太陽が死んだ

    目次

  1. 太陽が死んだ
  2. 欠けた満月の夜をゆく
  3. 陽だまりはここにある
  4. 青空に落下する
  5. 死者には勝てない
  6. 幻影を追う少女たち
  7. 聖女は狂った
  8. 愛と名づけ得るもの
  9. 断固たる想い
  10. 記憶を求めて
  11. がらくたの恋
  12. Communication & Rehabilitation
  13. モノクロム・エピソード〜さあ手を繋ごう

太陽が死んだ

 太陽が死んだ。
 クリスはそう思った。
 太陽が死んだから陽だまりは消えた。
 クリスはそう信じた。
 バカらしい話があったもので、寮の二段ベッドに、彼女たちは上段でふたり寄り添って眠っていたという。
 本当にバカだ。二段あるのだから上段と下段に分れて眠るのが普通だろうに。
 部屋のドアの横にあるネームプレートから、立花響の名はまだ消えていない。
 住人がふたりからひとりになったその部屋に足を踏み入れるのに、クリスはずいぶんと勇気を消費しなければならなかった。
 カーテン越しに暮れの色が部屋をあわく朱く染めていた。
 二段ベッドの上段の掛け布団が、すこし盛り上がっている。
 そこに小日向未来がいる。
 クリスはまた勇気を湧かせなければいけないと思った。未来に話しかける勇気だ。
 ネフィリムに食い殺された響の最期を、クリスは仮説本部の記録映像で初めて見た。現場では情けないことに気絶していたから、生で見ることはなかった。その自分をかばうために翼まで巻き添えになって身動きを封じられたのだから、情けないという表現はぬるいかもしれない。
(あたしがもっとちゃんとしてれば)
 そういう後悔がクリスの心を支配している。自分には響を助けられなかったかもしれない。しかし、翼が助けただろう。あの人が自由に動ける状態であったなら……。
 響の死を未来に伝えたのは翼だ。彼女はそれを己の使命だと言って他に譲らなかった。クリスへの気遣いもあったろう。
 ベッドの前に立ち、首をあげた。
 話せ、話せ、と何度も自分に命令して、クリスはようやっと声を発した。
「な、ごはんちゃんと食べてるか。食堂にも顔見せないって、その、い……板場だっけ? 友達が心配してたぞ」
 最初から返事は期待していなかったが、それでもなんの言葉も未来から降ろされないことに、クリスは落胆した。あるいは眠っているかもしれないとは思わなかった。未来は起きているという確信が、なぜかクリスにはあった。
 クリスははしごに手をかけた。
 上れ、上れ、とやはり何度も自分に命令して、足をかけ、はしごをのぼった。
 ベッド上段を覗きこむと、クリスははしごから転落しそうになるほど驚いた。
 未来はしっかりとこちらの方を向いて、クリスのことを、強い瞳で見ているではないか。
 心身疲れ果てているだろうとかってに想像していたクリスは、未来の思いの外生気に満ちた目に射抜かれて、戸惑いと驚きを抑えられなかった。
 しかしよく見ると未来の目の下にはくまがあり、ほおはいくぶんこけているように見えた。それから白い美しい肌は青白い不健康で美しくない肌に変貌しているよう見えたし、黒い漆のような髪からはすっかりその艶が失われているようにも見えた。唇もかさついて色のないように見えた。
 目だけが生きている、とクリスは思った。なんて強い人だろうとも思った。
「ごはん、食べてるか」
 クリスは同じことを訊いた。
「なにも……。お腹がすいたわ」
 今度は未来はすなおに答えた。
「なにか食べるものない?」
「あたしはなにも持ってきてない。お腹すいたならなにか食べにいこう」
 と言ってクリスは未来をどうにかして外に連れ出そうとした。
「じゃあ、いらない」
 未来は言った。
「駄目だ。なにか食べたいんだろ。だったら食べないと駄目だ」
「ならクリスがなにか食べるもの持ってきてよ」
 未来は拗ねたように言った。
 部屋に入るまえに想像していたよりも未来はよく喋ってくれた。クリスはだからすこしほっとした。ただし、そこでとまっていてはなんにもならない。
 未来はクリスから視線を外して天井を見つめはじめた。
「なあ、メシ食いにいこう。前にお前が連れて行ってくれた、ふらわーってとこに行こう。そこでたらふくお好み焼き食おうぜ」
 クリスは布団の中に手を突っ込んで、未来の手を探し出し強く握りしめた。
 握りかえせ、それから体を起こせ、とクリスは心の中で未来に命令した。
 反応は当り前のようになかった。
「食べないと死ぬぞ」
「そう」
「死んでもいいのか」
「わからないわ」
「死にたいのか」
「そうかもしれない」
「なんで死にたいんだ」
「夢を見るの」
 未来はクリスの問いとは関係ないことを言った。
「なんの夢?」
「二年前の、ツヴァイウィングのコンサートの日の夢。奏さんが死んだコンサートの。私は都合がつかなくてあのコンサートには行かなかったのに。私が誘っておいて、でも響だけ行かせて」
 天井を見つめたまま未来は言った。
「電話のむこうで、響が、未来が行かないなら私もいいよって、会場から帰ろうとするの。私はそれをとめて、コンサート観てってお願いして、響は帰らないでコンサートを観るのよ」
「あいつはそれで、どうなったんだ?」
「ノイズに襲われて死んじゃった。私は電話で、何度も何度も行かないでって、会場には入らないで帰って来てって、響をとめたけど、響には聞こえなくて、ノイズが」
「ひ……びき、は、でも、助かったんだろう。その、奏サンが……助けてくれて。家に帰ってきたって」
「違う、響は、ノイズに襲われて炭になったの。炭になって、風で飛ばされて、私の手のなかにほんのすこしだけ響が残って、砂みたいな感触が、まだ残ってる」
 未来は言いながらしだいにクリスの手を強く握りかえすようになった。手のなかにわずかに残った炭化した響を逃すまいとしているようだった。
 未来は響の最期を見ていない。翼も死の詳細は未来には伝えていないと言った。
 クリスは未来の事実とは違う夢の話を聞き続けた。
「助けてって、私は響に言うの。何度も、何度も」
「ひびきに、お前が? それは、逆じゃなくて?」
 未来はゆるく首を振った。
「響と一緒にコンサートを観にいって、私はノイズに襲われて、響に助けてって、叫んで、響は私を助けるために、――」
 そこで未来は夢の話をやめた。
 やがてゆったりと上体を起こした未来は、やにわにクリスに抱きついた。
「わ――」
 とクリスはまた驚いてはしごから落ちそうになった。
「ごめんなさい」
 と未来は言った。
「え?」
 なぜ謝られるのかクリスにはわからなかった。
 そのうち未来のすすり泣く声が聞こえた。
 泣いている。この人が泣いている。クリスは自分の服に未来の涙のにじむのを感じながら、ようやくに得心した。未来が謝ったのはそのことだったのだ。クリスの胸の中で泣くこと、そうして服を汚すことをまず謝ったのだ。
 なんという少女だろう。
 クリスはめまいに襲われた。
 どれほどかクリスは未来を抱きかえして背をさすってやろうかと思った。
 だがクリスの両腕は現実にははしごに置かれたまま、てんからびくりとも動かなかった。
 太陽が死んだとクリスは強烈に思った。
 太陽が死んだから陽だまりは消えたのだと思った。
 クリスは太陽を再び昇らせる方法など持っていない。陽だまりを作る方法も持っていない。
 未来を抱きかえす腕も、泣きやませる言葉も、資格も、自分にはないのだと思い知った。
 その資格を持つ唯一の人間はもうこの世にはいないのだ。
 自分はその唯一にはなれないのだ。
 そうでなくては、未来はけっしてクリスにあらかじめ謝ったりなどしなかったはずである。
 クリスは今度は強烈に怒った。その怒りの正体は嫉妬に他ならなかった。
(奪われた)
 とクリスは思った。
 響に未来を奪われた。
 もとより未来はクリスの所有物などではない。それでもクリスはそう思った。
 未来がクリスの手を握りかえした時、そこにはたしかな温度があった。
 今クリスの体を抱き、身を寄せる未来にはたしかな鼓動がある。
 未来はたしかに生きているのである。
 だが未来はすでにこの世にいないのではないかとクリスには思われた。
(バカ!)
 クリスは響に対して怒号を放った。
 立花響の死は、雪音クリスの愛おしい恋しい小日向未来を、永久に奪い去っていったのだ。
 己のいないこの世界に残る最愛の少女が自分以外の誰のものにもならぬように、クリスのものにならぬように。
 クリスはもちろん響がそんなつもりで死んでいったのではないとちゃんとわかっていたが、それでもバカ! と叫ばずにはいられなかった。
 響ではなく自分が死んでいれば、自分の愛するこの少女はこんなふうにはならなかったに違いない。
 クリスの死を悲しみ悼み、そして愛する響に慰められ支えられてやがて立ち直ったに違いない。
(バカ!)
 クリスはまた叫んだ。
 いったい太陽が死ぬなどということがあっていいはずがない。
 どうしてそんな非常識をおかしてしまうのか、クリスには理解しがたかった。
 昇れ、昇れ、とクリスは響に命令した。
 部屋の外の太陽はその命令とは逆に完全に沈みきって、クリスと未来を暗く黒い闇の中に閉じ込めた。

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欠けた満月の夜をゆく

 クリスが初めてかつて響と未来がともに起居していた寮の一部屋に足を踏み入れてから、およそ三日程度で、未来はすくなくとも傍目には、すっかりその伴侶ともいうべき響の死から立ち直っているように思われた。
 未来はまだ白い月の残る頃に起きて、体を動かしている。グラウンドを何十周と走り、汗を流す。時間も本数も厳密に決めているわけでなく、その時に未来が自分の体に問うて、これでよいと納得するとか、始業時間が近づいてやむをえずやめるとか、なんともむちゃくちゃな内容だった。
 それに付き合おうとしたクリスは一日で音をあげた。
 いつもこうなのか、と訊いたら、昔は、とそっけなく返された。
 こんな体をいじめぬくようなことをして楽しいのか、と訊けば、昔は、とやはりにべもない。
 クリスは早朝の適当な時間に起きて、グラウンドに行き、未来の修練が終わるのを見学する日々が始まった。
 気がつくとグラウンドを走る影が二つになった。
 未来のとなりで青い髪が風を切っている。
 クリスはすこし自分が情けなくなった。朝に走る影を三つにする度胸はクリスにはない。
「物好きだよなあ」
 あぐらをかいて砂の上に座っているクリスは、ぼそりとそんなことを呟いた。
 並走しているのにお互いの存在が意識の中にあるのか、どうもあやしい。
 ふたり一緒に走っているのではなく、たまたま同じグラウンドを同じ速度で、横並びで走っているだけなのだろうか。自分だけの世界に没頭するこの手合いは、クリスには馴染みがない。研究者気質のフィーネのほうがよほど開かれていたかもしれない。彼女はおのれの成果を人に見せびらかすのがわりあいに好きな人だったから。
 それにしても、響や弦十郎はわかりやすかった。二が独立した一と一とが並んでいるのではなく、集合された二という数字になっていた、それはある種の一だった。(かつての響と未来のように、あるいは翼と奏のように)
 今グラウンドを走っているのがあの頭のおかしな師弟であれば、クリスはやはり「物好きだよなあ」と呟きながらも、このどうしようもない寂寥と情けなさを感じることはなかっただろう。見学しているだけのクリスも、気分だけは走っていただろう。そうはいっても、賑やかすぎるあの二人は、それはそれでクリスはすこし苦手なところがあった。面倒な性格をしているものだ、われながら。そう自嘲することがある。
(暗いな……)
 東の方に目をやれば、いよいよ昇りはじめた太陽が、グラウンドを強烈に照らしはじめている。それでも暗い、とクリスはもうずっと思っている。
(ニセモノめ)
 クリスは思った。本物の太陽はもう死んでいる。だからわれもかれも暗く寒いのだとクリスは信じている。
 本物の太陽は直視しても目を痛めつけるようなことはなかった。その太陽がやさしかったからである。
 偽物の太陽は誰の心も明るくしてくれないし、あたたかくもしてくれない。なにより言葉を持たない。クリスの手を握り、大丈夫、などとは間違っても言ってくれやしないのだ。そのありさまで偽物でなくてなんだというのか。
 校舎に取り付けられた大時計に目をやる。そろそろとめてやらなければならない。
 大声を発して、未来と翼を呼びとめた。
 二つの影が近づいてくる。
「もうちょっと気持ちよさそうな顔すりゃいいのに。体動かすとすっきりするんだろ?」
 クリスがそう言うと、
「そのために体を動かせばそうなる、そうでないのであれば、そのような表情にはならない」
 とまじめくさった顔で翼が答えた。
「ふうん、そうかい」
 クリスは「気分転換」と称する運動に付き合わされたことが何度かあるが、翼はいつもむつとした顔しかしていなかったと思う。気持ちよさそうにしているのは響や弦十郎だけで、クリスはいつもへとへとで胸と頭が気持ち悪かった。
 未来は無言でクールダウンにとりかかっている。
「ちゃっちゃと切り上げないと、メシ食う時間もシャワー浴びる時間もなくなるぞ」
 クリスはそう言って先にグラウンドを後にした。

 偽物の太陽が沈むと、今度は満ちても欠けたままの月が、つたない環を引き摺って姿を現す。
 未来はまた、二名の居住者がいることを示すネームプレートのある寮の一室で、ひとりで眠るのだろう。
 クリスにはそれをどうすることもできない。
 やりきれない。まさに手も足も出ない。
 だが、どうにかしたい、という気持ちもある。それは単純に未来への愛情であったし、未来と響に救われたことへの恩に報いたい想いでもあったし、あるいはまた短いあいだではあったが気の置けない友達としてクリスを振り回してくれた、響に義理を立てたいという、クリスなりの友情でもあった。響の愛する未来を、どうにかしてやりたいという気は大きかった。
 あの世というものがあるかどうかはわからないし、死者に心があるのかもわからないが、それにしても未来の存在は響にとって未練だろうとクリスは思う。無念だろうと思う。
 クリスはなにも、生前の響の立ち位置に取って代わろうなどと考えているわけではない。
 ただクリスは聞いていたのだ。
 かつてフィーネが月を破壊しようとした時、響が落下する月の欠片を破壊しにゆこうとした時、未来になんと言ったか。生きるのを諦めないで、そう言ったではないか。
 今の未来はどうだろうか。クリスが初めて彼女の部屋を訪れた時、クリスに体をあずけて泣いた時、あの時は進んで死のうとはしていなかったが、あえて生きようともしていなかったのではないか。
 早朝の修練を始めた未来は、それと比べていくらか生きようとする気が湧いているように思われるが、結局は自力で立ち上がってしまう未来の、クリスからするととてつもない精神の強さを、凄いと思うよりなにか哀しいと、クリスには感じられた。
 響は死者で未来は生者だ。だから未来は今独りで立っているのだとクリスは思う。依然響に助けられながら立っている未来は、やはり生者であるかぎりどうしようもなく独りなのだと思う。
 抱いて慰めてやることはできなくても、手を引いて歩かせることはできなくても、あの時のように胸を貸して、彼女が響の死に涙するくらいのことは、クリスはやってやりたい。それができる近さにいたい。
 身勝手な欲望と言ってしまえば、そう言えるし、誰かにそう言われたら肯定できてしまうかもしれない。それでもクリスは未来のためになにかしてやりたかった。それは、翼や弦十郎や、あるいは安藤らではなく自分の仕事なのだと漠然とした確信をもっていた。
 その根拠を問われたら、クリスは多分、自分がフィーネの娘だからだ、と答えたかもしれない。

 夜の道を、クリスは歩いている。
 ノイズ災害からいまだ復活しきっていない、傷ついた商店街の道を、クリスは歩いている。
 クリスはそうやって、時々無性にかつて未来に拾われた商店街の裏路地に行きたくなって、その欲望に突き動かされるように、居候先の風鳴邸から夜半飛び出した。
 夜の商店街からは自分以外の人の呼吸はまったくないように思われた。この世界に自分はひとりしかいないのではないかと、そんな勘違いを起こしたくなるほど、夜の道は静かである。風も落ちている。ただ寒さのあまり、耳にキインと金属音のようなものが鳴る程度だ。そろそろもう一枚、中に着るものを増やす時節かもしれないと、この夜クリスは思った。
「あら、クリスじゃない」
 背後からふいに名を呼ばれて、クリスは肩をふるわせた。
 振り返ると、ジャージ姿の未来がいた。
「驚かせるなよ……。ってか忍者かお前は。足音聞こえなかったぞ」
「そっちがぼんやりしすぎてるだけじゃないの」
「……夜も走ってるんだな」
 クリスは目線を上下させて、未来の頭から足までを暗がりの中でざっと観察した。
「うん。たまにだけどね」
「そうか、たまに、か」
 朝とは違う心持ちで走っているらしかった。
 未来はクリスにあわせて走るのをやめた。
 夜の道をふたりで歩くことになった。
「元気、か」
「どうかしら。クリスにはどう見える」
「元気になったように見えるよ」
「なら、元気になったのだと思う」
「強いな、お前は。どうしてそんなに強いんだ」
 クリスが問いを重ねると、未来は鼻をすすりながら笑った。
「強かったらあんなにみっともなく泣いたりしないわ」
 未来は言うと、ねえ、と声を低くした。
「響は、本当に死んだの」
「え、どうして、突然」
「前みたいに、機密とかで、死んだってことにして、隠してるとか、本当は生きてるとか、そういうのじゃなくて、本当に死んだの?」
 強い低い声が、すこしふるえているようにクリスには聞こえた。
 死んだのは事実だ。それをどういう言葉で答えればよいのだろうか。クリスは迷った。
「死んだ。死んだんだ、本当にアイツは、あたしも最初は、信じられなかったけど、本当に死んじゃったんだ」
「遺体は――」
「ない……」
 ネフィリムという化物に食い殺されて全部呑みこまれしまった、とは言えなかった。
「そう」
 会話は一端そこで途切れた。
 未来はまた走りだした。
 クリスもそれについていこうとした。
 速度があがっていく。
 ぐんぐんと猛烈な速さで未来は走る。
 クリスは渾身で未来についてゆく。
「いつもね、私の知らないところで、怪我するの。いつも、いつも、私のいないところで、傷をつくって。いつも一緒にいたのに。いたはずだったのにね。――女の子なのに生傷だらけで。――いつも、笑って、大丈夫だって。私のせいで大怪我した時も、大丈夫だよって、未来のせいじゃないよって、――そう言って笑ってた」
「そうか。うん、あいつはそういう、やつだよな」
 クリスはかすれた声でなんとか言った。
 未来の呼吸にはまだ余裕がある。体力の桁が違うのだろう。仮にも民間人の未来にさえ劣る自分がつくづく情けなく恨めしい。
「いつも一緒だったのよ。なのに、走っても走っても、どれだけ速く走っても、響のところに届かない。私は、響に追いつけない、助けられない」
「そんなことは――」
「そんなこと、ある」
 そんなことはないと否定しようとしたクリスの言葉は、最後まで吐き出されなかった。クリスの言葉はまたたくまに未来に否定された。
 未来は突然立ちどまった。
 とまろうとしたクリスはあやうく転びそうになった。
 未来は月を見上げている。
 月はむろん欠けている。
「今夜は満月のはずだけれど……」
 未来はそんなことを言った。
「欠けてるのは、本当に月が欠けてるからな。満ち欠け(月相)は関係ないんだ」
「そうね。了子さんや響がやったんだっけ……」
 未来は天に手を伸ばし、欠けた月の周りに構築された環を指でなぞるようなしぐさをした。
「変なの」
「そうだな。変な世界だ。変なやつが愛した変な世界だ」
 クリスは言った。
 未来はなにがおかしかったのか、大笑いに笑った。彼女らしくもなく品のない笑い方だった。
「響はたしかに変な子だったけど、クリスにまで変なやつ呼ばわりされるなんて」
「あたしは別に、あいつのことだとは、言ってないけど……」
「でも、そうなんでしょう」
「まあ、うん」
 クリスは口もとを手で隠した。笑いたくなったのを未来に見られたくなかった。
 ハア、と未来は大きく息を吐き出した。いまさらながらに、全力で走りに走って乱れた呼吸を整えようとしているらしかった。あるいは変な子に対する呆れを含んだ嘆きの息かもしれなかった。
 未来はクリスに近づき、肩口に頭をのせた。
「どうしたんだ」
「あのね、クリス、あの時みたいに、たまに、肩貸してくれる?」
「あたしは、いいけど……いいのか? お前のほうは?」
「うん」
 そう答えた未来は、けれども泣いてはいないようだった。
 あたしなんかの肩ですこしでも心がやすらかになれるのなら、いくらだって貸してやろうとクリスは思った。
 それ以上に愛する人に甘えられるおのれに浮かれている心に気づいて、クリスは自分を叱った。響の存在をまったく無視した酷い醜い感情だと思った。そんな浮かれた心は絶対にもってはいけなかった。クリスは浮ついた心を地面に叩きつけた。
 なんという少女だろうとクリスは思った。なんと強い少女だろうと思った。
 そう思うと涙が溢れてとまらなくなった。
(バカ! 本当のバカ! どうして死んじまったんだ!)
 クリスはしばらくぶりに、響に対する怒りが蘇ってきた。
 小日向未来がその身を預ける相手の名は、雪音クリスではなく、立花響でなくてはならないのに! 死んでしまってはそれもできないじゃあないか! バカ!
 クリスはキッと月を睨み上げた。
 あそこからあの底抜けに人の好い、太陽みたいに明るいバカが帰って来ないだろうかと、そんなどうしようもない妄想をした。

