ある初夏の朝のことである。私は縁側の籐椅子で寛ぎながら、亡き妻のことを懐かしんでいた。
妻が急な病で彼岸を渡ってから、早いものでもう二年になる。その頃の私は、すでに家業の全部を義理の息子に任せ、屋敷からも出、このさほど大きくない平屋に妻と二人で暮らしていた。老生は二人きりで静かに過ごすというのが、私と妻の夢であった。還暦からあしなえ≠フ気が出始めていたので、娘夫婦は私が屋敷から出て行くのを止めたが、私は妻の甲斐々々しいのを頼みに、我儘を通してここに移った。が、移って二年後に、立春間もない頃、妻は罹病し、早々とこの世を去った。過ごした時間は足掛けでも三年しかない。短いものである。妻は私より四歳若かったのだ。
三回忌を終えた今年、私は自分の生家である・あの瓦葺の大屋敷へ帰ることになった。義理の息子が、忙しい合間を縫って私の家までやって来て、一緒に住みましょうと説得するのを、私はそろそろ断われなくなっていた。次第に気が変わり、結局「終の棲家」と定めたはずのこの矮屋を、引き払うことになったのである。――実を言えば、そういうふうに決めた大部分の理由は、息子の粘り腰より、悪くなり続けるあしなえ≠ニ、それを一人で相手する勇気が萎えたせいであった。そういう、全く情けない・小狡い理由であった。
今日は娘夫婦がこの家やって来る予定である。家の中を整頓し、荷を纏めて、屋敷まで持って行くのである。きっと私は、横から息子夫婦の作業を眺めているだけで、それだけでは申し訳ないからと、二人のために茶を淹れてやるくらいだろう。
その前に、私には、やっておかずばならぬことが一つある。今、私の手には庭の倉庫の鍵が握られている。私は杖を体の支えに倉庫に行った。現在私は杖があればなんとか歩ける。娘達は転ぶと危ないからと車椅子を勧めるが、まだ歩けるのにそんなものに頼れば、一層に萎えてゆくと思われたので、私はこればかりは頑なに断わっている。なにより狭い家では却って難儀だろうとも思われた。はっきり言えば億劫であった。ただし、この言い分は広々とした屋敷に戻ると、とたんに通じなくなりそうなのが、気がかりである。
(……庭が荒れている。妻がいないとこの具合だ)
老夫婦がおとなしく暮らしていた家だから、倉庫内も、片付いているとか散らかっているとかでなく、ただ少ない工具等がぽつりぽつりと置かれているだけである。土埃塗れの倉庫の吊り棚に、用件の物があった。薄い方形の金属箱で、中には大学ノート数冊が納まっているはずだった。私は吊り棚から金属箱を下ろすと、その場で箱を開けた。大学ノート六冊がビニール紐で纏められている。一番上のノートの表紙に、番号と日付があった。「昭和三十四年六月二十七日於書写す」とある。随分と古い年号から始まるもので、月日は私の双子の弟の命日と重なっていた。紐を解いてノートの表紙だけを見てゆくと、みなそのような形式で番号と日付が記されていた。最後のノートの日付は、私達がこの家に移って来た年のものになっている。六冊九年周期のノートであるらしかった。これらは間違いなく妻の字である。私がこれを見たのは初めてであった。
いつか妻は――確か妻が病に罹るより以前のことで、彼女が健常そのものに見えていた時期である――私にこう言った。――倉庫の吊り棚に金属箱がありますでしょう。ええ、あるんです。いつか、あなたにお見せしたいと思っています。いつか。そうね、二三年、いえ三年経ったら、お渡ししたいわ。でも、もしも、私がそうする前に死んでしまったら、その時は箱を捨ててください。中は他の誰にも見せないで! もし、私の知らないところであなた以外の人があれを見たら、私達は、あの世で再会出来ないわ。私はあなたとまともに顔を合わせられず、逃げてしまうに決まっていますもの。……と、こういうふうだったと思う。
私はその時の妻のことを、たった今ありありと思い出したが、自分のことを思い出すことは出来なかった。そう言われた時、私はどんな顔をして、どう返したのだったか。考えながら、私はノートを縛り直し、金属箱に蓋をして、脇に抱えて倉庫を出た。
私は居間の机の上に金属箱を置くと、箪笥からビニール紐を取り出し、金属箱を十字に縛り、百貨店かどこかの紙袋の中にそれを納めた。妻が、ああ言った日がいつのことだったかは憶えていない。だから私は、その三年を三周忌と定めることにした。来年の妻の命日、私はこの箱を開け、大学ノートを開いてみようと思う。
そう決めた時、玄関の呼鈴が鳴った。どうやら娘夫婦が来たようである。玄関の鍵は閉まっているから、私が手ずから開けずばなるまい。私は玄関に向かった。戸を開けると、そこには娘と義理の息子の他に屋敷の人間も数人来ていた。私は果たして、彼らの作業を横から眺めているだけだった。時々、捨てる・捨てないの判断を仰がれたくらいだった。そして茶を淹れたのは私でなく、息子が連れて来た屋敷の人間だったのである。
