恋を知るとき

 娯楽と言えばエアリアルのコックピットにしか存在しなかった水星時代、スレッタにとって恋愛というのはひとりとひとりでやるものだった。
 そこには愛しあう者同士だけが存在し、景色はふたりを祝福するようにさわやかな風を吹かせ、きらびやかに輝き、甘い香りをただよわせる、そういう夢のような世界だと思っていた。
 いま思うとエアリアルのライブラリにある創作物はどれもこども向けだったのだろう。ひとの綺麗な感情だけを抽出したような、おとぎ話みたいなものばかりだった。母かエアリアルが閲覧制限をかけていたのかもしれない。
 編入先の学園でリリッケに見せてもらったものはエアリアルのライブラリとはかなり差があって、少女漫画ひとつとっても目をそむけたくなるような過激な描写があることをスレッタは知った。
 そこに描かれていた恋愛模様はけっして綺麗なだけのものではなく、ふたりきりのきらきらとした夢のような世界でもなかった。
 ヒロインとヒーローのほかにライバルと呼ばれるキャラクターが登場し、やたらに不穏で、攻撃的で、いがみあい、憎みあい、あらゆる悪感情が錯綜する世界、ときにはライバルが勝利する結末、それが完全な空想なのか現実をもとにしているのか、スレッタにはわからなかった。面白いけれど怖いな、というのが当時のスレッタの素直な感想である。
 それからリリッケのお勧め作品をあらかた読んだスレッタは、つぎに現実の恋というものに興味をもつようになった。
「チュチュ先輩って、好きなひとはいるんですか」
 会社のPV撮影が一段落ついてオジェロたちが仕上げの編集作業に入ったころ、御役御免になったスレッタが共有スペースで一緒に休憩していたチュチュにやぶからぼうに聞いたのも、その発露だろう。
 スレッタのなかでだけ前置きのある質問は、チュチュにとってやぶからぼう以外のなにものでもなかった。
 ソファに深々と沈んでいたポンポン頭が起き上がる。
 ローテーブルを挟んだ反対側で、白い制服を着た年上の後輩が、めったにないくらい真剣な表情で前のめりにこちらを見ている。
「は?」
 ふだんは怒りっぽいチュチュも、さすがにスレッタのこの突然のふざけた問いにはただ怪訝な声をあげるだけだった。
 なにかおかしなこと聞いちゃったかな、スレッタは不安になりながら再度聞いてみる。
「チュチュ先輩の好きなひとはだれかなと思いまして」
 チュチュにはスレッタがなにを言っているのかまったくわからない。
「あーしの」
「はい」
「なんだって」
「好きなひとです」
 チュチュはちょっと考えてから、
「地元のみんなとニカねえ」
 と、簡潔に答えた。たぶんスレッタの望んだ回答ではないと思いながら、しかし、この後輩の質問に対して正直に答えてやるならばそう言うしかなかった。
 はたしてスレッタは不服そうにむつと唇をとがらせる。
「そういうのじゃなくて……」
「じゃあどういうのだ」
「恋しちゃったひとですね」
 スレッタはさらりと言った。もっと照れとかいたずら心とかはないのか。リリッケとはずいぶんちがうとチュチュは思った。
「いるように見えっか」
「全然見えません」
 チュチュはスレッタをぶっ飛ばしたくなった。が、この怒りはふたりを分かつテーブルを越えることはなかった。めんどくさいという感情のほうがまさった。
 おおきな溜息を吐いてチュチュは気分をあらためる。そんなアンガーマネジメントをできたことにわれながら感心しつつ、このさい気になっていたことを問い質すことにした。
「おめーはどうなんだよ」
「わたしですか」
「ひとに聞いといて教えねえのはナシだろ」
 すこしはなれた場所でタブレットとにらめっこしている動画編集班が、そろりと聞き耳をたてる。
 というのも、ちかごろのスレッタはミオリネに心酔することはなはだしく、エランのことなどすっかり忘れてしまったように思われたからである。
 インキュベーションパーティーから帰って来たスレッタは、まったくエランの話をしなくなった。デートをすっぽかされたことへの未練も口にしなくなったし、こっそり待ちあわせ場所に通うこともなくなった。同行したニカとマルタンが言うにはパーティー会場でエランには会えたらしいが、いまだ休学中の彼をスレッタがどう思っているのか、さっぱりわからない状態である。
 わかっているのは、その会場でミオリネがスレッタのために会社を起ち上げ、チュチュたち地球寮生はその社員にされ、以来スレッタはミオリネにくびったけ、ということだけだ。
 ミオリネを好いているわけではないがエランのことはそれ以上に好かないチュチュとしては、これでスレッタが二度とあのクソスペーシアンに泣かされずに済むのならあんなやつのことは永久に忘れていろと思う。が、それとスレッタの気持ちは別問題だろう。
 そんなチュチュの心配をよそにスレッタはあっけらかんとして、
「いませんけど」
「はあ!?」
 大声で叫んだのはチュチュだけではなかった。
 寮内にいる全員の驚愕の視線と叫び声をあびたスレッタは、自分はいったいとんでもないことを言ってしまったのではないかと、ひたすら困惑した。

