花婿の欲望

 キャリバーンの場所を教えられたとき、スレッタの胸はたしかにざわめいた。
 心の奥底から湧きあがるなにかが、諦めの混じった達観をかかえて事態に二の足を踏んでいたスレッタを、そこへゆくように急き立てるのだった。その声に押されるようにしてスレッタはついに決断した。
 一時解散後、ティルがスレッタに近づいてささやく。
 ――いま、本社フロントには、ミオリネがいるはずだよ。
 それはスレッタの心が叫ぶ声に違いなかった。

   *

 おそらく睡眠も食事もろくにとれていないというのは、すぐにわかった。
 ミオリネがスレッタのもとを去ったのはそれほど昔のことではないのに、そのわずかなあいだで、ミオリネは骨張った肉の少ない、肌も髪も荒れた痩せぎすになっていた。
 もともと自分を大事にしないところはあったが、身なりについて怠慢なひとではない。それがおのれを守る戦闘服だと彼女自身よく理解していた。
 そのミオリネをこうしてしまったのが自分と自分の家族だということにどうしようもない気持ちになったが、それをおもてに出すわけにはいかないスレッタは、なるべく平静をよそおった。
 ふらつくミオリネを支えながらシャワールームに向かう。
 ひとりにさせるのは心配だったのでスレッタもシャワールームに入った。
 すっかり傷んだ髪を洗いながら、スレッタは世間話でもするみたいにつとめて明るく近況報告する。
 ニカがもどってきたことや、夜通し救助活動したこと、タオルやトマトを配ったこと、それがいろんなひとたちに喜ばれたこと、仲の悪かったジェターク寮と協力したり、あまり縁のなかったブリオン寮の決闘委員会のふたりと仲良くなったことなど、とにかく話せるだけのことを話した。それらは株式会社ガンダムの理念のもとにみんなでがんばったのだということを、なんとかミオリネに伝えたかった。
 ミオリネはシャワーの音にかき消されそうなくらい、ちいさな声で相槌を打つ以外はスレッタにされるがままで、溜まりに溜まったフケや垢を落とされていった。
 シャワーをすませたあとは、ベッドの上でおとなしくドライヤーの風を受けている。
 しばらくすると相槌がなくなり、うつらうつらと首がかたむきだした。
 スレッタはときどき微妙に手をうごかして姿勢を支えながら髪を乾かしきると、自分の髪留めをひとつはずし、ミオリネの長いうしろ髪を結った。(ミオリネがふだん使っていたヘアゴムはどこにあるのかわからなかった)
「すこし寝ましょうか」
 とスレッタが言うと、うん、と眠そうな声が返ってきた。ゆっくりと体を寝かし、ブランケットをかける。つぎに制服を脱いでハンガーにかけ、インナースーツだけになってもぐりこむ。うしろから抱きかかえるみたいにしてスレッタもベッドに横になった。
 シャンプーの香りがする。鼻をくすぐる匂いは理事長室に置かれているのとは違うものだった。
 しかし、スレッタはふしぎに懐かしい気持ちになった。ごく最近あったことなのに、それは何年も前のことのように思い出された。
 理事長室のベッドは大柄なスレッタがミオリネと一緒に寝るには狭くて、こうすればとりあえず落ちないでしょ、とミオリネが言って、うしろから抱きかかえさせた。窮屈なことにはかわりないが、たしかにベッドから落ちることはなさそうだから、スレッタは言われたとおりにして、そのうちそれが当たり前になっていった。
 ――前より痩せてる、ほんとうに。
 怒りとも嘆きともつかない感情で眉をひそめ、ミオリネの背中を見つめた。
 真っ白でちいさな背中である。このうしろで身をかがめて隠れる臆病な自分が、かつていた。
 起こさないようにそっと指で撫でる。
 インキュベーションパーティーのことを、スレッタは思い返す。
 あの日、光の洪水の下で見たこの背中が、スレッタの世界の始まりだった。
 ミオリネの背中越しにスレッタは新しい世界を知った。いろいろなものが変わった。いままでもったことのない感情を、スレッタは日ごとに覚えていった。最初はその感情がなんなのかわからず、焦りや戸惑いを生み、しばしばミオリネとの衝突さえ生んだ。