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陽だまりはここにある

 月の夜の下をクリスは歩いている。
 うしろから息を吐き出す音と砂利を擦る駆け足の音が近づいてくる。
 クリスは振り返らない。
 足音の主は呼吸をととのえ、歩調をクリスにあわせた。
「三回目かな」
 と未来は言った。
「うん」
 とクリスは答えた。
 朝の走り込みと違って、夜の未来はクリスを無視しない。クリスが歩いていれば未来も肩をそろえて歩いてくれる。
 たあいない世間話をしつつふたりは夜の道を歩いてゆく。
 クリスはふと月を見上げた。相変わらずぶさいくな月だなと思った。
「あれが落ちてくるんだ、知ってるか」
 クリスは月を指さして言った。
「知ってる。私、あのライブ会場にいたもの。それにあれ、全世界配信されていたじゃない」
「そうか。そういやあそうだったな」
 未来が笑って言うものだから、クリスもつられて笑った。
 歪なかたちの月はそのうちに、いずれの日にか落下してくるという。とても信じられない話だが、二課のオペレーターの男性が計測したかぎりでは、どうにもフィーネ・マリアがライブで言ったことは妄語ではないらしい。ただし、時間的な猶予はまだだいぶんある、という。武装組織「フィーネ」が事を急ぐ理由までは敏腕な彼にもわからないようだった。
「落ちてきたらたいへんなことになるよなあ」
「他人事みたいに言わないでよ。クリスたちがなんとかしてくれるんでしょう?」
「なんとかしなきゃならないけど、やり方わかんねえ」
 クリスは困ったように首筋を指で掻いた。
「まあオッサンたちがなんか思いついてくれるさ」
 その時に、対ノイズのようにシンフォギアの力を必要とするのであれば、自分は持つ力を大いに発揮すればよい。それ以外にできることなんて、結局は自分にはないし、またそれを断固しなければならないとも思っている。クリスは最近ようやく、自分にできることをして、できないことはしない、できる人間にやってもらい、それを手助けする、ということが、ぼんやりとだが、体に染みてわかってきた。
 昔の理想に燃えてそれ以外になにもしようとしなかった頃よりも、危機にさいしても暢気にかまえている今のほうが、よほど両親やフィーネが体現しようとした正道にのっとっていると、クリスは感じている。
 フィーネのなにもかもが間違っていたとはクリスは思わない。聞きかじった彼女の理想の一欠片でも、多くの人々の幸せに寄り添うかたちであらわせたら――。そう考えていると、自分がなにやらフィーネの後継者にでもなった気分になる。居心地はわるくない。それもあってか、フィーネ・マリアへの心象は、はっきりと言ってよくない。そもそもが響を殺した組織の首領なのだ、マリア・カデンツァヴナ・イヴという女は。
(あれは、騙りだ)
 クリスはマリアを偽のフィーネだと決めつけている。
「響がいればな」
 耳になじんでも口になじまない名前がするりと出てくる。
「うん?」
「あいつがいれば、やっぱりみんな、今頃とっくに、なんとかなってんだろうな」
 なんとかならないことがあったから、響は死んでしまったのだが、クリスはあえてそれを無視して思いつきの妄想を語った。
 そう思わせる不思議な少女だったのだ。彼女にだいじょうぶと言われたら、本当にだいじょうぶな気持ちになれた。つくづく不思議な少女だった。本当に。(だが、今はもう、いない)
「どうかしらね。響はのんびり屋だから」
 未来は小首をかしげた。
「のんびり屋かあ? あたしには、やたらとせかせかしてる、こうるさくて、せっかちなやつに見えたけどなあ」
 とクリスが言うと、未来は、たしかにね、と言ってくすりと笑った。
 故人の存在をこうして明るく話題にできるのは、いい傾向だと思ってもよいのだろうか。クリスにはまだすこし自信がない。
「月が落ちるのも、流れ星っていったら、流れ星なのかな」
 未来はそんなことを言った。
「そりゃ月も星だから、流れ落ちれば、流れ星だろうさ。でも、ふつうの流れ星と違ってあんまりロマンチックじゃないぞ、月が落ちてくるのは」
「そうね。――ふふ、クリスの口からロマンチックなんて言葉が聞けるとは思わなかった」
「へえ、あたしだって、それくらいは言う」
 未来の小さな笑いが先ほどからとまらない。クリスもとめようと思わない。彼女の笑顔よりうつくしいものはこの世界には存在しないとさえ、クリスは信じている。
(そうだ。だから、このために命を懸けても、惜しくないんだ)
 そう考えると小日向未来は危険な人間かもしれない。ひとを死ぬ気にさせる人間はとてつもなく危険だ。
(生きるのを諦めるな、と言われても、ちょっとむずかしいぞ、カナデサン)
 又聞きの励声に、クリスは心の中でそう返した。ただし、未来にはその手の女が持つ妖しさや艶やかさは微塵もない。その点で未来は安心できる女性である。
「だからまあ、だいじょうぶだな」
「なにがだいじょうぶなの?」
 クリスの呟きに、未来がすかさず反応した。
「うーん、そうだな、うん。月だ。月のことだよ、だいじょうぶだと言ったのは」
 あきらかに今思いついたというクリスの口振りだった。
「だいじょうぶだって。あたしは泳ぎはけっこう得意なんだ」
「ますますわからないわ。なにがだいじょうぶなのよ」
 未来の追及をクリスは肩で笑ってかわした。――フィーネみたいに恋に溺れたりはしないってことだ、とは、さすがにクリスは言えなかった。
 流れ星が夜天を横切った。
「あ、流れ星だ――」
 未来の視線を追ってクリスも流れ星をさがしたが、すでに消えていた。
 一瞬のできごとだ。
 クリスは溜息を吐いた。
「惜しかったね、クリス」
「うん、まあな」
 それほど残念だったわけではないが、未来が見たものと同じものを、自分も見たかったという気持ちはわずかだがあるにはあった。なにかしらを共有したいのだ。愛する人とそうありたいと願うのは、別段おかしなことではないが、どうしたって死んだ響が、未来の最愛の少女が、強烈にその存在をクリスに訴えかけてくる。うしろめたさがクリスの体内から消えない。
 あいつはバカだから、お人好しだから、思いがけずクリスと未来の仲が進展したとしても、たぶん気にしないだろうし、気にしないでいいと言ってくれるに違いない。このうしろめたさは、誰のせいでもない、クリスがクリス自身のために頑なに所有しているものだった。
(でも、すこしだけ……)
 とクリスは欲張りたくなることがある。
 根拠はないし自信もないが、世界を救ってみせると約束する。お前が愛した、お前とお前の恋人が愛した、この世界をみんなと一緒に守ってみせる。だから、すこしだけ、とクリスは固く拳を握って祈った。どうか拒まれませんように、と。
 クリスは意を決して拳をひらき、その手に未来の手を掴んだ。
 未来はいきなりのことで驚いたようだったが、いやがるふうでもなく、クリスの手を握りかえした。あたたかい手だった。やさしい手だった。
 響に似ているとクリスは思った。ソロモンの杖の搬送中にノイズに襲われた時、クリスの不安を払拭するために、響はクリスの手をつつみこんでくれた。今の未来の手はそれに似ている。
 太陽は死んだ。
 月は欠けている。
 それでも陽だまりはここにある、とクリスはこの時初めて、ほんのかすかではあるが、そう信じることができるようになった気がした自分を感じた。

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青空に落下する

 未来の精神状態は烈しい浮沈を繰り返している。
 響の死からほとんど完全に復活したように思われたが、それが見込み違いであることをクリスは思い知らなければならなかった。
 明らかに前夜泣きはらしただろう赤い両目をひらいて登校して来る日がある。
 ふらふらと体をかたむけて歩く姿を多数の生徒が目撃している。
 けれども、ふしぎなことに、未来のそうしたはれぼったいほおも、赤い目も、おぼつかない足取りも、そのどれもが、彼女の生気に溢れ、なかば死んだような白い肢体をひきずり歩く彼女の活力がいかにも充実しているように、周囲の人間に思わせたし、同時に、危うさも感じさせた。異常といえばこれほどの異常はない。
 根本的に精神のとほうもなく強い少女なのだろうと、クリスは、やはりそんな未来の姿にかなしくなる。
 未来はクリスを頼ってこない。
 ――たまに、肩貸してくれる?
 そう言ったくせに、なのに、あの夜以来、未来がクリスの肩に体を傾けたことは一度もない。
 早朝の走り込みは毎日欠かしていない。夜はかならずではないが、顔をあわせて、一緒に散歩している。
 だからクリスはあいかわらず未来とよく会うし、話もしている。
 それでも、三回目の夜の逢瀬で未来の手を握りしめた、あれきりクリスはその愛しい体に再び接触する機会を、うしなっている。
 クリスがあのあたたかなやわらかい手を握った夜、その瞬間から、未来はひどく不安定になってしまったように、クリスには思われてならない。自分のせいで未来の完全な立ち直りをさまたげてしまった気がしてならない。
 そう自責してみても、クリスは未来になにもできないままでいる。
 窮したクリスは翼に相談した。
「なあ、どうしたらいい?」
 廊下で翼の腕をひっつかんで、クリスは強引に話をきりだした。
「なんの話だ?」
「えっと、こ、ひなたの、話」
「それか、……」
 翼はむずかしげに眉をひそめ、目をつむって黙考をはじめた。
 それは数分もないわずかな時間でしかなかったが、クリスにはいやに長々と考え込んでいるように感じられて、じれったかった。
「なあ」
「雪音はどうしたいと考えている」
 目をひらいて、翼は言った。
「え……」
 クリスは目をしばたたかせて、その後むつと口を結んだ。それがわからないから、相談しているのではないか。わかりきったことを問われるのがクリスの気に入らなかった。クリスがなにも言いださないのを見るや、
「では、問い方を変えよう。雪音は向後、自分がどうしたいか、どうすべきか、わかっているのか、わかっていないのか」
「わかってない、だから相談してんだよ」
「なら、答えは私の胸にはないな」
「じゃあどこにある」
「その問いへの答えも、私の胸にはない」
 にべもなく言って、翼はクリスの手をふりはらい、足早に去っていった。クリスはその腕を再度つかまえることはできなかった。
 クリスは舌打ちしてから、やつあたりに石畳を蹴飛ばした。
 どうしろというのだ。肩を貸してと言われて、そうしようと決意したのに、自分の肩に未来は寄りかかってこない。むりやり抱きすくめてその状態をつくりだせばよいとでも言うのか? 自問するまでもない。できるわけがない。やってよいはずがない。
 ようやく立ち直ったとクリスには見えた。元気になったように見えた。精神的に、完全とは言えないまでもかつての安定を取り戻しているように見えた。それがクリスには嬉しかった。
 だから甘えてしまったのかもしれない。幼稚にも未来のやさしさに甘えたのだ。その浅はかさを、愚劣さを責めるおのれが、今になってクリスを苦しめている。
 クリスはもうすっかり未来の感触の消え去っている自分の手をみつめた。
 調子に乗ってこちらから歩み寄ったらこのありさまだ。自分の欲望を優先して手を握ってしまったばかりにこのざまだ! 彼女のやわらかい手が、絶えずひとをいつくしみつづけた手が、あの時なにものにも触れていなかった理由を、都合よく忘却した、その結果だ!
 立ち尽くすクリスの目からはらはらと涙が流れた。
 もしこの時のクリスの姿を未来が見つけたら、自分のことは脇に置いて、やはりやさしくクリスを慰めてくれたに違いなかっただろう。いちいちそういう少女なのだ、小日向未来という少女は。

 中庭の木陰で一緒に食事を摂ることがある。
「最近、元気ないね」
 未来はそんなことを言ってくるのだ。今日の未来は浮沈の浮のほうかな、と彼女の声の色や肌の艶から慎重に判断する。
「ちょっと疲れてるだけだよ」
 クリスはそう言って昼食の菓子パンをかじった。
「好きだよね、それ」
 それ、というのは菓子パンと牛乳のセットのことだ。クリスは学校での昼食といえば、そればかりを腹に詰めている。
「まあ、な」
 クリスは未来の手元に目をおろした。未来の昼食は手製の弁当だ。かわいらしい、そう表現できる弁当だ。響はたしか、おおかたが握り飯だったか。それに卵焼きとウインナーソーセージがたいていおかずとしてついていた。響は昼食は自分で用意していた。炊事は未来に任せっきりだろうとかってに想像していたクリスは、存外にまめ(﹅﹅)で女の子らしい響にずいぶんと驚いたものだった。
 今日はおだやかな風がふいている。枝葉や草のこすれる音が耳に触れてくる。すこし肌寒いかもしれない。
 未来の機嫌はよさそうだった。
(それなら……)
とクリスは、
「そっちは、どう、だ。ちゃんと元気か?」
 恐る恐る聞いてみた。
「全ッ然!」
 あっけらかんとして未来は答えた。
「躁鬱ってこういうの言うのかしら。突然気分が盛り上がってきたり、やっぱり突然凄く落ち込んだり、……どっちでも涙がとまらないのよ。どうしてかな、泣いちゃう。声に出してね。悪い夢は見なくなったけど、そのかわり良いっていうか、幸せな夢? 見るようになっちゃって、そうするとね、最後はかならず自分の悲鳴で目を覚ますの」
「悲鳴?」
「そう、こんなことあるはずないって、ヒステリックに叫んで!」
 やれやれといった感じに未来は両手を広げてみせた。
「朝、走ると全部すっきりするからいいんだけどね」
「あんまり、そういうふうには見えないよ」
 クリスは言った。
「そうなの? 自分じゃちょっとわからないわ。誰かいる時はちゃんとしてるつもりだけれど、むずかしいわね」
「誰かいる時でもちゃんとしなくても、いいんじゃ、ないかな」
 クリスはためしに言ってみた。
「肩くらいなら、貸すよ。約束したもんな」
「そうね。そんな約束してたっけ」
 未来のよくとおったうつくしい鼻筋に暗い陰翳が落ちた。弁当箱を包んで横に置くと、未来はくすくすと笑いはじめた。
「ごめんね、気を遣わせちゃって。――はあ、もうだいじょうぶだから、って言ったんだけどなあ、これじゃ嘘になっちゃう」
 そう言って未来は肩をすくめた。
「言った? 誰に? もしかして、響に?」
「うん。夢でだけどね。あの子凄く心配してたから、一緒にいてあげられなくてゴメンって、守れなくなってゴメンって、それでぐしゃぐしゃに泣いてて、もう見てられなかった、それで、私がしっかりしなくちゃって思って」
「そうか、そんなことが……」
 結局は立花響しだいなのか、この子は。クリスは落胆している自分を感じた。力になってやりたいのに、その資格さえ自分にはないのか。――そんなはずはない、と強く否定できない自分が情けない。
「言ったのか、生きるのを諦めないって、あいつに」
「もちろん」
 べつに生きるのを諦めてもいいんじゃあないか、あやうく言ってしまいそうになったクリスは、その言葉が口から出ないように菓子パンを詰め込んだ。死んでもいいだろうなどといった意味ではない。そんなにがんばらなくてもいい、そう言いたいが、うまい言葉が思いつかない。愛する伴侶が死んで、嘆きの底でうずくまっても、そこからがんばって立ち上がって生きようとしている彼女に、がんばるな、むりするな、とは言えない。
「じゃあ、がんばらないとな」
「うん。クリスにもまたいろいろ迷惑かけるかもしれないけど、よろしくね?」
「どんどん頼ってくれ。誰にも頼らないのを見るのは、あたしはつらい」
 クリスは正直に言った。
「ありがとう」
 と未来は言って、眉宇も明るく、うつくしく微笑んだ。
 弁当包を持って立ち、クリスに背を向ける。
 一瞬しか見られなかったその微笑にクリスは、しばらく虜にされて動けなかった。
 そのあいだに未来はクリスのもとから姿を消した。
 クリスの未来専用の肩は、その日も未使用のままで終わった。

 休日、遊びに誘われた。
 目的地はスカイタワーだ。
 水族館に行きたいのだと未来は言う。
 クリスは一も二もなく快諾した。
 現地で集合すると、何故か早朝に仕事に出かけていったはずの翼までいた。
「なんでえ、あんたも一緒なのか」
「小日向に誘われたのだ」
「仕事はどうしたんだよ」
「だから、これが仕事だ。小日向の護衛だ。叔父様からしかとそのように頼まれた」
 あいかわらずかちかちの喋り方でそう言うと、
「まさか雪音まで一緒だとはな」
「それこっちのセリフ……あたしは、遊びに誘われただけだから、護衛とかしないからな」
「それは私に一任してくれたらいい。ふたりは楽しむがいい」
 と言って、翼はほんのすこしだけ唇の端をあげた。笑ったらしかった。
「じゃ、行きましょう」
 明るい声で未来が言った。
 クリスと翼は同時に安堵の息を吐いた。
 天羽奏の忘れ形見の、そのまた忘れ形見を、翼はどういう目で見ているのだろうか。
 クリスは初めて、風鳴翼という心技体の極めて完成された戦士の、ひとりの人間としての心情に、想像を飛ばした。またそのことについて、すこしなりでも話してみたいと思った。
 青くうす暗い水族館は未来の心をはずませたようだった。せかせかと泳ぎまくる魚を見ては、手を打って喜んでいた。内心では響にそっくりね、などと、傍らに立つ幻の響をからかっているのかもしれない。クリスはそんなことを考えた。
 すこし離れたところから、クリスは翼と一緒に未来をながめている。
「かなわないな……」
 口をついて出たちいさな呟きを翼に拾われてしまった。
「雪音は、立花と戦っているのか。あるいは代わりになりたいと」
 かなわないな、と言っただけなのに、なんて鋭い人だ、この人はこの人でかなわないな、とクリスは思った。
「わからない。最初はそんなつもりなかったけど、最近はめっきりわからなくなった」
 だんだんと声をしぼませていった。情けない、情けない、クリスは近頃はそればかり自分に言い詰めっている。
「雪音」
 翼に名を呼ばれた時、物凄い爆発音が起こった。館内が激しく震動した。
「あっ――」
 はっとして未来のほうに目をやった時には、すでに翼がそこにいて、未来の体をかばっていた。
 まもなくけたたましいノイズ警報が鳴り響きはじめた。
「雪音、小日向を任せたぞ」
 翼は未来の体をクリスにあずけた。
「この子の護衛はそっちの仕事だろ!」
 ノイズの規模はわからないが、大群を散らすならクリスは翼よりも得意だと思っている。
「守れよ! そうしたいのならば断固そうしなくてはならない!」
 館内がうるさい。警報と、悲鳴と、爆発音、さまざまな音が混ざり合って、ほとんど叫ぶように会話しなくてはならなかった。
「ちくしょう、わかったよ!」
 クリスは未来の手をふたたび握った。
「逃げるぞ」
 そう言って走ろうとしたが、未来は動かなかった。
「おちついて。避難することと、慌てたり急いだりすることは違うから」
 未来は泰然としてクリスに言った。
(ああ、ちくしょう!)
 クリスはどれほど自分を情けなく思い、自分を叱りつけなくてはならぬのだろうか。いいかげん自分自身の至らなさに呆れかえりたくなってきた。
 水族館を出て、非常階段を目指す。
「ゆっくり、ゆっくり歩くんだぞ。だいじょうぶだからな、お父さんがついてるからな」
 やさしくてゆたかな男性の声が、クリスの耳にとどいた。
 そう、そのとおりだ。クリスは自分を戒めた。
 逃げるだけならもっと楽に逃げられるのだ、シンフォギアを纏い、壁に穴をぶちあけてスッキリ通り道を作り、ガラスを破って、そこから飛びおりればよい。それがもたらすかもしれない二次災害を気にしなければ、だ。
 クリスはいっそう強く未来の手を握りしめた。未来の不安や恐怖を取り払うためにやったつもりのことだったが、実際にはまるで逆のことだったかもしれない。クリスは自分の不安を取り除くために、またしても未来の力強いやさしさにすがってしまったのかもしれなかった。
 その時――。
 ひときわ大きな爆破音がした。
 瞬間、ぐらりとクリスの視界が回転した。足元からなにかが無くなった。体重の置きどころをうしなった。
 床が崩れ、天井が崩れた。クリスと未来はまんまとそれに巻き込まれた。ガラス窓などとうに消し飛んでいて、スカイタワーからじかに街並を遠望できるありさまになっていた。
 それでもクリスは未来の手は握ったままだった。
「クリス――」
 未来の叫び声が聞こえた。とっさに抱きすくめた。できるはずのないことだと思っていたことを次々にやるはめになった。
 落下した先でふたたび出現した床に、クリスは後頭部から激突した。
 ゆらゆらと視界が揺れている。ぼやけている。未来の顔がよく見えない。四肢に力が入らないせいで起き上がれない。
(やっぱり役割分担間違ってるぜ、なあ)
 ぼんやりとした意識でクリスは翼をなじった。翼であったらこんなヘマはしなかったろう。とっさにギアを展開させて危地を脱するくらい、難なくやってのけたに違いなかったろう。クリスはそう思うと、やっぱりこの配置は失敗だったなと思わずにはいられなかった。
 あの人はもしかしたら、こっちが思っているほど冷静でなかったのかもしれない。あの人だって、響が死んだせいでいっぱいいっぱいに追い詰められていることに、気づくべきだったのだ、もっと早くに。
 体からどっと血が流れていくのがわかる。その部分が火傷でもしたみたいに熱い。痛みより熱さのほうが強かった。
 激痛が走ったのは、未来がクリスを無理矢理抱き起こしたせいだ。
 出血の多い頭部だけらんぼうに手当すると、クリスの体をもちあげ、腕を自分の首に回し、腰を抱えて、未来は慎重に立ち上がった。
「すこしは、歩ける? ……ううんと、そうじゃなくて、歩いて、気合で」
 めちゃくちゃな注文をつけて、未来は避難を再開した。
 クリスはそれこそめちゃくちゃに泣きたくなった。
 ――どうして、お前はそうなんだ。
 かすれた声でかろうじて出た言葉は、未来にはとどかない。ふらつきながら、未来はクリスの体をひきずって移動してゆく。
 が、避難経路がはっきりとわからない。
「どうしよう」
 時々そう呟きながら、それでも未来は足をとめなかった。
 気合で歩けと言われてもクリスはほとんど歩けなかった。そのうち未来はクリスを背負った。
「重いなあもう。帰ったらダイエットね。朝練、クリスも参加しなさい」
 そんなことを言われた。
「ああ、もしかして、これほとんど胸のせい?」
 どうして、とクリスは言いたかった。声が出ない。
 どうして、そんなに強いんだ。クリスは言いたかった。もう声は出ない。気力もない。
 だから、ただ泣いた。血と涙を流して未来の背を汚す以外に、クリスにできることなど、もはやなにひとつもなかった。

