スレッタは、ベネリットグループの本社フロントへ向かう船のなかで深く座席に沈むと、クールさんのキーホルダーを右手にもてあそびながら、窓の外を眺めていた。
丸く切り取られた真っ暗な宇宙に映るスレッタの顔は、それと変わらない暗さに染まっている。
他の株式会社ガンダムのメンバーはそれぞれ別の場所でなにかしらの作業をしていたが、本社に着くまでとくに仕事のないスレッタはめずらしくだれの手伝いもせず、キーホルダー片手にひとりで時間をつぶしていた。
いったい船は進んでいるのかいないのか、かわりばえのない景色がつづく。スレッタは飽きもせずにぼんやりとそれを見ている。
いつしかスレッタは、この真っ暗な空間に点在する恒星のなかからミオリネを見つけたときのことを思い出していた。
もともと目には自信があった。エアリアルよりもさきに宇宙に浮かぶ豆粒みたいな存在に気づけるくらいには、彼女の視力と認識力はずば抜けていた。
ノーマルスーツを着ただけの人間が、いつ尽きるともしれない酸素ボンベを頼みになにもない宇宙空間にぽつんと浮かんでいる、その恐怖はあっというまにスレッタの全身をかけめぐり、ブリッジに連絡するやいなやエアリアルを発進させた。そのとき乗っていた学園行きの船にあるどの救助艇よりもエアリアルは速いという確信と、ことは一刻を争うという危機意識がそうさせたのだが、なれない船旅の影響で混乱していたのかもしれない。あんなにあわてふためいて緊急発進したのは何年ぶりだったのか。
――シチュエーションだけはロマンチックだったな。
まるで映画か小説みたいな運命的な出会いだった。でも、ほんとうにそれだけだ。救助後のやりとりときたら笑えないコメディシーンとしか言いようのないお粗末さで、およそロマンチックとはかけはなれていた。
あそこからなにもかも狂ってしまったのだ。
スレッタの憧れた学園生活も、ミオリネの地球への脱出も、ふたりが目指したものがご破算になった瞬間だった。
それを愛しげに懐かしむことがスレッタにはできなくなってしまった。別れる前はあれが真実運命の出会いだったと思っていた。出会うべくして出会ったのだと信じた。折にふれてそのことに心ときめかせた。
邪魔女、いまとなってはその事実だけがスレッタのなかにのこっている。
ふと、ひとの気配を感じてふりかえる。
ニカがスレッタのとなりの席に座るところだった。
「ニカさん」
「まだ迷ってるの?」
「え――」
「ミオリネに会うの、まだ迷ってるみたいだから」
ニカはやわらかく微笑みかける。
スレッタはニカから視線をはずし、うつむいた。
それからぽつりとつぶやいた。
「会いにいっていいのかなって、会ってくれるのかな、って、わからなくて……、いやがられるだけなんじゃないかって」
スレッタにはこういうところがある。大胆さと臆病さの振れ幅がとにかくおおきくて、相手がミオリネだとそれがより極端に出る。限度を知らないかのようにどこまでも浮かれ、どこまでも沈む。
「そんなことはないと、思うけど……」
ニカはそう言うしかない。
「前に、一度会いにいったんです。本社まで。だけど、会ってもらえなくて、そこでエアリアルとお母さんに捨てられちゃって、わたし」
それはスレッタが初めて語ったことだった。地球寮のみんなはあのときスレッタがミオリネと再会した上でうまく関係を修復できなかったと思っていて、ニカもそう聞いていた。
「たぶん、ミオリネさんはわたしが来たことを知らなくて、指定された面会の場所もおかしかったし、エアリアルかお母さんが横入りしたんだと思います」
「ミオリネに拒否されたわけじゃないんだね」
はい、と言って、スレッタはゆるゆると首をかたむけた。
「お母さんはわからないけど、エアリアルはわたしのためにそうしたんです。クインハーバーのこと、わたしを巻き込みたくなくてわざと置いていったんだって、そうわかったんです。だから、ミオリネさんも、もしかしたら同じだったのかもしれない、ミオリネさんもやっぱり、わたしのためにって」
言いながらスレッタの目はうるみ、唇は苦しげに歪んでゆく。
スレッタは出そうとした言葉を一度呑みこみ、目も唇も固く結んで黙っていたが、また話しだした。