 けれど、スレッタはもう、シャディクやユーシュラーらとミオリネとのあいだに横たわる過去のなにかを見たときに腹の底からこみあげてくる、あの吐き気のような不快な熱の正体に名前をつけられる。外部の業者もニカやチュチュでさえ温室に入れたくなかった理由も、いまはわかる。
 嫉妬心、独占欲、執着心、エアリアルのライブラリにはなかった粘性を帯びた情愛を、スレッタはたしかにミオリネに対して抱いていた。
 ――わたしのお嫁さん。わたしだけのミオリネさん。
 それを噛みしめたとき、スレッタのなかでこれまでどこか他人事みたいだった、ともすれば鬱陶しくさえあった「花婿」という肩書きが、急に素晴らしく誇らしいものに思えてきた。
「花婿」ただそれだけが、ミオリネという、気高くうつくしい少女のとなりに立つための、この世界でもっとも確かな資格だった。そしてスレッタはそれを持っている。
 だれはばかることなくミオリネのとなりを歩くことができた。温室と理事長室の解錠権限もスレッタだけが特別に許可された。自分だけがミオリネの心に入っていい。ミオリネからそう言われたようなものだった。すくなくともスレッタはそう信じた。
 かぎりなくおおきく強く見えたミオリネの背中が、ほんとうはずっとちいさくて弱いことをスレッタが理解したのはずいぶんあとのことで、プラント・クエタで抱きしめたときにようやく、この花嫁が無敵でも最強でもないと知った。

 ふいにユーシュラーの言葉がよみがえる。
 ――あの子は自分の責任ばかり考えるから。
 じっさい、そのとおりになったと言えるだろう。責任感で押し潰されそうになって、きっとデリングとシャディクはそれを知っていたからひっしでそこから遠ざけようとしていた。だが彼らは失敗した。その原因をたどればどこにいきつくのか、スレッタはやっと自覚した。
 ミオリネが、あれほど渇望していた地球に行くのをやめたのも、会社を起こしたのも、総裁選に出たのも、スレッタを捨ててまで望まないトロフィーにもどったのも――彼女が傷ついたのはだれのせいだったのか。背負う必要のない罪と苦しみを背負わせたのはだれだったか。
 スレッタは自分に呆れるしかない。
 そりゃあスレッタは花婿失格だろう。かりに本気でミオリネに見捨てられたとしても仕方がない。シャディクやユーシュラーが干渉してくるのも当然だ。自分だってこんな情けない人間にたいせつな子を託したくないとスレッタは思う。自分より頭ひとつもちいさい華奢な体に守られながら、ただガンダムの力をふりまわすばかりが取り柄の子供なんかに花嫁を渡せるわけがない。
 ――でも。
 それでもスレッタはミオリネと一緒にいたかった。ミオリネがそばにいない生活はたまらなくいやだった。二度とあんな時間を過ごしたくない。
 ミオリネが背負う重荷を支えたかった。たとえその重荷がスレッタ自身であっても、彼女を支えるのは、自分の責任ばかり考えるこのひとが、それをすこしくらいならだれかに頼んでみようかと思うことがあるのなら、その相手は、
 ――わたしじゃなきゃ、いやだ。
 自分以外のなにものかがミオリネのとなりに立って、信頼され、笑いあっているなんて想像もしたくない。それがシャディクであろうとユーシュラーであろうとごめんだった。あのふたりのように聡明でなく、会社経営のことだってまだなにもわからないけれど、最後に頼られるのはわたしがいい、身勝手極まりないスレッタの正直な気持ちだった。
 自分の責任ばかりを考えるのはきっとミオリネの生得で、たぶんそれはこのさきも変わらないだろう。ミオリネは死ぬまでミオリネでしかない。スレッタが一生スレッタであるように、根は変わらない。生まれついての性質とはそういうものだ。
 それでいいと思う。遠ざけることも適応することもない、そのまま抱えていけばいい。
 そうして、きっとまたたくさん背負って傷つくから、荷物が多いのなら一緒に背負いたい。それがミオリネさんだよって言いながら、いつかミオリネがそうしてくれたみたいに、鬱陶しいと拒絶されたスレッタを、――それがあんたでしょ、そう言って背を押してくれたみたいに、ミオリネのそばに在れたらとスレッタは願った。

