恋をするとき

 ミオリネにとっての初恋がいつのことで相手がだれであったのか、いまとなってはわからない。
 ミオリネ自身はシャディクだと思っているが、あるいはユーシュラーかもしれない。幼いころ、ユーシュラーと交わした結婚の約束を、自分は守る気があったのだろうか。もっと真剣に向きあっていればちがう未来があったのだろうか。
 父親の意向で入った学園で「花嫁」という名の景品にされてしまったミオリネは、そういう感傷にひたるようになった。
 すくなくともユーシュラーは本気だった。おとなたちはノートレットをのぞいてみんなほほえましくもひややかな目で、ユーシュラーの告白とそれに応えるミオリネを見ていた。ほんとうに将来ふたりが結婚するなど信じていなかっただろう。そういうものだ。こども同士の甘い約束はそのうち本人たちからも忘れられるていどのものにちがいなかった。
 きっとミオリネもそう思っていて、ユーシュラーの凛としたまなざしにもノートレットの熱心な応援にも同調できず、ただこれからもずっと一緒にいてくれるんだということが嬉しくて、ユーシュラーとはかさならない気持ちで彼女の愛の言葉を受け取った当時の記憶がおぼろげにある。
 じっさい、いまはふたりとも親の決めた相手と婚約しているのだから、そのごく常識的な予感はあたっていたのである。
 といってもミオリネのほうは少々こみいった事情があるから、ほんとうに結婚するかどうかはあいかわらず不明だ。
 政略結婚にはちがいなく、そうするには現在の花婿であるスレッタの家柄はあまりに冴えず、しかしミオリネは好んで彼女を婚約者とし、その立場から降りることをゆるさなかった。
 地球へ行くまでのあいだ婚約者でいてほしいという条件をどこまで本気で言ったのか、それが地球行きの絶好のチャンスをみずからつぶしてスレッタを助け出した直後にもちかけた取り引きで、だからミオリネは自分の行動が理解できなかった。
 ――おせっかいでも助けてくれたにはちがいないのに、そのせいで捕まった子を見捨てるのは主義じゃない。
 それはたしかにある。貸し借りは等しくあるべきで、助けられたのなら助けなければつりあいがとれない。
 ――もしかしたらもう好きになっていたのかもしれない。
 それもまちがいではないだろう。スレッタが花婿であるなら自由を奪われたトロフィーにすぎない「花嫁」の肩書きも不快ではなかった。
 スレッタは一度脱出の邪魔をしたうめあわせのために、すこしばかりの逡巡のあとミオリネとの取り引きに応じてくれたのだった。
 自分はほんとうに地球に行く気があるのか。自問すれば、――スレッタにその気がない以上ちゃんと逃げて婚約を取り消させないとあの子が困るじゃない、そんな自答が返ってくる。それが本心なのかどうかさえミオリネにはわからない。
 ともあれ、ミオリネは父親に反故にされた婚約関係をとりもどした。
 たぶん、そのときにはもうスレッタにふりむいてほしかったのだと思う。彼女の『やりたいことリスト』にあるデートの相手には、だれより花嫁である自分を選んでほしかった。婚約のさきにあるものをふたりで手にしたかった。そうでなければ説明のつかないことがミオリネには多すぎた。
 父親にむりやり持たされたグループ株が欲しいだけの人間と結婚するくらいなら母親の故郷で野垂れ死ぬほうがマシだと思っていたのに、自分を懸け物にする決闘制度の、その勝者を花婿と認めて自身を花嫁だと受け容れたのは、相手がスレッタだからこそだし、スレッタが最初で最後だ。
 スレッタが花婿でなければ、ミオリネはみずから花嫁を名告りはしない。時間さえあれば花婿と一緒にいようなどと思わない。責任を取ると言ったスレッタに協力させて何度だって地球への逃亡を企てたはずだ。
 だから、ミオリネがスレッタとエランの接近を阻止しようとしたのは以前からあった御三家への警戒心、とりわけガンダムに強い関心をもつペイル社にスレッタがとりこまれる危険を考えてのことだったが、たんじゅんに気にいらなかったのだろう。スレッタを誘惑するエランのことも花嫁をほったらかしにしてエランに熱をあげるスレッタのことも、ミオリネはものすごく気にいらなかったのだ。
 ――なのに、わたしはなにがしたいんだか。
 やはりミオリネは自分の行動がわからない。
 どうしてエランとの決闘を黙っていたスレッタをゆるしたのか。エランに拒絶されたスレッタを励ましてもう一度彼のもとへ行かせたのか。
 浮気をゆるしてデートをゆるして、花嫁の懸かる決闘の勝利報酬に「エランさんのことを教えてもらう」なんて、そんなものを望むことさえゆるしてしまった。自分はこんなに寛容な人間だったのか、それとも言いたいことも言えない臆病者だったのか。
「ミオリネさんって、意外といじらしいよね」
 ロッカールームでノーマルスーツを脱いで制服に着替えていると、ニカにそう言われた。彼女はすでに作業服にもどっており、つきあいのみじかいミオリネでもすっかり見慣れた柔和な笑みをうかべている。
 ミオリネは内心舌打ちした。弱みを見せてしまった。ニカはそれを意地悪くつついてくる人間ではないが、スレッタがなついている彼女を相手に、よけいな強がりを口走ったのは、あきらかなミスだった。
「ほんとにいいの?」
 ニカはタブレットを取り出して、ついさっきおこなわれたばかりの決闘のログを再生した。二機のガンダムの戦いを飛ばして、パイロットふたりの宇宙遊泳を映し、ミオリネに示す。
 ネクタイと一体型の制服のファスナーを持つミオリネの手が一瞬とまり、苛立つように勢いよく襟元まで締めた。
 ミオリネはタブレットの画面を見ない。
「いいもなにもないでしょ。スレッタがそうしたいなら好きにすればいいし、わたしがとやかく言うことじゃない」
 なにを言っているんだろうとミオリネは心のなかで自嘲した。前はとやかく言っていたではないか。そう思っていると、
「お婿さんの浮気はとやかく言うことだと思うけどなあ」
 と、ニカに言われた。
 あまりに軽い調子で言うものだから、ミオリネはむつとしてすこし睨むようにニカを見た。
 彼女はあいかわらず笑っているが、眉尻がさがっていた。それで心配されているのだとミオリネにもわかった。
 ――これは、かなわない。
 きっとなにを言っても言い返される。憂いと慈しみの言葉で返される。ミオリネではそれを受け取められない。
 逃げたらひとつ、これ以上心のうちをあばかれる前に、ミオリネはニカ置いてロッカールームを出た。

 部屋にもどると、扉の前で白い制服姿のスレッタがうずくまってミオリネの帰りを待っていた。
 ミオリネは唖然とした。
 ――なんで……。
 ひとちがいと思いたかったが、わざわざ理事長室までミオリネを訪ねる物好きはこの世にひとりしかいない。
 スレッタはミオリネに気づくとぱっと顔を上げ、目を輝かせた。
「ミオリネさん、おかえりなさい!」
 ずいぶんと機嫌のいいことだが、上機嫌の理由を考えればミオリネにはおもしろくない。
「なにか忘れ物でもしたの」
 と言うと、扉に端末型の生徒手帳をかざして解錠する。
「えっ、いえ、なにも、忘れてないです、けど……」
 スレッタは両手を胸の前でこねだした。困惑しているときのスレッタの癖だ。
 ミオリネは無視して部屋に入った。スレッタもついて来る。今日のところは帰ってほしいが拒む理由が思いつかない。
「あ、あのっ、決闘、勝ちました。ちゃんと、約束、守りました」
「知ってる。途中危なっかしくてどうなるかと思ったけど、勝ててよかった」
「あ……」
 スレッタは追いかけるのをやめて、階段のなかばで立ちどまってしまった。さすがにミオリネの機嫌の悪さに気づいたらしい。
 ミオリネはデスクチェアに腰をおろした。
 スレッタが背を向けて階段に座りこむのが見えた。その背は隠れ、赤いくせっ毛がすこしはみ出ている。
「すみ、ません、決闘のこと、黙ってて、負けそうになって、ミオリネさん、を、不安にさせちゃって……」
 ぼそぼそと元気のない声でスレッタは言った。さっきまでのご機嫌さはすっかり消えてしまったようだ。
「勝ってくれたからかまわない」
「で、でも」
 跳ねた赤髪の一房が揺れた。こちらをふりむいたのかもしれない。顔が見えないからミオリネにはわからない。
「いいよ。どうせ決闘義務も近かったし、ちょうどよかった」
 気づくと膝の上で組んだ両手が指をこねている。無意識だった。スレッタの癖がうつったのだろうか。ミオリネは手をほどいて両肘に添えた。
「懸けたもの、ちゃんともらえそうなの?」
 スレッタはその問いにしばらく沈黙していたが、やがて、
「は、はい、こんど会って、おはなし、してもらえることに、なりました」
 と、ばつが悪そうに言った。
「そう、よかったじゃない」
「ミ、ミオリネさん、やっぱり怒って……ますか」
「怒ってない」
 心にもないことを、心のこもらない声で言う。つくづく自分は演技ができないとミオリネは思った。鈍感なスレッタに悟られるようではだめだ。とてもこのさきやっていけない。
 スレッタは這うように階段をのぼって来た。
 いつもどおり膝をそろえて座ると、上目づかいにミオリネをうかがう。まなざしは親にいたずらのバレたこどもみたいで、いまにも泣きそうだった。
「あ、あの、わたし、行きません。こ、断わります、明日。ミオリネさんのいやがること、しません」
 と、スレッタは意を決したように言った。
 べつにいやじゃない、と言おうとして、その言葉の虚しさに気づいてやめた。前回のデートで怒り狂っておいてなんの説得力もない。
「デート、やりたいことリストなんでしょ。前は失敗してるんだし、挽回のチャンスじゃない」
「デ、デートじゃない、です!」
 スレッタは叫んだ。肩に力をいれ、両膝を強く握っている。
 ミオリネはあっけにとられた。どの口で、なんてことを言ってくるのか。
 スレッタへの文句と罵倒がつぎつぎに湧いて喉元までのぼってくる。すんでのところでそれをくいとめたミオリネは、怒気とともに長い息を吐いた。
「デートじゃなかったらなんなのよ」
「し、しりあいと、会っておはなしするのは、デートじゃない、です。そんなの、ミオリネさんともニカさんとも、チュチュ先輩、ともやってます」
 とんだ屁理屈だと言いたいところだが、スレッタは真剣そのものだ。下手ないいわけをつらねているつもりはないらしい。
 ――どういう感情で言ってるの、こいつ。
 わけがわからない。ミオリネはめげそうになった。いっそ理解を投げ捨てて追い出そうかと思った。
「デ、デートは、こ、こい、恋人同士ですること、です。エッ、エランさんは、ちがいます。でも――」
「これからつきあうなら同じことでしょ」
 スレッタはなおも言いたいことがあるようだったが、聞く耳をもつ気のないミオリネはばっさりと切った。
 ひゃあと悲鳴をあげてスレッタは褐色の頬を赤らめた。エランと交際しているところを想像したのかもしれない。
 スレッタはぎゅっと目をつむってその赤面をぶんぶんとふる。
 それからまたミオリネを見つめて、
「わたしは、浮気、しません。でも、ミオリネさんがいやなら、もう、会わない、です」
 と語気を強めた。膝を握る手は爪が皮膚にくいこんで、肌の色が白っぽくなっている。力をいれすぎだ、痛くないのか、ミオリネは心配になる。
「あんたに我慢させるほうがいやなんだけど」
 ミオリネがそう言うとスレッタの表情がすこし明るくなった。
 ――やっぱりデートしたいんじゃない。
 それはそうだろう。当たり前の反応だ。スレッタはエランのことが好きなのだから。
 スレッタはミオリネに無断決闘の件を叱られたことで、かりそめでも婚約者として、また取り引き相手としての責任をあらためて自覚したのだろう。それでこんなことを言い出したにちがいない。
 ――律儀なやつ。
 そして腹立たしいやつだとミオリネは思った。
 エランがスレッタをどう思っているのかは、わからない。スレッタと同じように好意をいだいているかもしれないし、ただ上司の命令に従っているだけかもしれない。どちらにせよスレッタに関わるなんらかの指示は受けているだろう。ガンダム・ファラクトの存在が確認されたいま、ペイル社の企みは疑いようもない。
 ――スレッタは好きにすればいい。
 ペイルがエランを使ってスレッタを引き摺り込もうとするなら、そのときはまた助けるだけのことだ。状況しだいではエランもまとめて。
「わたしもあいつに用があるから、待ちあわせにはついていく」
「あっ――」
 スレッタは破顔した。
「はい、はいっ。しっかり、見張ってください、ぜひ、ぜひ、そうしてください」
 と言ったスレッタは、なにかをかんちがいしているようだ。膝を握りしめていた手は腿の上にゆったりとのせられている。
「いや、ちょっと確認することあるだけだから。すぐ帰るって」
 ミオリネはもはや苦笑するしかなかった。
 しかし、約束の日、エランは待ちあわせの場所にあらわれなかった。電話は繋がらず、メールに返信もない。校内でも決闘委員会のラウンジでも見かけなかった。ペイル寮に確認したところ、この前の決闘以来、寮にはもどっていないという。
 それらの事実は『氷の君失踪事件』としていっときうわさになったが、ペイル社から社用によりしばらく休学するという連絡が学園に届けられると、すぐに忘れられた。