「わたし、ミオリネさんに嫌われても仕方がないこと、たくさんしました。人を殺して笑って、それもお母さんのせいにして正しいって信じて、ミオリネさんにだめだよって言われたのに、向きあわずに逃げました。ソフィさんにだって……、でも、わたしは考えるの、やめてしまって……」
涙が言葉とともに溢れ出す。
「ミオリネさん、わたしとエアリアルのために地球に行くのを諦めて、大嫌いなお父さんに頭を下げてまで、会社、作ってくれました。人の命を奪うんじゃなくて、人の命を救う会社にしてくれて、わたし、それがすごく嬉しかった、んです。水星でエアリアルと一緒に、ずっと救助活動をしてたから、ガンダムを人殺しの道具じゃなくする方法を探してくれたのが、ほんとに嬉しかったんです」
「うん」
ニカはうなずいた。それはたしかにミオリネが埋没した過去から探し出して、みんなで決めた、株式会社ガンダムの在り方だった。人の命を救う、この理念はずっとニカたち社員の心のまんなかにどっしりと据わっている。
「なのに、わたしは、ガンダムで人を殺すって、ミオリネさんに言ってしまいました。ミオリネさん、すごく傷ついてたのに、わたしはそれも見ないふりして、ミオリネさんがわたしからはなれていくんじゃないかって、ひとりで不安になって、気持ちを試すようなこと言ったり、縛りつけるようなことしたり、した」
しゃくりあげながらスレッタは話しつづけた。言葉は嗚咽にまぎれてしだいに切れ切れになってゆく。
「わたし、ミオリネさんの気持ち、なんにも考えてなかったんです。いつも自分のことばっかり、考えて」
スレッタは顔が膝につくくらい、めいっぱい背を曲げた。背を丸めるのはスレッタの癖だ。椅子に座っているのでなければ、床で膝を抱えて丸まっていただろう。
ついにスレッタは号泣した。
まともな言葉は発せられなくなり、抑えることを忘れたスレッタの泣き叫ぶ声だけがニカに聞こえてきた。
けれども、ニカは、スレッタには悪いと思いながら正直なところ安堵した。
再会したスレッタのたたずまいは以前とはずいぶん変わっていた。落ち着きがあり、物怖じしなくなったかわりに快活さもなくなった。幼さが消えて大人になったと言えるかもしれないが、そこにはどこか諦念のようなものを感じないではなかった。じっさい母親についてスレッタは自分のことを諦めているだろう。そのこともあってか、乗れば死ぬガンダムに乗ることを決意したスレッタにはあまりに迷いも怖れもないように思えて、ニカはずっと気がかりだった。挫折と妥協の産物をニカはスレッタの成長だと認めたくない。そんなスレッタをいまのひどく傷ついているであろうミオリネに会わせたいとは、なおのこと思わない。
――だいじょうぶ、スレッタはスレッタだ。
なにもかもが一変したわけではない。自省や後悔で泣けるのは、スレッタがまだ諦めていないことの証明だ。諦めた人間は空虚に笑うものだから。
ニカはスレッタの丸まった背をさすって、泣きやむのを待った。
しばらくそうしていたら、スレッタはほんのすこしだけ膝から顔をはなした。
「ずっとそばにいてって、言ってくれたの、うそじゃないと思います。でも、そんな気がなくなるくらい、わたし、ミオリネさんのこと傷つけました」
スレッタの声はくぐもっていて弱々しい。まるで自分の言葉でさらに落ちこんでゆくようだった。
ニカにしてみればスレッタは他者に気を遣いすぎですらある優しい子である。ただし、ミオリネに対してはたびたびわがままな面が出ることもニカはよく知っていた。それがどういう感情に基づくものかも、その感情がどこで芽生えてどう育っていったのかも、ニカはすぐそばで見ていた。そしてそれはミオリネもスレッタに対して抱いているものに違いなかった。
ニカはスレッタの背をさすりながら、
「だいじょうぶだよ」
と言った。
明るくおだやかな声がスレッタの頭上に降りてきた。スレッタはまたすこし頭を上げてニカを見た。スレッタの顔面は涙と鼻水で溢れ、目も真っ赤になっている。
「ミオリネはスレッタのこと、いまでも大好きだよ」
「なんで、わかるんですか」
スレッタは鼻声で聞いた。
