなって飲むというより必要なときに備える気持ちで飲んでいた。
「ああ……」
美優は納得したように笑った。
「わたしは、あまりつよいのはだめで」
と言われても、美波にはさして意外ではなかった。水のように酒をあおる美優のすがたを美波はまったく想像できない。ついでに自分のそうしたすがたもおなじく想像できなかった。
「飲めるものがそう多くないし、飲み慣れないものはほんとに飲まないし、そういうのって程度がわからないから、すすめられないし、だから、その、ごめんなさい。たぶん、たいして役には立てないと思う」
心底もうしわけなさそうに美優は言った。
「いえ、ありがとうございます」
美波はゆるゆると首をふった。こういうときにことばを尽くすと、かえって相手は頑なになるということを知っている美波は、ここではみじかくことばを切った。
首をうごかさずに横目で美優をみる。眉のあたりに微妙な翳が差し、唇の端がほのかに笑っている。半分、美波のことばを信じたというのが、その唇のかたちであった。
――いいひとだな。
と美波は思った。親交のない年下の同僚の誘いを無下にせず、ことにあたっては篤実に応えようとしてくれる。
あやまらなければならないのは自分のほうだろう。もとよりなにかの役に立ってほしくて美優を誘ったのではない。品のない言い方をすれば、美女を傍らにおいて一杯ひっかけたかっただけである。ろくな動機ではなかった。そうとわかりながら美波は謝罪も弁明もしなかった。
「でも、あそこのからあげは、ほんとうにおいしいから」
「たのしみです。マンゴームースも」
そう言ってみると、美波はじっさいそれらがたのしみになってきて、お酒のことは頭から消えかけた。
その店には、テーブル席がなく、カウンター席と座敷席だけで構成されていた。美優は店のいちばん奥にある簡単な衝立で仕切られた二つの座敷席のうち入口からみて右側の席を予約してあった。
こざっぱりとした感じの内装である。床や卓もきれいなもので、まだオープンして数年ほどの店のように思われた。清潔感をたもっているのが美波には好印象だった。
席につくと若い男性店員がお冷やとおしぼりをはこんできた。――ご注文がお決まりでしたらそちらの呼び出しボタンを押してください、と言い慣れたことばを言って、店員がさがっていった。さして席数の多くないちいさな店にこういうものが取り付けられてあるのが、よけいに新しい店のように思わせた。店舗そのものは狭く小さいが、個人経営という感じはしない。
呼び出しボタンのすぐ横に電気ポットと湯呑茶碗が置かれている。ポットのなかには煎茶が入っているのだと美優が言った。
メニューをひらくと、かなり目立つ位置にからあげチリソースがけの写真が載せられてあった。なるほど定番というか人気メニューであるらしいと美波にもわかった。
美優は美波の視線がそこに落ちたことに気づいたのか、
「ためしてみますか」
と訊いた。
「そうですね、食べてみたいです」
「じゃ、それで」
「ほかは――」
「いつもはチリソースのときは大根のサラダも頼んでいるけど、サラダは量が多いし、どっちも一人前でいい」
美波はうなずいた。美優はほかにも赤だしや高菜茶漬けをよく頼むらしいが、それはおいおいとして、ひとまず店員を呼んで注文した。
待っているあいだに美波はポットのお茶を湯呑に注いだ。
ふと美波は、
「おとおしがないんですね」
と言った。初めにお冷やとおしぼりを持って来たきりなのである。
「うん、へんなローカルルールもないし、気がらくで」
「とりあえずビール、とか」
「ない――」
みじかく言って、
「ふふ」
美優は笑った。注がれたばかりで湯気をたてる湯呑を、温度をたしかめるようにちょいちょいと指でさわりながら、美優はしずかに笑い、
「ビールも日本酒もカクテルもジュースも、グラスでくるし、グラスでしかこない」
と、しみじみ言った。
そういえば前職が会社員であることを美波はこのとき思いだした。耐えつづけて堪りかねていたものが彼女のなかにはあったのかもしれない。美波がひごろ酒につきあわされているような、とびきり顔と声と性格のよい先輩が、一般企業にごろごろと転がっているわけがないのである。それを考えると自分はだいぶ幸運だと美波は思った。
注文していた料理がはこばれてきた。店員は皿を並べると、伝票を卓に置き、その上にちいさな三毛猫の焼き物を乗せた。店員がさがったあと、美波は手に取ってしばらくためつすがめつしたあと、伝票の上にもどした。よく見ると壁には猫の絵が飾られてあるし窓の木枠にも猫の焼き物が置かれてあるのである。
はこばれてきた料理をさっそくひとくち食べると、辛い料理を食べたときに当然あるべき刺激が口のなかいっぱいにひろがった。その刺激は強烈であるはずなのに、ふしぎに美波はこれも辛い料理につきものの痛みをさほど感じなかった。が、それはそれとして、やはり辛い。美波は嚥下すると、