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死者には勝てない

 クリスは夢と現のはざまにいる。
 イチイバル、イチイバル、と誰かがしきりに、クリスが平生首にかけている聖遺物の欠片の名を呼んでいる。
 うるさいなあとクリスは思った。今は猛烈に眠いのだ。静かにしろ、そしてあたしを眠らせろ、と思った。
 イチイバル、イチイバル、と声はそのどんどん大きくなっていく。うるさくてかなわない。いったいそんなに、ひとの聖遺物になんの用があるのだ。そんなに名を呼んでなんだというのだ……。――「イチイバルッ!」
 夢は破られた。
「イチイバル! こらイチイバル! とっとと起きるデスよ! あーさー! ごはん!」
「あァ!?」
 クリスは布団から跳ね起きた。
「起きたね……。お目覚めの気分はいかが」
 枕元に座り込んでクリスをうかがっている調が訊いてきた。
「よくねえな。――お前の声は頭に響くんだよ、キンキンうるせえなあ」
 床から立ち上がったクリスは、夢を破ったうるさい声の主である切歌をひと睨みした。
「なにおう!?」
「ごはん、ごはん。早く行こ。マリアとマムが待ってるよ」
 対蹠的なふたりだ。調の声は静かで波がない。そして切歌はうるさい。とにかくうるさい。
「ごっはん、ごっはん、ほら、ほら」
 切歌がクリスを急かす。
 クリスは床に放り投げていた上着とペンダントをひっつかんで、身に着けた。聖遺物の結晶に通してある紐が首に取り付けられた黒いチョーカーにひっかかって、うまく降りない。手を後ろにまわして紐をつまみあげ、かっこうを整えた。
「おおゥ、じぃざァーす……もうちっとていねいに扱えデス」
 切歌はそう言って自分の聖遺物を指でいじった。
「ふん。これくらいで壊れやしねえよ」
「服のほうもね。痛んじゃうから」
 と調は言った。着の身着のままで二課を離脱して「フィーネ」に参加したクリスは、この一着しか服を持たない。スカイタワーでの負傷で染みついた血の痕がだいぶん残っているが、これはもう仕方がないと諦めるほかない。生きているだけ丸儲けだ。
「わかった。心がけてみる」
「なんか態度違くないデスか」
「気のせいだろ」
 そうやって三人でマリアの元へ行く。
 構成員の増えた、これが武装集団「フィーネ」の新しい朝の始まりだ。

 決断しない人だ、というのが、クリスから見たフィーネ・マリアの印象である。
 彼女は全世界中継されているライブで堂々と宣戦布告をして、世界中に喧嘩を売った。そういう言葉の勇ましさや歌の烈しさに反して、なにかにつけて荒々しい手つきを好まず、なにかを傷つけそうになると、さっと手をひっこめてしまう、そういう弱さとも優しさともつかぬ性分を所有する女性だった。
 なぜこんな人が武装組織のリーダーなどをやって、さらには永遠を生きる巫女・フィーネを名乗っているのか、クリスにはわからない。
 突然「フィーネ」に参加することになったクリスに不信感の拭えぬ目をむけながら、またあるいはまなじりをおだやかにして、今日も、
「おはよう」
 と言って、クリスにあいさつしてくる。やわらかいふくらみのある声をしている。
 彼女のなにひとつとって見ても、クリスの知るフィーネからはかけ離れている。
 ――やっぱり、こいつは騙りだな。
 とクリスにはマリアと会ってすぐに、以前から決めつけていた当て推量を固めた。が、口には出さなかった。切歌や調はどうもマリアが本物のフィーネと信じているフシがある。またそうでなくて口裏を合わせているのだとしても、やはりクリスが「マリアは偽のフィーネだ」などとわざわざ言うことはないだろう。
 武装組織「フィーネ」のリーダーは今生の名をマリア・カデンツァヴナ・イヴといい、フィーネの人格はまだ完全には覚醒しておらず、記憶や知識も曖昧であるという。そういうことになっているのだから、その一員になったクリスも、そういうことにすればよい。すくなくとも、未来とソロモンの杖を奪還するまでは。
 ただ一度だけ、
「二年くらい、一緒に暮らしてたんだ、あたしたち。なんかすこしでも、思い出せることないか、なあ」
 とマリアに言ったことがある。
「ごめんなさい、なにも……」
 マリアは心底申し訳なさそうに言った。大げさに落胆してみせると、マリアはまた「ごめんなさい」と謝った。やはりこの女はフィーネではない。その確信がさらに深まっただけだった。クリスは内心本気で落胆した。
 騙りとわかっていても訊いてみたくなったのは、たんにフィーネに甘えたかったからだろうとクリスはあの時の自分の心情を解析している。どうしてこうも自分は誰かに寄りかかり、甘えておらねば生きてゆけないのだろうか。クリスは嘆息する回数が増えた。
 軽い朝食を摂ると、さして時間を置かずにエアキャリアが動き出した。どこで修めた技術なのか、操舵はマリアの仕事だ。
 行く先はフロンティア浮上予定地、海の真上である。方角的には南洋へと進むことになるが、海は冷えるからと、マリアは厚手のコートを持ってきてクリスに渡した。真新しいコートだったのにクリスは驚いた。資金繰りが厳しいと切歌が言っていたからである。
 ――フィーネ、お前っていつも素ッ裸で過ごしてたんだぞ。
 そう言ったら、マリアはどんな顔をするだろうか。ふとそんなことを思いつき、あわててそれをかき消した。意味のない思考だ。
 クリスはそのコートを脇に挟んで、頑強な檻に収監されているネフィリムのところへ行った。
 ネフィリムは以前に対峙した時と姿が違って見えた。一回りも二回りも大きくなり、四足歩行の動物から二足歩行の人間に近いかたちに変わった体躯を折り曲げていた。太い二本の足でしっかりと立てば、そこには天を衝くほどの巨人が出現することだろう。
(こいつの腹をかっさばいたら、中からあいつが出てきたりしないかな)
 はらわたの煮えくりかえる想いを抱えてクリスは檻の中のネフィリムを睨み据えた。
(試してみようか)
 クリスは胸の結晶を指ではじいた。
「一つ前のフィーネは私たちとはずいぶんと志が違いますが、ただ同じく月の落下による災厄にさいして、フロンティアの浮上を計画していたと聞きます。あなたは彼女と共に行動していたそうですが、それについてなにかご存知で――」
 いつのまにか、ウェルがとなりに立っていた。
「月を壊すつもりでいたとさえ教えてもらってねえ」
 クリスは正直に答えた。
「それは残念」
 ウェルは肩をすくめた。
「あの女はフィーネではないのでしょう」
 ウェルはクリスにささやきかけた。
 クリスは一瞬ドクンと心臓が高鳴った。ウェルに気づかれないようにそれを抑えつけ、首を振った。マリアはフィーネである、とも、フィーネではない、とも取れるしぐさだったので、ウェルには不満だったようだが、すぐにその不満を捨てた。
「ははは」ウェルは笑って、「そうであっても、そうでなくても、我々のやることは同じです」――
「月とかフロンティアのことは教えてもらえなかったけど」
 クリスは言った。
「けれど?」
「それで世界を平和にできるって言ってた。人間同士の争いはなくなるって。それ≠チていうのが、フロンティアだの神獣鏡だの、それから、こいつのことだったんだな」
 クリスは顎をしゃくって、こいつ≠示した。
「そう、その通りですよ」
 満足げなウェルの言葉を、クリスは背中で聞いた。「ナスターシャ教授を看なければならないので、僕はこれで」と、ウェルは最後に残していった。
 クリスはネフィリムのいる檻を思いきり蹴り飛ばした。どうして自分はこんなところにいるのか、答えのわかりきっている自問を怒りとともにぶつけた。
 頭痛がする。
 クリスは頭をおさえた。
 いまだに残る怪我の痛みなのか、頭に血が上っているせいなのか、クリスにはわからない。気絶するほど痛くなればいいのに、というなげやりな思いと、そんな場合じゃない気をしっかり持て、という叱咤が、同時に脳裏をかけめぐった。
 ――会いたい。あの子に、会って話がしたい。その一心で、クリスは重い体を動かして、仇敵の住処を後にした。

 クリスは切歌たちがブリーフィングルームと呼ぶただの茶飲み場に向かった。いやに広いヘリの内部で未来に会おうと思えば、それがいちばん確実だった。どの時間帯でも十中八九彼女はそこにいる。
 睡眠も食事も、とっている姿をクリスは意識をとりもどしてから一度も見ていない。長いこと気をうしなっていて、目が覚めた時には自分の首には黒い枷が嵌められていた。
「スカイタワーから連れ出したら、そのへんに置いていこうかと思ったのだけれど」
 最初に口をひらいたのはマリアだった。そういえば……、とおぼろげな記憶の中から、自分を背負う未来とマリアとの邂逅を拾った。
 マリアには未来とクリスを助ける義理はないし、なによりクリスはけっこう酷い傷を負っていたわけで、なにも本拠にまで連れ帰る必要はまったくなく、言葉どおりそのへんに置いてゆけば、ふたりはやがて救助され、クリスもきちんとした治療を受けられたに違いなかったが、そういうマリアのある種の常識を、ウェルが阻んだのだった。
 結果、クリスは死にはしなかったものの、今でも頭痛に悩まされているし、いつのまにやら、敵組織の構成員に組み込まれてしまっていたわけだ。
 正規適合者は「フィーネ」にはひとりもいないから、クリスをむりやり取り込もうというのが、用意された言い訳だった。未来はそのための人質ということらしい。
 フロンティア計画にフィーネが遊びで作った玩具の正規の適合者がどれほどに必要なのかどうか、クリスにははなはだ疑問だ。ウェルの言動には謎が多い。
 それはさておいて、気絶していたクリスの意思は、当然それら一連の出来事にはすこしも介在されていないが、未来のほうはどうだったのかを実はクリスは知らない。誰からも訊き出せていないのだ。教えてもらえない、と言ったほうがよい。はぐらかされたり、言葉をにごされたり、それからマリアは口をひらけば謝った。
(訊かなきゃ。知らないと、なにもわからない)
 クリスは頭痛に耐えながらブリーフィングルームに行った。
 はたして、未来はそこにいた。
 切歌が買い集めたお菓子類にもお茶にも、未来はちっとも手をつけていない。手をつけたところを見たことがない。
 未来の首にはクリスのような枷はつけられていない。着ている服には煤とクリスの血が薄く付着している。
「怪我の調子、どう?」
 未来のほうから話しかけてきた。
「ちょっと痛いけど、まあだいじょうぶだ。それよりさ、そっちはどうなんだ、なあ、ちゃんと寝てるか? メシ食ってるか?」
 何度目の質問だろうか、これは。まともな返答があったためしがないが、それでもクリスは未来に会うたびそれを訊いた。そうしなければならない、未来の態度に変わり映えがなくともやめてはならないと思った。
「心配しないでもちゃんと寝てるし、ごはんも食べてるから」
「それ、それ、いっぺんも見たことないから心配なんだよ。一緒に食べて、一緒に寝ればいいじゃないか」
 クリスは未来の寝床がどこに置かれているのかさえ知らないのだ。クリス自身は切歌・調と一緒くたになって雑魚寝になって眠っているが。
「ほら、いちおう私、人質だもの。そういうケジメはちゃんとつけておかないと」
「ケジメってなんだ、べつに監禁されてるわけじゃないし、あいつらは平気であたしらを会わせるし、なんだったら今からだって、このヘリぶっ壊してお前を抱えて逃げるくらいなら、できるぞ」
「今そんなことしたら、首のそれ、爆発するから、それは駄目」
 未来は自分の首を指でたたいた。クリスはハッとして首に手を当てた。
「それだったら弦十郎さんたちが助けに来てくれるのをおとなしく待っていたほうがいいわ」
 未来は抑揚のない声でそんなことばかりを言った。
 スカイタワーの例ひとつとって見ても、未来が危難に対してつとめて冷静を保ちつづけられる人間であることは、クリスにだって承知だ。だから今の落ち着き払った態度だって、なんらクリスの知っている未来からのズレはないはずだ。それでも、クリスは疑いをとりのぞけない。自分が気をうしなっている時、未来と「フィーネ」とのあいだでどういったやりとりがあったのか、あるいは「取引」があったのか。
 なにか、は確かにあったのだ。その耳目で知らなくてもそれくらいは簡単に察せられる。
「なにを、企んでいやあがる」
 クリスは語気を強めて言った。
 凄まれた未来はくすりと笑った。
 またこれだ。クリスはいらいらした。こうやってのらりくらり、また話をかわそうという腹なのだろう。
「まるで悪事を糾弾されてるみたいじゃない」
「悪事を企んでるのか」
「悪事か善事かっていったら、たぶん善事、の皮を被った悪事。――うん? あれ? 逆かな?」
 未来は首をひねった。
「だいじょうぶよ。ちゃんと頼りにしてるから、困った時は、助けてって言うから」
「今すぐ、そう言えよ。ちょうど困り果ててるところじゃないか」
「ううん。もうちょっとあとで。今はまだ、まあしばらく、ねえお願い。もうちょっと付き合って」
 甘えた声でお願いされてしまった。
 情けないことに、これを言われるとクリスはあっさり自分の意見をひっこめてしまう。
 翼に言われた「断固」というものが、まるでできていないことがクリスにはつらかった。
 ――守れよ! そうしたいのならば断固そうしなくてはならない!
 あの時の翼の強悍な声がクリスの脳をゆさぶる。あの人は、今まさにそうしているところなのだろう、クリスと未来と助けるために、断固すべきことをしている最中なのだろう。未来の言うとおりにおとなしく待っていれば、案外あっさり救助される気もしてくる。
 しかしながら、どうやら悪事か善事を企んでいるらしい未来は、その翼の断固を、これもまた断固突っぱねるかもしれない。クリスはそんな不吉な予感がした。
「ちゃんと、守るから。タワーの時みたいなぶざまなことには、もう絶対にしないから、だから、なあ、あたしのこと、頼ってくれよ」
 クリスはほとんどすがるように懇願した。
「うん。頼る。助けてほしい時は、ちゃんとそう言う。もし言えなくても、助けてほしそうな顔してたら、その時も私のことを助けて、クリス」
 未来はそう言った。
 クリスは未来の言葉の意味をできるかぎり正確に汲み取ろうと努力した。
 まじまじと未来の白い顔をみつめる。クリスが期待している、助けてほしそうな顔、からはほど遠かった。
「どうして」
「うん?」
「どうして、そんなに強いんだ、お前は」
 以前に言ったのと同じ問いをクリスはまた言った。泣きたくなるような声だった。
「強くないよ。強かったこんなことになってないもの」
 そう言い返した未来の声も、やはり泣くようにふるえていた。
 クリスは首を激しく振った。
「違う。お前は強いんだ。バカみたいに、かわいそうなくらいに、強いんだ。強いからこんなことになっちまったんだ。だって、お前が強くなかったら、あたしはお前のことを助けられたんだ。あいつがいなくたって、お前のことを守れたはずなんだ」
 クリスは叫ぶように言った。泣きたくなるような声は実際に泣き声に変わった。
「ちくしょう、どうしてだ。どうしてお前はそんなに強いんだ。どうして、あたしに守らせてくれないんだ、なんでだ、なんでなんだよ、あいつじゃなきゃ駄目なのか、結局全部、みんな、あいつでないと、お前には駄目なのか――」
 その場に座り込んで、床を拳で叩きながら、幼児がだだをこねるように泣き叫ぶクリスを、未来は呆然とみているほかなかった。