 いつしか学園フロントは景色を夕暮れに切り替えていた。
 今日もミオリネとチュチュは、未練がましいスレッタにつきそって待ちあわせ場所のベンチに座った。
 スレッタはいつもこっそりとひとりで出かけているつもりだったが、あまりにも毎回このふたりにつかまるので、そのうち諦めてはなから一緒に向かうようになった。
 怒りをかくさないチュチュがベンチのまんなかに陣取り、腕も足もおおきく広げて深くもたれかかっているため、必然スレッタもミオリネもはじっこに追いやられる。もうずっとこんな感じだった。
 チュチュの怒りもずっと最高潮を維持している。よくつづくものだとミオリネは感心した。ミオリネのほうはとっくに冷めている。かといって待ちあわせをすっぽかしたエランをゆるしたわけではないし、会ったらスレッタの婚約者として文句のひとつでも言ってやるつもりである。
 ミオリネはそう思っているが、チュチュのほうはそのていどでおさまりそうもない。
「イッパツ殴る、来たらぜってーブン殴る」
 チュチュは毎回そう言ってついて来た。いずれエランが学園にもどったときには、たぶんすぐにも彼のところへ突っ込んでゆくだろう。それは今日かもしれず、一、二ヶ月後かもしれない。
 スレッタはベンチのはじっこで肩身を狭くして、なかば来ることはないと諦めながら、エランを待っていた。
「どいつもこいつも、スレッタをなんだと思ってやがんだ」
 何度目かもわからない憤りをチュチュが吐き捨てる。
「あっちはその気もねえのに告白して頼んでもねえのにデートの邪魔、そのうえ二度と会うなだとよ。そんでこっちはてめえで誘っといてかってにキレて、約束破りときたもんだ。決闘の懸け物ってのは、ずいぶんお安いんだな。むこうはやりたい放題のノーダメかよ」
「あんたって、バーでくだ巻いてる酔っぱらいみたいよね」
「ア?」
「ああ、ごめん、言ってる意味はわかるから例えとしては不適切だった」
 さすがに殴りたいとまでは思わないが、チュチュの言うことには同意したいミオリネだ。
「意味、わかんないですよ」
 スレッタは不満げに言った。スレッタにしてみれば、チュチュとミオリネだって、頼んでもいないのにかってに怒ってかってに文句をつけて、あげくエランをみかぎるように暗にすすめてくる。よけいなお世話以外のなにものでもなかった。
 が、チュチュは意に介さない。
「そーそー、意味わかんねえよな。御三家ってな、みんなああなのか? グラスレーのぼんぼんも」
 と、わざとスレッタの意図を枉げて言った。
 対象をスペーシアン全体でなく御三家にしぼったのは、チュチュなりに気をつかったのだろうか。スレッタもミオリネもスペーシアンである。
「あそこは大のガンダムアレルギーだから、スレッタとエアリアルのことはゆるせないでしょうね」
「んじゃ、そのうち決闘とか仕掛けてくんのかい」
「さあ……。サリウスCEOのことだから、また審問会でも開くかもね。決闘させるかは、微妙」
 ミオリネはシャディクにはふれずに言った。シャディクはやりたい放題どころかなにもしないとミオリネは思っている。善事も悪事もシャディクはやらない。だれにもおせっかいを焼かないし、悪意をもって害することもない。だれも助けず陥れない。ある意味この学園ではめずらしいかもしれない。スレッタが来る前のミオリネにとってその在り方は堪ったものではなかったが、いまではどうでもいいことである。
「結局、御三家は敵なのよ。わたしにとっても、スレッタとエアリアルにとっても」
 グエルは二戦して二度ともスレッタの退学を懸けて、エランはエアリアルの譲渡を懸けた。対してスレッタはミオリネへの謝罪とエランとの会話である。よくもまあ、こんなわりにあわない懸けをすすんでやる人間がいたものだと、ミオリネは思い知らされた。それで助けられもしたし、危うくなりもした。前回はほんとうに危なかった。好きでもないやつとの婚約などはなからごめんだが、なにが悲しくてよりにもよって恋敵の花嫁にならなくてはいけないのか。まったく冗談じゃない、ミオリネは落胆し、怒り、それでもスレッタを信じた。惚れた弱みとしか言いようがない。
 ――ほんと、クソみたいな制度。
 それをつくったのが自分の父親なのだからまた最低だ。好ましいと思えるひとが花婿になったかと思えば、その制度をつくった張本人に決闘の勝利も懸けも婚約関係もひっくり返された。スレッタも退学となり家族を奪われるところだった。
 ――どいつもこいつも。
 チュチュの言うとおりだろう。決闘の結果だけを真実とする学園で、ずいぶんとその前提条件を軽くあつかってくれる。
「あんたは、エランのやつになにか言ってやりたいことはないの」
「おはなししたいことは、たくさんあります」
「そうじゃねえよ。文句のひとつでもあんだろって言ってんの」
「ないです」
 きっぱりと言ったスレッタは、うつむいて指ををこねている。だから、ふたりにはその言葉がうそだとわかる。
 スレッタは完璧な善人ではない。純真無垢でもない。不快も嫌悪も感情としてもっているし、すくなくともミオリネには遠慮なくぶつけてくる。ミオリネがエランと同じことをすれば、スレッタはぶつぶつと彼女特有のねちっこい言いまわしで不満をもらしただろう。
 ――そのオ、べつに聞きいれてくれなくてもかまわないんですけどね? ただ、わたしだって人間ですし、なんにも言いたいことがないわけじゃないんですよ。そのあたりをわかってほしいというか、こっちの気持ちをちょっとは察してほしいというか……いえ、どうせわたしはただの取り引き相手ですし、ミオリネさんのほんとの花婿でもないですし、友達、でもないです、し? ミオリネさんがそれでいいって言うならいいんですけど、ほら、こう、お互い言いたいことも言えなくて不満を溜めるのは健康によくないじゃないですか。そういう関係ってやっぱり不健全だと思うんですね。だから、あえてというか、心を鬼にじゃないんですけど、ひとことどうしても言っておきたいことがあって……。
 まるでひとりごとみたいな声音で、床でも相手にしているみたいに目線をさげて、そんな長ったらしい前置きをしてから、態度が冷たいとかそっけないとか言葉が鋭すぎるとかもっと優しくしてほしいとかケチとかズル(対戦ゲームでハメ技をつかったら言われた)とか、ゴミを部屋のすみっこに固めたくらいでかたづけた気にならないでくださいだの、ゴミ袋はこまめに出してくださいだの、トマトとカップラーメン以外の食べ物の存在を思い出してくださいだの、体力も筋力もないのに力仕事なんてやろうとしないでくださいだのと、尽きることを知らない怨み言が源泉のように湧いてくる。
 ほんとうに鬱陶しいのだ。きっと性格の鬱陶しさにかけては宇宙一だろう。さらには図々しい。こっちもかなりのものだ。
 どうもスレッタは、理事長室を自分とミオリネとの相部屋だと思っているふしがあり、部屋の物の位置をかってに動かして、かってに物を増やす。どういうわけか枕やタブレットや歯磨きセットの数が倍加している。衣装ケースやクロゼットにはなぜかサイズちがいの衣類がある。ミオリネが許可したものはひとつもない。問い詰めれば、――だって勉強はこっちでしますし、と平然と言ってのける。
 スレッタはミオリネの苦情にろくに耳を貸さず、あらためるそぶりもない。どれもおよそエランに対してとりそうにない態度で、しそうにない言動だ。ミオリネが尻を叩かなければペイル寮に乗り込むことはなく、最初のデートで傷ついて怯んで、きっとそれきりだっただろう。ミオリネにはどれほど鬱陶しがられてもしつこく進んでくるくせに、エランにはたった一度の拒絶で身動きできなくなる。じつにしおらしいものだ。まったくスレッタらしくなくて、正直なところミオリネは好きではない。そんなスレッタは見たくもない。だから尻をひっぱたいて進ませた。
 ――ああでも。
 と、ミオリネは思う。
 ――わたしも、似たようなものだった。
 意気地のない過去の自分をかえりみると、いまのスレッタとかさなるような気がした。自分らしくない態度をとって、ついにふられたのだった。そして、スレッタに対してもそうなってしまっている。
 ミオリネはふたりに気づかれないように顔をふせると、うすく笑った。
 たいせつなひとばかりがミオリネのもとをはなれてゆく。

