月が見ている

 深夜にも開放されている露天風呂に、他の客の姿は無かった。
 この場所で皆既月食を観賞しようとする者は、どうやら自分たちだけであるらしい。
「まどか。ほら、あたしたちの貸し切りだよ」
 と、さやかは湯気の立つ露天風呂を指さし、明るい声で言った。
「うん」
 さやかの浮かれ具合に引き摺られるようにして、まどかもやはり明るい調子で答えた。
 浴衣を脱いで、温泉に浸かるまでのあいだ、まどかもさやかも俯いて、夜の空を見ようとしなかった。なにかもったいないという気持ちが働いたのだ。
 湯に体を浸し、まどかは、誰もいないことを念入りに確認してから、その小さな体をさやかの腕の中に収めた。背中にふれてくるさやかのやわらかさと温度が心地よい。
 ついと顎を上げて吐き出した白い息が、かすかに天に昇って消えた。目線はそのまま上昇を続け、欠けた月を捉える。
「あ……」
 と、まどかは自分でもよくわからない声を漏らした。後ろからは凄いだとか綺麗だとかいった素直な感想が聞こえる。うんそうだねと、のぼせたようにぼんやりした頭で答える。

 にわかに湯がはねた。静けさを払い、大きな波紋が拡がる。
 思わずあげそうになった声を、まどかはかろうじて呑みこんだ。
「さやかちゃん」
 代わりに彼女の名前を呼んだ。抗議のつもりだった。それでおとなしくなってくれるひとではないことは理解しているが、黙っているわけにもいかないことだ。
「うん」
 さやかはまどかの体を這わせる手をとめない。
「誰も見てないよ」
 一応の弁解がそれだった。
「だからって」
 こんなところで、と言いかけたまどかの口を、湯の中から現れた手がわずらわしげにふさいだ。
「せっかくの月食だよ。もっと楽しもうよ」
 そうしたいのに、それどころではなくなったのは誰のせいなのか。まどかは怒りたくなった。それはさやかへの怒りであったし、自身への怒りでもあった。さやかはどうしようもないひとだけれど、ちょっとばかり口で苦情を言うだけでろくに抵抗しない自分も、やはり大概どうしようもないのだ。
 唇をひと撫でしたさやかの指はそのまま下に降り、顎つかんで無理矢理持ち上げる。まどかの両目に、ふたたび月が映った。赤い月だ。それを観賞しする心のゆとりが今のまどかにあるはずない。ただ視界に入っているだけで、ほとんど意識の外の存在だった。
 それでもまどかの顔は月に向かったまま傾かない。
 まどかの顎をつかんでいたさやかの手が、これ以上ここにいる必要はないとでも言いたげに、本来の仕事に戻っていった。
 あとには、かすかに漏れ出る喘ぎ声と、混ざり合った湯と唾液、それだけだ。

「誰も見てないことなかったね」
 笑うような、歌うような、そんなさやかの声が、なぜか遠くに聞こえた。

「ほら、こんなにえっちなまどかを見て月も顔を真っ赤にしてるよ?」

 ――月が見える。月が見ている。赤い月が。

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