   *

 スレッタがミオリネの温室に行ったのを確認すると、チュチュたちは椅子をあつめて車座になった。
 緊急会議である。
「あれは犬だな、でっかい犬だ」
 と、まずヌーノが言った。
「ほら、あー、ニカんとこにいるじゃん、おでこに眉毛みたいな斑点あるやつ」
「ああ、柴犬だね」
「それそれ。眉毛まるいし、しっぽついてるし」
 ヌーノはうしろで結わえられている一房をしっぽと表現した。たしかにあれはミオリネにくっついて歩くときゴキゲンに揺れる。
「ようはあれだろ。姉妹ともども保健所に連れてかれてあわや殺処分、ってとこでミオリネが保護したわけだ。そりゃ飼い主のこと大好きになるし、わんわん鳴いて庭かけまわるだろ」
「エアリアルって女の子なの?」
 ニカの関心がへんなところに飛んでいった。
「いや性別は知らねえけど」
 つかニカが知らねえのにおれが知るわけねえじゃん。ヌーノは頭を掻いた。
「たしかにこのところは時間さえあればミオリネといる。楽しそうだし、吃りもなくなってきた。リラックスできるんだと思う」
「あの社長と一緒にいてリラックスできんのは才能だなあ」
 ティルの言葉を受けてオジェロが呆れたように言った。
「あーしはムリ。ストレスしかたまらん」
「わたしは楽しいですよ。とてもお勉強になりますし」
 同じ経営戦略科のリリッケからすると、ミオリネは優しくて尊敬できる先輩らしい。スレッタも似たようなことを言っていた。
「うちのミオリネさんはすごく優しくて頭もすごくいいし、ほんと、すごいんですよ。あとよくお勉強を教えてくれるんですけど、教え方もすごく上手でわかりやすくて、授業よりもよく覚えられるんです」
 終始こんな調子だ。いつもはどこか文語調のかっちりとした言葉遣いをするスレッタは、ミオリネを称賛するときだけ語彙が貧しくなる。その上かならず「わたしの」「うちの」からはじまり「ミオリネさんは」「お嫁さんは」に繋げるので、いったいミオリネのことを褒め称えているのかそのミオリネを花嫁とする自分を誇っているのか、ちょっとわからなくなる。おそらく両方だろう。
 しかし傍目から見たミオリネはどちらかというとスレッタに冷たい。なにもスレッタにだけそうしているわけではないが、花婿への躾なのかなんなのかとくにきびしく当たる。語気は強いし言葉には棘があるし肉体的な接触を極端に嫌う。チュチュと言い争いをしているときのほうがよほど態度がやわらかいくらいだ。
 それでもスレッタはめげない。いくら鬱陶しいと言われてもスキンシップを拒まれてもちょっとした口論でこっぴどくやっつけられても、彼女はミオリネにぶつかってゆくことをやめない。かつての臆病さは吃音癖とともにすっかり鳴りをひそめていた。
 まあ鬱陶しいところをスレッタの美質としたのはほかならぬミオリネであるし、スレッタからすればお墨付きをもらったつもりで存分に鬱陶しさを発揮しているのかもしれない。
 それにしても、いまのスレッタはミオリネのことしか頭にないのかというくらいミオリネにべったりだ。
「スレッタのやつ、シングルタスクなとこあるしなあ」
 と、オジェロが言った。
「たしかにエアリアルから降りているときは、ひとつのことの夢中になると、ほかのことはいいかげんになる傾向にあるな」
 アリヤが言葉をついだ。じっさい一度にふたつの頼み事をされるとスレッタはどちらか一方を忘れてしまうことがままある。ずば抜けた並列思考と処理能力はエアリアル搭乗時限定らしい。
 エランに夢中だったころは花嫁のミオリネを放置しがちだった。ミオリネに夢中になったいまはエランの存在は脳内から消え去った。そういうことだろう。
「たぶん復学したら思い出すんじゃねえかな、エランのこと」
 オジェロは言う。
 とはいえ、そのときふたたびエランになびくということはおそらくないだろう。
 それほどスレッタのミオリネへの心酔っぷりはすさまじいものがある。
 知らない人間に怯え、慣れない環境に竦み、そのでかい図体をミオリネのちいさな体のうしろに隠していたスレッタは、あいかわらずミオリネの背後にいるもののその表情は明るい。どうですかうちのお嫁さんはすごいでしょうといった感じにきりりと眉を上げ、らんらんと目を輝かせている。
 やれデートだやれエランかグエルか恋の決闘かと、リリッケがはしゃいでいたころはまちがってもこんなふうではなかった。そういうんじゃないです、わからないです、と戸惑いながら小声で言うような子だったのだ。
 それがいまでは「わたしはミオリネさんの花婿なんですよ」と、わかりきったことを主張してはばからない。しつこいほど言う。その「花婿」にこめられた感情の温度は、あきらかにおしつけられた形式上の贋物ではない。そこにあるのはたしかな誇りと喜びである。
「……ミオリネはさ」
 これまでなにも言わずみんなの話を聞いていたマルタンは、ゆっくりと口をひらくと、
「スレッタにとって白馬に乗った王子さまなんだ。ヒーローなんだよ」
 と、なにかを噛みしめるように言った。ほんのちょっと嬉しそうに笑いながら、どこか慈しむように言うのだった。
「ねえな」
「白馬の王子さまってがらかよ、あの暴走特急お姫さまが」
「ヒーローってもっとでかくて腕っぷしの強いやつじゃね。チビの貧弱のモヤシヒーローは聞いたことねえな」
「まあ高貴な感じではないな。かなり俗っぽい子だ。むしろそれは社長のよいところだと思うよ」
「うん、本人がそう見られがちなせいかな、彼女は属性でひとを見ないから、ぼくたちとも同じ目線をもてる。でも食生活は改めたほうがいい、庶民派というには乱れすぎている」
「女帝って感じですよねー」
「みんなひどくない!?」
「あはは、わたしはミオリネが王子さまだって思うよ、マルタン」
 オジェロがみじかく切り捨てる、チュチュが溜息まじりに吐き出す、ヌーノがヒーローを論ずる、アリヤがミオリネの美点を挙げて擁護する、ティルがそれに肯首し欠点を挙げる、リリッケがマルタンとは真逆の評を添える。
 散々に否定されてショックを受けるマルタンに、ニカだけが同調した。
 ニカはマルタンと一緒にあのインキュベーションパーティーに参加していて、事件のすべてを目撃したからだ。ニカにはマルタンの気持ちがよくわかる。
 あの場にいなければわからない、あの場にいてスレッタに同情的な者だけがそれを鋭敏に感じ取った。
 会場を覆う物騒な空気、スレッタの置かれた異常な状況、自分とかけがえない家族にふりかかる無数の非難、存在の否定、破壊を求める声、スレッタとともに舞台に上がり、ただ見ているだけのエラン、そのとなりで来ない母親を呼びつづけ、懸命にエアリアルを守ろうと叫ぶ無力で孤独なスレッタ、そそがれる悪意を切り裂くように響き渡る、ミオリネの強く澄んだ声――
 はからずもヌーノが言った殺処分≠ヘ、けっしておおげさな表現ではない。きっとミオリネがいなければほんとうにそうなっていた。すくなくともエアリアルはスレッタから取り上げられ、忌避すべきものとして廃棄されていただろう。魔女と糾弾されたスレッタだって学園に残れたのかどうか。
 なるほど、ミオリネはスレッタの救いのヒーローにちがいない。まさしくお姫さまを助ける王子さまだ。だれも……母親さえなにもしてくれない危機に、ミオリネだけがスレッタのために行動した、スレッタとエアリアルを守ろうとした。あれほど嫌悪していた父親を頼ってでも、ふたりを守りきった。
 ただミオリネだけがそれをした。
 あのときだけではない、ミオリネはそうやってずっとスレッタを守ってきたのである。その献身がスレッタにとどいた、それだけのことだ。ニカはそう思っている。
「まだ自覚がないのかもね」
 と、ニカは言った。
「あんだけミオリネさんミオリネさんしてて自覚ねえのかよ。まあ本人が好きなやつなんていねえっつってんだからねえんだろうけど」
 チュチュは舌打ちした。
 それとともにいくつかの苦笑と嘆息が寮の床に落ちた。
 ふむ、とアリヤが得心したようにつぶやく。
「スレッタ自身、まだわんちゃんの気分なのかもしれないな。いまは大好きなご主人さまのためにたくさんがんばって、褒めてもらえたらそれで満足なのだろう」
 このアリヤの見解は全員を納得させるのに充分だった。ミオリネがいつスレッタを褒めていたっけなという疑問は、それぞれの胸のうちでさらりとながされた。
 結論は出た。
「これまでどおり見守るしかないよ。なにかあったら各自でフォローしていこう」
 マルタンがしめくくって、その日の会議はおわった。

 事業方針をGUND医療に定めてからの株式会社ガンダムは、本格的な起業に向けて俄然忙しくなった。
 社長のミオリネはティルを連れて融資先や本社などあちこちをかけずりまわっているし、事務のリリッケやマルタンらは書類を右に左にせわしなく動かして、ニカたちメカニック班はペイル社から出向して来たベルメリアからGUND技術を吸収するためにひっしだ。
 テスターという仕事を任されたスレッタは現状やることがないので、書類の整理や掃除にゴミ捨て、お茶の用意など、もっぱら雑務に従事している。
 ――なんか想像してたのとちがうなあ。
 今日も不在の社長机を拭きながらスレッタはそんなことを考える。
 理想としてはティル、ニカ、リリッケあたりの信頼あるポジションがよかった。GUND技術の安全性の証明のためにはテスターの仕事がとても重要なのは百も承知だが、スレッタはもっといかにも「ミオリネ社長の右腕」といった感じの役職に就きたかった。もちろんミオリネにそんなことを頼めるはずもないし、自分にその能力がないこともわかっている。幼いころからGUND-ARMすなわちエアリアルを操縦してきたスレッタが、GUND義肢のテスターとして適任だということも理解できる。げんに同じパイロット科のチュチュは事務職なのだ。テスターは長年ガンダムのパイロットとして活動しているスレッタの重大任務だった。
 ただ、どうにもさびしい。多忙なミオリネのそばにいられないのも、会社のまとめ役を任せてもらえないのも、GUND技術の未来を託されないのも、スレッタはものすごくさびしかった。
 テスターの仕事がそれらより劣っていると言いたいわけではない、けっしてそういうことではないが、いつ来るかもわからないその重大任務を待つ時間はどうしようもなくスレッタを焦らせる。
「会いたいなあ、ミオリネさん」
 出張から帰って来たらぴかぴかの社長机を見て「よくやったね、スレッタ」そう言って頭を撫でてほしい。喜んでほしい。笑ってほしい。じっさいにそんなことをされた記憶はついぞないが、想像上のミオリネはいつもスレッタの赤い髪を愛おしげに撫でながら、たくさん褒めてくれる。
 ――いつか、本物のミオリネさんもそうしてくれる。
 スレッタはとくに根拠もなく信じている。
 地球寮兼社屋の清掃をひととおり済ませると、スレッタはもう一度社長机を念入りに拭いた。
「うん、ばっちり」
 ちりひとつないミオリネのスペースに満足する。
「スレッタ、そろそろ呼び出しの時間じゃなかったか」
「あっ」
 すっかり忘れていた。
 アリヤに言われて決闘委員会のラウンジに向かう。
 ホルダーの二週間ごとの決闘義務の期限が迫っており、てごろな挑戦者を見繕って戦うことになっていたのである。
 決闘相手はミオリネが選んでくれた。
 パイロットの名前も寮の名前もスレッタはすぐに忘れてしまったが、ヌーノがゲテモノモビルスーツ屋だと言っていた気がする。オジェロは相手が雑魚すぎてスレッタのオッズがどうとか御三家ならどうとかぼやいていた。
 出張で決闘に立ち会えないミオリネはいつものしかめつらで、
「負けたら承知しないから」
 と、しぼりだすように言い、ティルをともなって出立した。
 スレッタとエアリアルの力をよく知っているはずのミオリネは、相手の実力にかかわらずいつも不安げにスレッタを見る。
 たしかに戦いの場ではなにが起こるかわからないし、いつかのように盤外戦術をとられるかもしれない。スレッタとエアリアルだけではそれをひっくり返せなかったのも事実である。
 ミオリネに言われるたびにスレッタは、――もっとわたしとエアリアルを信じてください、と言いたくなった。しかし、ミオリネの不安もわからないではない。スレッタとエアリアルの勝利を信じてなお、どうしようもなく湧き出る感情なのだろう。だからスレッタも信じてほしいと思っていても言えなかった。ミオリネはだれよりもスレッタとエアリアルを信じてくれている。それだってわかりきったことだ。
 決闘の勝敗ひとつで、昨日までの婚約者が今日にはちがう人間になり、明日にはまた代わっているかもしれない。その新しい花婿がミオリネのことをどう思い、どうあつかうかは不明だ。グエルのように横暴かもしれず、エランのように無関心かもしれない。いずれにしてもそれはとうてい婚約者のとるべき態度ではない。
 そう思うとかつてのスレッタも褒められたものではなかったし、それを自覚したときにはたくさん反省した。
 ミオリネは花婿を選べない。
 そういう残酷な制度のてっぺんで、彼女は「花嫁」という言葉だけは華やかな称号を背負わされ、意思のない物みたいに置かれている。
「負けるな」と言えても「勝て」と言えないのは、選べないミオリネの苦悩の表現にちがいなかった。