 ――あんなこと言うんじゃなかった。
 ミオリネは後悔した。
 地球寮を訪れるのはスレッタに会うためなのに、いつのまにかニカがとなりにいて、なにかと話しかけてくる。ミオリネの拒絶を匂わせたすげない態度も気にするふうではない。
 寮ではもうスレッタよりニカとの会話のほうが多いくらいになっていた。
 しかし、ニカとてべつにミオリネとスレッタのあいだに割って入るようなことをしているのではない。来るなり女子部屋の入口横の壁に背を張りつけて生徒手帳をいじっているだけのミオリネに気をつかっているにすぎない。
 話す内容はスレッタのことだけだ。ほかにはない。本人が目の前にいるのに、本人には聞こえないようにひそやかに言葉を交わす。
 せっかくスレッタもみんなもいるのにひとりでいることはない、言いたいことがあるなら言えばいい、そういうことをニカがささやき、ミオリネはそのたびにやはり声をひそめて、リリッケやアリヤともりあがっているスレッタに聞こえないようにみじかく拒否した。
 ときどきスレッタが会話にまざってほしそうにこちらを見てくる。ニカが、ほら、と視線でうながす。ミオリネは、いい、と言ってぷらぷらと手を振る。しゅんとしたスレッタが会話の輪のなかにもどる。そのくりかえしだった。
「ミオリネさんの部屋ではたくさんおしゃべりできてるみたいだから、まだいいんだけどね」
 あとトマトの菜園だっけ、とニカは言った。
「まだ、ってなによ」
「さびしがりやだからさ、一緒にいるときはいつでもかまってほしいんだよ」
「さびしくはないでしょ。あんたたちがいるんだから」
「そういうことじゃないよ」
 ほんとはわかってるくせに、そう言いたげにニカはいつもの笑みを深める。そのまま膝を抱えてしゃがみこんだ。じいっとスレッタを見つめる、その瞳の優しさが、ミオリネはいたたまれない。
 声がすこし遠くなる。
「せめて友達になってあげてほしいな。スレッタはそうなりたいと思ってるから」
「友達じゃない」
「知ってる。花嫁と花婿だもんね」
 ニカはミオリネを見上げて言った。あいかわらず笑ってはいるが、諧謔の色はない。
 人好きのする顔とはニカのようなおもざしをいうのだろう。おおらかな声も油断ならない。うっかりほだされそうになるのを、ミオリネはかろうじて耐えた。この前はまんまとのせられてよけいなことを言ってしまった。あの覆轍を踏むのはごめんだ。
 かわりに渋面をつくってニカを見下ろした。
 ニカの考えていることはわかる。なにをさせたくてしきりに話しかけてくるのか、ミオリネにわからないはずがなかった。なにせニカはスレッタのことしか話題にしない。スレッタとミオリネの関係についてのみ、彼女は口を出してくる。
 励まされている。あるいは背を押されている。いや、尻をひっぱたかれている、というのがミオリネには正確だろうか。ミオリネがスレッタにやったそれよりもはるかにやわらかな手つきで、前に進ませようとしている。
「やっぱり、うかつだった」
「んー、なにが」
 それには答えないで、ミオリネはスレッタを呼んだ。
 ミオリネの声にふりかえったスレッタは大声で返事をして、すっくと立ち上がる。
「なんでえ、もう帰んのか」
 毎度なにしに来てんだよ、というチュチュの声がミオリネの耳に届く。
 ミオリネも同感だった。ほんとうになにをしに来ているのだろう。このところはスレッタに会いに来てニカと進展のない話をして帰るだけで、言ってしまえばむだな時間をすごしている。
 眉をさげて目をほそめたスレッタが、ぱたぱたとこちらに歩み寄って来る。
「言われなくても諦めてない」
「うん、知ってる」
 あっさりとそう返されて、ミオリネはまた顔をしかめた。どうにも苦手なタイプだと思った。スレッタとはちがう意味で敵う気がしない。
 そのスレッタはミオリネのしかめつらをどう受け取ったのか、一瞬足をとめてから、おおきな体をかがめてそろりと近づき、機嫌をうかがうようにミオリネを覗きこんだ。
 ミオリネはちいさく息を吐いて気分をあらためた。ふだんの涼やかさをとりもどした明眸を見たスレッタが、ほっとしたように笑った。
 スレッタは身をかがめたままミオリネと視線をあわせる。
 背を曲げたり肩をすぼませたりするのは、不安や警戒からくる心理的な防御体勢だとミオリネは思っていたが、こういう側面のあることを最近知った。
 ミオリネの性格に馴れたはずのスレッタがいまもこの窮屈な姿勢になるのは、約二〇センチメートルの身長差をうめるためである。この差はミオリネにはきついものがあった。スレッタを見上げるのにかなりの角度をつけることになるのが、なんと言ってもつらかった。
 あるときミオリネは、そのせいで凝った首をまわしながらさすっているのをスレッタに見られた。それ以来、まっすぐになりつつあったスレッタの背筋はふたたび曲がるようになった。
 おかげでミオリネの首は痛まなくなったが、今度はスレッタの体が凝ってしまいそうな状況である。しかし、スレッタの気づかいを無下にするのもためらわれた。
「温室、行きますか」
「行く。手伝って」
「わかりました」
 スレッタはすぐにミオリネの手を取って扉を開いた。
 ニカは腰をあげると、
「がんばって」
 と、ミオリネに手を振った。
「はいっ、がんばりますっ」
 ミオリネがなにか言うよりさきに、スレッタが鼻息を荒くして答えてしまう。
 すぐとなりの呆れ顔が、ニカに言いかけた言葉を呑みこんで、かわりにおおきな溜息を吐いた。
 そっちじゃないんだけどなあとは言えないニカは、苦笑しつつスレッタにも手を振った。
 スレッタがミオリネの手を引いて部屋を出る。
 扉が閉じる直前、ミオリネがニカに視線をおくった。
 泣いているような怒っているようなその目は、――がんばる、と言っていたのかもしれない。
 ニカはきびすを返して、仲間たちの輪のなかに入ってゆく。さきほどまでスレッタが座っていたところに腰をおろした。
「あのお姫さまはスレッタに用があんのかニカねえに用があんのかどっちなん」
「スレッタだよ。いろいろあって恋愛相談にのってるところ」
 言いながらニカはふきだした。それをスレッタの目と鼻のさきでやっているのだから、なんとも奇妙なことだ。
 チュチュもリリッケも首をかしげて、アリヤだけが理解したように首を上下させた。
「むずかしい年ごろだな。恋い焦がれた相手には、あの豪胆さもうち萎れてしまうようだ」
 そう言ったアリヤは、ミオリネより一学年上なだけなのである。

 スレッタはミオリネに力仕事をさせたがらない。
 温室の世話をひとりでやっていたころは、水タンクや肥料袋も当然ひとりで運んでいた。それで腰を痛めた経験があった。手伝ってくれるならありがたいと思って手伝わせているうちに、うっかり慢性的な腰痛に悩まされていることまで話してしまったのがいけなかった。ミオリネとしては自分みたいに腰をやってしまわないように持ち方に気をつけてほしいと伝えたかっただけなのに、ついでにぺらぺらとしゃべりすぎた。
「これからはわたしがやるんで、ミオリネさんはもう重いものは持っちゃだめですよ。持つならゴムボールにしてください」
 スレッタはそう言って温室にかかる力仕事のいっさいをミオリネからとりあげると、こどものころにつかっていたというゴムボールをわたした。
「エアリアルのコンソールの下に入れっぱなしにしてたんですよね。握力トレーニングにはもうつかわないので、ミオリネさんにあげます」
 握力トレーニング以外の用途のためにエアリアルのなかにしまっていたのなら、スレッタにとってたいせつなものなのではないか。そんなものをもらっていいのか、ミオリネがそのことを聞くと、――たしかに安心毛布みたいなものだったんですけど新調したので、とスレッタは言い、しいてゴムボールを持たせたのだった。
 そのゴムボールをぐにぐにと握りながら、ミオリネはスレッタの芽かき作業を見ていた。
 新しく買いつけた花がちょうどその時期になったので試しにやらせてみようかと思ったのだが、横から助言せずに任せるのは今日がはじめてだった。というより拒否された。
 手出し無用ときびしく言いつけられて温室奥の椅子に座らされたミオリネは、母親がはじめて娘に作業の一部を任せたときもこんな気持ちだったのだろうかと思いながら、花婿のはつ(﹅﹅)芽かきを見守るしかなかった。
 ミオリネの前までプランターを運んで来たスレッタは、生徒手帳のメモ帳アプリに書き留めた『ミオリネさん直伝・芽かきのやり方』を確認しつつ、慎重にわき芽をとりのぞいている。その姿はとても楽しそうで、ずっと笑顔をくずさない。
 やはりミオリネはむかしを思い出さずにはいられない。
 ミオリネがはじめてひとりで芽かきをすることになったときも、母親がすぐ近くで見守ってくれていた。
 母親がそばにいる安心感と助けてもらえない心ぼそさ、たいせつなお仕事を任せてもらえた喜びと失敗したらどうしようという恐怖心、いろんな感情がまじっていた。
 いちばんおおきかったのは喜びだ。それから認めてもらったという誇り、大好きなお母さんの信頼を受けてひとりで挑む楽しさ――いまのスレッタも似たようなものなのかもしれない。
 信頼は親愛のあかしなのだろう。ただひとの役に立つのが好きとか頼られるとそれだけで嬉しいとか、そういうのではないようだった。最初の印象ほどスレッタはおひとよしではない。
 ミオリネは、はじめてスレッタを温室に入れたときのことを思い出した。
 肥料袋を温室のなかに運んでもらったのだが、たったそれだけのことでスレッタはミオリネと親友になれたと喜んだ。
 ミオリネにとって温室がどういう場所なのか、そこにひとを招き入れることがどれほどの大事なのか、スレッタは編入初日にミオリネから聞いたわずかな情報とそのあとの騒動で正しく理解したということだ。親友であることは否定したものの、たいせつなものを尊重してくれる気持ちが嬉しくなかったと言えばうそになる。
 会ってそうそうよくもあそこまで気をゆるしたものだと、ミオリネはわれながら思う。抑圧と暴力の象徴だったホルダーの存在を花婿と認め、温室と理事長室に入ることを認めた。出会いからわずか三、四日間のできごとだ。
 いれこみすぎだという自覚はあった。それをあらためようと思ったことも、なくはない。しかし、
 ――お母さんのトマト、おいしそうに食べてくれた。おいしいって言ってくれた。
 ほんとうのところミオリネが信じたのは、それだけだったのではないか。ああもすんなりとひとの言葉を受け取ったのは何年ぶりかしれない。根拠と言えるようなものはなかったが、ミオリネはその平凡な感想をなんの策謀もからまないスレッタの本音だと感じた。皮肉やお世辞だとも思わなかった。
 粗暴な前のホルダーから温室を守ってくれたことよりも解放してくれたことよりも、ミオリネがスレッタを信じる理由はただそれだけだったのかもしれない。
 作業をおえたらしいスレッタが、あの、と声をかけてきた。
 ミオリネはコンソールの上にゴムボールを置いて席を立つと、プランターを挟んだむかいにしゃがんだ。
「どう、でしょうか」
「うん」
 そっと茎葉に触れる。スレッタの緊張のまなざしを感じながら、彼女の仕事のできを見てゆく。
「いいとおもう」
 みじかく言うと、やった、と吐息のような声をこぼしたスレッタがぐっと手を握るのを、視界のすみでとらえた。

