だいたいからして、がらではないのだ。
自分ではそう思っているのに、周りはそうは思わないらしい。
気がつけば集団のまとめ役にされてしまうし、新しく入ってくる後輩の世話係をやらされてしまう。周囲は杏をそういう人間とみなしているし、期待して、頼ってくる。
きらりのほうが向いているじゃないか、何度もそう言った。それで改善されたことはほとんどないし、されても長続きしない。
――そうだ、こういうのはきらりのやることなんだ。
ハンカチで顔をおおい、さめざめと泣くきらりのありさまに、杏は思った。
きらりは、いまや大きな体をめいっぱい折り曲げ、杏よりずっとちいさくなっている。たぶん杏がはじめてみるきらりだ。お互い成人したが杏の身長は全然伸びなかったしきらりは高校卒業のころには一九〇を超えていた。その大きな体がおそろしいほど小さい。
焼香をあげるまではここまでではなかった。杏とそうかわらなかったようにみえた。きらりは生前のちとせと特別親しくしていたわけではないし、それはどちらかというと杏のほうだった。それでもきらりは杏よりずっとちとせの死を悲しんだ、きらりらしいといえばらしいが、しかし杏はちとせの例のひとをくったみたいな微笑を脳裏にうかべながら、――やってくれたなあと思った。やってくれたな、まったくそうとしか言いようがない。
焼香をあげて、席にもどってしばらくすると、きらりは限界をむかえたらしい、おびただしい弔問客が焼香をあげてゆくなかで、杏はきらりをうながして席をたち、わざわざちとせの葬儀がおこなわれているのと違う階の化粧室につれていった。杏は名前を呼ぶとき以外はひとこともしゃべらなかったし、しゃべれなかった。
化粧室を出てからはロビーのソファに並んで座っている。杏はきらりを先に座らせてから向かいに座ったつもりだったのに、きらりがわざわざ移動してきた。
で、ふたりともずっと無言だった。
こういうとき気の利いたことばのひとつもかけられない、やはりこういうのは自分のがらではないと杏は思った。
――そもそも喪服が似合わないんだよ。どっちもさ。似合いたくないけど。
はやく着替えたい。いつものきらりらしいキラキラな洋服姿を見たいし、自分はいつものかたっくるしくないラフな格好にもどりたい。杏はきらりに気づかれないように空咳でごまかしながらため息を吐いて、ウォーターサーバーで入れてきた水を飲んだ。
「杏ちゃん」
ようやく口をひらいたと思ったら名前を呼んでくる。げっと出しかけたうめき声を杏は喉の下におしとどめた。
「行ったげて」
「どこに」
「千夜ちゃんのとこ」
杏は返すことばに迷った。そういうんじゃないんだよ、べつにそんな関係じゃないんだ、ちとせにはあとをよろしくと言われたけど、杏はわかったなんてひとっことも言ってないし、ちとせがかってに期待してただけなんだ、それに同じこと言われた子はほかにもいるよ、三人か四人か、それくらい、美嘉とか奏とかさ、もっといるかも、千夜にはその子たちがいるから、杏でなくてもいいんだからさ、それより杏が行ったらきらりがひとりになっちゃうじゃないか、そんなのは……。
「杏ちゃん」
顔をおおっていたハンカチを離し、きらりが杏のほうをみた。怒ったような、嘆いているような、落胆しているような、そういう目を涙でうるませているのだ。
水を飲む、息を吐く、また水を飲んで、息を吐く。杏は紙コップがからになるとソファから腰をあげた。
「ちょっと待ってて」
「うん」
と言ったきらりは、安心してくれたのか、どうか。
*
制度上のちとせと千夜はどこまでも他人でしかなかった。ちとせの家族でもなんでもない千夜はたくさんの弔問客のひとりでしかなく、親族席に彼女の椅子は用意されなかった。それでも一般席の最上座にいたのは、千夜の後見人であるちとせの父のはからいによるものだった。
その席にすでに千夜はいない。
――どこ行った。
自分ときらりが退出する前にはまだいたはずだ、と杏は思った。自分たちと同じように化粧室にむかったのかもしれない。杏は千夜を探した。
はたして同じ階の化粧室に千夜はいた。入り口に奏が立っていて、なかで千夜が泣いていた。杏の見立どおりそばには美嘉がいて、嗚咽する千夜の背をさすってやっていた。洗面台には吐いたらしき形跡が、水に流されきらずにかすかにのこっていた。
