千夜は外が白みはじめたころに目を覚ました。ベッド脇の目覚まし時計をみると、五時をすこし過ぎたところだった。アラームは六時に設定されているから、それより一時間早く起きてしまったことになる。眠りが浅いのか、さいきんよくそうなる。
千夜は、寒さに身震いしながら緩慢に上体を起こすと、古めかしいデザインの銀色の目覚まし時計を手に取り、この時計が一時間後に鳴り出さないようアラームの設定を切った。
――これでは目覚ましの意味がないな。
もともと朝は得意なほうではない。時計は、そのために生前ちとせが千夜に買い与えたものだった。スマートフォンのアラーム機能があるからと断わろうとする千夜に、こういうのは形が大事なこともあるからと言って、しいて持たせたのである。
ちとせが死んだいまとなっては早朝から活動する理由もなくなったが、ちとせが生きていたころの習慣を途切れさせたくない千夜は、目覚まし時計の設定をそのままにしていた。
が、ちとせの葬儀が終わってから二週間、アラームが鳴るよりもさきに起きることのほうが増えた。これではせっかくの目覚まし時計が用をなさない。
とはいえ、いまさら早起きしてもやることはあまりなかった。ひとり分の朝食を用意し、ひとり分の洗濯物をし、ひとり分の身支度をすませるだけである。それもこんな時間に起きてまですることではない。
ちとせの葬儀から納骨まではとにかく慌ただしかった。それが終わると千夜はやることがなくなった。学校も仕事もいまは休んでいる。アイドルをつづける気は千夜にはなかったが、残っていた仕事については契約の満期まではやろうと思っていた。しかし、おそらく休職扱いのまま満了ということになるだろう。
千夜はなにも自分がちとせの死をかなしんでいないとは思わないが、周囲は千夜の自覚しているよりもずっと、千夜が深刻な精神状態にあると考えているようだった。それは正しい見立てだと千夜は思った。なにしろ皮膚と毛髪がひどいありさまなのである。
ちとせの両親が帰り際に、いつでもブカレストの邸に戻ってくればいいと言ってくれたのも、似たような懸念があったのだろう。けっきょく千夜はちとせと過ごしたマンションに住みつづけることを選んだ。黒埼夫妻はそのわがままをゆるした。それどころかちとせの遺骨を分けてくれた。分骨はいまちとせの部屋に置かれている。
だから、千夜がやることといえば、遺骨の安置された部屋に入り、こんな早朝に目を覚ますことでうまれた時間をたっぷりつかって、ちとせのあっけない最期を感傷的に思い返すくらいである。
ちとせは、もうすぐ〈Velvet Rose〉のデビュー一周年を迎えようかという時期に亡くなった。雑誌の撮影が終わったあと、突然意識をうしない、それから一日足らずで死去した。いちども意識をとりもどすことなく死んだのである。
ブカレストにいるちとせの両親は娘の臨終に間に合わなかったが、千夜のほうはちとせの伯母が気を利かせてくれたおかげで立ち会うことができた。
集中治療室で、たくさんの管に繋がれた、むりやり呼吸しているだけの一個の不格好な物体が、千夜の見たちとせの最期だった。
ちとせがその呼吸を完全に停めるまでのあいだ、千夜はそばのパイプ椅子に座ったままほとんど動かなかった。ちとせの伯母は、千夜がまったく泣きもせずうろたえもせず、放心したように動かないのを心配して、待合室で休んできたらどうかと言ったが、千夜は断わった。
泣きもうろたえもしないのは自分でもふしぎだったが、どだいまともな精神状態ではないのだから、かえってそういうこともあるのかもしれない。じっさい、そのときの千夜の心臓は、ばくばくと大きな音でも立てているみたいに、胸に重く大きく響いていたのである。
かわるがわる親族が見舞いに来て、千夜をなぐさめた。数人が待合室に残った。だれもちとせが助かるとは思っていなかった。遠からず来るとわかっていた日がついに来たのだという気持ちだった。
千夜もおなじことを思った。――遠からず来るとわかっていた日がついに来た。そうにちがいない。永遠を夢見たことさえあったちとせとの生活は、やはり永遠ではなかったのである。そして、おわりがあることを知っていた生活に、おわりはやって来た。
ブカレストに帰るまえにちとせの父が言った。