 灯りを消した部屋にはベッドに投げ捨てられた生徒手帳のわずかな光だけがある。
 そこにはインキュベーションパーティーの招待メールが表示されていて、ミオリネの顔を淡く照らしている。
 ルームウェアに着替えてベッドに寝転がったミオリネは、その画面を見るともなく見ながら、ぼんやりと昼間のことを思い出していた。
 ――はしゃいじゃって……。
 パーティーには学園からは御三家が参加するという過去の例と可能性の話をしただけで、休学中のエランが来る確証はないのだが、スレッタはすっかりそう信じてしまったようだ。
 生徒手帳の画面をオフにすると部屋が真っ暗になった。
 ミオリネはゆっくりと目をつむって膝を抱える。
 連れてゆくことを約束してしまったが、それで正解なのかどうか。行きたくもなければ行かせたくもない。しかし、ミオリネが行かなくてもスレッタはひとりでパーティーに参加しそうな勢いだった。それならミオリネも行くしかない。
 御三家から参加するのは御曹司だけではなく、CEOや幹部たちも来るのである。そんなところにスレッタをひとりで行かせるのは危険すぎる。
 エランと会うだけならいい。スレッタはそれで喜ぶだろう。が、許可できるのはそこまでだ。
 裏でガンダムを開発していたペイルもアンチガンダムで知られるグラスレーも総裁職に執着するジェタークも、会場におびき寄せられたスレッタをそのまま楽しませて帰らせるだけのはずがない。スレッタは現花婿でありガンダムのパイロットでもあるのだ。
 スレッタは御三家と言えば学園で会う三人の御曹司しか知らないから、実感しづらいのだろう。彼らがいかに貪欲で狡猾で、スレッタとエアリアルを陥れようとしているか、ミオリネがいくら言い聞かせてもなかなか伝わらなかった。自分の敵だとは思わなくてもミオリネの敵であることはよく理解しているようで、
「御三家が敵なのはよくわかってます。エランさんでもグエルさんでもシャディクさんでも、何回挑んできたってわたしとエアリアルがやっつけます。御三家じゃなくてもみんなやっつけます。ちゃんと手心なしです」
 と、スレッタはたびたび安心させるように言ってくる。その見当ちがいの善意と決意の言葉を聞くと、ミオリネはひきさがるしかなかった。
 暗闇のなかで膝を抱える手に力が入る。
 フォーマルウェアを持っていないと言っていた。学生なら通常は制服がその役割を果たすのだが、こどもであることを主張してもメリットのない場だから、やはりスーツかドレスを用意するべきだろう。
 それについてスレッタは母親に相談するつもりだったらしいが、ミオリネはあえてそれをやめさせた。エラン目当ての参加であってもスレッタはミオリネの花婿だ。花婿にふさわしい衣装は花嫁である自分が選びたかった。花嫁とふたりで並んで歩くのにふさわしい衣装だ。
 ――ドレスがいいな。スーツも似合うと思うけどドレスがいい。体のラインがあんまり出ない、ゆったりとしたやつ。装飾は金がいい。あいつの肌に合うはず。スカートはフィッシュテールで色は……。
 考えているうちにウトウトとしてきたミオリネは、やがて眠りについた。

 パーティーの同行者としてニカを誘ったところ、彼女の提案でマルタンもついて来ることになった。
 なぜと聞くと「うちの寮でいちばん体がおおきいから」と言われた。なるほどと思ったが、スレッタに負けず劣らずおどおどとしているマルタンだから、はたしておとなたちの集まる場であの恵まれた体躯がどこまで頼りになるのか。
 するとニカは、
「ああ見えてちゃんと寮長だよ」
 と、ミオリネの懸念を見透かしたように言った。
「スレッタに似ているところはあるね」
「あいつとねえ……」
 見かけよりずっと我が強くて勇敢ということか。スレッタも自分よりずっとおおきな男に脅されても怯えるだけでけっして屈しなかった。主張を押し通した結果、いまの婚約関係がある。
 ともかくパーティー会場のあるベネリットグループの本社フロントへは、ミオリネ、スレッタ、ニカ、マルタン、この四人で行くことになった。
 ミオリネは出発の前日にスレッタを部屋に招いて泊まらせた。
 スレッタはもうすっかりおとなしくなっていた。時間が経ってエランと会えない可能性を考えるようになったのだろう。現実にひきもどされたらしいスレッタは、いつのまにか持ち込んでいたまるいクッションを胸に抱えて、これまたいつのまにか持ち込んだラグマットに座り、もともとあったローテーブルにつっぷしている。
 そのしょんぼりとしたうしろ姿を、ミオリネはベッドに腰かけながら見ていた。
 一度そちらに思考がかたむくとスレッタはとどまることを知らない。とことん浮かれてとことん沈む。
 いまはどこまでも沈んでいる。
「べつに来ないともかぎらないでしょ。急な病気とか怪我じゃなかったんだから」
 そう言ってもスレッタの心は浮上しない。スレッタの憂鬱はすでにそこを通りすぎていたらしい。
「でも、まちあわせ、来てくれなくて、なんにも連絡なかった、ですし。メールしても返信くれない、し。パーティーに来ても、わたしには会ってくれない、かも、しれない、し」
 と、スレッタは顔をくっつけているテーブルに息をこぼした。
「あんた、なんだってそんなうしろむきなわけ」
「だ、だって!」
 スレッタはがばりと顔を上げて、体をよじってミオリネに向きなおる。それからうつむいて、
「やっぱり、わたし、鬱陶しいですもん……」
 クッションをぎゅうと抱きしめた。
 自分の言葉に傷ついてさらにおちこむのはスレッタの癖だ。口を結んで眉をひそめる。うつむいたひたいに翳が落ちる。
「ミオリネさんは鬱陶しいのが好きですけどエランさんはそうじゃないですし」
「は?」
 ミオリネは唖然とした。鬱陶しいのが好きなどと言った覚えはない。鬱陶しいのがスレッタらしさだと思ってそれを伝えただけである。ほかにたとえて言うのであれば、髪が赤いことを否定されたスレッタに髪が赤いのがスレッタだと事実を追認したのであって、好意として示したわけではない。
「鬱陶しいのなんてふつうは嫌われるんですよ。ミオリネさんは物好きだからわかんないかもですけど」
「あんたのなかでわたしがどうなってるかのほうが、よっぽどわかんないわ」
 こうも言い切られるとかえって腹も立たないというものだ。ミオリネは盛大に溜息を吐いた。
 同じタイミングでスレッタも息を吐く。うつむけていた顔を上げて、
「そういえばパーティーのマナー? みたいなの、ほんとに覚えなくていいんですか」
「そんな格式ばったものじゃないから。綺麗な服を着て、おいしいごはんを食べにいくだけって思えばいいのよ。それ以外にすることないし」
 と、ミオリネが言うと、スレッタの表情がすこし明るくなった。
 ――たんじゅんなやつ。
 ミオリネは思わず苦笑いした。
「ただし、だれになにを言われてもホルダーのスピーチとか受けないようにね。ステージには絶対に近づかないこと」
「はい!」
 元気よく返事をするスレッタに、さきほどまでの翳りはもうなかった。
 そのあとはミオリネがむかし参加したいくつかのパーティーのようすをスレッタに話して時間をすごした。