「わかるよ、ずっと見てたから」
ニカには自信がある。
「ミオリネはさ、スレッタのことが大好きで、自分のことはあんまり好きじゃないから、スレッタが幸せになれるなら、となりにいるのは自分じゃなくてもいいと思っちゃう」
「わたしは、……ミオリネさんじゃないと、いやです。幸せになんて、なれないです」
体を起こし、鼻をすすって、しゃくりながら、スレッタは言い切った。ミオリネに捨てられたあとの時間ほど苦痛なことはなかった。それは水星の環境をはるかに超える苛烈さで、またたくまにスレッタの心身を蝕んでいった。
「ミオリネだってほんとはそうだよ」
と、ニカもきっぱりと言った。グラスレー寮に囚われていたあいだふたりになにがあったのか、ニカは見ていないし、チュチュたちから聞いた情報しかない。それでも断言できる。
「ミオリネはいまだってスレッタと一緒にいたいと思ってるよ。一緒にいちゃいけない、って思いこんでるかもしれないけどね」
「どうして、ニカさんにはわかるんですか。わたしは全然、わからない、です。花婿だった、のに……」
「まあね。ほんとにずっと見てきたからさ、わかるんだ。ちょっとはなれたところからだったから、スレッタよりよく見えたんだろうね」
近すぎるとかえって見えないことってあるからね、とニカは、語気をどんどんしぼませてゆくスレッタにあえて笑ってみせ、すこし自慢げに言った。それから、――これはミオリネには内緒ね、と口に人差し指をあてて言った。
「ミオリネはね、最初から……そうだね、うん、スレッタが初めて決闘してグエル先輩に勝ったときから、スレッタのこと好きなんだよ」
「最初、から」
そんなわけない、とスレッタは思った。
ミオリネは当初、この関係は取り引きだと言ったのだ。地球への脱出が叶うまでホルダーでいること、それがミオリネの絶好の脱出機会を潰した邪魔女・スレッタの取るべき責任だったはずだ。
結婚するとやりたいことリストが埋まらない、デートができなくなる、浮気はだめだ、そう拒むスレッタに、ほんとうに結婚するわけではないのだから好きにデートすればいいと、ミオリネはなんでもないことのように言った。ただ地球に行くまでのあいだ婚約者の役をしてくれたらいいと。
スレッタはそれを真に受けたが、ミオリネはうそをついていたのか。だが、スレッタの知るミオリネはどう考えても好きな相手の浮気を許容するタイプではない。
「ミオリネさんは、うそは言わないです」
「そうだね、わたしもそう思う」
「じゃあ、なんで」
スレッタにはニカがわからない。このよく気がつく、スレッタにとってもっとも親しい友人は、なにを根拠にミオリネの愛情の不変を確信しているのだろうか。
「スレッタはさ、学園に来てすぐのころは、エラン先輩のことが好きだったでしょ?」
ニカはいきなり話を変えた。
不意を突かれたスレッタは戸惑った。そう言われてもスレッタはどう答えていいのかわからない。エランはいかにも物語に出てきそうな王子様然とした美男子で、編入したばかりでなにも知らないスレッタに親切にしてくれた。そこに好意をもったのはたしかだ。もっと彼のことを知りたいと思ったし、もっと仲良くなりたいとも思った。それは事実だが、
「エランさんと結婚したいとか、家族になりたいって思ったことはないです。けど、好きでした」
スレッタは正直に言った。エランのことは好きだった。ただ、ずっと一緒にいたいと思ったのは家族以外ではミオリネだけで、自分のことを伴侶に選んでほしいと願ったのも新しい家族になってほしいと望んだのもミオリネしかいない。そこだけは誤解してほしくなかった。
「うん」
ニカは否定しない。そうだろうと思う。エランへの好意がそうした感情に育つ前にスレッタはミオリネに傾倒してゆき、婚約者という立場と将来を強く意識するようになったとニカは認識している。
インキュベーションパーティーでのミオリネの大立ち回りは、スレッタの心をまったく彼女の存在で塗りつぶしてしまったといっていいだろう。
見ていただけのニカでさえすくなからずそうなったのだ。まして舞台で吊るし上げられて、なにを叫んでも聞き入れられずにひとり糾弾されていたスレッタには、そこから救ってくれたミオリネの姿はひときわ輝いて見えたに違いない。
