執着

 ちとせの舌が口内に入ってくる、この瞬間が、千夜はいちばん嫌いだった。
 不快感に眉をひそめてたところで、ちとせはとまってくれない。千夜の腕ごと抱き上げて、唇を強引にひらくと、なかに侵入し、歯や口蓋を舐め、自身の唾液をおくりこんで、かわりに千夜の唾液を吸いあげる。
 ねっとりとした粘性をおびた、不快な音と不快な感触、慈しむことを忘れたように千夜を締めつける手、どれもこれも千夜は嫌いだった。
 以前思いつきでキスの最中に目をあけたことがあって、そのときは誇張なく死ぬほど後悔した。
 ちとせらしからぬ余裕のない顔を見てしまった。欲にまみれた目がひっしになって千夜を求めているのを知ってしまった。
 それがいやでたまらなかった。千夜はそのようなちとせを求めていないし、見たくもない。この世にいてほしくない。
 ちとせは欲深い俗物であり並ぶ者なき尊貴な存在でありひとつの瑕疵もない完璧な人間でなければならない。あらゆる人間的短所は彼女が有するかぎり美点でなければならない。つねにうつくしくなければならならず、醜いちとせはちとせではない。炎で焼き爛れても醜悪ということがあってはならないのが黒埼ちとせであり、白雪千夜の生涯ただひとりの主人である。
 ――それがどうしたことだ、このぶざまなありさまは。
 まるでむかしのちとせだ。死にかけの痩せほそった、ただの弱いこどもでしかなかったかつてのちとせのようだ。
 もう死んだものと思っていた幼馴染がこんなときだけ蘇ってくる。五年前に千夜と一緒に死んだはずの友達が、みっともなく欲望を撒き散らし、がむしゃらになって自分を求める。
 どうしてそうなるのか、千夜はちとせがわからなかった。
 他人が見れば、きっといつもの優雅なちとせがいて、千夜のほうがよほど余裕のないように映ったかもしれない。
 ――他人が見るものか。
 千夜は自分のくだらない想像をすぐにしりぞけた。
 ちとせがこんなことをしてくるのは家のなかだけだ。日が沈みきった夜、月明かりが部屋を照らすそのあいだだけ、ちとせは豹変する。
 夜はちとせの時間で、ちとせは夜の支配者だから、日が沈めばなんだってできる。
 ずっとたいせつにしてきたものを踏みにじることさえ、いまのちとせにはたやすいことだった。
 ただ千夜のためだけにつくりあげたはずの「気まぐれで、わがままで、完璧で、万能なご主人さま」としてのすがたを、千夜の前で簡単に捨て去る。そんなものは月がかくれてしまえばそれこそ簡単にとりもどせるとでも言いたげな軽率さで、ちとせはちとせでなくなる。
 ――それはあなたではない。
 ちとせが千夜を解放する、わずかな息つぎのあいまに、いくどとなく唇をそのかたちにうごかす。声をのせたことはなかった。ちとせを真正面から否定する勇気は千夜にはない。それは自分自身の五年間を否定するのとおなじだった。
 千夜はなんら抵抗せず、不快な感覚に身をあずけ、口のなかを、歯を、舌を、ちとせに犯される。
 ――ああ、気持ち悪い。
 そうはっきりと言えたら、ちとせは月の下でいつもの彼女にもどるのだろうか。
 そもそもちとせが気持ちいいのか、この行為をここちよく思っているのか、それさえわからない。いつもの快活で妖艶な微笑をたたえるちとせはここにはない。千夜には、いまのちとせの感情がどんな状態でどこにおかれているのか、まったくわからなかった。
 ちとせの気が済むとようやくほんとうに解放される。
 お互い息をあらげて見つめあう。唇と唇を唾液の糸が繋げる。唇のまわりは千夜もちとせも唾液にまみれている。
 ちとせはまったく、このときばかりはすこしもうつくしくなかった。千夜の望んでいないちとせだった。
 千夜のために再構成された完璧にうつくしく気高いちとせが、千夜のせいで堕落してしまう。
 どうすればそれをとめられるのか、ちとせにされるがままの千夜には皆目わからない。