 にわかにミオリネの息が荒くなった。かすかなうめき声が聞こえる。なにか言葉を発している。かすれていて聞きとれないが、そのうちのふたつはスレッタにもわかった気がした。
「プロスペラ」たしかにミオリネはスレッタの母の名を呼んだ。そしてもうひとつはたぶん「やめて」だ。クインハーバーなのか、クワイエット・ゼロなのか、とにかくミオリネは夢を見ている。スレッタの母親を夢のなかで、苦しみながらとめようとしている。
 もう起こしてしまってもかまわないと思い、スレッタはミオリネの手を強く握った。ミオリネは起きなかった。しばらくして呼吸が落ち着いてきた。眉間の皺がなくなって、おだやかな寝顔にもどる。
 ――よかった
 スレッタはほっと息を吐いた。
 ――ああ、そうだ。
 まだクワイエット・ゼロに行くことしかミオリネには伝えていない。
 ミオリネが起きたら言わなければならないだろう。家族のこと、二十一年前のこと、スレッタ自身のこと、それから結局のところシン・セーにおいてもペイルにおいてもなにひとつ解決していなかったガンダムの死の呪いと、それにスレッタが乗ることについて、ミオリネに知ってもらわなければいけない。
 ――ミオリネさん。
 スレッタは心のなかで呼びかける。
 ――ミオリネさん、わたしも同じなんです。
 目をつむって、ひたいをミオリネの肩に押しつける。
 深呼吸する。
 ――ひとりで向きあえるほど強くないから、一緒に来てほしいんです。
 いつも手を引いて前に進ませてくれたひと、怖気づいたときには背を押して進ませてくれたひと――ミオリネさんと、できればこんどはとなりに並んで進みたい。
 抱きしめる手にいっそう力をこめる。
 ――あなたさえいれば、なんだって怖くない

 いつのまにかミオリネが起きていた。首をひねってスレッタを見ている。
 スレッタはぐしゃぐしゃに泣いていた。涙はおろか鼻水と唾液までべったりとその白い背につけてしまっていた。
 その状況に遅れて気づいたスレッタの顔がさあっと青ざめる。あわててはなれると粘っこい糸がスレッタとミオリネを繋げた。
「体、洗ってもらったばっかなんだけど」
 ミオリネが苦笑する。
 スレッタは平謝りしてウェットティッシュで背中を拭った。
 謝りながらスレッタは、いつものミオリネがもどってきたような気がして、嬉し泣きでまた泣いた。
 情緒不安定なスレッタの顔をミオリネが心配そうに覗きこむ。たまらずスレッタはごまかすようにして抱きついた。ミオリネさんミオリネさん、と何度も名を呼ぶ。口にした数だけミオリネはスレッタの名を呼んだ。
 ミオリネの目を見ていると最後まで言える自信がないから、スレッタは抱きついたまま話しはじめた。ミオリネに知ってほしいこと、言うべきだと思ったことをスレッタなりに咀嚼して、ひとつずつ伝えてゆく。専門的なことはあとでベルメリアに説明してもらうしかない。
 話している途中でやはりスレッタはまた大泣きした。涙が頬をつたってミオリネの肩に流れ落ちてゆく。鼻をすすってこらえる。ミオリネはそのあいだにずっとスレッタのふるえる背にやわく手を添えていた。
 言いおえるとスレッタはミオリネの体をはなした。
 澄んだ目がスレッタの赤らんだ目と交わった。それは数度まばたきをしたあと、ベッドシーツにしずくを落とした。
 聞いているあいだミオリネはどんなことを思ったのだろうか。そしていま、どんなことを考えているのだろうか。
 極力感情の表出を避けたような眉目は、それでもいつも彼女がまとっている気丈さと優しさを抑えきれておらず、やわらかな光をたたえている。
 その光にまぶしげに目をほそめながら、スレッタは、いつかエアリアルのコックピットで見た映画のあるシーンを思い出した。
 スレッタは考える。すこし躊躇はあるけれど言ってしまおうか。死地に赴く戦士の台詞だが、自分の人生は映画ではない。お決まりのパターンなんてないはずだ。
 膝をそろえて向きあう。背筋をピンと伸ばす。しゃんとする。花婿の自覚をもって言う。
「ミオリネさん」
「うん」