 ラウンジでは、シャディク、セセリア、ロウジといういつものメンバーがソファで寛いでいたが、ほかに新顔もあった。
 前のホルダーであるグエルの弟のラウダだ。
 ラウンジのドアが開かれてからずっとスレッタを睨んでいて、はっきり言ってかなり怖い。
 ジェターク寮生のスレッタへの敵意は深刻である。社長のヴィムの人格をあまさず反映したこの寮は、そろいもそろってプライドが高く、アーシアンだろうがスペーシアンだろうがひとしく侮蔑する。
 スレッタにはよくわからないが、グループでも学園でもずっとトップだったのにグエルのホルダー転落をきっかけに急速に落ち込んだため、うずたかく積まれた自尊心の置き場所がなくなったのだろうと、アリヤが教えてくれた。それでスレッタとその所属である地球寮にやたら噛みついてくる。
 ラウダはその筆頭だった。
 ――グエルさんはわたしに決闘で負けた、それだけだって、グエルさんはわかってるのに。
 その点ではミオリネにとって最低の婚約者でもモビルスーツパイロットとしてはちゃんと強かったんだなと、スレッタは思った。
 スレッタはすこしだけラウダを睨み返した。ラウダは苛立ち顔をさらに深めると、ふんと鼻を鳴らした。ぎりぎりで自制している感じだ。
 スレッタは、許されるなら将来家族になるはずのひとに乱暴するから悪いんですくらいのことは言ってやりたかった。スレッタはそのためにグエルに決闘を挑み、そして勝ったのである。
 スレッタからジェタークの名誉とホルダーの地位をとりもどしたいのなら、同じように戦って勝てばいい。いたって簡単な解決方法だ。
 この学園は一事が万事そういう決まりで、グエルだってずっとそうしてきたはずではないのか。義務でもない決闘をわれからふっかけて連勝記録をのばしていたことを、スレッタはオジェロから聞いて知っている。
 なのに現状はホルダーのスレッタはおろかチュチュにさえ、ジェターク寮から決闘の話は来ていない。
 したがって、――口だけの連中なんてほうっておけばいい、と言うミオリネの意見は正しい。正しいにちがいないが、彼女は彼女で周囲の蔑視と攻撃性に慣れすぎているように思われてスレッタはやるせない。(そう口にすればミオリネは「あんたがそれ言うの?」と言い返すのだろうけれど)
 ミオリネが気にしなくていいと言うからなるたけ相手にしないだけで、じつのところスレッタはずっと怒っていた。むこうが態度を改めないのだから仕方がないじゃないですか、スレッタとしてはそんな気持ちである。だからどれほどミオリネに窘められてもスレッタの怒りはすぐに復活する。同じことのくりかえしだった。いつおわるのか、いいかげんあっちの逆恨みにも自分の感情にもうんざりする。
 スレッタは委員会のメンバーで唯一まともに面識があるシャディクに小走りに走り寄って、
「決闘のお相手は」
「まだ来ていないよ。指定の時間まですこしあるから、水星ちゃんも座って待つといい」
 そう言われてスレッタはシャディクのとなりに腰を降ろした。ラウダからいちばんはなれているし、いちおう知人と言えるシャディクのそばのほうが安心する。
 シャディクはちょっと困ったように肩をすくめて笑った。
 そういえば、とスレッタは思い出した。
 ――シャディクさんはミオリネさんと結婚したいんだっけ。
 シャディクはミオリネのことを好きなのだろう。ミオリネにはそんなわけないとあっさり否定されたが、スレッタはそうは思えなかった。経営戦略科の首席でも見誤ることはあるはずだ。
 ミオリネを利用したいなら決闘に勝てばいいだけなのに、シャディクがそうしないのはミオリネの背後にあるものに興味がないということだ。スレッタはいいかげんこの学園のいびつな構造を理解しはじめている。シャディクのやり方はここでは特異なのである。
 花嫁とかホルダーとかそういうものと無関係にミオリネを求める人間がいたことは、スレッタをひじょうにおどろかせた。自分以外にもそんなひとがいるんだと感心した。そうして、まるで同志でも見つけたような気分でシャディクに好感をもつようになったのだった。
 シャディクはいつもおだやかに笑い、低くおちついた声で優しく話しかける。だれに対してもその態度をくずさないし、ミオリネにもそうである。
 ――でも、やっぱりなんか、ちがう気がする。
 自分や決闘委員会のメンバーに向ける表情も言葉も、ミオリネに向けられたそれとくらべて、ほんのわずかに温度が低いように感じられた。ミオリネにだけそそがれる、ほのかにあたたかみのある笑貌とごく微量の興奮を含んだ声、あれ以外は作り物なのかもしれない。インキュベーションパーティーの帰りの船でふたりのやりとりを見たスレッタは、シャディクの温顔についてそんなふうに考えるようになった。

 ほどなく決闘の相手がやって来た。
 スレッタと同じくらいの背丈の、パイロット科としては小柄な部類の男子だった。
 懸けるものはエアリアルの解体。
 今日はそっちかとスレッタは思った。エアリアルの譲渡か廃棄、もしくはスレッタの退学、懸けられるのはいつもそれだった。スレッタにホルダー奪還の機会を与えたくないというのがわかりやすい。
 ――このひとはミオリネさんには興味あるのかな。
 これまで決闘相手からミオリネや花嫁という言葉は一度も出たことがない。ホルダーの決闘には自動的に花嫁が懸けられるから口にするまでもないのかもしれないが、スレッタはなんだか気にいらない。
 みんなミオリネの持っているグループ株がほしいだけでミオリネがほしいわけではない、それがスレッタには無性に腹立たしいのだった。
 トロフィー、景品、株のおまけ、会社の付属品、ミオリネにぶつけられる侮辱の数々は、それを発する者たちにとってはまぎれもない真実なのだろう。なにせミオリネと結婚すれば御三家に匹敵する莫大な資産が手に入る。
 投機ゲームならうちの社長がいちばん強いのにな、いつだったかオジェロがそんなことを言っていた。花嫁を懸けた決闘はモビルスーツによる戦闘でなくてはいけないが、その制限がなければ花嫁の決闘自体は禁じられていないわけだから、投機で戦えばホルダーの座は社長の独占だったはずだ。度胸があってリスクを怖れない、勝負どころがわかっているし、なにより迷わないのがいいな。ばくち打ちの素質がある。オジェロはスレッタに自説を披露した。冗談半分、本気半分といったところだ。
 じっさいミオリネは以前から個人で投機をおこなっていて、その収入は温室の設備維持と肥料や工具の購入のほか、幾度となく計画・実行し、失敗した地球への逃走資金としても費やされた。
「株だけはうなるほど持ってたから」
 ミオリネは忌々しげに吐き捨てたが、すぐに微苦笑して、
「温室の維持だけなら余るくらいだし、使いどころがあってよかった」
 はした金だけどないよりはいいし、と平然と言い放つミオリネの言葉はスレッタにはちょっとよくわからなかったが、ミオリネがスレッタとエアリアルのためにどれほど尽くしてくれているのかをあらためて実感できた。
 そうまでさせていることをもうしわけないと思いつつも、心は歓喜で沸きあがる。
 ――ミオリネさんがわたしを助けてくれたみたいに、わたしもミオリネさんを助けたい。
 スレッタがテスターとして会社のためにできることはまだない。しかし、ホルダーとしてならある。
 社長であり花嫁であるミオリネの自由と権利を守ること、そして、
「株式会社ガンダムのPVがあるので、ぜひ寮のお友達や親御さんに見せてあげてください」
 つりあうことのない錘を天秤(リーブラ)の皿に乗せてスレッタは戦う。
 決闘相手は花嫁の話をしなかった。
 むかむかとしながらスレッタはラウンジを退出した。
 ――みんな節穴なんだ。
 スレッタが一目惚れしたうつくしい瞳もつややかな長髪も、困っているひとを助けずにはいられない善良さも逆境を打ち破る聡明さも、権力に目がくらんだ人間の視界にはなにひとつ入らない。
 お姫さまよりワガママ女のほうがマシだと言ってチュチュのつけたそのひどいあだ名をミオリネが許容した理由が、いまならすこしわかる。スレッタはミオリネを強引だとは思ってもわがままだと感じたことはないが(彼女はいつもスレッタのために行動してくれるから)、とにかくチュチュがミオリネ個人の人格を評価したものにちがいなく、ミオリネはそれが嬉しかったのだろう。オジェロにしてもそうだ。ミオリネの背後にあるものを考慮せず、ミオリネの能力と気質だけを見ている。
 ミオリネが株式会社ガンダムの母体として地球寮を選んだのは、ほかに選択肢がなかったにせよミオリネからの信頼と好意のあかしであり、その判断は正しかったと言える。
 で、ついスレッタは、――それにくらべて……、と世間の見る目のなさを嘆いてしまう。
 わたしのお嫁さんはとびきりすごいひとなんだと学園中に自慢してやりたい反面、自分と仲間が彼女のほんとうのひととなりを知っているならそれでいいじゃないか、という思いもある。すくなくともミオリネ自身は満足している。それがいいことなのか悪いことなのか、スレッタにはわからない。
 地球寮にもどる道中、ふと、
 ――シャディクさんはどうしてなにもしなかったんだろう。
 そんな疑念がスレッタの胸をとおりすぎていった。