「以前、昏睡状態から回復したとき、医者は、つぎにおなじことになればそのときは助かるまい、と言った。生まれたときからそんなことばかりを言われつづけて二十年ちかく経ったが、ついにそのとおりになった」
それから、
「魔女がむかしこう言った。この子は十九までは生きるだろう、そのとき多くの人間を惑わすはずだから――これもそのとおりだった」
と言った。
「わたしは魔女は好みません」
「魔女は邸に来るとちとせにつきっきりだ、千夜さんにはたいくつだったろう」
ちとせの父はかすかに笑った。
こんどはちとせの母が千夜の手を両手で握って、
「わたしたちの家は、あなたの家でもあるのですよ。いつでも帰ってらっしゃいね」
と涙ぐみながら言った。
このふたりも、千夜がすこしも泣かないことを心配しているようだった。
夫妻を見送った千夜は、骨箱を抱えて帰宅した。
ちとせのいない部屋である。自分以外のだれも帰ってこない部屋である。
リビングに立ちつくした千夜は、こんどこそ自分がほんとうの孤児になってしまったことを、このとき強烈に感じた。
主人のいなくなった部屋は、調度品などはそのままにしてある。骨箱がひとつ増えただけだである。
千夜はその部屋で、ソファに座り、ありあまった朝の時間を、ちとせのことを思いながらすごしている。といって昼になればべつのことをするわけでもない。家事が残っていれば家事をするくらいで、あとは朝と変わらない。夕方になると、ときどき事務所の同僚が訪ねて来て、たあいない世間話を一方的にしてから帰ってゆくことがある。目的はわかりきっている。それに対してもうしわけなく思う気持ちが、あるにはある。
夜は散歩に出かけることが多かった。ちとせの足跡を辿りたくてそうしているのだが、ちとせがどこをどう歩いていたのか、千夜はろくに知らない。めずらしく誘われたときにつきあった道順はまっさきに潰した。過去の発言から繁華街を中心に巡っていたのだろうと見当をつけて、ちとせの影を追いかけようとしているが、正解なのか不正解なのかもわからない。それを判定できる唯一の人間はもう死んでいるのである。コンビニエンスストアのスイーツを買っていたわずかな形跡などは、ヒントにもならなかった。
――毎日、栄養面に気をつけて食事を用意していたのに……。
それを怒りはしないが、ものさびしい気持ちになるのはたしかだった。ちとせのことは世界一知っているつもりだったのに、ほんとうのところは千夜には知らないことが多すぎた。秘密の多いひとであることは知っていたし、その秘密を自分は知っているつもりだったのだ。しかし、そうではなかった。それが千夜にはさびしかった。
昼食をとったあと自室ですこし眠った。
ほどなく訪問者があった。
事務所の同僚であるところの神谷奈緒だった。
奈緒は、マンションの正面玄関からインターフォン越しに、
「ちょっと、外、出かけないか」
と千夜を誘った。
「………」
めずらしいなと思った。外出に誘われたのは初めてである。いままでの訪問者はみな部屋にあがりこんで、千夜に話したいことを話すだけ話したら帰っていった。
千夜の無言をどううけとったのか、
「むりそうか?」
「いえ、だいじょうぶです。扉を開けますので中で待っていてください。外は冷えるでしょうから」
支度をすませて一階まで降りてゆくと、エントランスで奈緒が待っていた。
「元気そうでよかった」
そう言われたのも初めてだった。千夜自身、復調したという感覚はない。
「元気そうですか」
「うん、みんなからの話をきいてたら、お葬式のときとあんまり変わってなさそうだと思ってたからさ。でも、けっこう元気そうだ」
「そうですか……」
千夜は内心首をかしげた。
奈緒は行き先を言わなかった。正確には、これという行き先がなかった。
「まえにさ、ちとせさんに誘われたんだよ、夜中、散歩行かないかって」
と言って奈緒が歩きはじめとき、千夜は口のなかであっと驚き、その驚きを飲み込んだ。ちょうど知りたかったことが目のまえにころがってきた感じだった。千夜は奈緒のあとを追った。
「べつに、なにってしたわけじゃないんだけど、あちこち歩きまわって、けっこうおぼえてるから、千夜の参考になればいいかなと思って」
歩きながら奈緒は話をつづけた。
「参考にですか」
「うん、千夜は、ちとせさんの歩いてたところを歩きたいんだろ? 凛からそうきいた」