   *

 ちとせは朝に弱い。
 正確には弱かった。
 いまは千夜が地方へ泊まりの仕事に行っているときでも、朝ひとりで起きられるようになった。
 そのため、ちとせが用意してくれた千夜の仕事がひとつ減ってしまった。千夜だって朝は弱いのだ、それでもちとせのために早起きして、この夜ふかし好きの主人を起こしてあげるのは千夜にとってとても幸せな時間だった。仕事と一緒に幸福まですこし減ってしまったかっこうだ。
 アイドル業は楽しいかもしれないがそれ以上に苦痛だ。なによりちとせとの時間が大幅になくなる。それ以外はなにもいらないのに、そればかりが千夜の手元から消えてゆく。
 しかし千夜は、
 ――電話でいいので毎朝起こさせてください。
 とは言えなかった。それを知った事務所のみんなはそのことを喜んで、やっとすこし千夜から自立できたなと祝ってくれたから、きっとひとりで起きられるなら起きたほうがいいのだろう。
 家にいるときはあいかわらず朝はぐずってなかなか起きてくれないので、千夜の仕事は完全になくなったわけではないが、宿泊先で起床するころにはスマートフォンにちとせから「おはよう」のメッセージが入っていることは、嬉しさより寂しさがまさった。
 その日も早起きする必要のない地方のホテルで、ちとせからの短いメッセージを受け取った千夜は、
「おはようございます。学校とお仕事、がんばってください。お体に気をつけて、食事はきちんと摂ってください」
 と、大したことはないが同僚が見ればちょっとおどろくかもしれない文字数のメッセージを送り返した。
 となりのベッドでもじゃもじゃ頭が起き上がる。たいそうな爆発ぶりだ。
「ちとせさん、すっかり朝早いな」
 あたしと一緒だったときなんて、千夜が電話寄越すまで全然起きてくれなかったのになあ、と笑いながら奈緒は言った。
「そのせつはご迷惑おかけしました」
「いや、こっちも休日に電話入れてわるかったよ。ちとせさんが起きないから起こしてくれって意味わかんないよな、あれ」
 奈緒は朝からよく笑う。ちとせしかいなかった朝にはありえない、さわやかで活気のある笑い声だ。
 ちとせはもっとおだやかに、困ったような、嬉しいような、いつもそんなふうにかすかな笑みをうかべて起きる。千夜に起こされてくれる。
 長い髪を千夜に手入れさせてくれる。化粧も食事も着替えもなにもかも、ちょっと前までは千夜に任せてくれたのだ。
 はでに髪を爆発させた奈緒はもちろん千夜にそんなことをやらせない。すべて自分でやる。千夜もちとせ以外にやりたいとは思わない。
 ちとせもいまごろはひとりでやっているのだろう。朝食は出発前につくって冷蔵庫に入れてあるが、昼食にされるかもしれない。ちとせはあまり朝食を摂らない。これはいまでもかわらない数少ない生活習慣のひとつだ。
「はやく帰ってお世話やきたいな」
 奈緒はからかうでもなく、まじめな顔で言った。
「はい」
 奈緒の言うとおりだった。千夜はとっとと仕事をおわらせて帰りたい。ちとせのために働きたい。その気持ちを千夜はごまかさないしかくさない。
「あたしも加蓮が自分のいないとこでなにしてるのか心配なことあるし、千夜はよけいそうだろうなあ」
「心配ですし、寂しいですよ、とても」
 はっきりと言うと、そういうこと真顔でいうのが千夜だよなあと、奈緒は呆れたみたいに笑った。
 千夜は笑わない。
 ――寂しい。
 それは本音で、心の底からわきあがる感情だった。千夜にとってそれは笑いごとではない。
 ちとせが千夜に世話をされずに生活するのも、ちとせとはなれてすごす時間も、千夜には苦痛でしかない。
 奈緒は気のいい同僚でまぎれもない善人で、一緒にいてここちいいが、それとこれとは話がちがう。
 ちとせがいない時間と場所は千夜にとってひどく虚しかった。どこまでもからっぽだった。ちとせはまだ生きているのに、まるで死んだかのような寂寞におそわれた。両親が死んだときとおなじ感覚だった。
 ちとせはそのことをどう思っているのだろうか。千夜の心のうちをちとせがわからないはずはない。意味のないことをするひとでもない。すくなくとも千夜にかかわることではそうだ。
 寂しいと思ってくれているといい。アイドルなんて辞めて千夜ちゃんといつも一緒にいたいね、そう言ってくれたらいいのにと、千夜はときどき思う。けれど言ってくれるはずがないということも千夜は理解していた。
 千夜は結局アイドル活動を楽しんでいる。千夜が楽しんでいるかぎりちとせがアイドルを辞めることはない。ふたりだけの時間はもどってこない。
 ちとせがアイドルになって、その世界に千夜をまきこんで、いままでの気まぐれ≠ニちがっていつまでも飽きずにつづけているのは、ぜんぶ千夜のためだ。千夜が楽しんでいるからちとせはそこにいつづけるのだ。
 千夜がちとせを喪ったあとも生きるすべを失わないように、生きる気力を失わないように、ふたたび孤児となって闇の底に沈んでゆく千夜を掬い上げてくれる縁をつくるために、ちとせは病に冒された体をうごかし、命を燃焼させている。千夜の望みも願いもおかまいなしだ。
 わがままなひとだから、すこしも千夜の思いどおりになってくれない。優しいひとだから、千夜の思いどおりの「理想のお嬢さま」に自身をつくりかえて、死ぬまでその役目をこなそうとしている。
 ただ月の明るい夜だけが、ちとせをちとせでなくした。夜を支配したはずのちとせが制御を失い、千夜を貪り食らうのだった。
 この仕事がおわったら、家に帰ったら、またそのちとせが姿を現す。それはとてもいやなことだ。会いたくない。でも、ちとせのもとにいられないのはもっといやだった。
「はやく、帰りたいです」
 すっかり身支度を済ませた千夜は、言いながら自分でも気づかないうちに笑っていた。奈緒が心配になるくらい明るく笑ったのだった。
 たとえ帰宅がおそくなって、月の見える時間になったとしても、帰ればまたちとせが豹変して千夜の大好きなお嬢さまでなくなったとしても、千夜はそこ以外に帰る場所をもたない。
 ちとせの腕のなかだけが千夜の居場所で、千夜が自分自身で決めた終の棲家である。この決定が変わることはない。千夜をそうさせたのはほかならぬちとせなのだ。
 だから千夜は、かならずちとせのもとへ帰る。
 ちとせがどこに行こうとも、逃がすつもりはない。

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