 試したいことがあったので、今度の決闘にはチュチュからロングライフルを借りようと思った。
 エアリアルにはない装備だからスレッタは実習でしか使ったことがない。
 プログラムどおりの単調な動きしかしないターゲットを撃ってもたいした練習にならないし、対象の距離も知れている。せっかくだから今回のゲテモノモビルスーツ戦で超長距離射撃の練習をしようと思ったのである。
「コツっていうコツはねえな」
 スレッタから助言を求められたチュチュは腕を組んだまま体をよじった。なんと言えばいいのかほんとうにわからないようだ。ああでもないこうでもないと唸り声をあげながら、それでもなんとか参考になればと自分が戦闘時になにを考えてどう動いているのか、数が多いとは言えない決闘のログを見せながら可能なかぎり説明してくれた。
「距離えぐいですね」
「障害物はもっとえぐい」
「これ、わたしはビームサーベルで掃除しちゃうなあ」
「障害物なくなったらこっちがあっちの射線に入んだろ」
「小刻みに動きながら接近して斬ります」
 スレッタとしてはそれがてっとりばやくて確実だ。
「ビットは使わねえの?」
「あの子たちは気まぐれなので、自分で行ったほうが失敗がないんです」
「ああ、いっぺん機嫌そこねるとやべえよな。へたすると、まる一日さっぱり動かねえ。あんまニカねえを困らせんなっつーの」
「みんな自分勝手なんですよね。エアリアルの言うことはそれなりに聞くから、さいきんは任せっきりです」
 噛みあっているようで噛みあわない会話がつづく。
「いまチュチュ先輩のビームが曲がったような……」
「そりゃ錯視ってやつだな」
「あっ、ゼロ距離だ。なんかかっこいいですね!」
「見かけだけだ。こんなに近づかれた時点で話になんねえ。勝てたのは運だし、あと相手がバカでアホでマヌケだった」
「はあー、すごい、ほんとにあんな狭い隙間を通しちゃった……」
「いまんとこあーしのベストだな。アドレナリンどばどばだったわ。ニカねえも最高の仕上がりつって送り出してくれたんだよ。あーなつかし」
 チュチュは誇らしげだ。スレッタが編入するほんの十数日前にやった決闘で、懸けたのはチュチュの退学とマルタンへの謝罪。どこかで聞いたような話だった。
 本人は格闘主体でいきたかったが地球寮の資金難から仕方なくいまのスタイルになったらしい。愛機のデミトレーナーも旧型でスレッタが実習で使っているものより性能はずっと劣る。なによりまだ一年生のチュチュはモビルスーツの操縦の経験はほとんどない。
 にもかかわらずチュチュの射撃技術は卓抜としている。
 スレッタはチュチュの技量に感動し、さらに尊敬の念を深めた。スレッタにとってチュチュはまさしく先輩であった。
「そういやさ」
 チュチュが思い出したように言う。
「決闘のときにミオリネがいねえの、はじめてだろ、平気なんか」
 スレッタは一瞬言葉に詰まった。
「それは、たしかにさびしいですけど……」
 あまり深く考えていなかったが、そう言われると途端に不安になってくる。ミオリネがいないとエアリアルのやる気がなくなるとかガンビットが反抗期になるとかスレッタの腕前が落ちるとか、そんなことはありえないが、モビルスーツ同士で戦うこと自体スレッタは学園に来てはじめて経験したことで、ミオリネとはそのときからずっと一緒だった。ミオリネ不在の戦闘行為はスレッタにとって完全に未知の領域だ。エアリアルのやる気はなくならないがスレッタのやる気はまちがいなく激減する。
「新しい戦い方とか試してる余裕あんのか」
「できること、増やすに越したことはないと思います、ます、けど……ううん」
 逃げたら一つ、進めば二つ、お母さんにもらった魔法の言葉も、いまはすこし元気がない。でも、
「やれるだけやってみます」
「おお、がんばれよ。あーしのライフル壊したら、修理費全額おめー持ちだからな」

 決闘の日が来た。
 スレッタは自分から望んで決闘をしたことはほとんどない。というより最初の一回きりである。それさえミオリネに対する謝罪がほしいなら決闘しろとグエルが言うから戦ったにすぎない。
 やりたくてやった決闘なんて一度もないが、それにしても今日はとくに気のりしない。
 どうしてホルダーには決闘義務なんてものがあるんだろうか。ミオリネさんの誕生日まで平和にすごしたっていいじゃないか。ああ、それじゃ争奪戦にならないからかな。争奪戦て。つくづくミオリネさんを傷つけるだけのいやな制度だな。もういっそ地球に駆け落ちしたい。水星に帰るのもいいかもしれない。でもミオリネさんに水星は合わないかな。娯楽はないし電気はしょっちゅう停まるしトマトも作れないし花も咲かないし。やっぱり地球がいい。地球にしよう。株式会社ガンダム地球支社。うん、いい感じ。本社はマルタンさんに任せよう。
 白地に金と黒の差し色が入ったホルダー仕様のパイロットスーツを着て格納庫まで来たスレッタは、エアリアルを見上げながらぶつくさと不満と願望をもらした。
 そのようすはメカニック班をおおいに動揺させた。スレッタがエアリアルに話しかけるのは日常の風景だったが、これはどう考えてもそうではない。スレッタはエアリアルを見ているだけでエアリアルと話しているわけではない、ただの独り言だ。
「社長っていつ帰って来るんだっけ」
「……明後日だね」
 ヌーノの問いにニカが答えた。その日はもう決闘義務の期限をすぎている。
 不穏な空気を破るべくオジェロがスレッタの肩を叩いた。
 びくっとしてスレッタがふりむいた。まるではじめて格納庫にひとがいることに気づいたみたいだった。
 ――マジか。
 オジェロは一瞬ひるんだが勇気を出して話しかける。
「おいおい、だいじょうぶかあ? おれら、ほとんど元返しのオッズでもちゃんとスレッタに賭けてんだぜ」
 うしろのほうで、うんうんとヌーノが首を縦にふる。
 それはスレッタの知ったことではないが、とりあえず謝った。
 ――完全にうわのそらだ。
 やっぱり心配だ。さすがに負けるとは思わないがどんな事故が起こるかしれない。不安すぎる。
「エアリアルに乗れば、いつものスレッタになるだろう」
 とアリヤが気休めのように言った。
 みんなあいまいにうなずいた。
 じっさいミオリネがいないせいでこうなっているスレッタをどうにかできるのは、長年寄り添ってきたエアリアルだけだろう。むりにでもそう楽観するしかない。
 時間になったのでコンテナへの移動を開始した。
 スレッタがコックピットに乗り込む。ハッチが閉じる。
 管制室と通信を繋げるとみんなが激励してくれる。いつもどおり、スレッタとエアリアルの勝利を信じて送り出してくれる。
「いってきます」
 それに応える声のなかにミオリネはいない。
 ――さびしい。
 まるい眉を翳らせたスレッタは、しかしつぎの瞬間には別人のように鋭い目でモニターのむこうを睨みすえていた。