 そろそろ就寝というころあいになって、スレッタはミオリネのベッドに乗り込み、奥のほうに寝転がった。
 ミオリネが電灯を落として横になると、スレッタがぴたりと体をくっつけ、うしろからゆるく抱きかかえる。
 はじめてスレッタが理事長室に泊まったときからずっとこうだった。狭いベッドでどちらかがうっかり落ちてしまわないように、ミオリネが懸念の排除にほんのちょっとの下心を含ませて提案したことが、ここまでずっとつづいている。
 初回にいちおう用意した寝袋も、泊まりの日が増えてきたころに買った折りたたみの簡易ベッド一式も、理事長室ではつかわれたことがない。どちらもスレッタによって地球寮に接収され、簡易ベッドは共有ルームの仮眠用ベッドとなり、寝袋は地球寮の子たちとのキャンプで一度だけつかったらしい。
 ミオリネは過去の自分のあさはかさを悔やみ、同時にスレッタの気持ちをはかりかねた。
 それで、今夜ついにそれを言った。
「簡易ベッドがいやなら、わたしがそっちで寝たのに」
「いやじゃないですよ。あれでお昼寝するの、とても好きです」
「昼寝用じゃないんだけど」
「そうなんですけど、まあいいじゃないですか。みなさん喜んでますし」
 スレッタはからからと笑う。
 ――あの子たちのために買ったんじゃないのに。
 と、ミオリネは言いたかった。
「くっついて寝るの、なんか、好き、みたいなんです、わたし」
「みたいって、なに」
 いままでそうとは知らなかったような、なんとなくひっかかる言い方にミオリネが問うと、
「わたし、寝るときはだいたいひとりだったんですよね。お母さんがお仕事で留守にすることが多くて、ほんとに、うんとちっちゃいころからひとりで寝ていたんです」
 と、スレッタは言った。
 ベネリットグループでも末端に位置する弱小企業、シン・セー開発公社の社長が、スレッタの母親だ。夫を喪ったあとにほとんど身ひとつで起業して、エアリアルを造りあげ、なんとか娘を学園に通わせるところまでこぎつけたという。多忙のためにあまりスレッタのそばにいられなかったのはむりもないことだったのだろう。
 ミオリネは一度だけスレッタの母親に会ったことがある。スレッタよりさらに長身の、声量のゆたかな女性で、頭部の上半分をすっぽりとおおう仮面をつけていた。そして片腕がなかった。たしか右腕が義手なのだ。
「家のベッドだとさびしいからエアリアルのコックピットのシートをたおして……まあ、だから正確にはひとりじゃないし話し相手もいたけど、エアリアルはモビルスーツだから、一緒に眠るのとはやっぱりちがくて」
 スレッタはつらつらと語りだした。
「たまにお母さんと一緒に眠れるときは、こんなふうにお母さんにくっついて眠ってました。むかいあって、わたしが抱きしめてもらいながら」
 ミオリネは、自分を抱きよせるスレッタの腕の力が強くなった気がした。髪に鼻先を押しつけられているのは、たぶん気のせいではない。
 よき思い出話を語っているらしいスレッタのおだやかであたたかな声を聞いていると、ミオリネの腹にだんだんと不快な感情が溜まってきた。
「暖房が停まってすごく寒いはずなのに、なんでかあったかいんです。それで、眠りつけるまでお母さんとおしゃべりして、眠いけど眠りたくないなあって思ったりして、起きたらお母さんはまたお仕事だから」
「なによ、それ」
 ミオリネはスレッタの話をさえぎった。
「わたしはあんたのお母さんの代わりってこと?」
「どうなんでしょうね。そうかもしれないです」
 苛立ちをぶつけるように言ったミオリネの声はあっさりとかわされた。
 スレッタはくすくすと笑う。ミオリネの聞いたことのないひどく意地悪い笑声が髪に吹きかかる。
「ミオリネさんって、わたしのなんなんでしょうか。友達じゃないし、ほんとの婚約者じゃないし、姉妹でもお母さんでもないし、親戚でもないし。同い年だから先輩でも後輩でも……あ、これは関係ないか。チュチュ先輩は年下ですもんね」
 じゃあミオリネさんは先輩なのかな、とスレッタはまるでどうでもいいことのように軽い調子で言うが、そんなはずはなかった。スレッタはミオリネを責めているにちがいなかった。名づけがたいちゅうぶらりんの関係に不服をもうしたてているのだ。
 スレッタはなおもつづける。
「同級生って言っても学科がちがうから授業もほとんどべつだし、寮もちがうし……」
「取り引き相手でしょ」
 ミオリネはもう不快をかくさずに言った。もちろん本心からそう思っているわけではないが、スレッタのひとごとのような、それでいてミオリネを責め立てる口ぶりに腹が立ったのだった。
「あんたがわたしの邪魔したから、つぎに地球に脱出するまで花婿になって手伝うって、そういう取り引きでしょ」
 背後のスレッタがふっと息をもらした。笑ったのか、あっけにとられたのか。
「そうですね、――そうでした」
 そのかわいた声にこめられた感情の名を、ミオリネが知るすべはない。

 メインステージを照らすライトの色が白から赤に切り替わった。観衆の不安と恐怖を煽るための露骨な演出だ。
 ひときわ高くせりあげられた演壇の上でスレッタが叫んでいる。エアリアルの廃棄処分を訴える声と戦っている。母に助けを求めている。
 ミオリネはメインステージに向かって全力で走った。
 ――しくじった。
 ミオリネは唇を噛みたくなった。
 スレッタをひとりにすべきではなかった。スレッタはエランに会うためにこのインキュベーションパーティーに参加したのだ。エランの背後にいるペイル社が罠を張っているのはわかりきっていたのに、スレッタの母プロスペラにつかまっているうちに、スレッタとエアリアルを陥れられてしまった。
 エランが言葉巧みにステージへ上がらせたことは、知らずともわかりきっている。
 ――スレッタの母親もエランも、なにをしてるのよ。
 この会場のどこかにいるプロスペラはどうしてスレッタを助けないのか。エランが言ったではないか。まずは開発者に話を聞くべきだと。そのエランもそう言ったきりなんの弁護もしない。いや、エランの立場を考えればせいいっぱいスレッタに助け船を出したと言うべきかもしれないが、それでもミオリネは、スレッタより一段低いところにいるエランに薄情を感じないではおられなかった
 ミオリネは、しかし、そうした怒りはすぐに切り捨てた。そこに思考を割いている余裕はない。ガンダム・エアリアルの廃棄とシン・セーのモビルスーツ開発部門の解体、それをもくろむ御三家の結託と意図はあきらかであり、事態は前の審問会よりずっと悪い。
 ――スレッタを助けないと。
 ミオリネはかつてない速さで思考をめぐらせた。孤軍奮闘するスレッタの窮地を救い出す方法をさがし、見つけ、まとめる。熟考している時間はない。
 ――スレッタに家族を喪わせるようなことはさせない。絶対に。
 スレッタとエアリアルと、自分。三人で勝ち取った学園生活を、おとなの都合で何度もひっくり返されてたまるか、おとなの身勝手な陰謀に負けてなるものかと、このところおとなしくなっていた反骨心が、ひさびさの出番に勢いづく。
 生徒手帳の上に指をすべらせながら、ミオリネは、このだだっ広い会場のなにか途方もなく遠くにあるような気さえするメインステージに向かって走る。
 それ以外には目もくれないミオリネは、だから、その途中でシャディクの指先が制止するかのように動きながら、ついにそのための軌跡をのこすことなくおさめられたことなど、知るよしもない。
 ひとごみに埋もれやすい小柄なミオリネがパーティー会場でいつもめじるしにしていた、だれよりもおおきな背中を、どこからでも見つけられた温顔を、はじめて一顧だにせず通りすぎていったことに、ミオリネ自身は気づかない。
 ステージ下に着く。
 足をとめ、呼吸をととのえ、心のなかで唱える。
 ――alea jacta est.(アーレア・ヤクタ・エスト)
 ミオリネは生徒手帳を握りしめる。
 満腔で叫ぶ。
「エアリアルは廃棄させないわ!」
 強く澄んだ声が空気を切り裂く。
 会場にいるすべての人間の視線が、その声のあるじ、ミオリネにそそがれる。
 ――もう、あとにはもどれない。
 賽は、いま、投げられたのだ。

 父デリングから与えられた言葉が、ミオリネの頭のなかで重くひびいている。
 すでに会場をあとにしたデリングの背がいつまでも目の前にあるようだった。
 その幻を感動のにじむ目で見ていると、
「ミオリネさん――」
 聞き慣れた声が自分を呼んだ。
 ミオリネは、はっとして声のするほうにふりむいた。
 スレッタがミオリネの脱ぎ捨てていったヒールを拾って持って来てくれた。
「ありがとう、ございます。あの、ミオリネさん、わたし、また約束やぶっちゃって……」
 スレッタがその場にひざまずく。ヒールを履かせるつもりらしい。ミオリネの足の裏に手を添えて持ち上げた。
「あっ、ちょっと汚れがついちゃってる……」
「預けたバッグにハンカチかティッシュが入ってるはずよ。あとヘアウォーターがあるから、それで濡らしちゃって」
「はい……あっ、ありました」
 スレッタはバッグからハンカチとミニサイズのヘアウォーターを取り出すと、ハンカチに吹きかけ、ミオリネの足を拭いた。それから乾いている面で水分を拭う。
 清掃のゆきとどいてそうな清潔で豪奢な会場でも、裸足で走れば床と接地する足の裏が汚れる。当然のことだ。しかし、スレッタはそれをうまく呑みこめないらしい。まるい眉がすこしへこんでいる。
 ――わたしのせいで、って顔だ。
 あんたのせいじゃない、と言うのもおかしいと思ったミオリネは、慰めの声をかけなかった。
 両足にヒールを履かせるとスレッタは立ち上がった。ミオリネの言いつけを守って背筋を伸ばしている。こうなると、ミオリネが高いヒールを履いたところで視線は水平に交わらない。
「エアリアル、助けてくれて、ほんとに、ありがとうございます。わたし、大声でお母さんを呼ぶしかできなくて」
 スレッタはふかぶかと頭を下げた。
「あんたもひとりでよくやったわ」
 ミオリネは言った。大勢の前で晒しあげられて糾弾され、それでも自分の意思を貫くことの困難はミオリネもよく知っている。
「あんたが挫けていたら、わたしも立てなかった」
「あ、……ありがとう、ミオリネさん」
 ミオリネはおどろいて目をみひらいた。しぼり出すような声で礼を言うスレッタが、なぜか涙をうかべている。
「なんで泣いてるの」
「へえ? あっ、泣くつもり、ないんですけど、なんか、あの、あれ? どうしよう、これ……」
 スレッタの手が乱雑に目をこする。
「自信もって、胸張りなさいよ。あんたは、わたしの花婿なんだから」
 これを言うのは今日で何度目だろうか。いまはまっすぐに伸びている背を叩くと、スレッタは涙をおさめ、そして、
「はい、わたし、ミオリネさんの花婿です」
 花婿でいいんですね、と言って、くしゃりと笑った。

 ふたりで二階席から降りてゆくと、シャディクが待ちかまえていた。
 シャディクはいつものようにおだやかに笑っている。
「ちょっといいかな」
 ちらとスレッタを見るので、ミオリネもスレッタに視線をおくり、プロスペラをさがすように言った。
 スレッタの姿が見えなくなると、
「起業おめでとう。みごとな大立ち回りだったよ。きみは、あいかわらずやることが派手だ。それに土壇場に強い」
 と、シャディクは言った。その称賛を素直に受け取れるほどミオリネは高慢ではない。
「わたしの力じゃどうすることもできなかった。悔しいけど」
 ミオリネは歯噛みした。
「そうだね、成功したのはきみの事業計画に魅力があったからじゃない。デリング総裁の投資先が魅力的だったからだ」
 それは同じなようでまったく異なるものだ。ミオリネにもそれがわかっているから、とっさにデリングの名と信頼を借りたのだった。
 シャディクはむかしからそういう、ミオリネも重々承知しているつもりの、しかしミオリネにとって耳の痛いところをかならず突いてくる。シャディクがわざわざそれを言うのは結局ミオリネの認識が足りていないということにほかならない。
 ミオリネはむつと口をとがらせた。
「あんたのそういうとこ、ほんとむかつく」
「それはどうも」
 シャディクは熱狂と喧騒のおちついたフロアを見渡す。今日一日でどれほどの金が動いたのか。新規事業の起ち上げに成功したのはごくわずかである。そのなかにミオリネがいる意味を、あのいかにも純朴そうな花婿にはきっと理解できないだろう。学園内の決闘の結果ではなく、ベネリットグループにおける正当なプレゼンテーションを支持された結果だということの意味も。
「これまでのいきがかりを捨てて、憎い相手に頭を下げてでも助けを乞う。だれにでもそれができたなら、世界はもっと容易だっただろうに」
 ミオリネに視線をもどしたシャディクは、そう言って目をほそめた。
「なにそれ」
 ミオリネはシャディクの頭がどうかしてしまったのではないかと思った。すくなくともミオリネの知るシャディクは、世界だなんだとこんな大仰なことを言う人間ではなかったはずだ。
「あんた、もしかして酔ってるの?」
「あいにく酒は一滴も飲んでいないよ」
 でも場酔いはしたかもしれないな、とシャディクは言った。
 ミオリネは信じなかった。シャディクにかぎってそんなことはありえない。雰囲気に酔うような失態を犯すはずがないとミオリネはよく知っている。
 バッグに入れていたミオリネの生徒手帳から、メッセージの着信音がした。スレッタからだった。
「スレッタが呼んでるから」
「ああ。呼びとめて悪かったね」
 ミオリネはシャディクと別れ、早足でスレッタのもとへ向かった。
 そうしてインキュベーションパーティーはおわった。

