夢をみるとき、千夜の場合、それはかならず悪夢とよばれるものである。それも火にかかわる夢ばかりを、千夜は眠るたびにみている。
千夜が最初にこの悪夢をみたのは十二歳のときである。
――火の夢をみたのなら、じきによいことがあるよ。
と言って、怯える千夜をなぐさめてくれたひとは、現実その炎にまかれて死んだ。よいことなどひとつもなかったし、かわりにとびきりわるいことがおこった。――だから夢占いなどまやかしである、とまでは思わないが、千夜はその手の話をあまり信じなくなった。
むかしは信じていたのである。占い好きのちとせの影響もあって、おそらくひとなみ以上に信じていただろう。魔女の手ほどきをうけたというちとせの占いは、じっさいよく当たった。小事も大事も、ちとせはなんでも得意にしていた。
最初の火の夢のことをちとせにもはなしていたら、全然ちがうことを言われたかもしれない。が、千夜はちとせの口からわるいきざしというものを聞いたことがない。不吉なことを言うちとせの姿も、なにか想像がつかない。それを口にさせることのほうがずっと不吉であるような気さえした。
いまとなってみれば、言わなくてよかったと思う。火の夢は火に襲われる前兆だと教えられたところで、たいしてなにもかわらなかっただろう。少々こころがまえをしたところで、とうていくつがえせるようなものではなかった。
はじめて火の夢をみてからほどなくして、これまで自分の信じてきたあらゆる価値観というものをねこそぎひっくりかえす大事件がおこったあと、千夜は黒埼家にひきとられた。それから二年が経った。千夜は十四歳になった。
もうずっと千夜はおなじような夢をみている。火の夢をみる。すべてが焼かれて燃え尽きる夢をみるのである。
この日も、千夜は火に襲われる夢をみて、深夜に目を覚ましたのだった。起きて自分が泣いていたことに気づく。それからどうして泣いているのかを思い出して、まとまらない思考をしはじめる。
こういうとき、ベッドでそのまま横になっていても眠りつけない。千夜はすぐにベッドから降りた。春先の夜はまだすこし冷える。ちょっと考えて、けっきょく上になにも羽織らずに部屋を出た。
邸内にはまだ灯が点いている。こどもの千夜にはぐっすり眠っているはずの時間でも、おとなはまだまだ起きているものが多い。かれらは住み込みの家事使用人であり、千夜の姿をみとめると心配して声をかけてきた。
千夜自身は夢のことをだれかに話したことはない。それでも夜中にうなされていることは邸のみんなに知られていた。千夜が黒埼家にひきとられて、ちとせに仕えるように経緯もおおよそ把握していたのである。
この邸には大勢のひとが雇われているが千夜をふくめ全員が日本人で、現地の人間はひとりもいない。当然、千夜を気遣うことばはすべて日本語である。千夜が家族といっしょに移り住んで来たころに勉強したルーマニア語は、この二年のうちでつかう機会はほとんどなかった。ちとせが邸にこもりがちな以上はそのちとせに付いている千夜もめったに外を出歩くことはなく、大邸宅に形成されるちいさな日本に暮らしているようなものだった。
その広大な邸のなかを、千夜はむかしとはちがう立場で歩いている。
四十がらみの女使用人が厨房から半身を出して手招きしている。さそわれてゆくと彼女はカモミールティーを淹れてくれた。それから「ちとせさんなら、まだ起きておいでよ」と言って、自分の身に着けていたカーディガンを千夜に着せてくれた。
千夜はそこへむかった。途中こんどは老齢の男の使用人によびとめられた。どこへゆくのかきかれたので「お嬢さまのところです」とこたえた。するとすこし待っているように言われ、そのとおりにしていると、かれは厚手のショールを二枚持たせてくれた。千夜はそれを両手で抱え込んだ。
「一枚はちとせさんのだが、もう一枚は千夜さんのだよ」
「はい、ありがとうございます」
千夜は頭をさげて老人のもとを離れた。
徐々に照明の数は減って、かわりに採光窓の数が増え、それも途切れると、渡り廊下に出た。その奥に薔薇園がある。
少なくない数の庭園灯がほの明るく灯っている。
はたしてちとせはいた。
雪遊びをしにゆくこどもみたいに着ぶくれした格好の、それは、夜の薔薇園にもちとせ自身にも、はなはだ不釣り合いなものように千夜には思われた。
千夜は小走りに走り寄っていった。
「お嬢さま――」
この声にちとせがふりかえった。
はじめ千夜をみて微笑んだちとせは、手元にあるものに気づいてかすかに苦笑をにじませた。が、さっと消して、
「わたしは、いいよ。千夜ちゃんがつかって」