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幻影を追う少女たち

 最初は荒い息を吐いていたクリスは、しばらく経つとおだやかな寝息をたてるようになった。
 ――どうしてだ、なんでお前はそんなに強いんだ。あたしに守らせてくれないんだ。
 へたりこんでそう繰り返し泣き叫んだクリスは、やにわに立ち上がると、短い悲鳴のような声をあげてから、やがて事切れるように未来のほうに体を傾けた。
 冷たい鉄の床に膝をついて、腰をまげて上半身を未来の太腿にあずけるという、かなり窮屈なかっこうで眠っているが、それでも年齢にそぐわない幼い寝顔はやすらいでいるように、未来の目には見えた。
 これなのだから、よほどに疲労が溜っていたのだろう。
 ちゃんと寝ているか、たびたび心配してくる彼女のほうこそ、実はまともに眠りつけていなかったのではないか、もう何日も洗っていないのにやたらにやわらかい髪を撫でながら、未来はそんなことを思った。
 この上で風邪など引かせたら一大事である。クリスの持ってきたコートを彼女の肩からかけてやった。マリアから貰ったものに違いないが、未来が貰ったものとは違うデザインのものだった。つくづく、みょうなところに気をくばる人だ。親友を殺した組織の首魁を相手に、未来はなんだか笑いたくなった。
 もともと怨み憎しみなどはすこしもない相手でもある。当のマリアはそうしてくれたほうがありがたそうな表情を未来に向けるが、殺されたところを目撃したわけではないし、直接手をくだしたわけでもないらしいマリアを憎むのは、未来の性格では難しすぎた。それもこれも自分の心の弱さだと未来は思っている。それ、はクリスの叫びに対する反論であり、これ、はマリアたちを憎むことである。
「強くなんかないのに」
 買いかぶりすぎた、だれもかれもが自分を買いかぶっている。未来は不満を呟きにのせて嘆息した。膝で眠るクリスにゆっくりとその息が落ちた。
 響は三度死んだ。二度生き返って三度目は生き返らなかった。未来にはそういう感覚がある。一度目はツヴァイウィングのライヴの時で、二度目はルナ・アタックの時、三度目が今回である。一度目は巻き込まれて死んだのではないかと気が気ではなかった、二度目は二課から死亡報告があって未来はそれを信じた、三度目も同じように訃報をもたらされたが、今度は嘘の報告ではなかった。
 三度の死は全て一度目の死にかかっている。なにもかもが最初のツヴァイウィングのライヴ事件が遠因としてある。そしてそのライヴに響を誘ったのは誰あろう、未来自身だ。
 だから、誰が響を殺したのかと考えれば、結局は自分だと思うしかないが、それだけは未来は響の親友としてしてはならないと自分を強く戒めていた。もとより自分を憎むほど未来は愚劣ではない。
 ただ、結局響の死地に一度も立ち会えず、救うこともできなかった責念と後悔とがいやに強烈な響きをもって未来に自省をうながしてくる。
 未来は響が心配でならなかった。だが同時に自由に気持ちよく生きさせたいとも思っていた。だからほとんど飼い主が飼い犬を放し飼いにするように、可能なかぎり未来は響の好きにさせた。
 ――でも、こんなことになるのなら。
 考えまいとしても考えてしまう。羽交い締めにすればよかったのだろうか。どこにもいかないでとでもみっともなく泣いてすがって抱き締めれば、愛する彼女は自分のもとから去るようなことはなかったのだろうか。はなから答えの存在しない問いが、幾度も未来の胸の衝き、腹に落ち、そして消えていった。
 未来を陽だまりと喩えた響は、それこそ喩えるなら太陽そのもののような存在だった。あかるくかがやいていた。そのきらめきが消え失せた時、陽だまりも消えるべきなのだろうか。誰よりそのことを響は否定する。生きるのを諦めないで、と未来に言いつづける。だから未来は生きつづけなければいけない。
 素直で、単純で、そしてずるい子だと思った。おたがいさまかもしれないが、未来の無限の好意に甘えた響の生き方が、未来は今になってすこし腹立たしく感じられるようになった。響はまた自身も無限の愛でもって未来に接し、未来に寄りかかり、未来に甘えていたのだ。
 それなのに、ひとり先に死んでおいて未来に死ぬことをゆるさないのは、やはりずるい、と未来は思った。でもおたがいさまだ。立場が逆なら自分もやはり同じことを響にずるく要求したに違いない。自分も結局はずるい人間なのだ。わかりきったことで、わかりすぎていて、だからどうしようもなく未来はかなしかったし、さびしかった。
 未来はまたクリスの髪を撫でた。
 クリスがリディアンに転入して来てから、何日もしないうちに、未来はもう彼女が自分に向けてくる視線に、友人へのそれでない、一種の生臭みをともなった、ありていにいえば男が女を、女が男を見るような、そういう「色」が宿っていることに気づいてしまった。
 気づいて無視しつづけた。
 どれほど想われても、未来はとうていそれには応えられないし、かといってクリスからべつだんなにかしてくるわけでもなかったから、面と向かって断わることもできなかった。それも、やはり、自分の弱さだ。こんなにも自分は弱い女なのだ。未来はクリスに言ってやりたい。
 ブリーフィングルームの扉がひらかれた。
「あ、やっぱりここにいたデス。もうすぐ着陸だから気をつけてってマリアから伝言デス。そいでそのあとごはん」
 と切歌はおおざっぱな報告をした。今のところ陸沿いに飛行しているが、長時間の旅はナスターシャの体に障るので、今日はここで打ち切りというわけだった。
「まあ海に出ちゃうとノンストップ一直線デスけど」
 切歌はほおを掻いて、クリスを見下ろした。
「こいつ寝てばっかデスね。なのに胸しか育ってないデス」
 と言って、切歌はクリスの長い後ろ髪をつまみあげた。
「外人?」
「ハーフって言ってた」
 未来は答えた。
「ハハア、だからマリアと違って胸だけ育って背はちびっけつなんデスね。育ち方がハンパもんデス」
 はなはだ無礼な納得をして、切歌は髪を離した。
「起きてたら怒られるよ」
「返り討ちにしてやるデス」
 拳を突き上げて、けらけらと軽快にあかるく言う切歌の声には、どこかつねにさびしげな暗い陰翳があって、そこがなんとなく響に似ているような気がして、未来はこの陽気な誘拐犯に好意をいだきながら、同時に生理的な抑えがたい嫌悪感を覚えていた。その点でいえば口数のすくないおとなしい調のほうが、未来からするとまだいくらか付き合いやすかった。
 切歌はなにを思ったのか、未来のとなりの席に腰かけた。
 未来はかすかに顔を不快でゆがめた。
 切歌の持つ独特の影が濃くなっている。そのつど、彼女の姿は響のそれに重なってゆく。
「やるのデスか。ほんとうに」
「決めたからね」
「後悔しちゃってからじゃ遅いのに」
「後悔したくないからすぐ決めたの。迷うのはそのこと自体が間違った結果を生むだけだって、思い知らされたから」
「思い違いかもしれない」
 切歌はしつこい。
「それでも、いい」
「怒られるかもしれないよ」
「だれに?」
「あいつに」
「名前で言ってくれないとわからないわ。クリスのこと?」
 未来はすっとぼけた。
「立花響に」
 切歌は濁りのない声で言った。
「まさか」
 未来は鼻で笑った。喜怒哀楽のうち、もっとも響と縁のない感情だ。
「あたしなら、怒る」
 切歌は言った。その言葉は未来の心臓を真一文字に鋭く切った。
「あんたがなにやったって、それであたしたちの力になるなら、べつにいいけど――」
 切歌は一度言葉をとめて、
「でも、もしあたしが死んで、調がおんなじことやろうとしたら、ケチョンケチョンにして怒る」
 と言った切歌は、すでに妄想の中の調に対して猛然と怒っているようだった。
「響はあなたみたいに怒ったりしないわ」
「ふん」
 切歌は荒っぽい動作で席から立った。大きな音まで一緒に立てたせいで、クリスが目を覚ました。
「あ、やっべ」
 切歌は逃げるように、というより実際に走って逃げた。
「ああ、なんだ、あいつ。来てたのか」
 クリスは眠気の残る声で言って、ぱさりと肩からコートが落ちるのに気づくと、
「あ、ごめん」
 コートをつかんで、未来から体を離した。
「ホントに、ごめん……」
 また謝った。たぶんこちらは、泣き叫んで未来を罵倒したことへの謝罪だろう。
「気にしてないから」
 そう言うと、クリスはほっとしたような顔をしたが、そのあと、
「気にしてほしい」
 と、かなしげなまなざしを向けて言った。
 未来はその視線を横に流した。応えられないものはどうあったって応えられない。
「もうすぐ着陸だって」
「なんだ、まっすぐに海に行くんじゃないのか」
 想像とは違う進路をとっているらしいと知って、クリスは意外で目をみひらいた。
「クリス」
 未来は椅子叩いて着席をうながした。いつまでも床に足を寝かせて座っているのは、いかにも品がなくて女の子らしくない。
「うん」
 クリスはおとなしく未来の言うことにしたがった。
「あいつなにしに来てたんだ。へんなことされたり、言われたりしなかったか」
 クリスはあいかわらず未来を心配することばかりを言う。
「なにも。報告しに来てくれただけよ」
 と未来は言った。響の死後、クリスが未来に対してどうあろうとしているのか、未来にはなんとなくわかっている。自分が切歌に響の影を重ねていると知れば、彼女はさぞ傷つくだろうと思った。
「そっか」
 クリスは言って、目を服の袖でこすった。
「痒いの?」
「泣きすぎた。みっともねえ」
「掻くとよけい痒くなるから、やめたほうがいいと思うんだけど」
「でも痒いし」
 クリスは二度三度同じことをやってから、ようやく目をこするのをやめた。異常に我慢強いように見えて、みょうなところでこどもっぽい堪え性のないところがクリスにはある。
「喉渇いたなあ」
「降りたらごはんだって言ってたわ」
「そうか、じゃあいいや」
「飲み物ならそのへんにたくさんあるけど」
「いや、いいよ」
 こういう強情ばりなところも、やはりどこかこどもっぽい。
 たぶん、それが切歌の買ってきたものなのが、クリスの気に入らないのだろう。未来は思った。その後の食事も切歌と調が調達して来たものなのだが、それはクリスの中では数に入っていないのだろうか。
「さっきはホントにごめん」
「気にしてほしいんじゃないの? だったら謝らなきゃいいじゃない」
「うん、気にしてはほしいけど、でもやっぱりごめん」
 クリスは謝り詰めに謝った。
 未来は自分のほうがもうしわけない気持ちになってきた。
「もういいから」
 倦んだ気を隠さずはっきりとぶつけると、クリスはまた「ごめん」と言って、しかしようやく謝るのをやめた。
 未来はクリスの肩に頭を乗せた。
「あ、え、なに」
 クリスは驚きに驚いている。
「なに驚いてるのよ、肩貸してくれるって約束じゃない」
「そう、だけど、なんで……」
 なんで、突然、とクリスは言いたかったのかもしれない。そういえばこの約束をしてから、実際に肩を貸してもらうのは初めてになる。たしかにいまさらだ。いまさらのことを、未来は思い出したように突然やっている。それがクリスには驚いたらしかった。
 未来は目をつむった。クリスに膝を貸して寝かしつけていた代わりに、自分はクリスの肩を借りて眠ってやろうと思った。それからひとつ、とんでもなく酷い思いつきをして、そして実行することにした。
「ねえ、クリス」
「なんだ?」
「あなたのことを愛している、って言ったら、どうする――」
「―――」
 クリスからはなんの言葉も出なかった。喉の鳴る音がした。ちいさい悲鳴のようなものが、彼女の口の奥で何度もあがっているようだった。
 クリスの速まった心臓の音が、密着した箇所を通して、高く重く、静かに未来の耳の裏を打った。
 ――バカな子。
 未来は罵りたくなった。その「バカ」はクリスが口癖のように、あだ名のように呼んでいた響のことであったし、そう呼んでいた張本人であるクリスのことでもあったし、そしてまた未来自身のことでもあった。
 こんなバカな子に惚れるなんてしてしまって、ほんとうにバカなんだから、と未来はふたりをバカにした。あんなバカな子に惚れてしまうなんて、ほんとうにバカなんだから、と未来は自分をバカにした。
「クリス、愛しているわ。この世の誰よりも」
 未来はまた意地の悪いことを言った。
 それきりなにかを言うのがめんどうになって、いよいよ未来はこのまま眠りついてしまおうと決めて、ゆっくりと体の力を抜き、体重をクリスにかけていった。
 その時、
 ――未来!
 遠い遠い、どこかから、未来を怒る声が、はるか遠いどこかから聞こえてきた気がした。
 聞きおぼえのある声の主を誰何するより先に、未来は眠りに落ちた。

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聖女は狂った

 肩を貸す以外にもう一つ、未来とした約束が、クリスにはある。
 助けてと言われたら助ける、言わなくても助けてほしそうな顔をしていたら、これもまた助ける、それである。
 ただしクリスはこの約束は半ば果たされないものだと思っていた。もちろんクリスは未来を助けたいが、すくなくとも未来がクリスに対して助けてと頼むことも助けを求める顔を向けることも、こればっかりはないような気がしてならなかった。半ば、というのはそういうことである。
 夜、クリスはまるで寝つけなかった。
 昼間たっぷりと睡眠をとってしまったせいもあるのだろうが、未来からの唐突な愛情の告白に興奮したのがおおかたの原因である。
 嘘だろうとクリスは思う。未来はクリスのことを好いてくれているだろうが、あの愛の告白はどう考えても嘘に決まっている。それでもクリスの体は昂ぶったまま一向に鎮まらなかった。
(駄目だ、これはまるで駄目だ)
 起き上がったクリスは、いびきをかいて眠る切歌の体をまたいで、寝床から脱した。
 この組織の不用心なことに、夜中にヘリから外出できる。
 まったくあけっぴろげでいいかげんなテロリストたちである。クリスの知るかぎりではこの手の組織はどこまでも厳粛で細密で残酷なものだったはずだ。
 クリスは呆れながらもさいわいに思い、林間に押し込まれたヘリを出て、欠けた月の居座っている夜の空をあおいだ。
 雲はない。
 満天の星である。
 冷たい風が吹いている。コートは羽織っていないから寒いといったらない。だが、この冷気によってクリスは自分の火照りに火照った体をどうにかしたかった。そのためにコートを持ってこなかった。
 それにしても熱は下がるどころかぐんぐんと上昇しているようだった。
 クリスは服を一枚脱ぎたくなったが、我慢した。
 月を見ると思い出すことが、クリスには多い。逃げるように彼女は林の深いところを目指して歩き出した。
 枝葉が増えて空を覆ったため、さすがに完全に月光をまぬかれることはできなかったが、クリスの視界は徐々に悪くなっていった。クリスにはありがたいことだった。
 風に吹かれた林が夜にうるさく鳴いている。
 そのせいだろうか、クリスは自分の後をつける足音に気づかなかった。
 立ちどまって、てきとうな木を選んでそこに背をもたれさせた時、いきなり声をかけられた。
 とっさにクリスは自分の胸のペンダントを手でたぐりよせた。
「こんなところでなにしてるの?」
 そう言ってきたのは未来だった。
「なんだ、お前か」
「不用心ね」
「どいつのことを言ってるんだ?」
 クリスは言った。
「お前も夜風にあたりに来たのか。月光浴ならヘリの近くのほうがいいぞ」
「風のほうよ。月がまぶしくて仕方ないから、こっちのほうに来たら、クリスがいたものだから」
「ふうん」
 クリスは未来の言葉を疑わなかった。
 心臓がどくんどくんと高鳴ってそれどころではなかった。
 あたりが暗くて助かった。真っ赤に染まった顔に気づかれずにすむ。風も強いから心臓の音にも気づかれないだろう。
「寒いね」
 未来は言った。
「そうだな。でも、コートを貰っただろう。あれを着てくればよかったのに」
「コートを着ていたら風をあびられないじゃない」
「コートくらいじゃどうにもならないと思うけど」
「ふふ、そうね。そうかもしれないわ」
 未来は笑った。クリスが愛すべき愛しつづけている彼女の笑顔は夜にしずんで、よく見えなかった。クリスはこの時ばかりは、そうやって未来の笑顔が見えなくてよかったと安堵した。見てしまったら自分の気がどうなってしまうか、わかったものではなかった。
「でも、それを言うなら、クリスはどうしてコートを着てこなかったの」
「あたしは、熱かったから」
「暑い?」
 未来は手をひたいの近くにかざして、気温を確かめるようなしぐさをした。
「体が、熱くて」
「風邪ひいちゃった?」
「さあ、……」
 クリスは返答に困った。素直に言う必要はないだろうと思いつつ、
「いや、風邪じゃあないな。ただ、なんか熱かったんだ」
 と言った。
「そう」
 未来はそれ以上問い詰めなかった。
「クリス」
 未来は名前を呼んだ。透き通った冷たい声だとクリスには感じられた。
 いつのまにか風が落ちている。
 自分の心臓の音も静かになっていた。
「どうした?」
「助けて、って言ったら、助けてくれる?」
 未来は言った。この声は異常な高熱をもっているようにクリスは感じた。多少気圧されるかたちで、思わずクリスはのけぞり、木に背中をぶつけた。ひとつおおきく深呼吸してから、
「もちろんだ」
 と答えた。
「ありがとう」
 未来はそう言って笑ったようだった。
 クリスはここはどうしても聞いておかなければならないことがあった。
「なにをどう、助ければいい」
「私の味方でいてほしいの。私はクリスを裏切るかもしれないけど、クリスには私のことを裏切らないでほしい。私がなにをしても、クリスには味方でいてほしい」
 そう言うや未来はクリスに倒れかかってきた。それから押し上げるように体をぴたりとくっつけた。
 そんなことをされては、クリスの鼓動はまたしてもその速度を増していかなければならなかった。
「なにをする気なんだ」
 息苦しさを感じながら、クリスはせいいっぱいの声で言った。
「それは言えない。言ったらとめられるから言えない」
「そんなこと聞いたら、今からでもとめたくなる」
「駄目。クリス、お願いだから私のことを助けて」
「助けたいに決まってる!」
 クリスはもうほとんど叫んだ。
 未来の言っていることをクリスは理解したくなかった。
 未来はクリスに自分のことを助けてほしいと言った。味方でいてほしいと言った。クリスは当然そのつもりだし、言われるまでもなく未来を裏切るつもりなど全然ない。だが、未来はクリスを裏切るかもしれず、なにをしようとしているのかも教えられないという。その理由は言ったらとめられるから、ときている。
 納得できるはずがない。ああわかったと安請け合いできることではない。
 ひきさがらないのは未来も同じだった。
 突然、クリスのほおに両手をあてると、ひきよせて、くちづけた。
 クリスは驚いて未来をひきはがそうとした。ところが未来の力は思いの外強く、なかなかひきはがせない。ふたりの唇が密着したまま離れない。未来はクリスをつかむ手にいっそう力をこめた。
 長いことそうやってくちづけをつづけた。ようやくクリスの唇を解放した未来は、ふたたびクリスの胸に自分の顔をしずめた。まるでクリスの心臓の音を聞こうとしているようだった。
「私の全部、クリスにあげるから」
 未来は言った。
「クリスのほしいもので私の持っているものは、全部あげる。だから、なにも聞かないで助けて、私についてきて」
「バカなこと言うな。そんなの、聞き入れられるわけないだろ」
 クリスはふるえた声で言った。歯が噛み合わない。カチカチといやな音が口内でうるさく鳴る。ずるずるとその場に倒れ込みそうになる体を、クリスは背中を木に押しつけて必死でささえた。
「バカよ。だからバカなことしか言えない。でも、そのバカを好きになったのは、誰なの」
「お前、は……」
 クリスはいよいよで体の力の抜けるのをとめられなくなってきた。クリスが立っているのは、もはやクリス自身の力ではなく体を密着させて離れない未来の力によってだった。
「愛したのは誰なの? 私? クリス? それとも響?」
 クリスはめちゃくちゃに混乱した頭をどうにかおさめようと努力した。努力しながら、未来になにか言わなければならないと烈しく思った。なにも言わなければ自分は未来の言葉にしたがったことになってしまうと信じた。
「あたしは、お前のことが好きなんだ。頼むからそんなこと、言わないでくれ。お前が好きなのは響じゃないか。あいつのことを愛してるんじゃないか。あたしはお前のものなんてなにもいらない。いらないから、そんなこと言わないでくれ」
 熱はもうすっかり消え失せていた。ただ心臓だけが高く速く鳴っていた。
「愛してる。クリスのこと、私は愛してる」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
 クリスは初めて、未来の存在に妖気を感じた。妖艶で陰気なふんいきをいやおうなく感じとった。
 クリスの心を支配していた小日向未来のうつくしい像がガタガタと崩れていく。それはある種の神聖性と純粋性をもって、これまでクリスの心をずっと支配していたが、そのどちらもが、他ならぬ未来自身によって粉々に砕かれようとしている。跡形もなく崩れ去ろうとしている。
「泣き虫、いくじなし」
 未来の痛罵が下からあがってきた。クリスは自分が泣いていることに気づいた。昼間泣きに泣いて一滴の涙も残らないほど泣いたと思っていた涙が、ここでもまたとめどもなく垂れ流された。
「お前は、誰だ。誰なんだ」
 クリスは声をしぼりだして言った。クリスの愛したやさしいあたたかい陽だまりの少女は、今や小日向未来に化けた妖怪だとでも思わなければ、とても信じられない姿をさらしていた。
「知ってるくせに」
「知らない。あたしはお前なんか、知らない」
 クリスの涙がその自身の肉体から離れ落ちると、未来の髪をすこしずつ濡らしていった。
「わかった」
 低い冷たい声だった。あたたかくもやさしくもない声だった。
 未来はクリスから体を離すと、二歩、三歩と、後退した。
 ささえをうしなったクリスの体はあっけなく地面にずり落ちた。
「知らない人間となら、なんでもできるでしょう?」
「え――」
 クリスはゆらりと首を動かして、未来を見あげた。
 衣のこすれる音が聞こえてきた。
 未来がなにをしようとしているのか、なんとなくクリスにはわかってきた。さきほどの言葉の意味もわかってきた。未来はクリスのむごたらしい過去を痛烈に踏みにじったのだ。
 ――とりひき。
 そんな言葉が、クリスのうすらぼんやりとした脳に閃き、消えていった。
 はたしてクリスの目前に未来の裸体が出現した。
 月光のろくにとどかぬ深い林の中で、その裸体は独立したかがやきを放っていた。
 妖しく、艶やかで、陰気なかがやきだった。
 未来はまたクリスにくちづけた。
 クリスは自分の服のぬがされていくのを感じた。
 しかしながら、クリスはもう、未来のするなにものにも逆らわなかった。

 淫靡なふたつの影が夜の暗闇の中で重なりあっている。
 そこだけ地面がもりあがり、間断なくうごめいているようだった。
 土の上に衣一枚敷かれただけのそこに寝転ばされたクリスは、最初は歯を食いしばって声がもれないようにしたが、覆い被さっている未来が気に食わなさそうにしているのを見て、口をあけはなった。
 冷たい愛撫とも呼べない愛撫をうけていると自然と淫声がもれでた。
「作り声ね」
 そう言われた。あながち間違いではない。そうやって淫らに喘いで見せれば、相手は喜んで、それだけ事が早く終わることが圧倒的に多かった。体に染みついていまだに消えない学習だ。フィーネはクリスを抱かなかった。だからクリスは二年以上こういうことから遠ざかっていたのに、この体はなにも忘れていなかったらしい。
「へたくそ、め」
 めいっぱいの抵抗をこめて言ってやった。
「初めてなんだもの、仕方ないじゃない」
 苛立ったようすの未来は、クリスの乳房をおもいきり握り潰した。
 クリスは苦痛に顔をゆがめた。のけぞり、のどが鳴った。
 未来は意に介さず、そうやって強く握ったまま、乳頭をやわく咥えて、吸い上げた。
 きっとこれが、未来が響にしてみたかったことなのだろう。あるいは響にされてみたかったことなのだろう。クリスはそう思った。
 クリスはこの現実がいまだに信じられないでいる。
 小日向未来はいつだって清潔な香りをもっていた。その顔も、声も、言葉も、全部があたたかみとゆたかさと、それからなによりやさしさをもっていた。クリスにとってはそのはずだった、それがてんで違うものに豹変してしまっている。
「また泣いてる」
 上体を浮かせた未来が、クリスの顔をのぞきこんで、そう言った。
 クリスは目のあたりを腕でおおいかくした。
「水が、かってに流れてるだけだ」
「なにそれ」
 未来は笑った。それきり興味がうせたらしく、またクリスの首から下、腰あたりまでを、なめたり、吸ったり、あるいは本当に時々、くすぐったいくらい弱い手で撫でた。
「思ってたほどたのしくないのね、これ」
 むりやり抱いているくせに、文句を言ってくる。
「もっと下にいけば、おもしろいものがみられる」
「そうかしら。きもちわるいもの、の間違いじゃないの」
 いちいち音吐に棘を混ぜる。やはりこれは未来ではないような気がした。では、誰だというのだろう。未来でない者に抵抗もせずに抱かれているおのれは、救いようがないのではないかとクリスは思った。
 そのうちクリスの上半身に飽きたのか、未来は腰より下に移動してきた。
「おふろで、自分のとかは見たことあるけど、……」
 粘性のある息を吐いて、未来は片目を閉じた。もう片方の目も今にも閉じんばかりにゆがめ、ほそめた。
「グロ……」
「わるかったな」
 未来はちょっとのあいだ思案していたが、やがて、
「んー、目、つむりながらやってもいい?」
 クリスの答えを聞き入れる気などまるでないことを訊いてから、無造作に指を突っ込んだ。
「うあッ、あ、ああッ――」
 久しくなかった痛みにクリスは絶叫した。
「はっ――」
 未来はやはり無造作に指をうごかして、内部をひっかきまわしながら、また笑った。
「ははは、これ、クリスの声よね? ――うん、クリスの声にしか聞こえない。どう聞いてもクリスの声だ。……」
 そう言った未来は、突如けたたましい笑声をはなった。
 ――狂人め!
 クリスは心の中で叫んで、口からは悲鳴を吐き出しつづけた。
 未来の笑声もとまらない。
 狂ったふたつの声がまざりあって、夜の空気にぶちまかれていった。