「わたしと結婚してください」
「うん」
 あっさり答えたミオリネは、一緒に指輪を選んで、最高のドレスを着て、式を挙げようと言った。
 スレッタにしてみると改めて伝えるつもりでいたプロポーズをさきに取られてしまったかっこうだ。
 嬉しさと落胆をまぜこぜにして肩を落とすスレッタにむかって、ミオリネはつけくわえるように言った。
「バージンロードをさ、四人で歩くわよ。クソ親父にも歩かせるのよ。あんたのお母さんにも」
 結婚ってわたしたちふたりだけの問題じゃないからね、ミオリネはそう言ってけらけらと笑った。それができるかどうかは、これから家族で話せばいい。ミオリネの言い分は単純明快だった。
 スレッタのなかに沈殿していた葛藤が消えてゆくようだった。ミオリネがプロスペラをゆるしてくれるのか、プロスペラがデリングをゆるしてくれるのか、それがどうしても不安だった。ゆるす必要はないと思う反面、家族みんなで仲良くやっていきたいという思いはやはり強くあった。
 ミオリネの言葉と笑貌は、スレッタのそうした重苦しさをきれいさっぱり取り除いてくれた。
 ――ああ、やっぱり好きだなあ、このいたずらっぽい笑い方。
 たぶん初めて見たミオリネの笑顔がこれだった。
 しかめつらの多いミオリネが笑うのを見たくて、スレッタはいろんなことを試みたものだ。だいたいの企みはしくじって怒られたが、成功したときはほんとうに嬉しかった。たえず気を張り詰めて背筋を伸ばしている彼女が背をまるめて、切れ長のうつくしい目がやわらかくほそめられる。それがあまりにも優しくてあたたかいので、スレッタはいつも泣きそうになった。
 そのときと同じように、スレッタはいまもまた涙を流した。
「あいかわらずよく泣く」
 ミオリネはウェットティッシュを何枚か掴み、スレッタの顔に押し当てた。
 それから笑いをおさめ、すこしアルコール液の匂いがするスレッタの頬を両手でつつんだ。
「わたしはもう、あんたのやりたいことを、とめない。家族を取り上げることも二度としたくない。わたしもあのふたりと家族になりたい」
 だから、と一度言葉を切って、ミオリネはうつむき、ややあって重い息を吐いた。顔をあげてまっすぐにスレッタを見つめる。引き結んでいた唇がひらかれる。
「やりたいことリスト、作ろう。クワイエット・ゼロから帰ってきたらやりたいこと、百歳まで生きなきゃ埋められないくらいさ、たくさん作ろうよ」
「やりたいことリスト……」
 唐突な提案だったがスレッタはすんなり呑みこめた。それらすべてがふたりの諦めを悪くする未練になる。それがわかったからである。
 さしあたって結婚して式を挙げることがそれだろう。ミオリネの温室も潰れてしまったから再開したい。ミオリネと一緒に地球に行く約束もそうだ。ミオリネの母親の故郷、いつか地球寮で聞いたアリヤの実家の牧場を訪ねるのもいいかもしれない。罪と向きあうためだけに行くのは、いかにも心身が磨り減りそうな気がして、スレッタは地球旅行をひそかに追加した。
 ――それと……。
 スレッタはミオリネをじっと見る。銀色の髪、髪と同じ色のようで薄く桃色の入った瞳、まっすぐにとおった鼻梁、やわらかそうな唇――視線を降ろしてゆく――細い首、鎖骨、キャミソールから覗かれる乳房。……
「浮かんだの、あるんですけど、あの、わたし、いまやりたい、んですけど、その……」
「どうせキスとかえっちなこととかでしょ」
 この色ボケ、にたりと笑って、いいよ、とミオリネは言った。
 スレッタは頬をつつむ手を掴んで、指をからめた。
 体をかたむけて、唇をかさねる。どちらもかさついていた。やはりミオリネはあまり睡眠も食事もとれていなかったのだろう。スレッタの唇がかさついているのはいつものことだが、ミオリネはそうではない。本来はもっとつややかだったはずだ。
 二回、三回、かさねては、はなし、またかさねる。
 スレッタがはっと息を吐くと、ミオリネが下唇を舐めて、そのままはんびらきのスレッタの口のなかに舌を入れてきた。歯茎や口蓋をなぞったり、舌をからませたりする。