そして、ミオリネにとってみれば無敗のホルダーを打ち破ったスレッタこそがそれだった。光そのものだった。ニカにはあのときのミオリネの感動が手に取るようにわかる。それもやはり、ニカ自身がそうだったからだ。
傲岸不遜なスペーシアンをやっつける、気弱な女の子の圧倒的な強さ、未知のモビルスーツ、制度成立以来ひさしく見なかったホルダー交代劇、トロフィーと侮辱されつづけた花嫁が初めて認めた花婿、ニカにはなにもかもが輝いていた。新しいなにかが始まりそうな予感にわくわくした。その期待はスレッタとミオリネという、アーシアンを差別しないふたりの風変わりなスペーシアンによって次々に実現していった。
スレッタは学園でのほとんどの時間をミオリネと過ごしていたから、スレッタと接することの多いニカはわりあいすぐにミオリネの気持ちに気づいた。花嫁とか花婿とか制度に関係なく、ミオリネという一個の生身の人間がスレッタに想いをよせていることを知っていたのは、おそらくこの時期ニカだけだっただろう。
「ミオリネは、スレッタがエラン先輩のことを本気で好きならそれでもいいと思ったの。スレッタがそれで幸せになれるなら」
理解ある花嫁だから多少の浮気は許すと言ったミオリネの強がりを、ニカはいまでもあざやかに思い出せる。エランに拒絶されたスレッタの背を押してふたたび彼のほうへ進ませたときの、あの横顔と声が脳裡に焼きついている。慈しみと寂しさ、憾みと怒り、嘆きと諦め、いりまじったそれらを抑えつけるかのようなかすかな笑みを、ニカは生涯忘れないだろう。
ニカは、この子をほうっておけないと思うと同時になにかきらきらと光る綺麗なものを見ている気持ちになったのをよく覚えている。可哀想だとか同情心だとかはふしぎとなかった。ただなんとなく、この子は地球のどこにいても綺麗なんだろうなと思った。
ニカはそのときのミオリネのことをスレッタに教えた。一言半句違えず、声音は正確に、その瞳と唇にこめられたいくつもの混淆とした感情を、ニカなりに読み取れたものはあまさず伝えた。
スレッタはぎゅっと唇をむすんでなにも言えなくなってしまった。それらにはスレッタも覚えがあることだった。
たしかに最初のころのミオリネはやたらとスレッタに干渉したがった。かってにスレッタの生徒手帳に自分の連絡先を入れるし、エランに誘われてペイル寮に行こうとすればどこからか現れて阻止したし、実習のメカニック探しもエランが寮生を紹介してくれるはずがミオリネが割って入った。エランと一緒に出かけようとしたときには怒って追いかけてきて暴れ、ニカたちに押さえられていた。
デートくらい好きにすればいいなんて、たしかにまったく口だけのようなミオリネの態度だった。しかし、いつからかそうした言動はぱったりと途絶えた。
当時スレッタはそれらの変化について深く考えることはなかったが、その境遇からあれほど御三家を警戒していたミオリネが、急に花婿と御三家の接近になにも言わなくなったのは、あとから思うと解せないことだったかもしれない。
じっさいエランの背後にあるペイル社はエアリアルの登場で早々に狙いをミオリネからスレッタに切り替え、罠を張っていた。あのままペイル寮に入っていれば傍目にはガンダムの呪いを克服したように見えるスレッタがどう扱われていたか、すくなくとも楽しい学園生活など一瞬で吹き飛んだだろう。
エランとの決闘のことを黙っていたときもミオリネはそれをきびしく叱ったが、といってスレッタを見限るようなことはしなかった。
負ければミオリネはエランの花嫁となり、エアリアルを失ったスレッタには花嫁を取り返すすべがない。スレッタが受けたのはそういう決闘だった。
――負けたらゆるさない。
怒気を含んだ声でそう言いのこして去ってゆくミオリネのうしろ姿が、スレッタの脳裡をよぎる。ミオリネはあのときなにを思っていたのだろう。あり得たかもしれない未来はすこし前にじっさい味わったもので、それよりもさらにおぞましい光景である。
スレッタがエランにつられてペイル社の仕掛けた罠にかかるたびに、ミオリネは助けに来た。