一時間ほど経って、また呼鈴が鳴った。頭部のすっかり禿げ上がった義理の弟であった。義弟は私より一歳下なだけだが、顔の皺の少ないのを常々誇っているような男で、この日もその自慢の頬を撫でて、笑いながら、「や、お前はまた老けたなア」などと、私に言ってきた。彼は私と違って五体が頑丈に出来ている。動きはてきぱきとしたもので、私の意向など全く聞こうともせずに、家にある物を分別していった。
日没前になると、私はいよいよ寂寥の感に襲われた。私はついにこの家から去るのである。妻と終生まで過ごすと決めた家から、いなくなってしまうのだ。この家に来てから、たった二年で妻は死んだ。さらに二年経って、次は私がここから立ち去る。死んだわけでなく生きたままで、しかし、なお妻のように――。……
*
ある初夏の日のことだった。僕は双子の姉と一緒に、先月亡くなった祖父(この場合母方の祖父)の部屋の掃除をしていた。
生前の祖父はずいぶんとマメ≠ネ性格だったらしく、押入の奥の奥から、僕らには馴染みのない「昭和」の日付から始まる、大量のノートを見つけた。内容は祖父の日記らしい。しまっているより隠しているような感じだった。
日記は、紐綴じのものから鍵付のもの・最後の方はルーズリーフ等を使っていて、新しい物好きの祖父の性格もよく現していた。後で母に聞いた話によれば、日記は祖父が十代の頃から始めたもので、祖父は体調を崩した時などを除いて、ほとんど毎日、こうして日記を付けていたということだった。若い頃のものは、ゴタゴタがあってなくしてしまった。それでも大変な量の日記が出てきたもので、僕と姉は口をぽっかり開けて、掃除するのも忘れてただ驚くしかなかった。
ぱらぱらと捲って読んでみるだけでも、祖父の几帳面さが分かる内容だった。祖父がなにか書き物をしていたのは、たまに見たことがあったけれど、それが日記かどうかは「きっとそうなんだろう」と、勝手に想像していただけで、知っていたわけではなかった。
一字々々・一行々々が万年筆で均等に書かれている。一日の日記の文章量が長い。二ページに及ぶものもあった。知っているような・いないような漢字がある。どれも記憶より画数が多い。僕の読んだ大体がそうだった。(他も同じに違いない)僕らにはとても読みづらい日記だった。姉はそのうち音をあげた。
僕は部屋の掃除を姉に任せ、祖父の日記の一部(日付の新しい方のもの)を持って、母のところへ行った。母には日記の文字が読めるようだった。それから母は、僕に日記のことを色々と話してくれた。そして最後に僕に言って、「金属箱がしまわれている場所を知らないかしら。ビニール紐で縛られている、百貨店の紙袋かなにかに入っている、そういう箱なのだけれども」――
僕は祖父の部屋に戻って、姉にそのことを話した。掃除は中断され、今日の僕らの仕事は、この時点から、箱探しに変わった。押入の中のものを全部引っ張り出して、段ボールだの木箱だのと、片っ端から開けていった。ところが、それらしいものは一つも出てこない。この部屋にはないのかと思って、祖父の書斎や、他に祖父の所有物のありそうなところを探し回ったけれど、やはり出てこなかった。それなら庭の倉は? と姉が思いついて言った。庭の倉にあるかもしれない。倉内を探すとなるとさすがに子供二人では無理だと思ったので、給仕さん頼んで手伝ってもらうことにした。三人で薄暗い倉の中を手当たり次第にあばいた。それでも見つからなかった。日が暮れ始めて「物を探す」どころではなくなったので、僕らは箱探しを諦めて倉から出た。疲れるためだけに時間を過ごした、と考えるとさらに疲れた。
(……庭が赤いのは夕日のせいだ。空も庭も屋敷もみんな赤い。それを見て、そうだ、と僕は少し思い当たるところがあるようだった。曖昧な記憶を探る、記憶が輪郭を持つ、形になってゆく、車椅子の祖父がいる、――)
そうだ。その金属箱は灰になったのだった。中身も全部燃えて、すっかり灰になった。灰になって煙になって、それで天に昇る。元の形を取り戻して祖母(この場合母方の祖母)のところに行く。そういうふうに祖父は言った。なにを燃やしているの、と僕が訊くと、祖父は、――ばあさんの日記だよ。私が日記を付けているのを見て真似したくなったらしい。内容は半ば私の言行録だった。我がことより、私のことに字数を割いていたわ。……祖母の三周忌の前後だったと思う。
祖父はその二月後に亡くなった。愛用の籐椅子に座って、いつものように寛いでいる状態のまま亡くなっていたのを、母が見たのだった。うたた寝でもしているようで、実際母はそう勘違いして、祖父の死を見過ごすところだったという。
僕は母に呼び出された。その気があるのなら、と、どうしてか、祖父の日記を僕にくれた。その気≠ヘ母に言われた時はなかったけれど、自分の部屋に戻ってから、どんどん膨れ上がっていった。とりあえず僕は、読めるところだけ見繕って読んでゆくことにした。所々に日記というよりただの走り書きのメモのような、箇条書きの内容があることに気づいた。そういうところは、自分にもはっきりと読めた。後の方に行くほど日記は読みやすい字になっている。最後の日記は祖母の三周忌の翌日のもので、「弟に奪われてしまう。急がなくては、この足では間に合わない」これだけだった。隅に付記されている祖父・結菱二葉の名前は、字画が一つ足りない。
了