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愛と名づけ得るもの

 未来は鳥のさえずる声で目を覚ました。
 まぶたが異様に重く感じられ、なかなかひらかれなかった。
 ひらいた時、強烈な光が目にとびこんできて、結局またとじ、何度かまばたきをしたあと、未来はようやく身を起こして覚醒した。
 体のあちこちが痛い。
 それはそうだろう、地面の上に直接寝ころがって野宿したのだから。すでに完全に眠り落ちていたクリスにてまどりながら服を着せると、自分も着直して、やっぱりコートを持ってくればよかったと、あまりの寒さの中でそんな後悔をしながら眠りについたのが、生まれて初めての情事の、その事後のことだった。
 眠りつく直前には疲れきった重い体をひきずってでもヘリに戻ればよかった、という考えでいっぱいになったが、それを実行に移せない程度に体も脳も疲弊していた。
 どうにも関節がおさまらない感じがして、未来は首を腕をまわして調子をととのえた。
 見下ろすと、クリスはまだ眠っていた。目のまわりに涙のこびりついた跡がある。唇のまわりには唾液の跡がある。
 泣いて、痛がって、苦しげに叫ぶだけで、全然気持ちよさそうではなかった。未来も未来でこれがまるでたのしくもなければ、気持ちよくもなかった。
 こんなものが、響に求めて求められなかった熱情と憧れの正体なのかと思うと、未来の胸裡には、やはり後悔と、それからかすかな罪悪感に、あとはおびただしい失望があるだけだった。
 未来は盛大に嘆息した。
 その息が落ちきる前に、クリスが寝返りをうって、未来に背を見せるかっこうになった。
 幼い横顔が未来の目に映った。髪のすきまから、かたちのよい耳がのぞかれた。未来は急に、その耳がむしょうに愛おしく恋しく思われてきて、指でそっとなぞった。やわらかい感触が指にかよってきた。
 くすぐったげに、まつげがすこしうごいた。起きるけはいはない。
 未来はクリスを起こすのはしないことにして、彼女が起きだすのを待つことにした。
 膝を掻き抱いて、身を縮ませる。夜も寒かったが朝も寒い。
 となりで眠りつづけるクリスに、わるいことをした、とは、未来はなるたけ思わないようにした。そうでなければ、自分の企みはとても遂げられないと思った。
 最初は拒否しても結局は受け入れてしまうクリスの自分への恋心に、はっきり言えば未来はつけこみ、利用しようとした。クリスに謝る気はないが、傾城の悪女にでもなった気分があって、これで響にどう顔向けしたものか、そう思うと未来の口もとに苦い笑いがのぼってきた。
「怒られるかもしれないよ」
 切歌の言葉が、まるで切歌本人が目の前に立っていて言ってるかのように、たしかな声量でもって聞こえた。
 響が私のことを怒るわけないと一笑に付したくなる一方で、切歌の言うとおりに猛然と未来を怒る響の姿が、ぼんやりとした輪郭をともなって未来の頭の中に浮かんできた。
 未来は体を動かして、あたりを見渡した。花の一輪でもないかと思った。花占いでもして、怒るか、怒らないか、占おうと思いついたのである。しかし花は見つからなかった。
 こどもみたいなことをしたくなった自分がばらかしくなった未来は、また体を縮ませた。
 唐突に胸に走った言葉があったので、ためしに呟いてみた。
「愛してる」
 口から出してみて、その言葉のそらぞらしさにゾッとした。虫唾が走った、とも言えた。おそらくは響には一度も言ったことのない言葉で、昨日クリスに何度となく言った言葉だ。気づいた瞬間、未来はおそれおののいた。
 響を愛していることなんて、わざわざ口にするまでもない当然のことだ。未来だけでなく響のほうもそう思っていた。だから、言う必要なんてなかった。未来も響に愛しているなどと言われたことはない。それだけのことのはずなのに、響が生きているうちに一度として伝えられていなかった事実に、未来は恐怖した。
 それほどの言葉を、響にはまったく言わなかったそれを、なんの愛情もこもらない声でたやすくクリスに言いはなったことにも、未来は同じように恐怖した。
 未来は自分の肉体からまったく血の気が引いていくのを感じた。
 周りの木も土も草も鳥も虫も、その全部の色が消えて、命は残らず死んだように見えた。自分だけがこの天地のはざまに生きていると思った。孤独の恐怖が未来を襲った。
 恐慌めいた未来はそこから逃げだそうとして、まだ生きているかもしれない、まだ眠ったままのクリスの体をあおむけにして、顔に耳を近づけて、その呼吸のあるなしを確認した。
 ちいさな息が未来の耳にかかった。
(生きてる)
 未来は心の底から安堵した。
 途端に、滂沱と涙が流れた。これは安心したせいではなくて、かなしくて泣いているのだった。生きているのはクリスだ。呼吸をしているのはクリスだ。今未来の耳にかかったそのちいさな息はクリスのものだ。それがかなしかった。クリスは所詮雪音クリスでしかないということが、この時の未来を残酷に冷徹にうちのめした。
「み、く――」
 突然、名を呼ばれた。
 未来はハッとして顔をあげた。
 もちろん響はそこにはいない。響が未来の名を呼ぶはずがない。
 幻聴かと思った。
 だが、そうではなかった。
 未来の名はたしかに呼ばれたのだ。
 未来は視線を落とした。
 あいかわらず眠っているクリスがいる。
(寝言……なの?)
 すこし体をゆすってみたが反応はない。狸寝入りでもなさそうで、やはり寝言でこちらの名を言ったのだろうか。
 クリスは人の名を呼ばない。唯一フィーネだけをその名で呼んでいた。響のことを「バカ」と呼び、弦十郎を「オッサン」と呼び、それ以外はだいたい「お前」か「あんた」で一緒くたにされていた。未来のことも「お前」と呼んでいた。
 響の死後しばらくして、響の名を言うようになった。未来が響と言うたびに、クリスも響と言った。まるでその名が現世から消えてしまうのを拒むかのように、手にしっかりつかんで離さんとしているかのように。それは彼女なりの未来への愛情表現かもしれなかったし、単純に響への友情かもしれなかった。
 クリスは今なにかの夢を見ているのだろうか。未来は想像した。クリスの夢に未来が出ていて、クリスはそこでは未来の名を呼んでいるのだろうか。あるいはふだん未来のいないところで、ひとり恋慕している女の名を愛おしげに呟いているのだろうか。本人に向かっては、けして言えぬその名を。
 未来の唇がふるえだした。そのふるえをとめるために、未来は下唇を噛んだ。ふるえはとまらない。かすかな痛みが生じたが未来はかまわなかった。唇はやがていびつに笑いのかたちをつくりはじめた。
「趣味、わるいなあ、本当に……。私のことなんか、好きになっちゃって……」
 未来は弱々しく笑った。その笑声には嘲りがあった。自嘲である。
 昨夜とは逆に今度は未来の涙がその体を離れて、クリスのほうへと落ちていった。クリスの顔に未来の涙が落ちて、流れ、地に沈んでいった。
 そのためだろうか、未来は夢に落ちるクリスが泣いていることに気づかなかった。もしクリスの目尻に浮かぶ涙を見ても、たぶん自分のものが落ちたせいだと思っただろう。
 やがて未来の心身は誰に対するのかわからない、怒りとも哀しみともつかない、あるいは憎しみのような感情で染まりはじめた。それらは一度体を染めぬくと今度は未来の腹のあたりに集束してとぐろを巻き、未来の喉を通過して外界に放出された。
 未来は嗚咽がとまらなくなった。
 ずいぶんと久しぶりに声を出して泣いた。
 さすがに、この時点で、クリスの目は覚めた。
 未来とクリスは互いにぎょっとした。未来はクリスが起きたのに驚いて、クリスは未来が泣いているのに驚いたのだった。
 クリスは慌てて起き上がり、後ずさって未来から離れ、背を向けてしまった。涙を見せまいとしたのか、涙を見るまいとしたのか、クリスはたくさんに濡れた顔を服で拭った。
「寝言」
 未来は言った。
「寝言で、私の名前呼んでいたわ」
「あっ、わっ――」
 クリスの肩がびくりと上下した。ほんのすこし首をまわして、未来のほうをのぞきこんで、目が合うと、また首をひっこめた。
「直接呼んでくれたらいいのに」
 クリスは無言でゆるゆると首を振った。
 あぐらをかいて、背を丸めているクリスが今どんな顔をしているのか、未来にはわからない。照れて赤くなっているかもしれないし、昨晩のことを思い出すか、寝言を聞かれたことについて、未来に怯えて青ざめているかもしれない。
 かぎりないほどにクリスの背中は未来の目にちいさく見えた。さきほどクリスの耳を見た時と同じような、やはり愛おしく恋しい気持ちが湧いてきた。それはクリスのちいさな背中に対してのみ湧いた感情で、クリスそのものにではないという自覚が未来にはあった。とにかく未来は、クリスのその背中を抱き締めてやりたくなって仕方がなかった。
 未来はクリスに近づき、背中から抱き締めた。
 毎度のことながらクリスの鼓動はまたたくまで高鳴り、体温は上昇した。
「愛してる」
 未来はまた心にもないことを簡単に口にした。どういうことか、クリスに対してはこの言葉がなめらかに口から出る。心にもないことだから、ためらいもなく言えるのだと未来は思った。
「嘘つくな」
「本当よ。この世の誰より、クリスのことを愛しているわ」
 未来は腕に力をこめた。
 クリスのかたちのよい耳にぴたりと唇をつけ、ささやくように、「愛している」と言った。
「離してくれ」
「離してみたら?」
「お前、本当は性格わるかったんだな」
 声がふるえている。彼女はまた泣いているらしかった。泣き虫クリス、と心の中でだけ、そう呟いた。
「品行方正の優等生って評判なんだけど」
「なんだそりゃ、学校の先生からのか」
「うん」
「そとづらはいいんだな」
「まんまと騙されたわね、クリス」
「違うよ」
 そこだけは、ふるえのない声で言った。
 ひとたび恋などというものに陥ってしまえば、どんな勇敢な戦士も形無しになると未来は思った。命懸けでノイズと戦っている彼女の、酷く臆病者の顔を、未来はそのちいさな体から感じた。
「そろそろ、戻らない、と、……」
 クリスは未来を振り払って立ち上がった。きしむ体をぎこちなく動かして、さあ行こう、と言った。
 未来も立った。
 クリスは背を向けたままこちらを見ずに歩きだした。
「クリスー」
 名前を呼んでみる。
「なんだよ」
「ちょっとこっち向いて」
「………」
 クリスは答えない。
 横に並んでのぞきこもうとしたら、おもいきり首を反対方向に回され、歩行速度を上げられた。
「クリス」
「なんだ」
「名前呼んで」
「それは、できない」
 しない、とも、いやだ、ともクリスは言わなかった。できない、と言ったその底意にあるものとは、なんだろうか。未来には量りかねた。ただ恥ずかしがって呼べないわけではない、それは確実であるように思われた。できない、と言ったその裏にはもっとうしろ暗い感情があるのだと推測された。
 朝の冷気の爽やかな林の中をふたりは歩いてゆく。
 けっこうな時間を食っている。
「思ってたより、ヘリから離れちゃってたね」
「そうかな」
 クリスの感覚ではそうでもないようだった。
「ねえクリス」
「なんだよ」
「愛してる」
 クリスの足がとまった。
 未来の足はクリスを追い越した。振り返って、正面に向かい合う。
 クリスはうつむいている。
 表情はよく読みとれない。
「嘘を言うな」
「嘘じゃないわ。クリスは私のことを信じてくれないの?」
 未来はそうやって姑息な言い方をした。
「信じたいけど、それだけは信じられないし、信じちゃいけないと思う」
 ぼそりと地に落とされようとした言葉を未来は拾いあげて、
「どうして?」
「だって、お前は、あいつのこと好きだから、……」
「そうね」
 未来はそれは否定しなかった。
「でも、愛しているから。だから、私の全部はクリスにあげる。私の命も体も全部。クリス、あのね、だから――」
 クリスの顔があがった。泣きはらしたはれぼったい顔があった。
「私のこと守って」
 クリスは押し黙った。視線を逸らしたくてたまらないといった表情をしながら、それでもまっすぐに未来を見つめることをやめなかった。
「守りたい」
 クリスはうなるように想いを吐き出した。
「うん。お願い」
 今度は未来がクリスに背を向けて、歩きだした。
 クリスは黙ってついてきた。
 どうせ、最初はいやがっても、この子は最終的には逆らわないと、未来にはわかっている。そういう子なのだとわかっている。なぜならクリスは未来に恋をしているからだ。だから、必死になって守るだろう。未来のやろうとしていることをとめもせず、ただ守るだろう。
 それを思うと響が未来に向けてきた無限の愛情は、けして恋に分類されるものではなかったのだろうと、未来は今になってその感情の正体を見極めたような気がした。
 未来は響の快晴のような澄みきった笑顔が懐かしくなった。
 自分は目的を遂げる遂げないに関わらず、死を得ることがあるのだろうか。そうはさせまいと、クリスはその死を掠め取っておのれの死とするだろうか。
 今後ろを歩いている少女の名が、立花響、だったとしたら、どんな言葉のやりとりをしていただろうか、そんな妄想をしようとして、未来は自分の未練がましさを笑った。響が生きていれば、そもそもこんな時間にこんなところを歩いてなどいないのに。
「愛してる」
 未来は誰にともなく言った。その声はクリスにはとどかなかった。
 できることなら響に会って、直接そう伝えたいと思った。
 そのためには死ななければならないが、それはできないから、未来は他の方法をさがす必要がある。死ぬ気で生きてさがしつづければ、いつかはその方法を見つけられるだろうか?
「愛してる!」
 未来は叫んだ。
 それに反応したわけではあるまいが、にわかに風が起こって、葉がざわめいた。クリスの反応は未来にはわからない、見えない。
「クリスのこと、愛してるから、この世の誰よりも」
 未来はまた言った。
 その声に今までと違う温度があったことに気づいたのだろうか、クリスはそれを嘘だとは断じなかった。
「あの世とこの世の総合ランキングだと、あたしは何番目なんだ」
 そんな軽口が未来の背に聞こえてきた。
「二番目かな」
「ちぇ、だろうと思った!」
 クリスの声には軽快さがある。
 恋をするとどんな勇敢な戦士も形無しになると、未来はまた思った。
 未来の声が明るいものだから、彼女の気持ちも明るくなったのだろう。性格の単純さは、案外響といい勝負なのかもしれない。
 未来はようやく本気で、雪音クリスという少女のことを、その全身と心とを愛おしく恋しく思いはじめた。
 だから未来は心の中で、クリスに謝罪した。ごめんなさい、と唇でそのかたちをつくって、言葉は胸におしとどめた。
 きっと彼女はまた未来のために泣くことになるだろう。
 そうしてその泣き顔を見ても、その時自分はどうすることもできないだろうと、未来にはわかっていた。
 ヘリに戻れば朝食が準備されているだろう。
 それがすんだあと、未来はすでに一度ウェルにいざなわれてその目で見た、あの透明な巨大な、そして緑色の液体で満たされたカプセルのようなものの中に入る。
 為すべきことは決まっている。だが、それを為す時に自分がどうなっているのか、未来にはとんと見当がつかなかった。
 ――怒られるかもしれないよ。
 切歌の真剣な声がまた聞こえてきた。
 怒らせておけばいい、と未来はその幻の声に言った。
 ――こいつまた泣いちゃうよ。
 言われたおぼえのない切歌の声が聞こえてきた。
 泣かせておけばいい、と未来はまたその幻の声に言った。
 ――なにせ私は、性格のわるい女なのだから。
 自嘲するように笑った声は、風にはこばれて誰のもとにも、未来のもとにもとどかなかった。

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断固たる想い

「――まあなんて言ったらいいんデスかねー、やっぱ人間みんな生きたい生き方っていうのがあって、いろんな生き方があって、でもいろんなシガラミとか弊害とかあって望んだ生き方なんてそうできなくって、そういう制限の中で自分なりにいちばん納得できる生き方ができればなあってささやかながらも求めながら、でもなかなかそういうわけにもいかないし、世の中そんなにうまくいかないもんデスから、望まない生き方を強制されたり強制されなくても結局自分でその生き方を選んじゃったり、それが自分のためでなくても他人のためになるなら、まあいっかなって人の好いこと思えるヤツもいればいないヤツもいたりで、まあホント、いろいろあるわけだから、まあなんデスか――」
 切歌は一気にそう喋り詰めると一度言葉を切って、
「気にすんなデス」
 ぽんとクリスの肩を叩いた。
「てめえそれ慰めてるつもりなのか」
「そりゃロンモチ」
 くぐもったクリスの声に切歌はあっけらかんとして答えた。
 円筒型のガラス張の大きなカプセルの前で、クリスは膝を抱えて顔を埋め、切歌は足をなげだしてそれぞれに座っていた。
 ぶきみな緑色のリンカー液はすでに抜かれていて、中はからっぽである。
 先刻までそこに未来が入っていた、そのことをクリスが知った時には、もう全部の準備が終わっていた。企みを教えればとめられるから、と未来はなにも教えてくれなかった。実際そのとおりのことを彼女はした。あらかじめ知ればクリスはかならず未来をとめていただろう。首の爆弾のことなど忘却しきって、未来を抱えて「フィーネ」を脱出しようとしただろう。
「なっさけねーデスなー。とっとと泣きやめるデスよ仕事はこれからなんデスよ?」
「泣いてねえしデスデスうっせえ」
「ひとのチャームポイントをそうやって無遠慮に叩くのは無礼千万」
 切歌はクリスの頭を小突いた。
 それから声にも目にも真剣みを増して、
「彼女が自分の意志で決めた生き方デス。それをそんな、きっと肯定してほしかっただろう相手がデスね、ケチケチウジウジ文句つけんなデス」
「文句なんかつけてねえよ」
「でも納得してない。全然サッパリちぃっとも。あーなんで相談してくれなかったんだーあたしはそんなに信用できないのかー……とかなんとか思ってるんでしょ? あ、これやっぱ文句だ」
 そう言われるとクリスはなにも言い返せなかった。いっそう深く膝にうずくまった。
 鼻をすする音がした。
「やっぱ泣いてるじゃん」
 と切歌に言われたが、やはり言い返せなかった。
「んんーっ」
 切歌はのびをした。「肩凝ったァ」と言って腕をぐるぐる回した、その腕がクリスの頭に何度も当たった。わざとなのはわかりきっているが、クリスはじっとうずくまったまま黙っていた。
「うう、手ぇイタい……」
 切歌は手を撫でさすった。
「海出てフロンティア浮上させるの二回目だから、もう目をつけられてるかもしれないデス」
「そうだな」
「米軍が横入りしてきそうだけど、あの、あれ、トッキブツ? ツーウィング? なんとかなりつばなりも出てくるかも」
「特異災害対策機動部二課・元ツヴァイウィング・風鳴翼」
「そうそうそれそれ。あいつ強いデスよね」
「めちゃくちゃ強いぞ」
「……がんばんないとね」
 最後のだけは切歌はぼそりとちいさな声で言った。このやりとりのあいだクリスは一度も顔を上げなかった。すでに完全な鼻声だった。
「ああもう!」
 切歌は頭をわしゃわしゃを掻いた。
「テンション低い!」
 ガンガンと床を叩く。
「今すぐにでも戦闘態勢にはいんなきゃいけないかもなんデスよ? コンディショングリーンでいかないと! お前レッドすぎ赤すぎ!」
 ふっと息を吐いて、
「それに引き替え緑はいいもんデス。植物の色デス。命の色デス。目にも心にも優しい自然の色ォー」
 自分のパーソナルカラーを褒めちぎった。
「あたしは赤のほうが好きだ。命の色だから」
 クリスは言い返した。
「さいでっか……」
 命の色はひとつではないということである。
「なー、雪音イチイバルー」
「クリス」
「くーちゃん」
「安藤かお前は」
「だれそれ」
「変なあだ名つけるのが好きな知り合い。友達の友達」
「へえホントにくーちゃんなんだ」
「ユッキーってつけられた」
「苗字! ノーマーク!」
 切歌はおおげさに驚いてみせた。
 クリスはようやく顔をあげた。
「うわひっでえ顔」
「うるせえ」
 ぼかすか殴られた仕返しに、軽く頭を小突き返してやった。やはりおおげさに切歌は痛がってみせた。
 ヒナ、とクリスは心の中で言ってみた。
 未来と響が所属する友人グループのリーダー格である安藤が、未来につけたあだ名がそれだった。ふしぎにあたたかい感覚のある、かわいらしくて似合いのあだ名だと、クリスはわりあいに気に入っていた。ヒナ自体はそこまで珍しい名ではないだろうが、それをコヒナタという苗字から抽出するあたりに安藤の独特のセンスがあった。
 当たり前だが、クリスは一度も未来のことをヒナなどと呼んだことはない。小日向とも未来とも呼んだことはなかった。……一回寝言で言ったのを聞かれてしまったが。
 名前を呼んでと言われた時に呼んでやればよかった。彼女の望むどおりにしてやればよかった。どうして自分は、こうも後悔するばかりの選択をしつづけるのだろうか。
「……がんばんないと」
 切歌がさきほど言った言葉をクリスも言った。
 守ってと言われた。味方でいてと言われた。お願いと言われた。だから、それを全力で、がんばってかなえてやらないと、とクリスは思った。もうそれ以外に自分が未来にしてやれることなどないような気がした。できることの少なさを嘆いていても、それこそ仕方がない。少なくてもあるのなら、
 ――断固そうしなければならない。
 クリスは膝を抱いている手に拳を握りしめた。
 目に宿った光を切歌はみのがさなかった。
「コンディションオール……オールレッド!」
「それ駄目なんじゃないのか」
「いやいやテンションマックスってことデスよ。熱く燃えたぎる炎の色デス」
 切歌はすっくと立って手を差し伸ばした。
 その手をつかんで、クリスはよろよろと立ち上がった。
 こいつは誰かに似ているな、と心の深いところにある感性が言った。それを表層に持ってくるより先に、警報が鳴った。
「来た――」
 ふたりは操舵室を目指して勢い駆けだした。
 海洋に姿を現したのは、はたして米軍艦隊だった。
 かなり離れた後方には二課の仮説本部の艦が航走していた。