 唾液が溢れてねちょついて、正直あまり気持ちよくはなかった。ミオリネも同じだったようで、眉をひそめて唇のまわりの唾液を拭っている。
「いまいちね」
「何回もやってたら、そのうち気持ちよくなるかもしれないですよ」
 とスレッタは言って、やりたいことリスト、またひとつ決まったかもと思った。欲望に忠実すぎる気はするが、まあこんなものだろう。
 それからどちらともなく服に手を伸ばし、脱がしてゆく。
「めんどくさ」
 インナースーツを剥がすミオリネがぼやく。たしかにインナースーツの構造はすこしめんどうだ。スレッタでもそうだから慣れないミオリネには、なおのことめんどうなのだろう。
「上着、脱がせたら楽しかったのに」
 と言って、ミオリネは壁のハンガーにかかっている白いホルダー服の上下に目をやった。
「聞き忘れてたけど、あれどうしたの」
「決闘で勝ちました」
「決闘って、モビルスーツの決闘――」
「いえ、フェンシングです」
「そう……わたしの誕生日過ぎてるから、もう花嫁は決闘に関係ないのにね」
 そう言ったミオリネの声には、嬉しそうな、もうしわけなさそうな、そんな微妙な色あいがあった。
 ――そういえば花嫁を懸ける決闘だけは、モビルスーツによる戦闘のみっていう決まりなんだっけ。誕生日以前にフェンシングじゃだめじゃないですかグエルさん。
 やっぱりあのひとはわけがわからない、と思った。
 それはともかく、
「初めてえっちするのに、別のひとの話はやめましょうよ」
 大げさに拗ねてみせる。わかったわかったと、かろやかに言うミオリネの腰と肩に手を添えてゆっくりとベッドにたおす。
 ――グエルさんに妬いたことなんていままでなかったのになあ、なんだかどんどん手当たりしだいになってく。
 でもきっとそれもミオリネのせいなのだろう。こんな嫉妬も、手酷く振られてもなお諦められない執着も、みだらな情欲も、どれもミオリネが初めてで、ミオリネがスレッタに植えつけたものに違いなかった。
 だから、スレッタは口には出さず、心のなかでミオリネに言ってやる。――責任、取ってください、と。
 そんなことを考えるスレッタの下で、白い体が待ちわびるかのようにふるえた。

   *

 だいじょうぶ、だいじょうぶ、とスレッタは繰り返し自分に言い聞かせる。
 だいじょうぶ、ちゃんとやり方は調べている。なにをすればいいのかおおよそは知っている。見当違いなことはしていないはずだ。
 でも自信がなかった。ミオリネの反応がかんばしくないのが、スレッタを不安にさせた。
 くすぐったそうに息を吐いたり違和感に眉間をよせたりするが、どうも気持ちいいという感じではない。不快そうでもないのが救いだった。ひとへの好悪同様、快不快の表現もミオリネはかなり露骨なほうだ。
 あえて言えば「よくわからない」がミオリネの抱いている感情としては正解に近いだろう。
 ミオリネの横髪をかきあげて耳に引っ掛け、ついでに耳裏と耳たぶを撫でる。頬や首にキスを落とし舐めあげる。鎖骨を指でなぞってから吸いあげる。脇腹を撫でさする。
 これが「気持ちいい」なのか、ミオリネにもはかりかねているようだった。
 スレッタはいったん手をとめた。
「どう、ですか」
「ごめん、よくわからない。いやな感じじゃないんだけど」
 初めてってこんなものなんだろうか。
 うーんとふたりで首をかしげる。
 ミオリネが右手を伸ばしてスレッタの頬を撫でた。その手は首から鎖骨に降りてゆく。左腕がスレッタの首にまわり、すこしだけ抱きよせた。スレッタはミオリネの意図に気づいて体をずらし、胸元をミオリネの顔の前にもってくる。
 ミオリネの舌がスレッタの喉や鎖骨を舐める。手が脇腹をさする。なんだか変な感じだとスレッタは思った。
 ――たしかにいやな感じではないけど……。
 スレッタにもやはり、よくわからなかった。
「つづけていい?」
「え、あ、はい」
 脇腹をさすっていた手は乳房の下をとおり、そのままつきあげるように揉んだ。
「うひぃっ」
 びっくりして声をあげる。
「変な声」