 宿泊先のホテルの部屋に入り、軽食で腹を満たし、シャワーを浴びて、ミオリネとスレッタはようやくひと息ついた。
 ベッドは二台あるのに、スレッタはわざわざミオリネのとなりに腰かけてぴったりと体をくっつけると、寄りかかるみたいに首をかたむけた。
 精神的にまいっているのだろう。それがわかるミオリネはなにも言わず、スレッタの好きにさせた。
「ミオリネさん、あの、おつかれさま、でした」
「うん、おつかれ。なんか、一生分の気力をつかいはたしたって感じがする」
 ミオリネは首に手をあて、ぐるぐるとまわした。湯船にゆっくり浸かったおかげか多少はほぐれたが、緊張で凝り固まった体はまだぎこちない。
「あんたもたいへんだったでしょ。わたしも走りまわって疲れたわ。たぶんしばらくは筋肉痛ね」
 人生であそこまで全力で走ったのは、はじめてかもしれない。
「もう寝ましょ」
 ミオリネはベッドライトをつけたあと、室内灯を消すためにすぐ横に置かれてあったリモコンに手を伸ばした。
 しかし、それよりさきに、スレッタがミオリネのルームウェアの袖口をゆるく引っ張った。ミオリネはすこし浮かせた腰をふたたびおろした。
「ん、なに」
 スレッタは伏し目がちになって固く唇を結んでいる。
「お母さんが、エアリアルのこと」
「スレッタ――」
 ミオリネはスレッタの言葉をさえぎった。低い声にスレッタはすこし肩をふるわせた。
「いいから、もう寝るよ。疲れてるからすぐ眠りつけるでしょ。起きてたら、よけいなことどんどん考えちゃうし、あんたは考えだしたらとまらないんだから」
 スレッタはひとに話せばそれだけですっきりするタイプではなく、言えば言っただけ悪化させる。自分の言葉でがんじがらめになってしまうのだ。ガンダムについてろくな知識をもたないミオリネには、スレッタの不安と疑心をとりのぞけるようなことは言えそうにない。
 一度思考を遮断させるべきだ。そうすればスレッタは案外引き摺らない。
「ベッド、一緒でいいからさ」
 と、ミオリネが言うと、スレッタはいったん袖口をはなしたものの、今度はミオリネの手をこわごわと掴んだ。
「でも、エアリアルはガンダムだって、お母さんが」
 肩をちぢこまらせながらミオリネの手をぎゅっと握る。
「エアリアルは、ガンダムで、わたしは、魔女、でした」
 スレッタは泣きそうな声で言った。
「前に、フロント管理社に捕まったときも、ガンダムとか魔女とか言われて、ぜんぜんわけがわからなかったんです。でも、お母さんは、魔女じゃない、ガンダムじゃないって、そのときは言ってくれました」
 グエルとの最初の決闘の直後だ。たしか本社で開かれた審問会の場でプロスペラはエアリアルを新型のドローン技術だと弁明していた、ミオリネはそれを思い出した。というのは閉会後にシャディクをとっつかまえて得た情報だ。ついでにペイルCEOがエアリアルにいたく興味を示していたこともそれで把握した。
 ガンダムであることを理由にスレッタが退学になりエアリアルが廃棄されるとなれば、プロスペラとしてもGUNDフォーマットを使用している事実を認めるわけにはいかなかったのだろう。
 プロスペラは娘のスレッタにもその事実を伏せていたらしい。
「だから、今日だって、わたし、エアリアルはガンダムじゃないって、廃棄しないでくださいってひっしで……」
 なのに、信じていた母の言葉はその母によってくつがえされた。プロスペラはあっさりとエアリアルがガンダムだと認めた。それはミオリネもその場にいて聞いていたことである。
 スレッタはいっぺんに、大好きな母親にあざむかれたことを知り、自分たちがひとのいのちを奪う忌まわしき魔女と兵器だと知ったのだった。ショックでないはずがない。
 心の拠りどころをみうしなったスレッタは目の前にいるミオリネにすがりついた。それを突き放すほどミオリネは冷酷な人間ではない。
 ミオリネは嘆息するかわりに瞑目した。いま呼吸以外の息をすれば、スレッタはそれをどう受け取るか、きっとミオリネに失望されたと思うにちがいない。
 目をひらいたミオリネはふたたびリモコンに手を伸ばした。
 室内は薄暗くなり、ふたりベッドライトのほのかなオレンジ色につつまれた。
「あっ」
 と、おどろくスレッタの手を握りかえしたミオリネは、勢いよくスレッタに抱きつくと、力いっぱい押し倒した。
 不意をつかれたスレッタは実にかんたんに倒れてくれた。
 スレッタは慌てふためいて手足をジタバタさせたが、ミオリネをどかそうとはしなかった。
「あ、あの、あっ、ミオリネ、さん」
「話したいことあるなら聞けるだけ聞くから、とにかく横になって目をつむってしゃべって。どっちかがさきに眠ったらそれまで、ってことで」
 と、ミオリネは言って、半身を起こした。ベッドから足を投げ出してダウンケットを下敷きにしたままでは、さすがに寝つかれないので一度ベッドから降りる必要がある。スレッタにもそううながす。
 あらためて横になり、ダウンケットを被って、今夜はむかいあって寝ることにした。
 ダウンケットのなかでスレッタが手を掴もうとしてきた。指先が触れるのを感じた瞬間、ミオリネはスレッタよりさきに相手の手を握った。スレッタはとまどい、ややためらったあと、おもむろに握りかえした。
 ミオリネが目をつむると、スレッタもそのとおりにした。
 スレッタは長いあいだ沈黙した。
 吐き出したいことは山ほどあるだろうに、いっこうに口にしない。
 スレッタの呼吸の音はかすかに聞こえるから、言いよどんでいるわけではないようだ。そういうときのスレッタは声とも言えない小声をよくもらすが、すくなくともいまはそうなっていない。
 らちがあかないと思ったミオリネは、自分のほうから口をひらいた。
「ガンダムの会社つくっといて情けない話だけど、わたしもガンダムのことはほとんど知らない。パイロットのいのちを奪う呪いの兵器で、ヴァナディースっていう研究機関の魔女が造って、オックスアース社が売ろうとしていた、それがクソおやじの世代では常識ってことくらい」
 握っているスレッタの指がぴくりと動いた。エアリアルを造ったのはスレッタの母親なのだから、この母娘は揃って魔女ということになる。
「じっさいにガンダムに乗って死んだパイロットがたくさんいたんだと思う。たぶん、テストのときに」
「テストの、とき」
「そう。戦争兵器として使われる前に、うちのクソおやじがヴァナディースとオックスアースをつぶした」
「それって、あの、だんあ」
「規模や内情は、ごめん、わからない」
 おそらく多くの関係者がこのときいのちを落としたのではないかと、ミオリネは考える。あの父親にわざわざ捕縛して裁判にかけるような温情があるはずもない。
「ドローン戦争は知ってる?」
 ミオリネが聞くとスレッタはうなずいたらしく、かすかに布のこすれる音がした。
「えっと、自習プログラムで覚えました。わたしが学校行ったことないから、ニカさんがつくってくれたんです」
「へえ、あの子がね」
 あの抜け目ないおひとよしは、スレッタをそうとう気にかけているらしい。
 ニカなら偏った教え方はしていないだろう。
「ドローン戦争のときには、パイロットは兵器を操縦するためじゃなくて、えと、拡張パーツ? みたいな感じで、乗せられて、いのちをすごくかるくあつかわれてたって……」
 スレッタはそこで一度話すのをやめ、
「あ、あって、ますか」
 と、不安そうな声で聞いてきた。
「うん、あってるよ。ほかには?」
「えーっと、いまのモビルスーツの設計思想の基礎は、ドローン戦争の惨劇をくりかえさないために、ミオリネさんのお父さん、と……、サリウス、さん? というとても偉い方が、たくさんがんばって根付かせたんだと習いました。モビルスーツを開発したり操縦したりするためのげんみつなルールとか、あと戦争のルールとかもつくったって」
「そうね、わたしが一年のときに習ったのもざっくりとそんな感じだった」
 授業では派手に華飾されたデリングとサリウスの事績を賛美していたが、ニカはスレッタが呑みこみやすいようにテキストを改変したのだろう。デリングはミオリネの父親にすぎず、サリウスはだれだか知らない偉いひとだ。
 ――いい仕事をしてくれた。
 ミオリネは内心ニカを褒めた。
 デリングが、ガンダムを開発していたヴァナディース機関とそれを売りさばこうとしたオックスアース社を粛清したのは、いまから二十一年前のことだった。父親としてのデリングは自分の過去を娘にいっさい語らなかったし、母の死後デリングに反発するようになったミオリネは、英雄と呼ばれる父親の功績についてくわしく知ることを避けていた。だが、ガンダムに関わることになった以上、ミオリネはこれから表に出ているもの裏に隠れているもの問わず、すべて知っていかなければならないだろう。
 GUND-ARMすなわちガンダムはドローン兵器の再来であり、第二のドローン戦争を起こさせないためには、どうしても早期にヴァナディースとオックスアースを制圧する必要があった。ミオリネが受けた授業のつづきには、そんな内容のものがある。
 二十一年間、ガンダムは市場にも戦場にも出回らなかった。それはたしかだろう。
 エアリアルが当時ヴァナディースで開発されていたガンダムと同じ技術で造られたモビルスーツであれば、スレッタはとっくに死んでいるはずで、これはファラクトとエランにも言えることだ。
 つまり、シン・セーとペイルはなんらかの新技術によって、ガンダムのかかえていた生命倫理問題をクリアしている。
 ――それなら……。
 ミオリネは目をつむったまま、指先にすこし力をこめて、
「あんたはエアリアルに乗っても元気に生きてる。あんたのお母さんは、あんたを呪い殺すような家族(﹅﹅)を造ってないし、あんたはだれのいのちも奪ってない」
 と、言い切った。ここはどうしても断言しなければならなかった。
 スレッタはなにもこたえない。長いあいだ浅い呼吸をくりかえしてからようやく、
「はい」
 と言った。
 吐き出したかったことをおおかた吐き出したスレッタは、ようやく気をおちつかせたようで、しばらくすると寝息をたてはじめた。