「風鳴翼が来る」
 舵を取るマリアが重い声でそれだけを言った。それだけ言えば十分といった具合だった。米艦隊も二課の他の戦力も物の数に入れていないようだった。そしてそれは、おそらく正しいだろうとクリスには思われた。
「あの子はどこにいるんだ」
「いつものところに」
 と答えたのは調だった。いつものところとは、茶飲み場(ブリーフィングルーム)のことである。
「ってか、狭ッ」
 緊張感のない声は切歌のものだ。狭い操舵室に多人数が詰め込まれている。ただし、体と体のあいだにはそれなりに余裕はある。切歌の言い分は、やはりおおげさなものだ。
「あの子は出ないよな」
「出しませんよ。彼女はフロンティア浮上の鍵ですから、ただの人間相手に消耗するものではありません」
 とウェルが言った。
「なら、いい」
 クリスは納得した。人殺しはさせたくなかった。それをやらねば未来の企望を遂げられないというのであれば、自分がやればいいと思った。
「私が出ます」
「えっ――」
「ただの人間相手に消耗するものではないと言ったでしょう? それは――」
 ウェルはクリスの胸もとを指さして笑った。
 ――ソロモンの杖。
 クリスは思い出して唇を噛んだ。
 なるほどシンフォギア装者の出る幕などないだろう。生身の人間を蹴散らすだけならソロモンの杖からノイズを召喚すればそれで事足りることだ。懸念はそれを守るために出撃して来るに違いない風鳴翼ただひとりであり、したがってマリアの他を無視したような言い方は過不足のないものだった。
 唇を噛んだのはクリスだけではく、マリアもだった。それから切歌と調は表情を暗くしてうつむいた。それらの態度は彼女たちの弱さと人の好さと、もっといえば極めて常識的な感覚で、およそ世界を、また米国を相手取って戦う武装組織が所有してよい感覚ではなかったが、困ったことに「フィーネ」の戦闘員は三人が三人ともその常識の所有者だった。
 ノイズで人を殺すことに抵抗がある。だからウェルの取ろうとしている戦法には不満がある。しかし、自分の手を汚す度胸もまた、彼女らはまだ持っていなかったのだった。
 操舵室からウェルの姿が消えた。
 クリスの耳に彼の笑い声が聞こえたような気がした。
「後方艦船の接近がかなり速いわ」
 マリアは言った。それはつまり、風鳴翼の到着がもうまもなくであることを意味していた。米兵はそれで助かるはずだという、マリアの筋違いとも言える慰めなのかもしれないとクリスは思った。
「歌が聞こえたら出撃デス」
 切歌が言った。
 クリスはまた頭痛がしてきた。
 ――守れよ! そうしたいのならば断固そうしなくてはならない!
 スカイタワーで未来の身を託された時に言われた、その声が、言葉が、クリスの頭の中で途切れることなしに繰り返され、クリスの脳を強く烈しく揺さぶった。
「断固……」
 クリスは知らず声に出して言った。
「ダンコ?」
 切歌がいぶかしげにクリスのほうを見る。
「なんでもない」
「顔色悪いよ」
 調が心配そうに言った。
「頭が痛いんだ。まだ怪我が治ってないんだ」
 クリスはそう言って頭をおさえた。実際この頭痛は怪我のせいかもしれなかった。
「あのアイドルさんはあたしと調でチャチャっとやっつけて来るから、お前は茶でも飲んで休んでろデス」
「無理だろ、ふたりぽっちじゃ勝てないぞ。あの人には」
「さんにんぽっちなら勝てるわけでもないし? コンディションパープルのアシデマトイとかいらないデスし?」
 ずばりと言われてしまった。体調が万全で、三人がかりであっても、翼を相手に勝ち戦に持っていこうなど、はなはだに困難なことだった。
「加勢できそうなら、する」
「おうおう、任せろデスよ。調、出撃準備するデス」
「うん。……」
 切歌は調の手を引いて操舵室から出た。調はクリスになにか言いたそうな顔をしていたが、結局なにも言わずに出ていった。
 マリア、ナスターシャ、それにクリスが操舵室に残った。
「それ、自動操縦に切り替えるのはできないのか」
「ごめんなさい」
 クリスの質問にマリアはまた謝った。
 謝ってばかりだな、この偽のフィーネは、とクリスは思った。
 マリアは切歌と調をかわいがっているから、自分が出撃して翼と戦えるならとうに出ていたろう。そうしないのは、マリアが操縦桿を離せないからだろう。
 ただし、それが自動操縦に切り替えられないから、という理由なのかどうか、本当のところはクリスには不明だった。
 エアキャリアの設備をつかってマリアがしなければならぬ仕事が操縦以外にもあるかもしれないと思った。そういうマリアをかばうような想像をはたらかせるクリスは、マリアに対してほどほどの好意をもっていた。
 クリスはブリーフィングルームに向かった。
 頭痛のために休むためではなく、未来に会いにいくためである。

 未来はそこにいた。
 ブリーフィングルームは明かりをつけられておらず、黒い墨をぶちまけたように暗かった。クリスはあえて明かりをつけようとは思わなかった。
 暗闇の中に鎮座する未来のとなりに座った。
「調子はどう?」
 なにひとつも変わってないような、あいかわらずやさしくてやわらかい声で未来は言った。ただ温度が低いように思われた。あるいは高いようにも思われた。いつものあたたかさを、クリスはその声から感じることができなかった。
「頭痛がする」
「怪我のせい?」
「たぶん」
 クリスはあいまいに答えた。
「約束おぼえてるか?」
 クリスは未来に訊いた。
「うん」
 未来は答えた。
「ちゃんと守るからな」
「頼りにしてる」
「肩だって貸すし」
「クリスの肩を今? 頭が痛いんでしょう。こっちが膝を貸すわ」
「いらないよ」
 と言ったあと、クリスは自分の声の冷たさと突き放すような烈しさのある言葉に愕然とした。
「いや、うん。やっぱり貸してほしい」
 クリスは言い直した。
「へんなの」
 未来はほのかに笑った。
 その笑顔もやはりかつてとは違うものに見えた。この小日向未来を見て、はたして響は「陽だまり」と評しただろうか。クリスはそんなことを思って体を傾けた。ただし膝ではなく、肩にである。
「こっちがいい」
 甘えた声に未来はまた笑った。
「こどもみたい」
 そう言った。
「守るからな」
 クリスはまた言った。
「断固そうするから」
「ありがとう」
 この言葉の温度も未来のそれに聞こえなかった。
 頭痛がおさまらない。
 翼の言葉が脳をゆさぶってとまらない。
 ――痛みだけが、人の心を繋いで絆と結ぶ、世界の真実。
 今度はフィーネの言葉が蘇ってきた。フィーネと過ごした二年のあいだ、クリスはその言葉を信じていた。その言葉に縛られていたとも言える。フィーネのもとを離れてから、クリスはそれとは違う心の繋がり方と絆のかたちを知った。そのうちのひとつが、かつてのフィーネの言葉と同じ強さで、今クリスを縛りつけている。クリスはそう感じた。
 断固、断固、と翼の声がやまない。
 声がやがて歌に変化した時、クリスは発狂したくなるほどの烈しい頭痛に襲われた。
 クリスは立ち上がって喉と空気の裂けんばかりに叫んだ。
 未来はそれを見てもなにもしなかった。
 彼女を知る誰しもが愛したあたたかな陽だまりは、もうそこにはなかった。

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記憶を求めて

 晴天に鋭い雨が絶え間なく降りそそいでいる。
 太陽の光を乱反射して白くかがやく海の上を、それ以上に強烈な一筋の青い光が疾走している。
 天羽々斬が海上に点在する鉄の地を蹴って天を駆けた。
 人間の目ではまともに捉えられず、ただ艦船のシステムだけが機械的に捕捉した影をモニタに映し出した。
 糸を虚空に引きながら海上を駆け巡る剣刃の、そこだけが違う速度の時間が流れているかのように、その名を渾身にして細い風の音を鳴らしていった、そこには一閃されたノイズ群の炭化した痕跡だけがあった。
 風鳴翼がゆく――。
 頭の激痛にさいなむクリスは、まだそれを知らない。
 クリスは両手で体を抱きかかえ、うずくまって、床に額をこすりつけた。幾重も顰みをつくり、目を堅く閉じ、苦痛に耐えようとした。脂汗がにじむのがわかる。
 呻き声を発するたびに唇を伝う唾液が玉になって床に落ちた。
「クリス――」
 冷えた声と席を立つ音が聞こえた。
 だいじょうぶだ、そう言って立ち上がりたかったが、クリスの額は床に接着剤で貼り付けられみたいにびくとも離れなかった。体を抱えていた腕をほどいて床に手をつけて力を入れたが、やはり立てない。
 未来が傍らにしゃがみこんで、クリスの肩に手を置いた。
「立てる?」
 と未来は訊いてきた。立てる、とは言えないクリスは、呻き声ばかり吐き出す口から、かろうじて、
「た、つ」
 という二つの音を搾り出した。
 未来に上体を抱え起こされて、額はあっさりと床から離れた。未来の肩に頭を乗せさせられた。逃し場所をうしなったせいだろうか、痛みが増したようにクリスには感じられた。
 クリスはすぐに頭をずりさげて、未来の肩に額をすりつけた。歯を食いしばって声とも音ともつかない呻きをもらしながら、時々荒い息を吐いた。なにをどうすれば激痛がおさまるのかわからないが、これはと思いついたことは実行した。
「つかまって」
 未来に言われたので素直に腕にしがみつくと、ゆっくりとだが体を持ち上げられ、ようやくクリスは未来に体重の大半をあずけながらも、立つことができた。未来が腰を抱えていなければ、すぐにも膝が落ちていたことだろう。
「痛みはどう?」
「ちょっと、マシになってきた」
 クリスは事実とはまるで逆のことを言った。実際には痛みはますます激しくなっていた。が、口に出してそう言ってみるとふしぎに本当に痛みがすこしやわらいできたような気がした。あいかわらず頭痛の酷いことは酷いが、その頭の中はみょうにクリアーになって、言ってしまえば耐えられる種類の痛みに変じた。
 クリスは未来から体を離して、自力で立ってみせた。
「もうだいじょうぶだ。平気だ」
 とクリスは笑って言った。
「顔歪んでる、涙目、汗凄い、息荒い」
 安心させたくて笑顔をつくったつもりだったが、未来にはそう見えなかったらしい。
「でもだいじょうぶだから」
 言ってみて自分の言葉の説得力のなさにクリスは呆れた。これが響であればこうはならないだろうに、とクリスは思ったが、あるいは未来のほうも同じことを思っていたかもしれない。
(ああ、まただ。もうやめようって決めたのに)
 クリスはクリス自身でしかないのだ。自分にとっても未来にとってもそれ以外の何者にもなれない。響になれるはずもない。取って代わることも穴を埋めることもできない。わかりきっているのに、いまだに心のどこかに、どこかで響のかつていた席に座りたがっている自分と、響に対抗意識を抱く自分がいる。
(憑かれてんのかな)
 一瞬そんな考えがクリスの胸をよぎった。が、すぐに否定した。妄想だ。なにもかもクリスの妄想にすぎない。いもしない立花響の亡霊をかってに作り上げているだけなのだ。
 クリスは妄想を振り払おうと数度首を振って、まばたきをした。そうすると、またすこし痛みがやわらいだ気がした。
「本当に、もうだいじょうぶだ」
 今度はちゃんと言えたと思った。
「そう」
 いやにそっけない返事だった。
 それならもうかまわないだろうとでも言いたげに、未来はまた椅子に腰かけた。
 頭痛がそのまま胸にまで降りてきたような感覚があった。かなしいともさびしいとも言える感傷の痛みだった。
 初めてクリスの胸に未来と一緒にいたくないという気持ちが湧いてきた。昨夜むりやり抱かれている時にさえならなかった気持ちだった。
「あいつら助けてくるよ」
 とクリスは言った。
 未来はなんの反応もみせなかった。
 クリスはブリーフィングルームを出た。
 泣きたくなるのを必死で堪えて走った。

 雨は降りつづけている。
 切歌と調はすでに翼との交戦状態に入っている。
 米艦の甲板上で一、二合刃をぶつけては後退するといったことを繰り返していた。
 ふたりがかりでも押し切れない、どころの話ではない、誰の目にもあきらかに切歌と調は、翼に押されていた。
 エアキャリアから出撃したクリスは、直接切歌らの救援にはゆかず、ノイズの殲滅が完了していると思われるうちもっとも近くの僚艦に降り立ち、艦橋を登った。クリスの視界の範囲に兵の姿は見えない。想像したものに対してどういう感情を湧かすのが正解なのか、クリスにはわからなかった。
 ギアを展開した以上クリスの居場所はすでに翼に知られているだろうが、切歌と調の息がつづいているうちは、翼の意識が完全にこちらに向けられることはないはずだ、とクリスは意識的に楽観した。なにはともあれ、断続的に膠着状態が発生しているのはありがたい。
 痛みのおさまらない頭をフル回転させて、いかにすれば翼を倒せるのかとあれこれ考えるようなことを、クリスはしなかった。一発撃って当たればよし、当たらなければそれで終わる。翼相手に「戦う」という選択肢は不要だ。スナイプ以外の手段は端からクリスの頭にはない。当たっても効かない場合も終わる。ありったけの力を一発に込めて撃つほかない。
 また頭痛が酷くなってきた。
 痛みをまぎらわせようとしたのか、クリスは自然にちいさな声で歌を口ずさみはじめた。はるか昔の記憶のようで、実際はそうでもない、フィーネと暮らしていた頃、彼女が気まぐれに、ごくたまに歌っていた歌だ。だから歌詞もメロディもほとんどうろおぼえで、かなりの部分を即興でおぎなうことになった。
 歌いながら手の中になぜか一挺の古めかしいフリントロック式の赤と白に着色されたマスケット銃をかたちづくっていた。これもいつかのどこかの記憶を無意識に引っ張りだした結果かもしれない。
 そういえば後見人の弦十郎からは映画DVDをよく観させられたような気がする。クリスくんならこれがいいな、と勧められたのはガンアクション映画が大半であり、カンフー映画ばかり観ている響とはだいぶん趣が違った。あまりわかっていないが翼に勧めているのはたぶん剣戟映画だろう。
 映画と言えばだいたい邸のほうで観ていて、映画館に観に行ったのはほんの数回しかない。その数回はほとんど響と未来のふたりから誘われて行ったものであり、たまに翼もついてきた。ほとんどではないほうは、こどもむけの映画を両親と観に行ったかすかな想い出と、フィーネがなにを考えたのかショッピングモール内のちいさな映画館にクリスを連れていって一緒に観た、よくわからないスプラッタ映画のチープなCGの記憶があるだけだ。――もしかしたら、あれは櫻井了子の趣味だったのだろうか。クリスは弾込をしながら、共に暮らしていたにも関わらずまったく知らない存在のまま死んでいった日本人女性のことを考えた。
 クリスは首をひねった。どういうことか過去のことばかりに意識が飛ぶ。そのために自分がなぜここにいるのか忘れそうになる。それからまた、どういうわけか泣きたくもなってしまった、その涙をやはりどういうわけか我慢する気になれず、流すがままにさせた。
 その涙を指で切ってから、クリスはおもむろに銃を構えた。
 風鳴翼がその先にいる。
 構えてから何秒後に引き金を引いたのかはわからない。あるいは何分後だったかもしれない。銃声は弦十郎と一緒に観た映画のSEよりも重く低く聞こえた。
 青い影がゆらりと傾いて、甲板に伏した。
 切歌に通信を入れる。
〈やったデスか!?〉
「こっちでわかるわけないだろ、確認してくれ」
 言ってはまずいことを切歌が言ったような気がしてならない。不安と焦燥で胸がちりちりと焼け付くようだった。喉が渇いて仕方がない。頭痛がまたすこし、悪化した。季節は冬で、ここは海上なのに、やたらに体が熱い。
〈ちかづくのこわいなあ……〉
 言いながら切歌は翼に一歩また一歩と接近していった。
「首刈り鎌持ってるんだ、頼むぜ死神」
〈えーがの登場キャラみたいな大仰なセリフやめて不吉すぎるデス〉
「言えたクチかよ」
 噴き出す汗を拭って、クリスは言い返した。
 あっちも映画、こっちも映画。なんて暢気な会話をしているのだろう。ここは戦場のはずなのに。
 突然、首の通信機から切歌の名を叫ぶ調の声が聞こえた。
「――あ?」
 キンと甲高い金属音がした。
 次の瞬間、クリスの肉体が、その生命体としての存在感をうしない、ただの物体として、あっけなく艦橋から落下していった。
 空に赤と黒の飛沫が散っているのがおぼろげに見えた。それが自分の首から離脱してゆく血と枷の破片であることに、クリスが気づくことはなかった。
「雪音クリス、暁切歌、月読調、以上三名の身柄の確保をお願いします。こちらはひきつづきF.I.S.エアキャリアの捕獲および小日向未来の捜索に向かいます。――」
 ただひとり戦場に立つ翼は、風だけをそこに残して、悠然と次の行動に身を移していった。

 気がつくとクリスはどこかの家の庭に立っていた。
 すでに夜の帳が降りていて、ただ窓から溢れ出る光がクリスの周囲を照らしていた。
 家の中には家族らしき人たちがいる。若い男性と女性、それにちいさな女の子だ。黒い光沢のあるグランドピアノが置かれている。
 女性はピアノを弾いているようだった。男性はソファにゆったりと腰かけ、膝の上に女の子を乗せている。女の子は歌っているようだった。楽しそうに歌っている。両親と思しきふたりは、娘をいつくしむようなおだやかな笑みをたたえている。
 それが自分の家族だとわかった瞬間、窓に切り取られたその映像は消えた。
 窓枠の中でスライドショーのようなものが展開されていった。自宅での想い出のあとは、中南米を家族で渡り歩いている時の想い出が映し出された。窓に夥しい量の血がぶちまけられると、床のあたりにはふたつの無惨な死体が転がっていた。
 ゲリラ組織に拉致され、朝から夜まで毎日のように男連中に嬲られる、それが過ぎるとフィーネの邸宅が映った。はっきりとおぼえている。初めてフィーネに邸に連れてこられた日、与えられた部屋で、彼女の言ったあの言葉だ。音はないが唇の動きを追うだけでもフィーネがクリスになにを言っているのかわかった。そうだ、口癖のように彼女は言っていた。
(痛みだけが、――……)
 口に出してそれを言おうした時、クリスは猛烈な頭痛に襲われ、青い芝生の上に倒れ込んだ。両手で頭をおさえて痛みに耐えようとするが、どうしようもない酷い痛みに、クリスはさしたる抵抗もできずに意識を奪いとられた。
 目が覚めると天井があった。フィーネの邸とはあきらかに別物だとわかる、木目のみえる天井だ。
 ――ああ!
 クリスはやにわに体を起こした。この状況を知っている。はっきりと今でも思い出せる。
 傍らに座る制服の女の子が発する言葉も知っている。
「よかった。目が覚めたのね」
 小日向未来がそこにいた。
 着がえは上の体操着一枚で下半身が丸裸なのはおぼえている。あの時のようにクリスは布団から出たりはしなかった。
 それ以外はおおむね記憶どおりの展開をなぞった。
 やさしいんだね、そう言われた時に湧いた感情の正体は今もよくわからない。
 友達になりたい、そう言われた時に湧いた感情の正体も、やはりまだよくわかってない。
 きっと嬉しかったんだろうと当時を思い返してみても、それが正解かどうかは結局は不明なのだ。
 クリスと友達になりたい、と未来が初めて言ってくれた、クリスはなんら答えを返さずに、握ってくれた手をふりほどいて逃げ出した。それでも未来はクリスと友達になってくれた。
 あの時と同じことを、また未来は言った。
「もしもクリスがいいのなら、私はクリスと友達になりたい」
 そう言って、同じように手を握ってくれた。
 答え方はわかっているはずなのに、クリスはそれを口に出したくなかった。自分も友達になりたいとは言えなかった。それは今のクリスの本心とはかけ離れたものだった。
 目の前にいる未来はきっと夢か幻だ。本物ではない。
 それでもクリスの手に触れてくる彼女の手の感触は、かつてとなんら変わりなく、あたたかくやさしいものだった。
 その手を握りかえし、自分の体に引き寄せて、おもいきり抱き締めたいとクリスは思った。そうやってこの部屋から脱出して、どこか遠い、立花響もフィーネも、誰もいない世界に行って、ふたりきりで静かに暮らしたいと思った。
 クリスは未来を抱き留めた。
 未来は抵抗しなかった。驚きさえしなかった。まるでクリスがそうするのをわかっていたかのようだった。
「愛してる」
 クリスは言った。それには答えないで、未来はクリスの背に手をまわした。
「愛してほしい」
 クリスはまた言った。
「響よりも、誰よりも、あたしのことを」
「ごめんね」
 未来の返事は短くあっけなかった。
 クリスは笑いたくなった。笑いながら泣きたくなった。夢なのに、クリスの思い通りにいかない未来に、ああやっぱり強いんじゃないか、そう思った。
「覚めたくないなあ」
 未来を抱き締めたままクリスはぼやいた。
「起きないと駄目よ。まだ約束守ってもらってないじゃない」
「ごめんもうむりだ。あたしやられちゃったから」
 そう言うと、未来は、翼さん強いものね、と言って、
「負けて倒れたなら、起き上がってまた戦って」
「きびしいなあ……」
 クリスは泣いてしまった。泣きながら笑って、笑いながら泣いた。
「あたしにできることまだあるのか。あたしはまだ、……」
「まだ……なに?」
「未来のこと守れる?」
「クリスのがんばりしだいよ」
「やっぱりきびしい――」
 クリスはもはや笑うしかなかった。
「わかった、起きる。そんでがんばる」
 とクリスは言って、未来の体を離した。
「また泣いてる」
 未来に指摘された。
「泣いてるの見せるのはこれが初めてのはずだけどな」
 と、クリスはとぼけてみせた。
 未来はゆるく首を振った。
「ううん、初めて会った時から、クリスは泣いてたわ」
「もしかして寝てるあいだにか」
「さあ、ね」
 今度は未来がとぼけた。
 おだやかな笑声がふたりをつつみはじめた。
 夢がまもなく終わろうとしている。