 くすくすと笑うような声が下から聞こえる。困惑するスレッタにはおかまいなしに、ミオリネはスレッタの乳房を揉みつづける。先端だけを避けてその周りを円を描くように強く触れてゆく。しばらくしてその手がとまった。
「ミオリネさん?」
 いまの体勢ではミオリネの顔が見えない。スレッタはミオリネの左腕をどかして上体を起こし、ミオリネの顔を覗きこんだ。眉をひそめている。不機嫌なのではなく、なにか考えているときの表情だ。やがて意を決したように、乳房をおおっていた手が再度うごきはじめた。
 先端に親指が触れる。こすられ、押しこまれ、人差し指を添えてつままれた。
「ん……なんか、へんな感じ、です」
 やっぱりそうとしか言えない。なんだかもぞもぞする。これが気持ちいいということなのかどうか。
 自分もやったほうがいいのだろうか。スレッタは迷った。まだスレッタはミオリネの乳房には触れていない。けれど自分の感覚やこれまでのミオリネの反応を思うと、とてもミオリネを気持ちよくさせられるとは思えない。
 迷っているとミオリネの両腕が背にまわり、ぐいと引きよせられた。ミオリネを押し潰しそうになるのをなんとかこらえて体を支える。
 乳房の先端が指ではないなにかにつつまれた感覚があった。そのあいまからなにかあたたかいものが触れてくる。
 ――舌だ。
 ミオリネがスレッタの胸の頂きを舌で舐めている。舐めて、押して、吸って、やわく噛んで、愛撫している。なまあたたかい舌の感触がする。
 あいかわらず気持ちいいのかはわからないが、これはいいかもしれないと思った。自分の乳房がミオリネの唾液で濡れるのはなんだかいい感じがした。ぬるい舌のざらついた感触がちょっとここちよかった。ただ、セックスの気持ちよさかといえば、髪を撫でられているときの嬉しさに近い。
 こんなことなら調べるだけじゃなくて自分の体で練習してみるんだったと思ったが、いまさら悔いても遅い。
 背にまわっていたミオリネの腕がほどかれて、スレッタの肩を押した。
 目があう。
 不安げにスレッタを見上げている。スレッタは正直に答えた。
「舐められるの、なんか、よかったです。ミオリネさんに髪を撫でてもらったときみたいな感じで、気持ちよくて、ふわふわしてきました」
 ミオリネは「そう」とだけ言って溜め息を吐いた。それが性的快感ではないとミオリネにもわかっているのだろう。
「スレッタもやってよ」
「えっ、でも……」
 やったところで気持ちよくないのではないか。
 ためらっていると右手を掴まれて乳房に押しつけられた。
 上体を支えていた手をはずされてくずれかけるが、なんとかふんばる。
「やってよ。不公平でしょ」
 公平にする意味はあるのだろうか。そう思いながら掴まされた乳房をやわやわと揉んだ。ミオリネはむずかしそうな顔をしている。たぶん自分もこんな感じだったのだろうとスレッタは思った。
 ミオリネの真似をして乳房の先端に口づけ、舐めたり押し潰したり、あるいは舌で転がしたりした。吸いあげてまた舌を押しつけて唾液を塗りたくる。ひととおりやった結果は同じで、
「気持ちよかった、と、思う……」
 と、まったくミオリネらしくないあいまいな言い方だった。
 お互い片方の乳房だけてらてらと唾液で濡れている。おかしな光景だった。
 スレッタはおおいかぶさるのをやめてミオリネの横にたおれた。ミオリネが体をよじってスレッタのほうに向きなおる。手をからませ、腕を交差させて、互いに抱きよせて、唇をかさねた。舌は入れない。あれは気持ちよくなかった。角度を変えて何度も口づける。やわらかい唇を押し潰す感覚、押し潰される感覚、頭がぼんやりとしてくる。とても気持ちよかった。これで舌をからませても気持ちよければもっとよかったのに、なかなかうまくいかないものだと、スレッタは残念に思った。
 これからどうするか。キスが終わるとスレッタは視線で問いかけた。ミオリネも目も同じことを言っている。つづけるか、やめるか、ではない。やめるつもりはない。ただ、ちゃんと気持ちいいセックスをしたい。そのためにはどうすればいいのか。
 脳裡に浮かんでいることはある。それがもっとも確実性が高いらしいと、ひっしに蓄えた知識が頭のなかで叫んでいる。スレッタの目線が一瞬さがり、すぐにもどった。迷いはまだある。それでも、