そのふたりが杏に気づいてこちらをふりかえった。それで千夜も気づいたらしい、嗚咽を堪えるみたいにしゃくりあげながら、ゆっくり顔をあげ、つぎに会釈した。
「あ……」
杏はなにかを言いかけて口ごもった。この期におよんで杏には千夜にかけるのにふさわしいことばがない。みつからない。美嘉たちはなんと言って千夜をなぐさめていたのだろう。あるいはなにも言わずそばに寄り添っていただけなのだろうか。
杏はにわかに思い出した。むかしプロデューサーに言われたことだった。杏にしか頼めないことだからと、かれは言った。杏はきらりのほうがむいているしきらりに任せたらいいと言った。けっきょく押し切られて引き受けたのが当時新人アイドルだったちとせと千夜の教育係だった。お役御免になってからもちょくちょくふたりの面倒をみていたのは、杏も自覚していることだった。ちとせと千夜が背負っているものも抱えている荷物もちとせの正体も、杏が知ったうちのなにひとつ、きらりのところへ持ってゆきたくなかった。しかしちとせの思惑はそうしたところにはないはずであった。これも杏にはわかっていた。
「千夜、おちついたらでいいから、来れたらでいいから来て、一階のロビーにいるからさ、みんな一緒でいいから」
杏は言うだけ言うとその場を立ち去った。角を曲がったところで早足になり階段を駆けおりた。
それから弔問客のうちおなじ事務所の人間には、あした午前中から仕事のあるのをのぞいて、かたっぱしから声をかけた。
千夜の心のなかにあるちとせの席にはちとせ以外のだれも座れない。ちとせが死んでもそこはずっとちとせの席でしかない。千夜の心のなかに空いた穴をふさぐこともちとせ以外のだれにもできない。ちとせが死んだ以上そこは永遠に空洞のままだろう。
その空洞にひきこもる千夜を、縄でふん縛ってひっぱりあげることは、ちとせ以外の人間にもできるかもしれない。
――大勢でかこんでやればいい。
そうすれば杏はその大勢のうちのひとりにすぎなくなるし、その輪から自分ひとりくらい抜けたところでだれも気にしないだろう。杏はこう考えた。
きらりの待つロビーにもどってきたとき、杏が座っていた場所に加蓮がいた。
彼女はきらりをなぐさめるでもなく、この葬儀場におよそ不釣り合いなファーストフード店のハンバーガーセットをひろげ、ひとりではとうてい食べきれないサイズのポテトを時々きらりの口にほうりこんでいた。
「なにしてんの」
「奈緒はもう帰っちゃったから」
それで通じるだろうという加蓮の口ぶりだった。
「おいしいからだいじょうぶだよ。ね?」
「うん」
「かな子みたいなこと言うんじゃない」
ポテトを食べているうちにきらりは多少気持ちをもちなおしたようだから、それでよしとすべきなのだろうか。杏には納得しがたい。加蓮は隙をみてこんどは杏の口のなかにまでポテトをほうった。
吐き出すわけにもいかないのでしかたなく食べる。すると加蓮が愉快そうに笑った。
きげんよく笑う加蓮の目は充血しているし、頬には泣きはらした跡がしっかりある。
「これね、ほんとは千夜の分なの」
と加蓮は言った。それからまた、
「そういう約束だからね」
だれとの、とは言わなかった。
「うそでしょ」
「どうかなー。あたしはうそはついてないよ」
加蓮は微妙な言い方をした。
杏は信じない。どこのだれが自分の葬式では遺族にハンバーガーを食わせてやってくれなどと言うものか。
「ほんとに?」
「あたしはね」
「ん、ふっ――」
きらりが紙ナプキンで口をおさえた。約束の場面を想像して笑ったらしかった。
「まあ、べつに、ハンバーガーとポテト食べさせてあげて、とか言われたわけじゃないけど」
「そう……」
杏はそれならといちおうそこで納得してみせた。
ちとせのことばは比喩に満ち、意図は曖昧さでつつまれている。はっきりしていることは彼女は千夜をふかく愛し、千夜の将来をつねに案じていたということだけだ。それを彼女流の回りくどい言い方で周囲の人間に託していった。託された側は託した側の真意を自分なりにうけとめ、今夜それを実行しているのだ。奏も美嘉も加蓮も、ひょっとするときらりや奈緒も。
――たぶんそう。
杏はポケットをまさぐって飴玉をとりだすと、それを加蓮の口にほうりいれた。
「あ、薄荷――」
ちょっと苦笑いをした、加蓮はあまり薄荷飴は得意ではないらしい。
杏はそれを見てはじめて口角をあげた。
了