「チリソースって、こんなに辛いんですね」
と言った。言ってから、それが当然であることに気づいて、美波は思わず笑ってしまった。
「日本のレストランだと甘いチリソースも多いものね」
「そうですね……」
べつに美波は甘いチリソースしか知らなかったわけではないが、それにしてもこの店のものはしっかり辛かった。が、辛すぎて味がわからなくなるようなことはない。美波は料理番組のレポートにはとうていつかえない極めて平凡な感想ではあるが、
「おいしいです、とても」
と正直に言った。
「よかった」
美優はほっと息を吐いた。
「でも、食べたあとに言うことじゃないですけど、さきに食べちゃってよかったんでしょうか。もう食べちゃいましたけど」
しょっぱなで食べるにはちょっと辛すぎるように思われたのである。食べたあとに思いあたったところでもう意味はないのだが、いちおう美波はそう言った。
「うん。思っているほど辛さは残らないから」
「あ、そうなんですか。そういえばすごく辛いのに、なんだか食べやすい気がします」
そう言いつつ美波は湯呑のお茶を飲んだ。
一人前のからあげと大根のサラダを、分け合って食べおわるころに、高菜茶漬けがこれは二人前はこばれてきた。きゅうりとなすの浅漬けとうめぼしが薬味としてついている。メニューにはお茶漬けと書いてあったが正確には湯漬けだろう。ただし、かすかに抹茶の香りがする。
それを食べると美波はなんとなくさっぱりとした気分になった。口のなかにはもうチリソースのひりひりとした感覚はない。
「このうめぼし、あまり酸っぱくありませんね」
美波はなにげなく言った。小粒のうめぼしはさほど酸っぱくなく、美波にしてみると食べやすかった。
「そうかな」
美優はまだ残っている自分のうめぼしを口にいれ、咀嚼した。呑み込んでから小声でうーんとうなった。はちみつ漬けのような甘いものではない。ちゃんと酸っぱいのである。
「ふつうだと思うけれど……」
言ってから思い当たるところがあったのか、ややあって、
「ああ、楓さんの――。あれとくらべてしまったら、なんだって酸っぱくないでしょう」
「たしかに」
脳がその味を思いだしてしまったのか、ふたりして口をすぼめ、それからふっと笑いをふきだした。
美優はときどき小首をかたむけながら、ぼんやりと、目線を(おそらくは)美波の首か胸もとあたりにただよわせている。
――いまにも眠ってしまいそうな……。
そんなはずはないのに、美波にはそれが、酔っているようにも、眠っているようにも思われた。むろん美優は起きているしアルコールは一滴も入れていない。美波の首や胸もとをみていたわけでもないだろう。
美波からはなしかけないかぎり、美優はほとんどしゃべらなかった。はなしかけたところで、かえってくることばは、そう多くない。座敷席の狭い静かな空間は美波にとってたいくつではなかった。美優の発する声はやわらかくあたたかい響きでもって美波の鼓膜を叩く。それはちょうどアナスタシアが夜の空のまたたく星ゆびさして、その星や星座に付随する伝承をはなすときの声に、よく似ている。ここちよいのである。なんともいえない幸福感がある。
衝立のむこうにあるはずの喧騒は、もはやきこえてこない。
美優が積極的にはなすことといったら、なにがおいしくて、どれがおすすめかということで、美波は美優のすすめられるがままに、夏野菜の天ぷらだの揚げ出し豆腐だの鮭の南蛮漬けだのを食べいった。それからあさりの赤だしを飲んだ。さいごにマンゴームースを食べることになって、ようやく美優は、
「なにか、飲む」
と訊いてきた。飲み物というとポットの煎茶ばかりを飲んでいたのである。いまも美優はふたつの湯呑茶碗にお茶を注ぎながらそれを言った。ここで言うなにかとはアルコール以外にはありえない。
しかし、美波はもう全然そんな気分ではなかった。いま美優が淹れてくれた煎茶を飲んで一息つくとそれで満足であった。これにまさるものがいまさらあるとは思われなかった。しいていえば、柑橘系のなにかさっぱりとしたものが飲みたいかもしれない。
美波は卓の隅に立ててあるドリンクメニューを取り上げると、
「美優さんはなにか飲まれますか」
「わたしは――」
美優はおもむろに手を伸ばし、人さし指と中指を揃えて、撫でるように、メニューの文字にふれた。
けっきょく酒を注文したのはこのときだけで、美波は美優とおなじものを頼んだのだから、伝票には二杯のグレープフルーツサワーが追加されることになった。なめらかな舌ざわりのマンゴームースを食べ、苦味と酸味のあるサワーを飲んで、店を出た。
帰りはタクシーを使って帰った。
翌日、美波はまた事務所の喫茶店にいた。
同席しているのは美優ではない。奏であり、昼食時に美波を誘ったのも彼女で、エレベーターでたまたま一緒になったところを、美波に声をかけてきた。たまたま、というのは美波がそう感じたことであって、奏のほうは最初からそのつもりだったのかもしれない。