「ミオリネさん、下、触っていいですか」
 ミオリネはなにも言わなかった。そのかわりだろうか、スレッタの右手を両手で抱きしめ、しばらく目をつむっていたかと思うと、やがてその指を口に含んだ。それから唾液にまみれた手を自分の股間に導いてゆく。
 さわさわとした陰毛に指が触れたとき、
 ――あ、これはだめだ。
 とスレッタは思った。ミオリネの手を引き剥がし、体を起こす。
「ちゃんと、見ながらやりたいです。ええと、その、自分のも見たことないので、場所がよくわかんなくて……」
 恥ずかしいことを言っている自覚はあるが本音だった。文字どおりの手探りで失敗したくない。その失敗はミオリネを傷つけるかもしれないのである。
 こくりとうなずいたミオリネが仰向けになって、膝を立ててゆっくりとひらいた。両腕で顔をおおう。恥ずかしいに決まっている。それにきっと怖さもある。スレッタだってそうだ。怖いし恥ずかしい。
 ミオリネのひらかれた脚のあいだに体を割りこませる。腿を掴んで凝視する。間違えないように、しっかりと、怖くても恥ずかしくても向きあわなければならない。
 ――われめ、の、いちばんうえ……。
 慎重に触れる。銀色の繁みの奥にある、白い肌から浮き出るような薄桃色の、包皮におおわれたちいさな突起、それがスレッタの目当てのものだった。
 ――これが、ミオリネさんの。
 色はともかく形を綺麗だとは思わなかった。ミオリネの体にさえ綺麗ではない部分がある。そのことはスレッタにすくなからず衝撃を与えた。全身くまなくうつくしいと信じていたひとの、うつくしくない形を見せつけられる。
 ――目を逸らしたらだめだ。
 自分にも同じものがある、女体とはそもそもそういうものだと思えば納得できないこともない。スレッタはそれで動揺を抑えた。
 陰核を包皮ごとつまむ。そのままこすりあわせるようにやわくねじった。
 ミオリネの体がこわばった気がした。
 顔をあげてミオリネの様子を見る。両腕で隠れていて表情はわからない。歯の隙間から吐息がもれている。声はない。反応がわからない。いちいち感想を聞かれるのはミオリネもつらいだろうと思い、黙ってつづけることにした。
 性的な興奮を覚えると包皮のなかの陰核が勃起するらしい。それが感じているかどうかのサインである、そう信じてスレッタは指をうごかしつづけた。
 が、それよりさきにミオリネの全身が変化を見せはじめた。呼吸が徐々に荒くなり、両膝がふるえだした。スレッタからは見えないがミオリネの足の指が丸まってシーツを噛んだ。陰核の下にある襞がかすかにうごめいているのは、スレッタにもわかった。
 陰核から手をはなし、陰唇をさぐる。両方の親指で肉びらを広げて確認する。膣口がはっきりと見えた。左の親指で陰唇を押さえたまま、右の人差し指を添えた。
 ミオリネはなにも言ってこない。
 だいじょうぶ、任されている。スレッタはもう許可を求めなかった。すこしずつ指を沈めてゆく。
 ――うわっ……。
 スレッタは困惑した。狭いなんてものではない、第一関節まで入れたところで進まなくなった。ほんとうに入るのか、こんなにも狭いものなのか、それとも自分の指がごつごつとして太いのがいけないのか。一気に不安になってくる。
 いやそんなことはない、とスレッタはかぶりをふる。
 ――だってここから赤ちゃんが生まれるんだから。
 いくらなんでも、自分の指の直径が赤ん坊の頭部よりあるはずがない。
 ぐにぐにと指をうごかしながら押し進める。
「ぁ……」
 ミオリネの喉が鳴る音がした。
 スレッタは顔をあげないまま、
「痛かったら言ってください。やめますから」
 と言った。言いながら、きっとこのひとはどんなに痛くても苦しくても、けっしてやめてとは言わないのだろうなと思った。
 左手で膣口を押し広げる。大した助けにはならないが、いくらか指が進めやすくなった気がした。気のせいであってもいまのスレッタには大事なことだ。