 学園にもどった翌朝のことである。
 スレッタがどたばたとせわしない足音を立てて、めずらしく一言のあいさつもなく温室に入って来ると、
「ミ、ミオリネさんっ」
 と、慌てた声をあげた。
 花に水やりをしていたミオリネが入口のほうを向くと、ちょうどスレッタが段差につまずいて転びかけていたところだった。
 スレッタは数歩よろめいてから、膝を落として、座りこむように前のめりに倒れ、ついで手を突っ張って体を支えた。顔面強打を回避したスレッタの安堵したような溜息がする。
 あのスレッタが踏ん張れずに転倒してしまうなんて、よほど慌てているのだろうか。
「ちょっと、あんた、だいじょうぶなの」
 水やりを中断して立ち上がろうとすると、
「ミオリネさん!」
 そんなことはどうでもいいとばかりにスレッタはがばっと顔を上げて、またミオリネの名前を叫んだ。
 ミオリネはその場にしゃがみなおした。
「なによ、大声だして」
「地球!」
 言われて、ああしまった、とミオリネは思った。スレッタへのいいわけをなにも考えていなかった。
 スレッタはよつんばいのままミオリネの前まで這って来ると、上体を起こし、いつものように膝をそろえて座った。肌の色でわかりづらいが、膝がわずかに赤くなっている。見たところすり傷のたぐいはないようだ。
「ど、どうしましょうか。わ、わたし、どうしたらいいですか」
「どうしようかしら」
 ひとごとみたいに言って水やりを再開する。どうにかする気もさせる気もミオリネにはない。
「じ、じゃあ、地球に、会社、つくる、とか」
「それじゃすぐにクソおやじに見つかって連れもどされるでしょ。あいつのつくった決闘制度から逃げたかったのよ」
「あっ……。そ、そうでした」
 スレッタはうつむいて、腿の上に置いている手を握った。
「まあ、そのクソおやじのおかげで会社つくれたんだけど」
「ミオリネさんのおかげですけど」
 間髪いれず、スレッタはどもりのない声できっぱりと言った。ミオリネがおどろいてふりむくと、不満げに唇をとがらせている。
「ミオリネさんがわたしとエアリアルのために会社をつくってくれたんですよ。ミオリネさんのお父さんじゃないです。まちがえないでください」
 ミオリネはあっけにとられた。そんなに気に食わなかったのか。言ったミオリネを責めるほどのことなのか。この意地っ張りの意地の張りどころを、ミオリネはいまだにつかみきれない。
「あんたねえ……」
 重い息とともに吐き出したミオリネは、すこし考えて、
「あのさ」
「なんでしょう」
「いまからでも地球へ行くの手伝ってくれるの」
「それは、もちろん」
 スレッタはうなずいた。そして、はっと気づいたように目をみひらく。
「そう、そうなんです。だから、ミオリネさん、会社、つくってくれたから、地球へ行くの、どうすればいいですか」
「急にどもったり流暢になったり、いそがしいやつね」
「まじめに考えてください! ミオリネさんの将来がかかってるんですよ!?」
 そして急に怒る。ほんとうにいそがしいやつだとミオリネは思った。
「あんたの将来もでしょ。わたしが地球へ行ったらあんたもエアリアルも会社もほったらかしになるんだから」
「あ……、ああっ」
 スレッタは頭を抱えて背をまるめた。
 株式会社ガンダムは、ミオリネが勢いと即興でつくったまだまっさらな会社だ。スレッタとエアリアルの社会的保護という目的以外になんのビジョンもプランもなく、社員もスレッタだけだ。そんな状態で創業者のミオリネが逃げ出したら起業の話は立ち消えになり、スレッタとエアリアルを守る者がいなくなってしまう。どう考えても地球行きと会社経営は並立できない。
 そもそもミオリネはどうしても地球へ行きたいわけではない。地球は逃亡先にすぎず、いまとなっては逃げる理由もない。学園に留まるのはスレッタとエアリアルを守るためではあるが、結局は自分自身のためだった。ミオリネはいまやそれがおのれの本心であることを完全に自覚した。スレッタとの婚約関係を手放すつもりは毛頭ない。
「まあ、誕生日までにはなにか考えておく」
 ミオリネはうそにならないていどにごまかした。
「は、はい。なんでも協力します。なんだったら、わたしとエアリアルも地球に、行きますっ、からっ」
「なに言ってんの」
 どうもスレッタは思いつきで重大なことを決めてしまう癖があるようだ。
「学校どうするのよ」
「ち、地球の学校に……」
「考えなしに言うことじゃないでしょ」
「そ、それくらいの気持ちでがんばる、ということでっ」
 意気ごむスレッタにミオリネは、
「それじゃ、この子たちのお世話、手伝っていってよ。放課後こっちに寄れるかわからないから朝のうちにやっておきたいの」
 と言った。
 スレッタがほっとちいさく息を吐いた。話が身近なところにいったのでやっと気をおちつけたのだろう。肩の力がぬけてゆくのがミオリネにもわかった
「なにか、ご用事ですか。それって、ガンダムのお仕事ですか」
「そうね。ガンダムのお仕事」
「わたしに手伝えること、ありますか」
「もともと頼むつもりだった。ひとりじゃむずかしいから」
 スレッタの表情が明るくやわらいだ。
「どんなお仕事ですか。なんでもがんばります」
「会社の看板を作る」
 と言ったミオリネがうかべていたのは、いつかスレッタがさわやかでいたずらな笑顔≠ニ評したそれだった。

 スレッタに地球寮の格納庫までボードを三枚ほど運んでもらい、昇降機の柱の下に何枚か重ねたボロ布の上に一枚立て掛けさせた。
 そのあとふたりで格納庫にあるいくつかの塗料と工具を拝借した。
 ふたりとも体操着に着替えている。
「仮のものだからそれなりでいいよ。見やすくておおきな文字ならなんでも」
「でも、いいものにしたいです」
 せっかく塗料もいっぱいありますし! と、スレッタはやけに機嫌がいい。
「あっそ」
 言いつつミオリネの機嫌も悪くない。楽しくやりたいなら楽しんでもらおう。そう思ったミオリネはタブレットの電源を入れる。ロゴデザイン用のシミュレーターアプリがあるはずだ。それを起動させて、テキストボックスに会社名を流し込んだ。画面にデフォルトのデザインで、
 GUND-ARM Inc.
 と、表示される。ミオリネはスレッタにタブレットとタッチペンをわたした。
「ここにテンプレートがあるから、そこからかんたんそうなの選べばいいよ」
「いろいろあるんですねえ。あっこれかわいい、けど、むずかしそう。ううん、こっちのタブはクール系なんだ。へえ」
 ペンを持つスレッタの手がタブレットの上をいそがしく動きまわる。
「ミオリネさんと、わたしと、エアリアルの色……」
 銀と赤と青と白、とぶつぶつと言いながらスレッタがカラーパネルとにらめっこしはじめる。
「ターコイズグリーン」
 横からミオリネが言う。
 スレッタがふしぎそうにミオリネを見た。聞き覚えのない色らしい。
「ちょっと貸して」
 ミオリネはタブレットの片側だけ持つと、色番号を入力して、その色をスレッタに教えた。
「これがターコイズグリーン……」
「そう、ターコイズは宝石の名前ね」
 スレッタは平面なタブレットのモニターをためつすがめつする。しばらく黙考してからタブレットをミオリネに返すと、塗料缶の蓋を開けて空の缶にすこしだけ注いだ。タブレットのターコイズグリーンの割合表と塗料缶を交互に見ながら調色してゆく。
 ミオリネはタブレットを見ない。スレッタの瞳をただ見つめる。スレッタはおそらく完成させられないだろう。見本どおりに調色できたところでミオリネは納得しない。それが自分でわかる。
 ミオリネにとって本物のターコイズグリーンは、スレッタの瞳のなかにだけ存在する色である。
 はたしてミオリネのきびしいだめだしにスレッタはついに根負けした。
 憔悴したようにうなだれる。
「どうせ仮看板なんだからそんなにおちこまなくても」
「でも、ミオリネさんの好きな色なのに」
「じゃ、エアリアルの色でいいでしょ。青と赤と黄。株式会社ガンダムだし」
 スレッタはそれでいくらか元気になったようだった。
 原色のままでは明るすぎるので多少ととのえてからエアスプレーガンに取り付けた。無地のボードに向けて噴射する。
 持って来た三枚すべてつかいきってやっと、いびつながらも看板ができた。ミオリネはスレッタに言って、今度は寮棟の入口まで運んでもらい、看板を立て掛けさせた。
「あのう、ミオリネさん、これって」
 看板を置いたスレッタがふりかえる。ミオリネがなにを考えているのか察したらしい。おそるおそる表情をうかがってくる。
「起業理由からするとここしかないと思うけど?」
 ミオリネは平然と言うと、寮に入っていった。