そう言われて千夜は困惑した。まったく記憶にない。この二週間の訪問者のなかに、たしかに凛はいたが、会話をしたというおぼえがない。訪問者はいつもみな千夜に一方的に話をし、千夜はそれにてきとうな相槌を打っているだけのはずだった。が、おぼえていないだけで、千夜も訪問者たちになにかを話していたということなのだろうか。たとえば一昨日訪ねて来た凛には散歩の話をしていたのか。
その会話が多少の気散じになっていたとしたら、なるほど奈緒の言う「元気そうだ」は、そのとおりなのかもしれない。
「もしかしたら千夜の知ってるとこかもしれないけど」
と奈緒は言った。
千夜は首を振った。
「わたしは夜の散歩におつきあいしたことは、ほとんどありません。夜に、ともに歩くのは、仕事の帰りが一緒になるか、夕食を外でとるか……だいたいはそんなところです」
「そうなのか。ふたりって、意外とばらばらだよな」
「そうですね、ばらばらでした」
千夜からさびしい笑いが出た。
ちとせは夜の散歩が好きだった。たいていは千夜が寝静まった時間帯にちとせは出かけるのである。ちとせが帰って来て眠りはじめたころに、千夜は起きて活動をはじめる。そういう生活をおくってきた。お互いに知らないことだらけなのは、当然だったのかもしれない。
奈緒の案内は繁華街から出ず、表道に終始していた。そしてそのなかにはやはり、コンビニエンスストアがあった。
「ここで、ちとせさんがスイーツ買うって言って、あたしがとめたんだ。千夜に怒られるぞって」
けっきょくそのときは買わなかったらしい。
「怒りませんよ」
「ちとせさんもそう言ってた」
と言って奈緒は笑った。あいかわらず気持ちのよい笑顔だった。千夜はつられて笑うようなことはなかったが、すこしだけ自分の鬱屈が晴れたような気がした。
奈緒とは、日没まえに繁華街の入口付近で別れることになった。
「事務所、辞めるんだってな」
「そうですね。事務所というか、アイドルを、ですが」
「そっか……」
ウーンとうなったあと、
「こんど、昼ごはんでも、食べに行こう。辞めたあともさ、たまに行こう」
と言った。
――しんせつなひとだ。
と思いつつ、
「機会があれば……」
と言うと、千夜は頭をさげ、礼を言って、奈緒と別れた。
部屋に戻った千夜は、骨箱を開き、骨壷を取り出した。蓋を取る。なかに納められているこの焼けた骨の欠片が、いま千夜とともにいるちとせのすべてだった。
外では日が沈み、部屋が暗くなった。千夜は電気をつけなかった。
真っ暗な部屋で、千夜はちとせの遺骨をじっと見ている。
――散歩くらい、いくらでもおつきあいしたものを……。
千夜は心のなかで恨み言を言った。誘われたことのある者が奈緒だけというのは、ちとせの性格からするとちょっと考えづらい。十中八九ほかにもいるだろう。そのうちの何回かでも自分を誘ってほしかったと千夜は思った。そうすればもっといろんなことを話せたのではないのか。しかし、ちとせがそうしなかった理由も、いまはなんとなくわかるのである。
千夜は徐々に気づきはじめていた。ちとせを喪った自分を気遣う同僚たちの、それが本人の善意だけでなく、ちとせの繋いだ縁であることも、ちとせが気まぐれに習い事をはじめては、すぐに飽きて辞めてしまった理由も、そのなかでアイドルだけが例外的に長くつづいた理由も、千夜のために文字どおり命を懸けてやったそれを、とうの千夜が台無しにしつつあることも。
――ぜんぶ、そうだったとしたら。
千夜は、ちとせの愛情深さと残酷さを、思い知らなければならないだろう。だが、同時に、――お嬢さまも思い知るべきだ、と千夜は思った。
白雪千夜という人間が、ちとせに満たしてもらわなければ、たいせつなひとを喪ってさえ一滴の涙も出せない空虚な存在であることを、生きる意味というものは、ちとせただひとりにしかないということを、新しいべつのなにかなどありえないことを、千夜はもうこの世にはいないちとせに思い知ってほしかった。
――お嬢さま、わたしはこういう人間です。
と千夜は思った。
――わたしたちは、お互いに知らないことが多すぎました。
千夜は固く目をつむり、低いうめき声をあげた。
吐息が骨壷のなかに落ちた。
どれほどちとせのことを思っても、やはり一滴の涙も出なかった。
了