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がらくたの恋

 誰かの声がクリスの耳の裏をたたいた。
 つつみこむようなやわらかな手つきで抱き起こされる感触があった。
 クリスは目を覚ました。
 首をめぐらして、あたりを見渡した。
 誰もいなかった。
 では、誰がクリスの体を起こしたのだろうか。
「いって――」
 首にかすかな痛みがあった。手でさぐってみると、どうやら包帯を巻かれているようだった。そういえば撃たれたのか、と気をうしなう前のことを思い出してみる。
 見覚えのあるようでないような景色がひろがっている。
(仮説本部か、ここ)
 空気がそう言っているように感じられた。討ち取ったかと思った翼にまんまとやられて、そのままとっつかまったようである。いや、元を辿れば「フィーネ」に捕らわれていたのだから、保護されたというべきなのだろうか。
「いやいやそれは都合がよすぎる」
 否定してから頭を掻いた。
「あ……」
 ふと視線を落とすと、忘れようのない鈍い銀色にかがやきがあった。
「ソロモンの、杖……」
 クリスは愕然とした。持ち手のところにメモ書きが挟まれている。引っこ抜いて読むと、
 ――万事、懸念無用。委細は司令室にて説明の事。なおイチイバルは私が預かっているので、返して欲しくば追って来い。不要なれば寝ていろ。風鳴翼
 と、いやに見事な筆路で書かれていた。エアキャリアを追跡していた翼がソロモンの杖を奪還し、一時帰投してしたためたものだった。
(あいつ、やりやあがった!)
 クリスは自分の情けなさを嘆くと同時に、翼のあまりの手際のよさに呆れた。
 ソロモンの杖はクリスが起動させたものだし、そういう因縁から奪還するのは自分に課せられたかならず果たすべき使命だと思っていた。だというのに、その使命が寝ているあいだに、クリスの感覚からするといとも簡単に消えてしまった。なんという人間がいたものか。
 クリスは次に猛烈に腹が立ってきた。ソロモンの杖については、ひとまず素直に頼りがいのある先輩に感謝すればよい。それはそれとしてイチイバルだ。武装解除は敗残者の義務である。取り上げられて当然だろう。が、この書き方はどうだろう、いかにもこちらを挑発しているようで、クリスには気に入らない。
(追って来いというなら追ってやる)
 クリスは気概を新たにしてベッドから飛び出た。
 病衣のまま、裸足で司令室に突入するや開口一番、
「オッサン、ハッチ開けてくれ!」
 と、叫んだ。が、そこに弦十郎はいなかった。
「あら、クリスちゃん、目が覚めたのね。傷の具合はどう?」
 と、友里が振り向いて訊いてきた。
「オッサンは?」
「司令なら緒川さんや他の職員たちと一緒に出てるよ。米兵の救助活動のためだね。ソロモン取り替えしたからって司令官が出ることないのに、まあ、あの司令だから」
 藤尭が呆れ気味に答えた。
「いないのか。まあいいや、ハッチ開けてくれ、あたしも出る」
「元気そうでなによりだけど、やんちゃ過ぎると傷に障るよ」
「ひとまず落ち着いてクリスちゃん。かなり、いやなことになってるから」
 友里にそう言われて、クリスは押し黙った。
 そろりと翼のメモをとりだして、
「これ、説明してくれるって書いてるけど……」
 と友里にメモをみせた。が、友里は詳しいことは説明せず、
「モニタを見て」
 とクリスにうながした。
 クリスは言われたとおり視線をそちらに向けた。
 モニタが映し出す光景がクリスの目に飛び込んできた。
「現在、天羽々斬が神獣鏡と交戦中だけれど、神獣鏡の装者は未来ちゃんとみて、まず間違いない」
 と藤尭が説明した。
 クリスの呼吸が一瞬とまった。
 たしかにそこには未来が映っていた。
 武器を手にして翼と戦っていた。
 空気が針のようにクリスの全身に突き刺さってくる。首の傷口に血が集まって沸騰しているかのように熱い。頭痛の次は首か。唾棄したくなったクリスは、かわりに生唾を呑み込んだ。ごくりと喉が鳴る。首の痛みがすこし強くなった。
 わかりきっていたことを目の当たりにすることで、ようやく腹に理解がとどいたといった感覚だった。ウェルは人間相手に消費するものではない、と言っていたが、戦力がごっそりと無くなって、おそらくはなんのためらいもなく残る未来を投下したのだろう。
(あの偽フィーネは、これでもまだ出られないのか)
 さすがにクリスは怒りたくなった。マリアが戦えばいい、マリアに戦わせればいいではないかと思った。
「……行ってくる。イチイバル受け取りに行くから準備しとけって通信入れといて」
 クリスはモニタから背を向けた。痛ましい未来の姿を長々と見ていたくなかった気持ちがはたらいたせいだが、これからその未来のもとへ行こうというのだから、ここで勇気のないことをしても意味がなかった。どのみちその目で見なくてはならないのだ。全身全霊で勇気を発揮しなければならない人生の切所がここだろう。
「むりはしないでね」
 友里が言うと、
「神獣鏡には聖遺物由来の力を分解する性質がある。気をつけて……と言われても困るだろうが、とにかく気をつけてほしい」
 と藤尭が言った。
 クリスを当然の味方として扱っている言葉だった。
 ――ごめんなさい。
 とは、クリスは言えなかった。

 息が切れるのがバカみたいに早い。
 クリスはカタパルトを全力で走った。
 こんなことなら未来の朝練に付き合っているのだった。早々に脱落した過去の自分が今になってうらめしい。
 朝の走り込みも、満月の夜突然未来が走り出した時も、クリスは全然ついていけなかった。まるでおのれの想いなど、どうあがいても未来にはとどかないのだとでも言いたげに、未来の足は速く、クリスは遅かった。その華奢な背はどこまでも遠かった。
 クリスは舷側から海に飛び込んだ。イチイバルもネフシュタンも無いのだから、海洋での移動手段などほかにあるはずもなかった。
 空に光がまたたいている。
 その光を目指してクリスは泳いだ。
 外海の波は内海とは比較にならないほど高く激しい。
 水が刺すように冷たい。
 背中と手首から肘にかけて激痛がはしる。いまさらになって負傷箇所が首だけでないことを知った。
 それでもクリスは懸命に泳いだ。
 波に押し戻されたり、海水飲み込んでしまって咳き込んだりしながら、すこしずつだが、確実に未来のもとに近づいていった。
「アイテッ!」
 いきなりひたいを襲う衝撃があった。
 なにかが水面に落ちる音がした。
 まさかと思いその方向を見ると、ネックレスらしきものが浮かんでいた。
 もうこちらを視認したらしい。どこまで手際のいいことだ、あの風鳴翼というのは――クリスは何度呆れたらいいのかわからなかった。
 イチイバルのある方へ泳いでいった。
「あんにゃろめ、沈んじまったらどうすんだよ」
 途中で大声で文句を言うと、口の中にまた海水が入ってきた。
 しおっからいそれを吐き出し、手を伸ばして、イチイバルをつかんだ。
 聖詠を唱える。
 派手に水柱をあげて、クリスは空へと躍り出した。
 ある米艦の甲板にふたりの戦う影を見つけた。
 いやなタイミングでまた頭痛がしてきた。
 いいかげんにおさまってくれ、とは思わなかった。代わりに、動け、動け、とクリスは自分に命令した。あるいはまた、とどけ、とどけ、とも命令した。そう絶えず自分に命令しておかないと、このがらくたみたいな体はなにもしてくれないような気がしてならなかった。
 にわかに頭の中が真っ白になったような感覚にクリスは陥った。
 目の前も白くなったように見えた。
 脳の深いところで、なにかが烈しくきらめいた。

 クリスの左肩から右脇腹までを、刃が深々と通過した。
 倒れそうになったクリスの体を後ろから未来が抱きささえた。
「良い娘ね、クリス」
 ヘッドギアに閉ざされた彼女の表情はあきらかではないが、口もとは笑っている。
 フィーネが言っているような気が、クリスはした。
 クリスは力の抜けてゆく両足で甲板を踏みしめて自力で立とうとした。自分の血で未来が汚れるのがいやだった。が、体が言うことを聞いてくれない。手足の――とくに指先の――感覚は凍えたように小刻みに痙攣して自由が利かなかった。
 翼が攻撃の動作をみせたので、未来はクリスの指にかろうじてひっかかっていたハンドガンをむりやり持ち直させ、構えさせた。
 糸のような細い光の弾道が放たれると同時に、翼は斜め後方に飛んで距離をとった。
 衝撃でクリスの肩がはねた。
 痛みのあまりにクリスは長い絶叫を吐き出した。
「雪……、音……」
 クリスは翼の戸惑う声をこの時初めて聞いた気がした。
 どうやらオペレータのふたりと同じように、翼もまた人の好い誤解をクリスと、おそらくは未来に対してもしているようだった。だが、残念なことにそうではない。べつにクリスは未来を人質にとられたために、やむを得なく「フィーネ」の味方して、翼を攻撃したのではなかった。――まったく、頭ぶち抜かれそうになったのにお人好しな受け取り方してくれたもんだな、とクリスは思った。
 未来にしても、結局は自分の意志でこうなったにすぎない。選び取った道筋にたまたま「洗脳」というものが付属していただけの話だ。それだって未来は承知の上でやったのだ。その「洗脳」に未来の意志の介在を認めず、武装もろとも解除させようと剣を振ったのが翼で、それを邪魔をしたのがクリスだった。
 結果がこの有り様だった。
 翼は戸惑い、クリスは半死半生で、未来は笑っている。
 クリスが自分をかばったことに喜色を唇にあらわしている。
「良い娘よ、クリス」
 ずり落ちそうになるクリスの体を抱き上げると、未来は艶やかな唇を、苦痛に呻くクリスの耳もとに近づけて、甘い声で言った。
 意識があいまいになっているせいなのかなんなのか、原因はわからない。未来の声がクリスにはフィーネの声に聞こえてならなかった。フィーネに「良い娘」などと褒められたことなど一度もないはずなのに、そうとしか思えなかった。
「守ってくれてありがとう。おつかれさま。ゆっくり休んでいて」
「未来……」
 まだなにもしていない、そう言おうとしたが、声が出ない。この声はかんじんな時にいつもなにも言えなくなる。
 イチイバルのギアが神獣鏡の力で解除されてゆく。
「やめろ」
 クリスはそう言ったつもりだったが、もはや獣の呻き声と変わらなかった。
 ――夢の中でお前は、自分を守れるかどうかはクリスのがんばりしだいだと言ってくれたじゃあないか。あたしはまだなにもがんばっていないのに、どうしてそんなことを言うんだ。どうしてそんなことをするんだ。
「やめてくれ」
 クリスは今度もまた声とも音とも言えないような呻きを発した。
 未来は当然のように無視した。
「クリス、愛しているわ、誰よりも――」
 その声はもう、未来のものにもフィーネのものにも聞こえなかった。
 未来の腕がクリスの体をささえることをやめた。
 解放された体はたやすく甲板の上に倒れた。
 クリスは立ち上がろうとした。けして意識を手放すまいとした。血と涙と呻き声を垂れ流す以外には、てんからびくりとも動かない体を必死で動かそうとした。
 固く閉じた瞼の裏で白い光が忙しく明滅を繰り返している。それが頭の激痛と連動している。
 さあ、目を開けろ、そして立ち上がれ。クリスは自分の心に叫んだ。このがらくたみたいな体は、それでもまだがらくたそのものにはなっていないはずだ。クリスはそう信じて自身に言って聞かせた。――さあ立て、立って未来を守れ!
 おたけびをあげて、クリスは膝を立て起き上がった。
 両目をむりやりにこじ開ける。
 ちょうどその時だった。
 強烈な光の柱が天から海を貫いた。
 その光に目も脳も焼き切られるように、クリスは短い絶叫のあと、ついに完全にその意識を途切れさせた。

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Communication & Rehabilitation