 コンテナから出ると一面荒野だった。背の低い痩せた木が周辺にぽつぽつと生えている。かなりはなれたところに岩山のゾーンがある。
 ――あそこがいいな。
 と考えていると、ゲテモノモビルスーツ屋の名に恥じない六本足の節足動物が突進して来た。
 モビルスーツって人型じゃなくてもいいんだとスレッタは思った。
 構造上、頭部の位置がかなり低いのが厄介そうだった。
「なんとか頭のほうを浮かせたいな」
 スレッタは蛇行と引き撃ちをくりかえしながら岩山へ向かった。
 ガンビットを展開させて敵機体を囲い、足場を撃つ。一方向だけ開いて逃げ道をつくってやる。反撃の隙を与えてはそれを叩き潰す。飛び道具は両手のビームライフルだけのようだ。背面に携帯しているジャベリンではガンビットにも届かない。
 いまさら初見でもないガンビットにあっさり包囲されるあたり、ほんとうに腕はたいしたことなさそうだった。
 このままブレードアンテナを折るのは容易だろうが、それではチュチュにロングライフルを借りた意味がない。
 エアリアルは心得たものでガンビットに的確な指示を出し、相手の行動範囲を狭めてゆく。
 スレッタはときどきわざと距離を詰めさせてからまたひきはなし、すこしずつその距離をのばしていった。
 そうやって岩山まで誘導する。
 もう相手のパイロットはそのことに気づいているだろう。包囲から脱出できないことも誘導されるしかないことも察しているはずだ。
 せいぜい死中に活を求めるくらい自分を追い詰めて、自分から選択肢を捨てていけばいい。手札を奪うのではなく捨てさせる。むかしから母のプロスペラが口酸っぱく言っていたことだった。
 岩山に入り、岩と岩の隙間を縫うようにしてすり抜けてゆく。モニターを確認しながら、じわじわと相手を隘路に追いやる。
「焦っちゃうね。疲れるし、神経をつかう。チュチュ先輩は喧嘩っ早いけど辛抱強いんだ」
 エアリアルは、――そうだね、チュチュはすごいよ、と言ってくれた。
 本来は僚機がやる仕事をひとりでこなさなければならないチュチュにくらべたら、スレッタは実質十三対一で戦っているようなものだ。ガンビットという、エアリアルを指揮官とした独立部隊が支援してくれる。
 そのガンビット隊に足留めさせて、スレッタは一気に距離をとる。
 得意のビームサーベルのようにはあつかえない。チュチュのようにはできない。当たり前のことを自分に言い聞かせ、スレッタは遮蔽物のあまりないところで停止した。
 ロングライフルを構える。
 モニターに座標が表示される。
 こんな長距離の偏位射撃はゲーム以外でははじめてだとスレッタは思った。水星でやる機会は全然なかったし、エアリアルのビームライフルの射程はそんなに長くない。そもそも学園に来るまでモビルスーツと戦闘をしたことがなかったスレッタだ。
 ガンビットが敵の足場を完全に破壊し、陥没した地面に六本脚のモビルスーツが沈む。
 頭部が天を向いた。
 直後に光の筋が走る。
 借り物のロングライフルから放たれたビームが、蜘蛛のようなモビルスーツのブレードアンテナを撃ち抜いた。
 空に勝利者名が映し出される。
 ――勝者スレッタ・マーキュリー、搭乗機エアリアル。
 その表示を誇らしげに見たスレッタは、おおきく息を吐いてシートに凭れかかると、それから笑った。
「すっごく疲れた!」
 ――おつかれさま、とエアリアルがねぎらう。――エアリアルもおつかれさま、とスレッタは返した。
 翌々日、出張から帰って来たミオリネに「わたしのいないところで危ないことをするな」と散々に叱られた。

   *

 社長の機嫌がたいそう悪い。
 出張報告その他諸々の業務をティルとマルタンにぶん投げたミオリネは、スレッタを引き摺って早々に退社した。
 社員たちはさっそく椅子をあつめて車座になる。
 ミオリネはあれで単純なところがあるから、一日スレッタとすごせば明日にはすっかり機嫌をなおしているだろう。そもそも機嫌をそこねさせたのはスレッタだがそれも含めて平常運転だ。議題は本日の社長の機嫌ではない。
「社長もべた惚れなのは見りゃわかるんだけどなあ」
「当たりキツイけど、まあゾッコンだよな」
「即興で会社つくっちゃうくらいだもんね」
「地球には行けなくなっちゃいましたねー」
「行く理由がなくなったからな。いまの花婿とならまんざらでもない、ということだ」
「そんでなんであんなツンツンしてんだよお姫さまは。愛情表現ヘタか」
「彼女の場合、そうなるのもむりはない環境だったからな」
「じつは温室とか理事長室では、ベタベタ、かも」
「あんまり想像できないなあ……」
「あー、ふたりっきりになったら甘ったるい声で『スレッタァ、ぎゅってしてぇ』とか言っちゃうんだ」
「『フフ、甘えんぼさんですね、わたしの花嫁は……』」
「気色わりぃモノマネすんな!」
 オジェロとヌーノが悪のりをはじめると、チュチュが椅子を蹴っ飛ばす勢いで立ち上がって叫んだ。
「チュチュ、おちつきなって」
 ニカがチュチュをなだめて座らせる。
 怖いもの知らずのオジェロは「チュチュさんこわーい」と言いながらヌーノに抱きついた。
 ヌーノはオジェロに抱きつかれたまま、ふと思い浮かんだ疑問を口にする。
「じっさいハグくらいはしたことあんのかな、あいつら」
「スレッタはしようとしてたよね」
 と、ニカが言った。
 スレッタにとってハグは友達同士でする軽いスキンシップではない。とくべつなひとにするとくべつな行為だ。地球寮のだれにもハグをこころみないところから見ても、それはあきらかだった。
 ミオリネがGUND医療を引っ提げて帰って来たとき、スレッタは満面の笑みでミオリネにハグしようとした。が、それはミオリネが突き出した手に阻まれて失敗した。
「あれっておれらが見てたからか?」
 オジェロはまだヌーノに抱きついている。いつのまにかヌーノも抱き返していた。
 当然の権利のようにハグしにいったスレッタに対して、ミオリネはあまりにも慣れた手つきで「待て」をさせた。
 あれは確実にはじめての動作ではなかった。
「……ぼくたちが知らないだけで、ほんとうはもっと進んでいるのかもしれない」
 ティルがぽつりとつぶやく。
「待て」があるなら当然「よし」もあるだろう。いや、「よし」のためにこそ「待て」がある。
 温室と理事長室、人目に映ることのないその場所でふたりがなにをしているのか、だれも知らないのである。
「わんちゃんが狼に成る、か」
 アリヤが怖ろしいことを言い、空気が微妙になる前にマルタンが強引に会議をおわらせた。

 起業にかかるすべての作業がおわり、いよいよ登記となったとき、学生企業に関する校則の変更という思わぬ横槍が入った。
 事前告知はなかった。そのため株式会社ガンダムは突如として起業できなくなってしまった。
 その決定を下したのは学園の実質的な運営組織である決闘委員会だろう。教員たちにこんな大それたことをする権限は与えられていないし、そんな度胸もない。
「決闘委員会なのに決闘でいちばん強いやつがリーダーじゃねえのおかしくね」
 ヌーノはおもしろくなさそうに言った。
 今回の校則変更はスレッタのまったく関知しないところでおこなわれた。
 それもそのはずで、スレッタはホルダーではあるもののバックの企業はグループでも最下位同然の弱小にすぎず、とても決闘委員会に参画できる立場ではないからである。前ホルダーのグエルが決闘委員会筆頭だったのは彼が御三家のひとつであるジェターク家の御曹司だからであって、ホルダーの地位によるものではなかった。
 そんなことはヌーノにもわかっているが、おもしろくないものはおもしろくない。
 とくにやることもない委員会のラウンジに自由に出入りできることと決闘に負けたら否応なく破棄されるミオリネとの不安定な婚約だけが、スレッタに与えられた権利である。なんともばからしい話だ。
 打ち上げパーティーは中止、フライドチキンをほおばりながら愚痴と推理がはじまる。
 ミオリネはそれには参加せず、スレッタがぴかぴかにみがいた社長机の上で手を組み、じっと黙考していた。
 激情家で理不尽には逆らわずにいられないミオリネにしては、さっきからやけにおとなしい。
 スレッタは、単純にミオリネのらしくないようすが心配なのと会話のきっかけをつかみたくて、そっとお茶を差し出した。
 それから盆を持ったまま体を抱えるようにしてその場にしゃがみこむ。
 湯気の立つカップに気づいたミオリネは、組んでいた手をほどくと、やわらいだまなざしでスレッタを見て、
「あんたは気にしなくていいよ。なんとかするから」
 と言った。スレッタを安心させようとしたのだろう。
 そうじゃないです、とスレッタは首をふった。
「会社のこと、じゃなくて」
「ん?」
「ミオリネさん、ショックじゃないのかなって」
 たくさんがんばってくれたのに、とスレッタが言うと、ミオリネはきょとんとしてしまった。自分がなにを言われたのか全然わかっていない顔である。ミオリネはよくこういう顔つきになる。優しくされたとき、感謝されたとき、心配されたとき、ミオリネはこんなふうに戸惑いを瞳に宿して揺らす。
 スレッタもそうだったから、なんとなくわかってしまう。
 ミオリネはなにか言いたそうに口をひらきかけて、すぐにとじてしまった。スレッタから視線をはずしてしばらく黙りこんでいたが、やがてまたスレッタを見つめて、
「わたしは平気。起業のあてもあるし」
 と、声を強めて言った。
「ほ、ほんとですか」
 スレッタは立ち上がって机に身を乗り出した。
 ミオリネはスレッタの勢いにすこしおどろいたみたいだった。目をまるくして、すぐにそれをほそめると、ふっと微笑した。
「まだはっきりとは言えないけどね。むこうでもりあがってる連中にはひとまず黙っておいて」
「はい!」
 スレッタは嬉しさをかくさずに元気いっぱいに答えた。ミオリネにそう言われたらあっさり信じられる。ミオリネが起業のあてはあると言った以上あてがあるのはたしかだろう。スレッタは信じて疑わない。われながら単純だと思うしミオリネも同じように思っているかもしれない。それでもかまわない。それでいい。なにせミオリネときたら喜色満面のスレッタに、
「あんたのこと、頼りにしてるから」
 そんなことを言うのだ。