「ふたり分いただきました。わたしは二枚もつかいません」
と言って千夜は、一枚をたばさみ、もう一枚をちとせの肩にかけた。ちとせの首はすでにすっかりうもれてしまっていたので、それはほんとうにちょっと肩にひっかけるといったようなかたちにしかならなかった。
持っていたほうはちとせにとりあげられた。とりかえそうして伸ばした手は、ちとせの腕と交差し、やがて空気を掴んでおちた。ショールはちとせの手ずから千夜の体にまかれていった。
ちとせはにこにこと笑っている。
――こういうひとだ。
わかりきっていたことである。千夜はちいさく息を吐いた。
ちとせは満足げに目をほそめたが、その視線をまたすぐに千夜から薔薇園の薔薇たちにうつした。そうしていたのはほんの数十秒くらいだったろう。一分もなかったはずである。
「寒いね、もどろうか」
と、ちとせは言った。
さっき身につけたばかりの防寒具はすぐに意味をなくした。
ふたりでちとせの部屋にもどると脱ぐものを脱いでもとの寝巻姿になった。
ちとせはベッドに腰をおろしながら、
「暑いね」
と、さっきとは逆なことを言った。重ね着しすぎたせいか、すこし汗ばんでいる。そのショールも、マフラーも、コートも、カーディガンも、プルオーバーも、巻きスカートも、ちとせが自分で着たのではないし、ちとせの持ち物でさえなかった。千夜とおなじように邸のものたちに着せられたのだった。千夜はそれらをいったんクロゼットのなかにしまった。朝になったら返しにいかなければならない。
千夜はかすかな緊張感をもってクロゼットをとじた。なにも防寒具を返すことに緊張しているのではなかった。千夜はまもなく背中にかけられるちとせのことばを予感して緊張しているのだった。
「おいで」
そう言われても千夜は断れない。相手が主人だからではない。このことばに強制力はない。もとより、ちとせはなにかを強要する性格ではなく、千夜は不承不承でちとせに従ったことはない。従いかねるときは、はばからずその意思を実行してきた。
それなのに、このことばだけはどうしてもしりぞけられなかった。従いかねるのに従った。断りたいのに断れなかった。千夜の意思はこのときばかりはあわれなくらい萎んでいった。
これは感傷なのである。二年まえからつづく感傷を、なぐさめてくれる手が、目のまえにある。その手を拒みたくない思いがいつも勝った。今夜もそうで、だから千夜はふりかえってベッドへちかづいていった。
まだ二年か、もう二年か。千夜にはわからない。この場合は、――もう二年も経っているのに、と千夜は自分をなさけなく思った。が、そう思ったところで足はとまらなかった。
とにかくこれで、このままベッドにもぐりこんで、ちとせに抱かれて眠ってしまえば、もう朝まで夢に苦しむことはない。火に襲われることもなければ、それに怯えて泣くこともないし、うなされて、自分の悲鳴で目を覚ますこともない。そうなれば、周りに心配をかけるようなことはなにもなくなる。自分のためにやさしいひとたちをわずらわせずにすむ。だからこれでいいはずだと、千夜は心のなかで自分自身にたいしてそう言い訳した。
そろそろとベッドにすべりこんでちとせに腕のなかにおさまった。
部屋の灯が消えた。
目をつむるとすぐに歌がきこえてきた。ちとせが歌っている。これは子守唄だ。おなじメロディに毎回ちがうデタラメでみょうちきりんな歌詞がのっている。もしかしたら自作かもしれない。千夜はこの子守唄をちとせ以外からきいたことがなかった。
感傷はずっと夢にこびりついている。じっさい日中のなにもないときにむかしを思い出すことは稀なのである。過去にひきずられるのは夢のせいだと言えるだろう。
それなら夢をみなければよい。寝ても覚めても夢などみなくなったら、過去の感傷をふりはらって、いつかすっかり忘れてしまうだろう。千夜とちとせのあいだにいまも横たわる旧い関係の残骸は消えてなくなるだろう。そしていまはまだ名ばかりの新しい関係が、そのときこそほんとうになる。
――はやくそうなるといい。
千夜はその日が来るのを待っている。
このとき、千夜はちとせの腕からのがれるように身じろぎをした。が、じっさいには千夜はちとせから離れるどころか、むしろぴったりと体をくっつけた。
歌はまだつづいている。
髪をなでられる感触がかすかにあった。
ちとせの、あたたかい体温だとか、やさしい手つきだとか、やわらかな歌だとか、ふしぎにあまい匂いだとか、そういったちとせを構成するあらゆるものにつつまれるのを感じながら、千夜はふたたび深い睡眠にはいった。
いうまでもなく千夜はもう火の夢をみなかった。
了