べつにかくしていたわけではないが、奏はどこからか美波が美優と飲む約束をとりつけていたことを知っていたらしい。
美波は奏にうながされるままに昨日のことをすべてはなした。
この年下の友人が肩をふるわせて笑いを堪える場面など、なかなかみられるものではないだろう。美波は貴重な体験をしているわけである。ただし、諧謔を好む奏は、笑いをおさめたあとに美波をからかうことを忘れなかった。
「失敗せずにすんでよかったわね」
酒の席はそういうはなしに事欠かない。とにかく思わぬ醜態をさらしがちである。
「サワー一杯じゃ、失敗のしようがないよ」
「飲んだにはちがいないんでしょう。なら、いいじゃない、自信つけたら」
「そんな、自信なんて――」
美波は口をつぐんだ。口のなかに苦いものがひろがったのは、飲んでいたコーヒーのせいだけではあるまい。
グラス一杯分でも飲酒は飲酒なのであって、美波にとって酒は昨夜が初めてではなかったが、だれかと飲んだことはこれまでになく、その最初の席で、いままでさんざん見聞きしてきた失敗談をなぞらずにすんだわけだから、ここはその事実だけうけとっておけばよい。奏の言っているのはそういうことである。
料理はたしかにおいしかった。あの小料理屋のふんいきはよかった。お酒はまあ一杯しか飲んでいないが、それもおいしかった。おせじにも会話がはずんだとは言えないが、美優の声を聴くのはここちよかった。
失敗はしなかったかもしれない。が、成功ともいいがたい。
どちらかというと気の弱そうな美優を、美波はかなり強引に誘った。美優の気の弱さというかひとのよさにつけ込んだようなものである。それが心の疵になって美波を明るい感情で染め抜かない。
あの時間をたのしんだのが美波だけであるとしたら、美優の厚意にすがるだけすがって自分は美優になにも与えなかったことになる。
美波は黙り込んだ。
奏は美波の沈黙をどううけとったのか、すこし考えてから、
「あのひと、あれでかなり我が強いから、あなたに悪意があったら、もっと露骨な態度になるわよ」
「そこまで言ってない」
美波はあわてて否定した。
ただ、我が強い、というのは、なるほどそうかもしれないと思った。そういう部分が美優にはあるかもしれない。
美波も自我の強い人間である。ふだんの美波はその激烈な自我を理知でくるんでいるので、おもてに出ることはないが、たまにそれが出てくることがある。美波はおのれの潔癖もその潔癖で御しきれない感情の暴走も自覚している。
めったにないそれに美優を巻き込んでしまったというのが、昨夜ではなかったか。ふりかえって美波はそんなふうに思った。
それにしても奏は言い切ったものである。悪意があると態度が露骨になる、とは、ずいぶんな言い草である。
「仕事でいっしょだったことがあるのよ。それですこし、はなすようになったの」
「ああ、そうだったんだ……」
その仕事というのを、じつは美波も知っている。事務所発行の会誌の短期のグラビア連載で、週ごとにちがうアイドルが二人、ことなるモチーフの衣装を着るというもので、美波も参加したことがあった。六月の第三週が奏と美優だったのである。
それがあまりにもあざやかであったから、美波はよく憶えている。
一言であらわせば気品がある。艶やかであっても卑しくない。品位を貶めずに艶美を押し出してゆくことのむずかしさを美波は痛感しており、美優がそれを現出させたことにおどろき、感動した。
――あの、おどおどしたひとが、こうなる。
奇術をみたような思いである。感動が極まると興味に変わった。
「謝るついでに飲みなおしたらどう。気になるんでしょ」
「美優さんがなんて思うか」
「人数増やせばいいじゃない」
「それだといつもどおりになっちゃう」
「なにがだめなの」
「瑞樹さんのようにはいかないから」
そう言った美波は、急に落莫としたものを胸に感じた。
つまり自分はふられたのだ。それがわかったのである。楓はふられたが、自分もふられた。それがいまわかった。
三船美優という女性にとって、自己をさらすことは、相手に心をゆるしたあかしでもなんでもない。問われたことに答え、望まれたものを形成しているにすぎない。やわらかく笑うのは、美波がいれば美波のためで、楓がいれば楓のためである。それは美優の誠実の表現であって、じっさい美波は満足を得た。
美優がまったく美優自身のために笑った表情を、美波はかつてみたことがある。初めて美優の存在を認識した夜、瑞樹にはなしかけられたときに、ふいにこぼれおちた、あの一回きりである。
――だから瑞樹さんのようにはいかない。
そうだ。まったくそうにちがいない。
美波は自嘲した。それから嘆息した。ふと天井を仰ぐと、
「ひとって、むずかしい……」
と、うわごとのように言った。
奏はもう笑わなかった。
了