懲りないスレッタにミオリネはけっして失望しなかった。
「ミオリネさんは優しいです。わたしがくじけて諦めそうになっても、ミオリネさんは諦めずに助けてくれました。いつも」
涙声がだいぶんおさまってきている。スレッタを落ちこませるのがミオリネなら、立ち上がらせるのもミオリネだった。
「ミオリネはスレッタの自慢のお嫁さんだもんね」
とニカが言うと、スレッタは白くなくなった制服の袖で涙を拭き、
「はい」
と、そこだけはくぐもりのない声で言った。
ミオリネにとってスレッタが自慢の花婿であったかは、わからない。それでもふたりが想いをかよいあわせた時間は確かにあったのである。
いまもそうだと思いたい。あるいはほんとうにミオリネに愛想を尽かされたのだとしても、もう一度会って話がしたい。それがミオリネにとってどれほど苦痛でもスレッタには伝えたいことがある。ミオリネから与えられたすべてが、いまのスレッタを構成している。そのことへの感謝の気持ちを言葉にしたら、彼女はまた傷つくだろうか。
それがむりなら、せめてミオリネのお母さんのことだけでも話さなければいけないと思った。たとえスレッタがそばにいることはできなくても(それは胸が張り裂けるくらい悲しいことだが)、ミオリネのお母さんはいつもミオリネのそばにいてくれる、それだけはどうしてもミオリネに知ってほしい。そこまで考えてから、
――違う、いいわけだ。わたしはまた逃げようとしてる。
と心のなかで否定した。会ってどうしても伝えたいのはほかでもないスレッタの気持ちだ。心臓をまるごと取り出してでもぶつけたい自分自身の感情だ。
「まだ迷ってる?」
そう聞きながらニカにはもうわかっていた。スレッタの表情は晴れやかとは言いがたいが、もうためらっているようすはない。
スレッタはかぶりをふった。
「会いにいきます。ミオリネさんと話がしたい。でも、ミオリネさんになんて言われるかは、ちょっと、怖いです。なにも言ってくれないかもしれないし、会うのも断わられるかもしれない」
「でも諦めないんだよね」
「鬱陶しく進んできてって、泣いてお願いされたんです、ミオリネさんに」
スレッタは言いづらそうに言うと、やっぱりまずかったかなと苦笑いした。そうしてニカを真似るようにキーホルダーを持つ手の人差し指を立てて、――ミオリネさんには内緒にしてください、と神妙な顔でお願いした。
「ホルダーじゃなくなったあとも、温室と理事長室の鍵はわたしの生徒手帳で開けられたから、きっと心の底から嫌われたわけじゃない、と、思います」
キーホルダーを握る手に力が入る。信じられないのはミオリネというよりスレッタ自身だろう。これからやろうとしていることは、ミオリネの優しさに甘えてつけこむようなものかもしれない。それでもスレッタはミオリネを諦められない。
「それでもまだ不安ならよ」
いつのまにかチュチュが前の席にいて、ヘッドレスト(頭をもたれさせる部分)に腕を組んでこちらに身を乗り出した。
スレッタとニカがおどろいて顔を上げると、チュチュがニヤリと笑った。
「ミオリネに直接聞くしかないだろ。わたしのことまだ好きですか、ってさ」
すると、そうだそうだ、と、これもいつのまにか通路の向かいの席に陣取っていたオジェロまでもが会話にまざってきた。
「ミオリネの考えてることなんてミオリネにしかわかんねえよ」
なにせ経営戦略科首席で、いまじゃグループ新総裁の脳みそだぜ、オジェロは膝を叩いて笑った。
スレッタとニカもつられて破顔した。
それはまったくオジェロの言うとおりだった。
――ニカのことはニカに聞くしかない。
以前ティルが言ったことだ。
ミオリネのことも、やはりミオリネに聞くしかないのだ。
そんな当たり前のことに気づくのにずいぶんと時間がかかってしまった。スレッタは自分に呆れたが、これからはそうしていこうと思った。
「納得したふりは、もうやめます」
と言ったスレッタは、キーホルダーの鐶をつまみあげ、左手の薬指にひっかけた。
スレッタは笑った。
ひさしぶりに顔をくしゃくしゃにして、涙が出るくらいに笑ったのだった。
窓の外では本社フロントが近づいていた。
ミオリネが、そこにいる。
了