その名と生きるか

 その日は朝から暑気がつよかった。
 だれもかれもが涼める場所を求めて基地内をさまよっているようだった。
 古鷹と鳥海は、中庭の木陰にいち早くもぐりこみ、涼んでいたが、それでも昼を過ぎる頃には、熱暑から逃れきることはできなくなっていた。
 頭上の枝葉はわずかの音も鳴らさない。風はまったくない。
 鳥海がうつむくと、ひたいの汗が落ちて、彼女の眼鏡を濡らした。
 古鷹はすこしだけ顎をあげて、両腕をだらりと下げ、陽炎のゆらめく中庭をぼんやりと見るともなく見ていた。
 となりでなにかのこすれる音がした。目をやると鳥海がとがった石を拾い、地面に立てていた。
 その石はゆっくりと線を引き、絵のようなものをかたちづくった。絵のような、といったのは、それは絵のようであり、また字のようでもあったからである。
「鳥がいるね」
 と古鷹は言った。古鷹には、鳥海の引いた線の跡が、庇の下に鳥がいる絵のように見えた。
「鳥よ。鳥がいるの」
 と鳥海は言った。
「この鳥は――」
 鳥海はひたいの汗をぬぐった。とにかく暑くてかなわないといった感じに重い息を吐いた。その息には粘性があった。古鷹も同じ息を吐いた。
「この鳥は、神鳥」
「しんちょう」
「神のお使いの鳥」
 そう言われて古鷹は脚が三本ある烏を頭に思い浮かべた。神使の鳥でもっとも有名なもののひとつだろう。
「八咫烏?」
 と古鷹は言った。
 鳥海は首を振った。
「これは鷹の字です」
 古鷹には鳥海の意図するところがわかなかった。古鷹も足もとに転がっている石を拾い、庇の下の鳥の横に、鷹、と書いた。鷹とはこの字のはずである。古鷹は問うような目で鳥海を見た。その問いにはあいまいな色合があり、戸惑いがあった。そのため、
「鷹の古い字が、これよ」
 と言った鳥海の真剣なまなざしを、古鷹は真剣に受け取る心構えができておらず、受け流すこともできなかった。
 重ねて鳥海は言った。
「祭事をおこなう神聖な場所にとどまる鳥、それが鷹、この字は鷹を象るもの」
 古鷹は空咳をした。鳥海の言葉の意味が、まずわからなかったし、その言葉をどう受けとめればよいのかも、やはりわからなかった。
 鳥海は古鷹の反応を無視して、また地面の線を引いた。今度は庇の上に、古、と書いた。この字も古鷹の知っている、いつも署名につかっている字とは、すこし違った。
「鷹は大昔から神鳥だった。天のお使いだったの。この国が生まれるずっと昔から。けれど、この国の荒れた海に惑う舟を、鷹が救った時から、鷹は海の神様になったのよ」
「それは、知ってる」
「知らない船乗りなんていないわ」
 鳥海はきっぱり言った。
 ふたりは船乗りでなく船そのものだが、古鷹も鳥海もこのさい気にしなかった。じっさい、船乗りのなかでその鷹の伝説を知らない者はいないに違いなかった。のちに人々は舟を救った鷹が消えた山に古鷹と名づけた。巡洋艦古鷹の名の由来である。
 すなわち古鷹とは船乗りの航海を導く者であった。
「どうして急にそんな話を」
 古鷹にはどうしてもそれがわからない。体中に汗が滲む。それをぬぐいもせずに、ふたりはまなざしをかわした。
「古鷹は――」
 鳥海はそこで初めて、目つきを変えた。その目は古鷹には、なにかを悲しみ苦しむ目にうつった。鳥海は、なにが悲しく、苦しいのか。――原因はおそらく自分にあるのだろう、古鷹にわかるのはその程度のことだった。
「いったい、あなたは、どういう生き方をするつもりなのですか」
 泣きそうな鳥海の声だった。目もとには汗とも涙ともつかないものがうかんでいた。
「古鷹山に鷹のように、それともかつての重巡洋艦古鷹のように……」
「そういうふうに、またみんなを守れたらいいと思ってる。でも」
 古鷹は口をつぐんだ。鳥海の言っていることの意味をようやく理解した。したところで、どうしようもなかった。
「でも、わたしは」
「あなたは――」
 鳥海が言いかけたところで、そよりと風がふいた。暑さを飛ばす力のないかすかな風だった。土に書かれた文字は風にさらわれることもなく、古鷹の視界の端に居座りつづけた。
 ――古鷹、あなたは、ひとを生かして、死にたいの?
 古鷹はなにも言えなかった。言うべき言葉をさがして、さまよい、ついに見つけられなかった。古鷹の口は、ただ息を吐き出すだけのしろものになった。たよりない呼吸は確たる言葉に換ることがなかった。
 鳥海の嘆きの声に対する答えを、古鷹は、この時、なにひとつもたなかった。

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