   *

 株式会社ガンダムを狙い撃ちにしたような校則変更なだけに、恨みをもつ者の犯行にちがいない。スレッタの証言によりミオリネに好意をいだいているシャディクと同情的なセセリアとまるで興味のなさそうなロウジは容疑者候補からはずされ、残るひとり、スレッタとミオリネに多大なる恨みをもつラウダこそが今回の首謀者だという方向で推理がまとまった翌日、シャディクがサビーナを伴って地球寮を訪れた。
 ミオリネと商談がしたいというので地球寮は共有スペースを提供した。
 あのグラスレー社の麒麟児シャディク・ゼネリがもちかけた商談とはいかなるものか、室外で盗み聞きをしていただけのチュチュたちにはスレッタの鳴き声とミオリネがシャディクに決闘を挑む声しかはっきりと聞き取れなかった。
 シャディクとサビーナが帰ってから寮生で唯一お茶汲み係として立ち会いを許可されたスレッタが、うすらぼんやりとした記憶をもとにミオリネとシャディクの商談のようすを伝えようとするが、うすらぼんやりとしすぎてまるで要領を得ない。たまらずミオリネに視線を送るもこっちはこっちでシャディクと決闘することになったとしか言わない。
 まだ仕事があるからと地球寮に泊まってゆく気のミオリネを「社長が残業ばかりだと平社員は退社しづらいんですよ」と説得し、スレッタをつけて帰らせた。
 緊急会議である。
「密会ってなんだよ!」
 開口一番オジェロが叫ぶ。
「つまり犯人はシャディクってことだろ。意味わからん。なんで好きな女の邪魔すんだ」
 ヌーノが頭をかかえる。
「いや、でも、スレッタの言ってることぜんぶは真に受けないほうがいいんじゃない、かな……」
 マルタンが自分をおちつかせるように言う。
 たしかに情報源があやしすぎる。うそを言っているわけではないこと以外は信用ならない情報提供者だ。
「でも起業できないかわりに、社長と社員、業務形態はそのままで、グラスレー社の全面支援を受けられるってことですよね。それってずいぶんこちらに都合がよくないですか? やっぱりシャディク先輩はミオリネ先輩を愛していて助けたいってことなんじゃないでしょうか!」
 リリッケが興奮してまくしたてる。
「おれ以外にだれがきみを救えるんだ、か……。なるほど、熱い告白だ」
 アリヤが、そこだけはしっかりと覚えていたスレッタの証言をなぞる。
「ライバル出現、ですね!」
「うーん、でも、まさかミオリネのほうから出てくるとは思わなかったあ」
 ニカはぼんやりと天井を見上げなから言った。
 みんな同意見だった。心底おどろいたと言っていい。いままではスレッタ方面しか警戒していなかった。もはやエランの巻き返しは不可能だろう、あとはふたりがきちんと自分の想いを言葉にして心をかよわせるだけだ、そのつもりで見守っていたのである。
 ふたりの未来に立ちはだかるのはまたしても御三家だった。それは花嫁のミオリネではなく花婿のスレッタの眼前に聳え立つ強大な壁である。
「女はべらせてるナンパ野郎が趣味とは思えねえけどな、あのお姫さま」
 チュチュの見解はもっともだ。それもそうだとみんなうなずいた。
 シャディクが一方的に熱をあげているだけでミオリネにその気がないのなら、警戒するに及ばないだろう。そう結論づけたいところだが、
「そういえば……」
 ティルがアリヤとマルタンを交互に見る。
「去年、すこしうわさになっていたよね」
「ああ、あったな。すぐに消えてしまったが」
「あれって結局ほんとうだった、ってこと……?」
 三年生たちが記憶をたぐりよせるようにして、ゆっくりと慎重に、それを口にする。
 一年生のチュチュとリリッケはもちろんのこと、二年生組にも初耳だった。
「なんだなんだ、どんなうわさがあったんだ」
 オジェロが急にうきうきと体を揺すりはじめた。彼もたいがい色恋の話が好きらしい。
「あくまでうわさだがな。ふたりが温室で逢瀬をかさねていた、という話だ」
「でも、シャディク・ゼネリと言えば学園一のプレイボーイで、何人もの女性を愛人にしているとか女性関係でしか決闘をしないとか、そんなうわさもたくさんあって、さすがに総裁の娘と火遊びはしないだろうって、このうわさはすぐに忘れられた」
「ぼくはすっかり信じちゃって御三家って怖いなあってびくびくしたなあ」
 それが事実なのか根も葉もないうわさにすぎなかったのか。ともかくもミオリネとシャディクのあいだで過去になにかあったのはたしかだろう。
 要注意人物リストに「シャディク・ゼネリ」の名を新たに記し、閉会となった。

   *

 花婿の機嫌がたいそう悪い。
 温室からもどったスレッタは頬をふくらませて肩をいからせ、やや前傾姿勢で歩幅もいつもより大股になって寮に入って来た。
 わたしはとても怒っていますと全身で主張している。こんなに怒ったスレッタを見たことがない。というか怒ったところ自体、見たことがない。
「シ、シシシャディクさんが! おおお温室のほうから来て! ミオッ、ミオリネさん、のこと、バカにしてっ、したんです!」
 スレッタは鼻息を荒くして叫んだ。怒りのあまり吃音が復活している。
 だれの脳裡にも「ふたりが温室で逢瀬をかさねていた」というかつてのうわさ話がよぎった。やはりあれは事実だったのだろうか。
 バカにした、の内容についてはつまり「勝ち目のない決闘をしようと暴走している」とのことだったので、それはまあそうだろうとみんな心のなかでシャディクに賛同した。
 いまだに助っ人の目処は立っていないし、いちおうペイルから人数分のザウォートを借りることはできたが頼みのエランは復帰未定で参戦できそうにない。スレッタとチュチュだけでグラスレー寮との集団戦に勝つのは困難をきわめている。
「シャディクさんの宣戦布告はしかと受け取りました。ミオリネさんの名に懸けて、あのひとにはぜったいに負けません」
 スレッタは両拳を握りしめて、いつにない語気の強さでミオリネに勝利を誓う。それから、あっグエルさんに助っ人を断わられました、とついでのように言ってみんなを絶望させた。
 夜、地球寮女子会が開催された。
「ミオリネさんはシャディクさんのこと、やっぱり好きなんでしょうか。温室に入っていいのはわたしだけのはずなのに……」
 スレッタは抱えた膝に頭を埋めて言った。おなかいっぱいご飯を食べてシャワーでさっぱりしたおかげで怒りのエネルギーが尽きてしまったのか、すっかり弱気になっている。
「おめーけっこう自信家なのな。エアリアルがらみだけだと思ってた」
 上段ベッドからチュチュの声がふってくる。
「だ、だって、あそこはミオリネさんのとてもたいせつな場所で、ミオリネさんの心、みたいなもので……」
 スレッタはすでに泣き声だった。やっべとつぶやいてチュチュはいったんベッドの奥にひっこんだ。
「そう気をおとすな。まだ決まったわけじゃない。御曹司はなかに入れず、とぼとぼと帰る途中だったかもしれない」
「そうだよスレッタ。あのミオリネがそんなに簡単に御三家に心をゆるしたりしないと思うよ」
「そ、そうですよね、御三家は敵、ですよね!」
 さっと顔を上げたスレッタは鼻声で、目にはあきらかに泣いた形跡があった。しかしアリヤとニカに慰められて安心したのか、よかったあ、と言って顔をほころばせた。
「でも、シャディク先輩はどんなご用事でミオリネ先輩のところへ行ったんでしょうか」
「おそらく決闘の取り下げだろうな」
「こっ降伏勧告ということですかっ?」
「ミオリネに勝ち目のない決闘をさせたくない、ということだろう。あるいはただミオリネと決闘したくないだけかな」
 すくない情報からアリヤは推測する。
「あんでさ。勝ちゃあミオリネと婚約できるじゃん。好きなんだろ」
「好きなひとと婚約して次期総裁になるより、グラスレー社として支援するほうがいいってことなのかな」
「それもまた愛ですねえ」
 リリッケがうっとりしながら言う。
 それを聞いたスレッタは眉間にしわを寄せて口をとがらせ、
「なにが愛ですか」
 と、吐き捨てるように言った。
 ニカたちは目を瞠った。あまりにもスレッタらしからぬ言い方だった。
「ミオリネさんのこと愛してるなら、助けたいなら、最初からそうしたらいいじゃないですか。制度ができたのっていつですか、いままでなにをやってたんですか」
 いや、拗ねているのではない。スレッタはまた怒っているのだ。怒って哀しんで喜んでまた怒る、今日のスレッタは感情の移り変わりがはげしい。
「そしたら、わたし、いまごろミオリネさんの花婿、じゃないです」
 自分で言ってつらくなったのか、苦しげに顔を歪める。それでもスレッタは言葉をかさねる。
「わたしは、負けません」
 またぎゅうと拳を握る。
「ミオリネさんがいちばんつらかったときに、なにもしてくれなかったひとなんかに、花婿の席は渡しません。ミオリネさんもエアリアルも。ぜったいに」
 ターコイズ色の瞳が決意の光を宿して揺らめいた。