 その後、地球寮生の雇用に関して多少のごたごたはあったものの、なんとか全員の協力を得られることになり、株式会社ガンダムはGUND技術を用いた医療機器会社として事業方針を固めた。
 そして、その夜、ミオリネはめずらしく理事長室のラグマットの上に膝をそろえて座らされた。ローテーブルを部屋のすみにかたづけたスレッタが、ミオリネの正面に座って膝をつきあわせる。
 スレッタはむずかしい顔つきで、じいっとミオリネを見つめてくる。昼間はたいそうゴキゲンだったのに、すっかりななめにしていた。原因はあきらかで、ミオリネの過去の行動にあった。
「審問会のこと、なんで教えてくれなかったんですか」
「忘れてた」
 ミオリネは事実を言うしかない。黙っていたつもりはないし、インキュベーションパーティーでプロスペラがスレッタに飲み物を取りにいかせなかったら、たぶんそこで話していただろう。
「そんないいわけでっ、わたしが納得するとっ、思ってるんですかっ」
 スレッタはそばのクッションを掴んでぼすぼすと床を叩く。そろそろスレッタに怒られるのにも慣れてきたミオリネだったが、物にあたるのははじめて見たかもしれない。
「いいわけじゃないし、ほんとにそのあたりのことはすっぽりぬけてたのよ。こっちだって余裕なかったし」
 それもスレッタにはいいわけにしか聞こえないのだろう。
「もうっもうっ。ミオリネさんのバカ!」
 スレッタはクッションを抱きしめ、ひたいをラグマットにぶつける勢いで腰を折り曲げる。
「教えてくれたら、最初から断わらなかったのに!」
「べつにいいじゃない。ちゃんと決闘してくれたんだから」
「よくないですよ! わたしとんだ不義理水星人じゃないですか!」
「そこまで怒るようなこと?」
 ミオリネにはスレッタが怒った原因はわかっても、そんなことでここまで怒る理由がわからない。
 スレッタは上体を起こして背筋を伸ばすと、
「そこまで怒るようなことです」
 と、真剣なまなざしで言った。
 地球寮から理事長室までの道中はなにもなかった。
 部屋に入ってすぐ、スレッタがひとつの提案をした。それがきっかけだった。
 父デリングに頼んで決闘制度を取り下げてもらい、ミオリネを望まない婚約関係から解放してもらう。スレッタの提案とは、つまりそんな内容のもので、そうすればミオリネは地球へ行かなくてもよくなるのではないか。
 しかし、ミオリネはその提案をしりぞけた。そんなことはミオリネもとっくにデリングに訴えていたが、一度も聞きいれられたことがないということを前置きしてから、
 ――最初の決闘であんたがグエルを倒したとき、あのクソおやじは自分でつくった制度を反故にして、ろくな審議もせずに一方的にあんたの退学とエアリアルの廃棄を決めたの。わたしも退学になって、あいつが用意したべつな花婿をあてがわれるところだった。決闘に勝ったのはあんたなのに、懸けたものを得るどころか負けたグエルの望みが叶うところだったのよ。最悪でしょ? あいつは王さまきどりの独裁者だから、自分で決めたことだってかんたんにやぶる。けどまあ、エアリアルとあんたのことはひとまずクソおやじに認めさせたし、このまま制度を維持させたほうが、なくすよりずっとマシなはずよ。まだこっちに選択の余地があるもの。……こんなろくでもない制度をマシと思うなんて、ほんと、最悪だけど。
 言いながら腹が立ってきたのだろう、ミオリネはしだいに話す声に怒気をのせ、最後は唾棄するように言った。
 そして、スレッタは、自分が拘束されているあいだ、なにがあったのかを知ったのだった。
「だいたいですね、言葉が足りないんですよ。あの説明じゃ、なんかミオリネさんが自分のためにかってにわたしとエアリアルを決闘に懸けたみたいじゃないですか。もしかしてわざとなんですか」
「だから忘れてたんだって」
「いーや、あやしいです。だってミオリネさんときたら、わたしが編入初日に決闘に巻き込まれそうになったときだって――」
 はじまった。こうなるとスレッタはとまらない。
「ミオリネさんだって死ぬかもしれなかったんです。そこのところ、わかってますか。なのにお礼を言いにいったらハア?≠チて、意味わかんないですよ」
「いまさらそれ言うの? べつにたいしたことはしてないと思っただけよ」
「たいしたことないわけないじゃないですか! ふたりして死ぬか、いいとこ重傷だったんですよ。ミオリネさんは、ようするに自分のいのちをかるく見すぎなんです」
 気づけばスレッタは半泣き状態で、くしゃくしゃに顔をゆがませている。
「もっと自分のいのちをたいせつにしてください。これからの生活とか、人生、とか、こ、こころ、とかも……」
 スレッタは言うと堪えきれなくなったのか、胸に抱えるクッションを濡らしはじめた。
「宇宙服一枚でビーコンもなしにあんなところにひとりで浮かんでるのだって、信じられないですよ。ありえない」
 ついにスレッタの説教はふたりの出会いまでさかのぼった。
「あんなに慌てて発進したの、はじめてかもしれないです。事故にも見えないし状況がすぐにわからなくって」
「あれは指定のポイントで運び屋が拾ってくれる予定だったから、あそこで死ぬつもりはぜんぜん――」
 うかと口をすべらせたときにはもう遅かった。ミオリネはひたいを手でおおい、ちらりとスレッタを見た。
 スレッタは一瞬だけ呆然とした表情になって、それからすぐに慍色をあらわした。
「べつのところで死ぬつもりだったんですか。それが地球なんですか」
 これはとうていごまかせそうにないと悟ったミオリネは、
「やけくそだったのよ。クソみたいな制度に縛られて、トロフィーだの景品だの株のおまけだの言ってくる好きでもない人間に嫁いで後継ぎを産むだけの一生なら、死んでいるのと変わらないじゃない。だったら、お母さんの故郷を見て死にたかった」
 と、当時の怒りを吐き出すように言った。もうおわったことだし、いまのミオリネにそうした捨て鉢な感情はない。
「ミオリネさん」
「なに――」
 やにわにスレッタはミオリネの顔面にクッションを押しつけた。ミオリネは意味がわからなかったが、べつに意味などないのかもしれない。
「わたし、邪魔女になれてよかったです、ほんとうに」
 スレッタは涙をおさめると、しみじみとつぶやいた。
 それについてはミオリネも同感だ。でも、わざわざスレッタに伝えるつもりはない。
「あっそ」
 ミオリネは顔に押しつけられたクッションを奪って腿の上に置く。
「それよりさ、水星で救助活動してたころのこと教えてよ。まだあんまり話してくれたことないよね」
 ミオリネは話題をそらした。
 といって、ミオリネはけっしてその場しのぎのいいかげんな気持ちで話をふったわけではない。水星でひとのいのちを救いつづけたガンダムのことを知りたい、というのは、ベルメリアからGUNDの目指す未来を聞いてからひそかに思っていたことだった。

 ミオリネはいったん摘果作業を中断して、たったいま切り取ったばかりの青いトマトを手に、シャディクの去った入口のほうを見ていた。
 熟すことのなかった幼い恋心である。今日ついに完全に決別した未練である。恋という感情はふたりの関係をどうしようもなくこじれさせた。
 それならこじれの原因を断ち切ったいまならもとの腐れ縁関係にもどれるのではないか、そう考えるのは都合のいい夢想だろうか。
 いっそトロフィーでもかまわないと思ったことが一度だけある。
 何度目かの脱走失敗でそうとう追い詰められていたのだろう、父の過干渉以来ひとを頼ることに極端に臆病になっていたミオリネは、窮した末になんの対価も差し出さずにただシャディクに助けを求めた。
 彼がどこかミオリネとのあいだに一本の越えがたい線を引いてそれ以上はけっして近づかず近づかせないでいることを、そのころのミオリネはもう失望とともに理解していたが、それでもシャディク以外に頼る相手などいなかった。ミオリネが十年とすこしのみじかい人生で築いてきた交友関係はすでに父親の手でズタズタに引き裂かれ、御三家の御曹司だけがミオリネのそばにいることをゆるされた。
 ひどく遠慮がちに出したその声は、やはり受け取ってはもらえなかった。
 おそらくそうなるだろうと思っていた結果に、ミオリネはそれでも傷ついた。そしてより堅固に自分の心を鎧った。
 いまもときどき考えるのだ。もしあのとき、取り引きを口にできていたらどうだったのか。
 アーシアンの孤児でありサリウスの養子であるシャディクのグラスレーでの立場は彼の能力と実績に反して不安定だ。実質的な次期総裁の権利であるミオリネとの婚約は、シャディクにとって大いに役立つもののはずだった。
 しかし、ミオリネは、ついにそれを言えなかった。
 言えばなにかが変わっていただろうか。救うだけの価値を示せば応えてもらえただろうか。そういうことを考えては、
 ――なにも変わらない。変わるわけがない。
 と、強く否定する。ミオリネに持たされた価値くらいは学園のだれでも知っている。シャディクが本気でそれを利用しようとするなら、あちらから取り引きをもちかけていただろう。だが、シャディクがじっさいにそれをしたのはホルダーが暴戻なグエルから淳良なスレッタに代わり、ミオリネがそのスレッタのために会社をつくったあとだ。ミオリネにとってもはやなんの意味もない、ほんとうにいまさらとしか言いようのない遅さだった。
 あのとき、足りなかったのはなんだったのか。お互い好意をいだいていることは自覚していた。それでもふたりは互いに踏み出さなかった。ミオリネはその勇気がなかった。シャディクのほうがどうだったのかは、わからない。――ホルダーになってきみを守る。彼がそう言えなかったのは勇気がなかったせいなのか。おそらくちがうだろう。シャディクがなんらかの目的をもって動いているのはあきらかで、それは彼にとってミオリネよりもなお大事なものであり、ミオリネはその協力者たりえない。
 なんにせよミオリネはシャディクに見捨てられた。すくなくとも当時のミオリネはそう信じた。ふられた、と言っていいかもしれない。
 結局ミオリネがシャディクに求めたことのほとんどは、そのあと水星からやって来た編入生がはからずも果たしてくれた。
 ミオリネにとってはじめて自分の好ましい人間がホルダーの地位を手にした。このひととならと思える相手が花婿になった。
 その相手は花嫁ではなくべつの人間に夢中だが、べつにそれでかまわないとミオリネは思っている。諦めたわけではないし、片想いのままおわらせるつもりもない。いつか自分のほうにふりむかせてみせる、しかし、そのためにスレッタの意思を捻じ曲げるようなことはしたくない。
 スレッタはスレッタの心のままにいてくれたらいい。そうでなくてはミオリネはスレッタに救われなかった。あいかわらずホルダーはグエルで、シャディクには見放されたまま、ミオリネはおのれを抑圧する暴力から逃れようともがいていただろう。
 内気でおひとよしで鬱陶しくて図々しくて、ひとの話を聞かない強引さと頑固さがあって、なにより家族想いだ。そのスレッタでなくてはふりむかせる意味がない。ミオリネはそういうスレッタに救い出され、惹かれていったのである。そういうスレッタと生涯を共にしたいのである。
 ミオリネは青いトマトを箱のなかに納め、作業を再開する。
 しばらくすると、遠くからだれかが温室に近づいてくるのに気づいた。
 かろやかなステップ。ほっほっという珍妙なかけ声。
 手をとめてふりかえる。
 入口のむこうから赤い髪が見えた。
 ミオリネは目もとをやわらげ、ほのかに笑った。

 自分の初恋がいつだったか、ミオリネにはもう思い出せない。相手はユーシュラーだったのか、シャディクだったのか。
 ひとつ、わかっているのは、ミオリネはいま恋をしているということだ。
 初恋ではない、新しい恋を、ミオリネはスレッタにしている。

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