都内に菩提寺のあることが奈緒には意外だった。
日本では見慣れた仏式の墓が、生前のちとせの優雅な面貌やふるまいと結びつかない。光沢のある大きな石に「黒埼家之墓」と彫られているのも現実感がなかった。
なにも奈緒はどこかの王様の陵墓や十字架の墓を想像していたわけではないが、ちとせの墓の前に立ったとき、ほんとうにあのちとせの骨がこの下にあるのかと戸惑った。が、東京生まれ東京育ちのクォーターともなれば、宗教的にはそんなものかもしれない。
昼にちかづくにつれ、日差しと風がつよくなってゆく。迷ったすえに春用のコートを脱いで物置石に置いた。それから墓の雑草をとりのぞきにかかった。
しばらくすると水を汲みにいっていた千夜が戻ってきた。
「すみません、お手間を」
と謝られたので、いいよというふうにかるく手をふって返す。じっさい、大したことはしていない、草むしりをしていただけである。墓石の土埃はそのままだし香炉や花立には触れてもいない。
千夜はそうとうていねいに作業している。
「もういっこ桶をもらってくるよ」
と奈緒が言うと、花立の水を入れ換えていた千夜が無言でふりかえった。
「水、たりないだろ」
と言ってから、奈緒は換えた花や抜いた雑草や線香の灰を新聞紙にくるんだ。途中にそうしたゴミ捨て場があるので、そこに捨ててくるつもりである。
それにしても大きな墓所である。いかにも富豪のためといった感じの立派な墓が広大な敷地内いっぱいにある。「黒埼家之墓」もその立派な墓のひとつにすぎず、ここではちとせの存在は文字どおり埋没している。
――へんな感じだ。あんな派手なやつだったのに。
それが正直な気持ちだった。
ポンプをうごかして水を出すと、さきに土のついた手を洗った。井戸水のつめたさがここちよかった。それから桶を置いて水を注ぐ。日差しがまたつよくなる。水が桶に溜まると、奈緒は千夜のところへ戻った。
千夜はまだ墓石をみがいていた。
奈緒は桶を置いてその場にしゃがみこんだ。
どうして盆でも彼岸でも命日でもないこの日に、千夜は身内でもなんでもない人間を連れてちとせの墓を参ろうと思ったのか、奈緒は知らない。
何日か前に千夜に誘われてふたつ返事で承諾すると、空いている日を教えたきり、今日に至るまで千夜にはなにもきかなかった。そしていま、チリチリと背中が焼かれるのを感じながら、ぼんやり千夜の墓みがきをながめている。
「なあ、千夜」
と声をかけると、千夜の肩がはねた。そんなに驚くことかと思いながら、
「昼はどうしようか。とくにないなら、最近めちゃくちゃうまいところを見つけたんだけど、いかないか。中華なんだけど」
ふりむいた千夜の目が一瞬かすかにゆれて、つぎに安堵の色がうかんだ。
「はい、ぜひ」
とだけ言って、千夜は作業を再開した。
奈緒は完全に手持ち無沙汰になった。
遅い昼食は仕事柄よくあるなのでそこは気にならないが、この時間をどう過ごせばいいのかはちょっと困った。困ったところでこれという解決策もないので、奈緒はやはり千夜の墓みがきがおわるのを見守ることにした。
話しかけるのはなんとなくはばかられた。ときどき妙なところで千夜の手がとまり、肩がふるえることに気づいたからだった。
そのうちに千夜がマッチを手に取ったので、奈緒は千夜の風上に立った。線香を香炉に立て、墓石や卒塔婆に水をかける。
千夜がじっくりやったのはそこまでだった。千夜の手をあわせている時間はおもいのほかみじかく、おわるやいなや帰り支度をはじめた。
「もういいのか」
と奈緒がきくと、千夜はこれもまたみじかく「はい」とこたえるだけだった。
「もっといろいろ話すもんだと思ってた」
「話したいことは、一昨年にすべて話しましたから」
「そっか……うん、そうだった」
さいごのほうはほとんど喧嘩みたいなものだったと、杏からきいたことがある。その場にいたわけではない奈緒にはまるで想像することができないが、とにかくそいうことがあった。
――そうだ、その話をきいたのは、ちょうどこれくらいの時期だ、それで一昨年のことだ。
その年の初秋にちとせは逝った。
今日みたいに日差しと風のつよい日だった。
了