 第四戦術試験区域の空は夜と朝の境目を映し出している。
 金青と銀朱がまざりあう、模糊とした境界線、朝焼けのふしぎな色彩――そこにミオリネ・レンブランと地球寮の名が勝者として表示された。
 スレッタはハッチを開いてエアリアルのコックピットから出ると、水星にはないその空の色に映る文字列を一瞥してから、エアリアルの手の上に飛び降りた。
 ひとつ、深呼吸して緊張をほぐす。
「……ガッ、ガンダム! 飛べるっ、踊れるっ、エアリアルッ!」
 宇宙一珍妙な勝ち鬨が宇宙全域に響き渡った。

 損壊のひどいエアリアルとデミトレーナーは自力で移動できそうになかった。
「エアリアル、ごめんね。あとで迎えに来るね」
 スレッタはいたわるようにエアリアルを撫でてから、仲間のザウォートに乗せてもらい、さきに帰投した。
 格納庫でオペレーター組と合流する。ミオリネもほかのみんなもノーマルスーツのままだ。
 スレッタは荒っぽい手つきでヘルメットをはずしてマルタンに預けると、パイロットスーツの上だけをやはり荒っぽく脱ぎ、あとは脇目もふらずにミオリネのもとへ走っていった。
 ミオリネの姿がなんだかぼやけて見える。すこしだけ目をみひらいたみたいだったが、のぼせたようないまのスレッタにはもうよくわからなかった。
 たぶん興奮しているのだろう。いつも決闘後は、安堵することはあってもチュチュが言うような興奮状態になったことはなかった。しかし、スレッタは自分がまさにそうなっているのだと思った。
 そのまま勢いよく抱きつく。ミオリネがバランスをくずして倒れそうになったので腰を抱き寄せて踏ん張る。
 わあっ、と驚愕と困惑と熱狂の声が周囲からあがる。
「待て」はなかった。
 はじめてのハグは、ノーマルスーツの膨らみと硬い弾性の感触、それにかすかな香水の匂いがした。
「やりました、勝ちました、会社の宣伝も、しました」
「ちょっと噛んでたけどね。まあ、あんたにしてはよくやったわ。おつかれさま」
 ミオリネは笑っているのだろうか、呆れているのだろうか。肩口に顔を埋めているスレッタにはわからない。
 スレッタは抱きしめる腕の位置や体勢をせわしなく変えては、ミオリネとの接触箇所を増やして全身でハグを堪能しようとした。
 しかしいくら抱き方をくふうしたところで、返ってくるのはスタイルを完封するノーマルスーツの弾力だけである。
 スレッタは諦めざるをえなかった。
 悪あがきで首筋と髪の匂いをめいっぱい嗅ぐと、なごり惜しげにミオリネから体をはなす。
 目があった。
「あ……」
 スレッタは熱く粘性のある息を吐いた。
 銀に薄く桃色をまぜた虹彩が、揺らぎ、潤んで、こちらを見上げている。切れ長のまなじりとほそく整えられた形のよい眉はすっかり鋭さを失い、わずかにひらいたちいさな唇からは白い歯を覗かせている。
 スレッタの知らないミオリネだった。
 その一対の瞳に見つめられて、スレッタは金縛りにあったみたいに動けなくなってしまった。
 が、数回まばたきをしたミオリネは、もうスレッタのよく知るミオリネにもどっていた。
「気は済んだ? もうみんな帰ったし、わたしたちも着替えて帰るわよ」
 ミオリネはなんでもなかったみたいにそう言って身をひるえがすと、足早に格納庫を出てゆく。
 スレッタは茫然と立ち尽くすしかなかった。

 地球寮から遠くはなれた、ミオリネの温室につづく道を、スレッタは歩いている。
 前方から見覚えのある人影がやって来るのをみとめた。
 シャディクだ。
 さらに数十歩ほど進むとあちらもスレッタに気づいたようだった。うつむきかげんの視線を上げた彼は、また困ったように微笑んだ。
 スレッタは足をとめ、めいっぱい凄んでみせる。
「やあ、水星ちゃん」
「ミオリネさんに、なにかご用でしたか」
「そう怖い顔をしないでくれ。仕事の報告をしただけだよ」
 シャディクはそれだけを言うと、もう話すことはないといったふうに手を振り、歩き去っていった。
 スレッタもふうと息を吐いて肩の力を抜き、ふたたび温室に向かって歩き出した。
 スレッタのほうはべつにミオリネに用があるわけではない。ただの日課である。ミオリネに会いにいって、手伝えそうなことがあるなら手伝う。そういう日課がある。
 温室に着くとミオリネはトマトの摘果をしていた。
 まだスレッタの教わっていない作業だ。手伝うことはなさそうだったので、スレッタは一言あいさつするとミオリネのとなりにしゃがみ、摘果作業を見学する。
「すぐおわるから、もうちょっと待って」
 手をとめずにミオリネが言った。スレッタは、はい、と返事をする。
 ミオリネは狭い温室内のあちこちを移動する。そのたびにスレッタも立ち、またミオリネのとなりにしゃがんだ。
 何度かそれをしたあとミオリネの作業は完了した。
「見てるだけじゃたいくつだったでしょ」
 ミオリネは剪定鋏をかたづけながら言った。
 スレッタはぶんぶんと手と首を振った。
「ぜっ、ぜんぜん、たいくつじゃないです。なにをしてるのかは、むずかしくてわからない、ですけど……」
 スレッタが正直に言うと、ミオリネはくすりと笑った。
 そうしてその笑みをすぐそばのまだ青いトマトにも向けて、優しく触れた。
「わたしも、お母さんがなにをしてるのか、最初は全然わからなかった」
 ミオリネはおだやかな表情で懐かしそうに言う。
 スレッタがはじめて温室を訪れたとき、ミオリネは暗い表情で母親の話題を避けた。亡くなっていることはすぐにわかったし、心の繊細な部分にかかわることだと思い、スレッタもそれ以来とくにふれなかった。
 それをみずから話すミオリネの変化をスレッタは嬉しく思った。この温室は、やはりミオリネの心そのものなのだろう。
「青いトマトなら、ぜんぶ切るわけじゃないんですね」
「そう、基準がわからないよね」
「わかるようになりたいです」
「今度教えてあげる」
「あっ……、は、はいっ、ありがとうございますっ」
 スレッタは深く頭を下げた。おおげさ、と小声で言っているのが聞こえた。
「今日はどうするの」
「ミオリネさんとおはなし、たくさんしたいです」
「わかった。外泊届、忘れないでね」
 ふたりで温室を出ると、スレッタは建物の脇に停めてあったスクーターを押して来た。スレッタは温室まで徒歩で来るがミオリネはスクーターを使っている。
 ふたり乗りをするときはスレッタは立ったままハンドルに体をくっつけるようにして運転している。後部座席は固くてお尻が痛くなるとかで、ミオリネが座りたがらないからだった。
 スレッタはスクーターに乗ると、運転席にミオリネを座らせて自分の腰につかまらせた。
 グリップを握り、エンジンを掛ける。
 ハンドル部分にハロをつけたスクーターが、理事長室のある校舎に向かって発進した。
 速度は出さない。ミオリネはもっと速くと急かすが万一にもミオリネを落とすわけにはいかない。スレッタが運転するときはいつもゆっくりだ。
 おかげで道中もたくさん話せるからスレッタとしてもこのほうがよかった。
「こないだ、チュチュのむかしの決闘ログを見たのよ」
「あ、ミオリネさんもですか。すごいですよね」
「あんたがあれを真似したがるの、ちょっとわかったかも」
 だからってわたしがいないときにやるのは禁止ね、とミオリネは釘を刺す。
「あんたの夢ってモビルスーツでなにかするわけじゃないし、パイロットとしてどうしたいとかこうなりたいとか、そういうのはないと思ってたから」
 出張中の決闘でのスレッタの戦いぶりは、たいそうミオリネをおどろかせ、また不安にさせたらしい。見ている分には無駄に長期戦になっただけで終始圧倒していたのだけれど、スレッタとしても四苦八苦しながらなんとかもぎとった勝利にはちがいなかった。
「ないですよ、ミオリネさんの言うとおりです」
 と、スレッタは言った。じっさいパイロットとして成し遂げたいことなどスレッタにはない。
「ミオリネさんの誕生日、まださきだし、なにがあるかわからないから、できることは多いほうがいいと思っただけです。戦闘で強くなりたいとか巧くなりたいとかじゃなくて」
「ほんとに?」
「あ、ごめんなさい。ちょっとうそです。チュチュ先輩みたいになりたいって思いました。でも正直、モビルスーツのパイロットとして? か、どうかは」
 チュチュのことは尊敬しているし、彼女の姿はこうありたいという理想のひとつではあるが、ああいうパイロットになりたいかというとちがう気がする。チュチュがパイロットでなくてもスレッタは同じように尊敬していただろう。
「シャディクさんとの決闘も、最後はチュチュ先輩にいいとこもってかれちゃいましたね」
 デミトレーナーを製造販売しているブリオン社からチュチュ宛に感謝状が届いたのは、まさに今朝のことだ。後日あらためて御礼の品を持って弊社の技師たちが伺いますというのだから、自社の旧型カスタム機が御三家のエースを打倒したあの長距離精密射撃は先方をいたく喜ばせたらしい。
 スペーシアンに喜ばれても嬉しくねえっての、と照れながら言うチュチュを見ているとスレッタも嬉しくなった。
「わたしはリーダーなのに足を引っ張ってしまって」
「あの狙撃はあんたがひきつけてくれたおかげよ」
「へええ? そう、ですか? うへへ……」
 ミオリネがめずらしく素直に褒めてくれた。めずらしいどころかはじめてかもしれない。いや、二回目くらいだろうか。このさい何回目でもいい。
 スレッタは顔がゆるむのをとめられなかった。だらしなく笑ってしまう。ミオリネにこのまぬけづらを見られないのがさいわいだった。
 ――ああ、そうだ。うかれてる場合じゃなかった。
 スレッタにはミオリネに言わなければならないことがあった。
「あの、ミオリネさん、……ごめんなさい」
「なに急に。なんのごめんなさいなの、それ」
 当然ミオリネにはなんのことだかわからない。腰を掴む手がすこし強くなった。
「シャディクさんとの決闘、ミオリネさんを懸けて戦ってるんだなあって思うと、わたし、それが嬉しくて、楽しくて……だめですよね、ごめんなさい」
「だめじゃないけど、なんでそれで嬉しいのよ。わたしが懸かってるのは毎回でしょ」
「でも、シャディクさんはミオリネさんのこと、好きです。株とかじゃなくてミオリネさんが欲しくて決闘するひとはシャディクさんがはじめてでした。それまではだれもミオリネさんのこと、見てくれなかったから、だから、わたし、なんだか不謹慎だけど嬉しくなっちゃって」
 決闘後に興奮したのもいま思えばそのせいだったのだろう。
 ――ミオリネのとなりに立つのはおれだ!
 温容を剥いだ生身のシャディクから発せられた激情を、管制室のミオリネは聞いていたのだろうか。シャディクはスレッタにだけ通信を繋げたのだろうか。
 ミオリネは両手をスレッタの腰にまわし、背中に顔を押しつけてふるえだした。声をあげて笑いそうになるのをひっしに堪えているようだった。
「バカね、あんた。……ほんっとうに、バカ」
 その言葉には抑えきれなかった笑声がまざっている。
「はい、バカです、バカ婿です」
 スレッタはからりと笑った。
 ふたりを乗せてスクーターは走る。
 ミオリネのもうひとつの心の場所へ、ゆるやかな速度で進んでゆく。