 ミオリネにはもどかしい時間がつづいたかもしれない。スレッタの、作業のような情緒にとぼしい慎重なうごきに、文句ひとつ言わずに堪えている。それがスレッタにはありがたかったし、ごめんなさいとも思った。
 もうすぐ根元まで埋まりそうだというときに、指の腹がなにかざらざらしたところに触れた。
 一瞬ミオリネの腰が浮いた。
「ふ……うぁ……」
 息がもれる。うめき声のようなものが聞こえた。苦痛ではない、どこか甘ったるい、熱のこもった声だった。
 ――ここだ。
 ざらついた場所を撫でさする。何度も往復する。指のすべりが増してゆく。ミオリネにつけてもらった唾液だけではない粘性のある液体が混ざっている。あきらかに内部からの分泌液だ。
 指を抜き差ししながら、陰唇を押さえていた左手の親指で包皮からすこし出ている陰核を強めに押し、ぐりぐりとこねまわした。
「あう……ふ、くぅ、うう……んあっ」
 ミオリネの声はせつない甘さを増していった。短い息を吐きながら、顔をおおっていた手はいつのまにか頭の下の枕をかたく掴んでいる。
「んう……はっ……うあっ……」
 ミオリネの嬌声が聞こえるたびにスレッタは脳みそをかき混ぜられるような感覚に陥った。体がどろどろに溶かされて形を失ってゆくみたいだった。
 視界がぼやけてくる。下腹部が痛みではない異常をうったえかける。股間がなにか気持ち悪い。スレッタは無意識に太腿をすりあわせた。
「スレッ、タ……」
 名前を呼ばれた瞬間、目の前でパチンとなにかがはじけたような気がした。
 はっとしてスレッタは顔をあげた。
「ミオリネさん」
「アッ――はっ、ああっ!」
 スレッタの呼びかけに応えるように、ひときわ高い声があがり、ミオリネの体がのけぞった。
 薄い胸板が呼吸にあわせて上下する。スレッタの指を呑みこんでいるミオリネの秘部が脈打っている。どくどくと、まるでそこに心臓があるみたいに間断なく収縮し、絶頂の波がなかなか引かない。ミオリネの下半身は小刻みな痙攣をつづけている。そのあいだも口はしきりに空気を食み、唾液を垂れ流し、かすれた喘ぎ声をもらした。
 ――なか、熱い……。
 収縮運動がおさまるのを待って、スレッタはおもむろにぬかるみから指を引き抜いた。
 息を整えてからミオリネの横に寝転がる。股間の気持ち悪さは依然としてあったがスレッタは無視した。
「ミオリネさん、あの、痛くありませんでしたか」
 と言って、スレッタはミオリネのひたいに張りついた前髪をかきわけた。
 まだミオリネの呼吸は落ち着かないようで、かたく目をとじている。
「ごめん」
 はっはっと息を吐くあいまから何故か謝罪の言葉が出た。
 意味がわからずにスレッタが目をしばたかせていると、ミオリネは首をまわしてスレッタのほうを見た。
「交代、しようと思ってたけど、無理そう」
 体力的にまったく余裕がないわけではないが、なにせこのあと大仕事をしなければならない。ここで力尽きてしまうと元も子もなかった。
 ほんとうにもうしわけなさそうに、いたって真面目な顔で言うものだから、スレッタはなにか無性に嬉しくなって満面で笑った。
 ミオリネの頭を抱きかかえて胸に埋める。
「いいんです、気にしないでください。つづきはこんど、帰ってきたらすればいいんです」
「ん……」
 胸のなかでミオリネも笑った。これもやりたいことリスト入りだ。舌をからめたディープキスと初夜のつづき、今回まったくと言っていいほど感じなかった秘部以外への愛撫、作ったばかりなのにすでに性欲まみれのやりたいことリストに、ふたりして笑った。
 できれば顔を見ながらやりたいとスレッタは思う。顔が見えないのは正直に言ってさびしいし、不安にもなる。キスだってしたい。下を見ずにうまくやれるのかはわからないけれども、そうしたいと思った。
「時間、まだありますから。もうすこし寝て、ご飯食べて、それからみんなのところに行きましょう」
 うなずいたミオリネの髪のこすれる音がした。それから細い手がスレッタの腕を這い、腰にまわされる。
 あとにはしずかな寝息があるだけだ。

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