 お泊りが増えるにつれて理事長室にはスレッタの私物が増えた。同様にいまやミオリネが経営する会社の社屋となった地球寮には、ミオリネの私物が置かれるようになっていた。お泊り道具をそのつど準備して持ち帰るよりも置きっぱなしのほうがめんどうがない。
 そのためスレッタはほとんど身ひとつでミオリネの部屋を訪れる。宿泊に必要なものはすでにそこに揃っているからだ。
 株式会社ガンダムの設立と決闘の勝利を祝って、ミオリネが期間限定だかなんだかとっておきのカップラーメン・バジルトマト味を出してくれた。
 それでお腹を満たすと、ゲームをしたり、たあいないおしゃべりをしたり、ミオリネに勉強を見てもらったり、ちょっとお説教をくらったり、さいきん観た映画の感想を言いあったりして、就寝時間が近づくと順番にシャワーを浴びる。
 お泊まりの日はだいたいそんな感じですごしている。
 今日もそうだった。
 スレッタがお泊り用のオレンジのオーバーサイズのTシャツと白のハーフパンツで、ミオリネがお気に入りのライムグリーンのルームウェアを着るのも、スレッタが髪留めをはずして髪をおろすのとは逆にミオリネが長いうしろ髪をシュシュでまとめるのも、やはりいつものどおりだ。
 そうやって胸元に垂らすことで露出するミオリネのうなじが、あるいはつむじやまつげが、ヒールを脱いでいるせいで昼間より低い位置にあるのは、スレッタにはもはや見慣れた景色だった。
 その景色にスレッタは見惚れた。
 理由は判然としない。
 とにかく見慣れたはずのそれを見た瞬間、スレッタは思わず生唾を飲んでしまった。
 そして飲みこんだその音で気がついた。
 シャディクがこの景色を見ることは一生ないこと、それをいますぐグラスレー寮に乗り込んで勝ち誇りたい自分がいることに、スレッタは気づいてしまった。
 ――シャディクさんは、三人目だったんだ。ヒロインと、ヒーローと、もうひとり。
 スレッタはそう思った。いや、スレッタこそが三人目だったのかもしれない。どちらにしてもミオリネとシャディクが結ばれる未来はありえたということだ。しかもスレッタが学園に編入するはるか以前に勝負が決まっていたかもしれないのだ。スレッタは戦いの舞台にすら上がれずに敗北するしかない、もうひとつの物語の結末だ。それはなんと怖ろしいことだろう。
 スレッタの頭のなかを、学園に来てから起こったいろいろな出来事がかけめぐった。
 その記憶のほぼすべてにミオリネがいた。怒ったり笑ったり怒ったり呆れたり怒ったり苛立ったり、まあだいたい怒っていたが彼女はどんなときでも綺麗だった。はじめて会ったときからいままで綺麗でない瞬間はなかった。瞳も、髪も、声も、心も、そのどれもがつねにうつくしかった。
 ミオリネの一挙手一投足を思い返してみると、当時は意味不明で泡食うしかなかったあの言動と表情がなんだったのかが急にわかってきた。
 あれは優しさで、嫉妬で、悲嘆で、汲めども涸れることのない無限の愛情だ。
 わかってしまうと、スレッタはもうこのいじらしい花嫁のことがたまらなく愛おしくせつない気持ちになった。
「ミオリネさん――」
 だから、スレッタは、あふれほとばしるその気持ちに衝き動かされるようにして、ミオリネを背中から抱きしめた。
 きゃっ、みじかくちいさな悲鳴がこぼれる。
「え、ちょっと、なに」
 困惑するその声はスレッタの耳にとどかない。
 おそろしいほどほそい体にスレッタの長い腕はかなり余る。自分の腕を抱いているみたいだと思った。でも、まちがいなくミオリネの体だった。ちいさくてほそくてやわらかい。
「なによ、いきなり……、どうしたの」
「ミオリネ、さん」
 うわごとみたいに呼ぶ。
「……スレッタ?」
 すぐに混乱をおさめたミオリネは、腕のなかでわずかに身じろぎすると、首をまわして肩ごしにスレッタを見た。それ以上のことはしてこなかった。
 スレッタの突然の行動や覗きみた表情になにを思ったのだろうか。なぜかミオリネは動かない。ふしぎなくらい無抵抗に抱かれている。どうやらひきはがす気はないようだ。
 おかげでスレッタは、この宇宙でもっともうつくしいと信じている存在をまるごと抱きかかえることができた。
 はじめて見たときから大好きな銀色の瞳と髪だ、ノーマルスーツの硬い弾性ではないなめらかでやわらかな肉体だ、シャンプーの奥から香る彼女自身の匂いだ。
 情欲をおびたスレッタの視線から目をそらして、顔をそむけて、真っ白い肌が赤く染まってゆくのがとてもかわいい。
 ミオリネがおとなしいのをいいことに、スレッタは満腔でこのうつくしくかわいらしい花嫁を味わう。
 ――チュチュ先輩、リリッケさん。
 敬愛する先輩と師匠に、この気持ちを伝えたい。
 ――わたしは恋をしたみたいです。  あとこのひとめちゃくちゃわたしのこと好きですよね。

 強敵腐れ縁≠フシャディク・ゼネリを退けたスレッタの前に、ミオリネの幼馴染にしてかつての婚約者を名告る旧花婿<ーシュラー・ミルザハニが現れるのは、まだすこしさきのことである。

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