 真っ白い部屋だった。
 それ以外の色はほとんどないと言ってよい。
 その白い部屋の中をあざやかな色の髪が流れた。
 マリアは花を差した花瓶を棚の上に置いた。
「ごめんなさい。本当はもうすこし早くに来たかったのだけれど、いろいろと問題や手続きが多くて……、切歌と調も来たがっていたのに結局今回は私だけで……」
 マリアは言った。
「事前に連絡も入れられなくって、急に来てしまって、ごめんなさいね」
「いえ、おかまいなく」
 と未来は言った。不自由な生活をしているただなかだろうに、こうして時間を割いて見舞いに来てくれること自体が、ありがたい。
「ついさっきまでは元気に起きてたんですけど」
 と言って、未来はベッドで眠りこけているクリスのほおを指でつついた。
「そう」
 それだけを言って、マリアは静かにほほえんだ。ひとをいつくしむ以外にはなにも知らなさそうなやさしい表情だった。
 マリアは壁際の椅子を持ってきて、未来のとなりに腰かけた。
「フィーネを騙っていたことがあるの」
 マリアはちいさな声でぼそりぼそりと話しはじめた。
「けれど、私は本物のフィーネとして覚醒していたわけではないから、記憶や知識なんてまるでなくて」
「―――」
「この子に訊かれたわ、一緒に暮らしていた時のこと思い出せないか、って。私はそれには、すくなくとも彼女の望む答えはひとつも返せなかった」
「―――」
「もし本当にフィーネとして覚醒していたら、この子の望む答えを返せていたかもしれない。この子が求めていた愛情をそそげたかもしれない。そう思うともうしわけなくて――。あの時、この子が私を見ていた目、今でもはっきりとおぼえている」
 マリアは一つ息を吐いた。
「訊いてもいいかしら」
「なんですか」
「この子は親の愛情にめぐまれなかったのかしら。きっとこの子は私のことを母としてみたかったのだと思う。あるいは母として愛するつもりだったのかもしれない。そういうさびしそうな、甘えるような目をしていたわ。手を繋ぎたくて、でも手酷く振り払われたらどうしよう……そういう不安の目でもあった」
 とマリアは言った。未来の初めて知ったことだった。
 未来は話してよいのかどうか一瞬迷ったが、
「ご両親はこどもの頃に亡くなったそうです。それからしばらくしてフィーネさんに拾われて、一緒に暮らしていたって聞きました。前にフィーネさんが消える時にクリスはとても悲しんでいたから、クリスはフィーネさんのことを愛していたと思います」
 と言った。
「そう」
 マリアはまた短く言って、親指を目尻にあてた。
 それを横目で捉えた未来は、心の中でかすかに嘆息した。
 フィーネがはたしてクリスになんらかの愛情を向けていたのかどうか、未来は知らない。フィーネのことを、クリスは、――あたしを道具のように扱うばかりだった、と吐き捨てるように未来に言ったことがある。マリアは彼女の立場から可能な範囲で、部外者と言うべきクリスと未来にそれとなく愛情をそそいでくれた。未来はそう感じているが、その人格がそっくりフィーネに入れ替わったらどうなっていただろう。あまり明るい想像はできない、というのが正直な気持ちだった。
 それでもフィーネと再会できたとしたら、クリスはやはり喜んだのだろうか。その死を悲しんで泣いたように、その生まれを喜び泣いたのだろうか。だが、フィーネの誕生はマリアの精神的な死と繋がっている。それを脇に置いてはしゃぐクリスの姿もなにか想像しづらい。
 結局のところ、クリスのことを、未来はろくにわからないし知らないままなのだ。そしてろくにわかろうとも知ろうともしていない。
 クリスの過去は本人の口から、おおざっぱにだが聞いたことがある。不器用に縫合された傷痕を強引に破って踏みにじった、あの夜の一方的な交わりを悔やむ気はないが、もう一度同じことをする気にもなれない。
 そこは閉ざされた深い暗闇だ。その暗闇は響のそれとは違い、未来の知らない、かつて共有したことのないものだ。暗闇の最奥で泣き崩れている影が、未来の手が差し伸ばされることを求めているとはかぎらない。クリスは響ではないし、クリスにとっての未来もまた、響にとっての未来とは、大いに違うものだ。
 あれもこれも、クリスに直接問い詰めればあっさりと全部を吐き出してくれるかもしれないが、そうする気持ちにはなれなかった。未来はクリスにかつてない愛情を抱いたことで、かえって自分の中のクリスの存在が遠くなった。いや、遠ざけた、と言ったほうが正確だろうか。
 また心の中で嘆息する。
 のんきに眠っているクリスがなんとなく小憎たらしくなってきた。
「起こしちゃいましょうか、これ」
 と未来はクリスを指さして言った。
「えっ」
 マリアは本気で驚いたようだった。
「や、冗談です」
 取り繕うように言うと、これもまた本気で安堵したように息を吐いた。
「じゃあ、そろそろ、おいとまさせてもらうわね」
 と言ってマリアは立ち、椅子をもとの位置に戻した。
 未来も立った。
「はい。今日はありがとうございます」
「こっちこそ、時間遅れちゃってごめんなさいね。できればその子にもあいさつしたかったのだけれど」
 もうしわけなさそうにマリアは言った。未来はこちらがもうしわけない気分になった。途中まで送っていこうとしたが、これはマリアに断わられた。
「また、今度……できれば、その時には退院しているといいわね」
「そうですね。先生に頼んでリハビリのピッチあげてもらいます」
「……お手やわらかに、ね」
 マリアは本気には受け取らず、微笑で返して去っていった。
 未来はベッド脇の椅子に座りなおした。
 いつか白い部屋は朱く染まりつつあった。
 クリスは安眠の中にあって起きそうにない。
 まさかマリアの見舞いがあったことを伝えずに、黙って帰るわけにもいかない。
(面会時間の終わりまでには起きてほしいけど……)
 そう思いながら、未来はクリスのやわらかいほおを飽きもせずにつついた。
 クリスはまだ起きない。
 未来の指先にかかる力が増した。
 爪の跡がついた。
「起きないなあ」
 いつもはここまで昼寝はふかくないのだが、どういうわけか今日にかぎってふかぶかと寝入っている。――マリアに会いたくなかったのだろうか。ふと、未来はそんなことを思った。
(そういえば小説持ってきてた)
 未来はかばんの中から文庫本を取り出した。暮れの光が酷くて猛烈に読みづらい。カーテンを閉じた。室内がうす暗くなった。椅子に戻ってページを開く。これはこれで読みづらい。溜息一つ、諦めてかばんに文庫本をしまった。
「ひま」
 未来は天井をあおいだ。
「もう帰っていいよね。私がんばったよね。書き置きしたらそれでいいよね。どうせ明日も来るんだし――よし帰ろう」
 言い訳を並べて未来は席を立った。
「んあ……」
 クリスが目を覚ました。
「タイミングわる……」
「えっ、なにが」
「なんでもない」
 いかにもご機嫌ナナメといった表情で言った。
 クリスが体を起こそうとしたので、
「ああ、寝てていいから」
 と言ってとめた。
「電気点けよっか?」
「うん」
 未来は病室の明かりを点けて、それから座りなおした。
「寝てるあいだに、マリアさんがお見舞いに来てくれたわよ。ほら、あれがお見舞いの花」
 未来は花瓶を指さして言った。
 クリスは花瓶と未来を交互にみて、ふしぎそうに目をしばたたかせた。
「マリアって誰だっけ」
「えっ、おぼえてないの?」
「名前おぼえるの苦手」
「翼さんと一緒にライヴで歌っていたひとよ。ほら、あの変な一味のリーダーのフィーネさん――」
「あー、あいつかー、なんで見舞い?」
 クリスは得心して、そのために湧いた疑問を口にする。
「なんでって……そんなのクリスが心配で来たに決まっ――」
 未来は言葉に詰まった。そういえばどうしてわざわざ見舞いに来たのだろう。マリアがやさしいひとだから、で片付きそうだが、切歌や調が来たがっていたという話が本当なら、なるほど理由がよくわからなくなってくる。いちおう一時は「フィーネ」の構成員だったことはあるが、そこまで彼女たちと親しかったおぼえがない。
「さあ……」
 未来は首をかしげた。
 その動きにあわせるように、クリスも体をかたむけて、未来の顔をのぞきこんだ。
「訊かなかったのか」
「お見舞いの理由なんて、わざわざ訊くようなことでもないし」
「ふうん。そういうもんか」
 クリスはそれで納得したようだった。
「ねえクリス」
「なんだ」
「ちょっと服脱いで」
「はあ!?」
「ちょっとだけ、ちょっと前はだけてくれるだけでいいから」
 言いながら未来はクリスの病衣に手をかけた。
 クリスは身をよじって逃げた。
「まてまて、やめろ!」
「ちょっとだけだってば」
「ちょっともたくさんも駄目だ!」
「ああっ、下にTシャツ着てる、こしゃくな――」
「やーめーろー」
「あ、みえ、た――」
 未来がそう言ったとたん、クリスの抵抗がぴたりとやんだ。
「どうしたの」
「好きにしろい」
 クリスは言葉を投げ捨てるように言った。
「お言葉に甘えちゃうけど、いいの」
「訊くくらいなら最初からやるなよ。……べつにいいよ」
「じゃあちょっと失礼」
 ベッドの中に手をすべりこませて、紐をほどき、ボタンをはずす。病衣を開くと、やはりTシャツが邪魔だと思ったが、仕方がないと諦めた。Tシャツの襟に指をひっかけて、左肩をはだけさせた。
 大きな刃物傷がある。この傷は肩から右脇腹まで通っている。何度か手術を重ねるうちに多少はうすくなったが、とりわけ目立つ傷には違いなかった。完全に消えることは、たぶんないだろう。
「物好きなやつ」
「べつに楽しむために見るんじゃないし」
「じゃあなんで見るんだ?」
「クリスが全然気にしないから、私が代わりに気にしてあげてるの」
 未来は平然と言った。
「もともと傷ばっかりの体なんだ、いまさらふたつみっつ増えたって同じだろ」
「もう! そんなんだから代わりに気にしてるんじゃない」
「なんで怒る……」
 クリスは口の中でもごもごと言葉をこね回したが、そのまま呑みこんだようだった。
 未来はあいているほうの手の指で、傷をなでさすった。クリスはくすぐったそうにわずかに身をよじった。
「ふっ――」
 未来は笑った。
 クリスは口をとがらせた。
「やっぱり楽しんでるんじゃあないか」
「そうかな」
 未来は自分ではそんなつもりはなかった。が、笑ってしまったことについては弁明のしようもない。
 自分なりにその笑いの原因をさぐってみる。案外、浅いところにそれはあった。
「私を守ってくれた証の傷なのよね」
 どこか他人事のようなふわふわとした声で未来は言った。実のところ、その時のことを、未来はよくおぼえていない。なにかまた心にもないことを言ってクリスを傷つけたような、そんな記憶がかすかにあるだけだった。それでも未来はこの傷をなにやら愛おしげに触れずにはいられなかった。
「証だなんて、ごたいそうなもんじゃない」
 クリスは顔をそむけた。
「全然守れてないし、ざまアなかった」
「そうかな」
「そうだよ」
「でも守るって約束してくれたでしょう」
 未来はTシャツから指を離し、不格好ではあるが病衣をなおして、肩の傷を隠した。
「うん……」
 顔をそむけたまま、力のない声で言った。
「じゃあ、これからもがんばって私のこと守ってね」
 未来は言った。
「もっと頼りがいのあるひとに任せたほうが、いい」
 クリスは頭から布団をかぶって身を隠してしまった。
「アマテラスならぬアマクリスちゃん? 鏡もうないよ?」
 布団越しに体をゆすってみる。反応がない。
 はあ、と未来は溜息を吐いた。
「クリスー、お顔みせてー」
 媚びた声で言ってみる。やはり反応はない。
 ぐずぐずと鼻をするる音が聞こえだした。
(こんなにすぐ泣く子だったかな……)
 未来は首筋を掻いた。
 こどもだ。まるでこどもみたいだ。いや、こどもそのものだ。これで未来より年上というのだから驚きである。年齢のわりに幼い顔だちで年齢のわりに大人びた性格の子だと、以前は思っていたものだが、今やその面影はどこにもみあたらない。それともこれが彼女の本性なのだろうか。――どうもそうらしい、と未来はことあるごとに確信を深めている。
 ――愛おしい。
 そう感じる。
 きっとクリスのほうは、その懸倍に未来のことを想い焦がれているのだろう。
 未来は布団の上からクリスを抱いた。
「月がきれいね」
 ためしにそんなことを言ってみる。
「へえ?」
 鼻声が布団の中から聞こえてくる。クリスの首が出てきた。
 クリスは窓の外をみて、
「まだ日ィ沈んでないぞ」
 と言った。
「あー通じないっか……」
 未来はひたいに手の付け根をあてた。
 クリスはあおむけに寝なおした。
「なにが?」
「味噌汁ならわかる?」
「なにがわかるってんだ?」
「これだから帰国子女は……」
 未来が呆れてみせると、クリスは鼻をすすりながらふしぎそうに、
「関係あるのかそれ」
 と言った。クリスのはれぼったい顔が疑問符でいっぱいになっている。
「まあ、それなりに」
 と未来はあいまいな言い方をした。
「交換日記をはじめるというのは、どうかしら」
「日記を交換? よくわからないけど、やりたいならいいぞ」
 簡単に承諾してくれた。
「クリス、手を握らせて」
「いいよ」
 これもあっさりゆるしてもらえた。未来はクリスの手を握った。クリスは握りかえしてこない。それを動かすのが今彼女が励んでいるリハビリテーションの内容だ。
 未来はクリスの温度と肌の感触を確かめるように、お互いのあいだに今ある距離を測るように、握る手に力を込めたり、抜いたりを繰り返した。
 やがてもうひとつの手を持ってきてクリスの手をつつんだ。それが未来なりの、愛情表現のひとつだった。
「まずは、お友達からはじめてみましょうか」
 すでに友達である相手にそんなことを言った。
「友達、最初からやりなおすのか」
 クリスの疑問を口にした。
(やっぱり通じない)
 そう思いつつ、
「そうね、ちょっと仕切りなおしたいかも」
「そうしたいなら、それでいい」
「ほいほい聞き入れちゃっていいの? こっちが心配になってくる」
「駄目なのか?」
 クリスはどこまでも理解できないといった表情で未来をみた。未来自身もみょうなことばかりを言っている自覚があるにはあった。だが、同時にこれはどうしてもやらずばならないことだとも強く思っていた。
「駄目じゃないわ。ありがとう、クリス」
 未来はやわらかくほほえんだ。これでクリスは落ちる、とわかっていてやっているのだから、自分はつくづく悪女だと未来は思った。
 涙で赤くなっていた目が、こんどは嬉しくてたまらないといった具合に、らんらんとかがやいている。
(単純だなあ)
 それも含めてクリスのことが、未来には愛おしく恋しい。
 未来は手を離した。自由の利かないクリスの手が名残惜しげにかすかに動いて、未来の指をかすめた。
 クリスの表情をたしかめてみれば、眉宇がさびしげにしめっている。
「そろそろ帰るわね」
「時間いっぱいまでいてくれてもいいのに」
 クリスが言ったので、未来は苦笑した。時間いっぱいまでいてほしい、とは、さすがに言えないらしい。
「明日も来るから」
 そう言い残して、未来は病室をあとにした。
 帰路を辿る。
 白い丸い彩が薄紫色の空に滲んでいる。
 日の沈むのとは逆の方角から、月が昇ろうとしているのだった。
 あいかわらず欠けた月が、やはりあいかわらずつたない環をともなって、ゆらゆらと昇ってゆこうとしている。
 地平に消えることはあっても、地上に落ちてくることのない月である。F.I.S.から離脱した武装組織「フィーネ」が、遂にその目的を達成した、これこそが証というものだった。
 月を見るたびに、未来はクリスとのほんの数回ばかりの夜の逢瀬を思い出す。
 クリスの要望どおりに、二〇時までの面会時間いっぱいまで病室にいれば、また一緒に月を見ることもできるだろう。だが、未来はそれをしたくなかった。そのためにどうしても月が出てくる前に帰りたかった。
 それはクリスが退院してからでよいだろう。未来は自分に対してそう言い訳している。
 また夜の走り込みを再開して、その時偶然、そうだ、あくまで偶然に、夜の散歩に出歩いているクリスとばたりと会えばいい。そして肩をならべて歩くのだ。
 夜の逢瀬の、最初の夜のことを、未来は思い出す。
 今度はいきなり駆け出してクリスを置き去りにするようなことはすまい。
 夜の逢瀬の、三回目の夜のことを、未来は思い出す。
 今度もまたクリスは未来の手を、おびえたような手つきで、それでもおさえきれない熱をこめて、握ってくるかもしれない。その熱がかつてクリスの手に帯びたことのない、きっとあれが恋の熱だったのだと未来は思う。クリスが未来に一歩踏み込んだ瞬間だったのだと思う。未来はあの時、手を握りかえしはしたが、心の中ではクリスの手をはねのけた。握りかえしたのはあわれみのためだ。はねのけたのはそれが響の手ではなかったためだ。――同じことはしない、と未来は腹を固めているつもりだが、実際にその時が訪れるまではなんら保証のできるものはなかった。
 ただし、ふたりの関係に多少なりとも――クリスにとってはおそらく大いに――変化をもたらしたきっかけがどこにあったかと言えば、やはりあの瞬間だったろうし、だから未来は、あそこから仕切りなおそうと考えている。
 手を握ってくればいいと思う。こちらのほうに踏み込んでくればいいと思う。
 泣き虫で、臆病者の、愛おしき、恋しき、雪音クリス。愛すべき、いつくしむべき、少女、雪音クリス。未来は何度も心の中でその名を呼んでみた。――クリス、手を握って、私も握りかえすから。クリス、踏み込んできて、私も踏み込む。――雪音クリス! このどうしようもない女に恋い焦がれるどうしようもない少女!

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モノクロム・エピソード〜さあ手を繋ごう

 いったい、自分はいつ頃から小日向未来という少女を恋い焦がれるようになったのだろうか。出会ったその瞬間から、というのはさすがに言い過ぎだろうし、あの頃そんな上等でロマンティックな感情が自分に備わっていたとも思われない。が、ずいぶんと久しぶりに出会った、純粋に好意をもてる相手だったことは、たしかに出会った瞬間からそうだった気がする。未来は混じりけのない善意のひとだった。(すくなくてもクリスにはそのように感じられたのだ)
 当時は友達と喧嘩している真っ最中だったらしい未来の、その「友達」が、そう表現するにはなにもかもが不足しているほど途方もなく巨大な存在だったことを知ったのは、もうずっとあとのことで、言いきってしまえば死んでからようやく思い知った。立花響が太陽のようなひとの生きるに抜きがたい存在であることを思い知らされた、恋したのはきっとその時なのではないかと思う。
 いや、そうではないだろう。それより以前のことだ。響が死ぬよりもっと以前に、未来と親しんでゆくうちに自然と湧かしていった感情が恋だったに違いない。その感情は、ただし、響の強烈な存在感を前にしてみすぼらしくちぢこまって、けして叶わぬ想いとしてやがて諦観のうちに封印していたものだった。それが響の死後、半ば死んだように過ごす未来の姿をみて、響への烈しい憎悪と嫉妬とともに蘇ってきたのだろう。狂おしいほどに未来の体と心がほしくなった。青臭い恋心が生臭い情念を帯びた。無意識に帯びさせまいとしていたものをやはり無意識に帯びさせたような感じだった。その情念の濃さに気づいても消す気になれなかったのは、自分のことながらちょっと意外な気持ちだった。響が死んだのをこれさいわいと、その未来にとって掛け替えのない席を襲って居座ってしまおうなど、響への裏切り以外のなにものでもないだろう。だのに、それをためらいなく超えてゆこうとする未来への強い執着というか、心の粘性があった。
 未来をどこかへ連れ去りたい。あのあたたかな手を取って自分たちのことなど誰も知らぬ世界へ逃避したい。そこでふたりで過ごしたい。そういうしようのない欲求にクリスはしばしば心を奪われた。どこかへ、どこかの世界へ、それはあえて想像するならば南米の熱帯林だった。凶暴な濃い色の緑が空を埋め尽くす、まるで太陽の存在を否定するような不気味にうす暗い場所だった。あるいは腹を空かせた怪物が侵入者を食い殺そうと大きな口を開けているようでもあった。両親の惨死の上にある幼年期の体験が残るそんな場所に、未来を連れて行きたいと思ったのである。湿った土と草の上に立たせたいと思ったのである。もしかしたら、残酷に凍り付いた記憶を陽だまりであたためたいという気持ちがはたらいたのかもしれない。なんにせよ、とうてい実現不可能なことで、だから夢想にも劣る妄想に過ぎなかった。うつくしいものを醜悪の中に立たせ、さらにうつくしくみせたい、そんな妄想だったかもしれない。
 この世でもっともうつくしいものは、それはおそらく小日向未来の笑顔だろう。最愛の人物を懸想している時の彼女のあの笑顔ほどうつくしいものを、クリスはほかに知らない。だが、この世でもっともきらめいているものは、彼女の困難に立ち向かっている時のふたつの凛々たる碧い瞳だろう。あれ以上にきらめいているものはほかにないとクリスは思う。クリスはそのどちらも見ていてかなしくなるし、胸が痛くなる。自分の横恋慕をくだらないと笑いたくなるし、またいかなる困難も退けてゆく未来の力強さと自分の貧弱さに打ちのめされる。彼女の白い肌膚を下に敷いて淫猥な行為に没頭したいなどというのは、まったく南米の熱帯林に連れて行くよりもさらに現実味のない妄想であり願望だった。
 クリスは未来に対して信仰といってよいほど、彼女の存在を清潔で神聖なものと見て決め付けていたが、反面その神聖性を自分の足もとに引き摺りろしてめちゃくちゃにしてやりたいという欲望が、ほとんどひっきりなし出現して頭を悩ませてくれた。そういう欲望が絶えない理由の、なんとなく自覚しているもののひとつは、自分自身が未来の身をどうこうしたところで、彼女の神聖性は毛の先ほども損なわれず、白い肌膚はそのかがやきを喪うことはないだろうという、いやに確信めいたものがクリスの頭の中にあったからだった。
 ところが現実というのはおそろしいもので、クリスがそれほど信仰していた小日向未来という女性の清潔と神聖は、あろうことか彼女自身によって無惨に破られたのである。足もとに引き摺り下ろしたかったものは、自らクリスの足もとに降りてきて、クリスの肌体は彼女の下に転ばされて、淫猥な行為≠ノよってめちゃくちゃにされたのだった。あの夜の未来だけは、すこしも神聖でなく清潔でなく力強くもなく、ただ愛する伴侶を喪ったあわれな女の狂気があるだけだった。朝になれば彼女は「すっかり」とは言えないまでもあらかたもとに戻っていた。凛々とした碧いふたつの瞳をあいかわらずきらめかせていた。
 未来の精神の在り方について、クリスはしばしば未来当人と強い・強くないと言い合っていたが、クリスが未来に対して弱さらしいものを感じたのは、初めて寮の部屋を訪れて胸で泣かれた時と、あの夜の一時だけである。
 結局、未来を「フィーネ」に荷担させたものが、なんだったのか、すべてが終わった今になってもクリスは知らない。訊いてもたぶん彼女は教えてくれないだろう。未来はマリアとナスターシャの率いる組織「フィーネ」に、というよりは、ウェルに荷担したと言える。ナスターシャとウェルではフロンティアを求める理由も思想も違った。ナスターシャはフロンティアに眠る技術でもって月軌道を修正し、その落下を阻止しようと考え、それを成功せしめたが、ウェルは月を落としきって、浮上させたフロンティアという箱庭世界の支配者になろうとして、失敗した。だとしたら、未来の企望もまた地に墜ちたと言えるだろうが、仮にウェルの企みが成功していたとして、滅亡した世界の上に浮かぶ新世界に、未来が求めたものとはなんであったのだろうか。「クリスを裏切るかもしれない」と言った彼女の、その後の行動のなにを指して「裏切り」と言ったのだろうか。知りたいような知りたくないような、クリスはそんな気持ちでいる。なんとなくだが、そこには立花響の存在が、もうどうしようもなく生々しく巨大な像を形成してどっかと居座っている気がしたのである。それをのぞきみる勇気を、あいにくクリスはもっていなかった。
 世界は、クリスたち数名の人間にとってのたったひとつの巨大な喪失を除いて、大多数の者たちには全部の時間が、翼とマリアの合同コンサートより以前に巻き戻ったような感じだった。二ヶ月というわずかな期間、世界中の人々を熱狂させた歌姫の名も、彼女の宣戦布告も、その中にあった月の落下による危機も、忘れられたわけではないが、もはや誰も積極的に思い出そうとしなくなっていた。

 クリスの日々におだやかな季節の風がやって来た。

 平和な風が吹き荒れている。
 渡英と卒業を目前にひかえた翼の忙しさが尋常ではない。
 復学したクリスは、邸内でも校内でもさっぱり翼の姿を見なかった。いったいどこにいるのか、弦十郎を掴まえて訊いてみてもいまいち要領を得ない。
 渡英前の最後の日本公演を東名阪の三都市でやるらしい。らしい、と、同居人で同僚なのに、その程度の情報しかクリスの耳に入ってこない。それもクラスメイトに教えてもらったことだ。
 しばらくすると弦十郎が東京公演のチケットを五枚寄越して来た。
「足りない」
 とクリスが言うと、弦十郎は意外そうな顔をした。
「きみと、未来くんと、未来くんの友達の三人で、五人だろう?」
「あたしの友達三人いる」
「ああ、なるほど」
 弦十郎は顎髭を撫でた。クリス自身の友人は勘定に入れていなかったらしい。そういえば邸に連れて来たことがない。今度誘ってみようと思った。彼女らも忙しいだろう合間を縫って、クリスの見舞いに来てくれたものだった。そのお礼もまだできていないことだ。風鳴翼のコンサートに連れて行ってやりたいと思った。
「では、もう三枚ねだってこよう」
 と弦十郎は快く言ってくれた。
「あ、オッサン」
「なんだ?」
「あともう三枚ほしい。だから、六枚」
 とクリスは言った。
 誰の分か、とは弦十郎は訊かなかった。代わりに、そちらはもう手配している、とかろやかに言った。
 登校すると正門で未来が待っている。
 短い時間を一緒に歩いて過ごす。
 弦十郎から貰ったチケットを未来に渡した。
「ありがとう」
 と言って未来はチケットの枚数を数えて、
「弓美たちも誘っていいのね」
「うん。あとあいつらも来る。たぶんだけど」
 とクリスは言った。
「そう」
 未来は花やいだ笑顔をみせた。
 つられてクリスも笑う。
 にわかに風が起こった。
「きゃ――」
 未来はかわいらしい声をあげると、チケットを持つ手でスカートをおさえた。
 風はすぐにやんだ。
 冷たい風だった。
「今朝はいちだんと冷えるな」
「そうね。でもすぐにあたたかくなるわ」
「すぐっていつくらい?」
「たしか週明け、ってテレビのニュースでやっていたと思う」
「そっか」
「傷の具合はどう? 寒さのせいで痛むとかしてない?」
「うん。べつになんともないよ」
 クリスは未来の前に左手を差し出して、掌を開いたり閉じたりした。
「平気」
「それならよかった」
 と未来が言った時、下駄箱に到着した。
「じゃあ、お昼に、いつものところでね。授業中に居眠りしないようにね」
「最後の、余計だろ」
 クリスはかるく抗議を入れたが、未来はひらりとかわして自分の上履きを取りにいった。

 翼が最初の公演先である名古屋入りする前に、二課のおもだった者たちで響の墓参りに行くことになった。そのために皆でノイズの犠牲者を弔った共同墓地に赴いた。
 雲はすくなく、日射しがきつかった。
 墓の前に到着した。
 未来が「ルナ・アタック」のおりに置いた写真立てがそのままにされている。あほづらとしか表現のしようのない響の遺影に、クリスは内心で微苦笑した。
 手をあわせたあと、帰るまでいくらかの自由時間ができた。
 未来はクリスの手を引いて、墓地を離れて機密のために一時死んだことになっていた響たちと再会した道に行きたいと言った。クリスはうなずいた。
 くるまもひとも通らない道をふたりは歩いた。
 会話はすこしもなかったが、クリスは苦痛を感じなかった。
 そうやって歩きつづけたが、未来が足をとめたので、クリスも足をとめた。
「どうした?」
「あれ――」
 未来はまぶしげに目をほそめながら、右腕を東の空に向けてまっすぐに伸ばし、太陽を指さした。
 クリスは指先に視線を向けた。雲のない太陽を直視することはできない。ひたいに手を翳して、それよりすこし下のほうを見た。
「あれって?」
「太陽があるでしょう」
「うん」
 未来の言っていることの意図がつかみきれないクリスは、ひたいの手の角度をかえて、一瞬だけ太陽をみた。日射しが目を刺す。クリスは目をつむった。
「日暈はないな」
 とクリスは言った。
「雲かかってないじゃない」
 日暈など発生しようがない。未来は呆れた。腕をおろして、クリスのほうに向きなおる。
「そうだな」
 と言って、クリスはひたいから手を離して、視線を未来の顔のあたりに付けた。
「それが、なんだっていうんだ」
「ちゃんと見た?」
「ちゃんとは見てない。……って、あんなもんまともに見られるわけないだろ、まぶしすぎる。へんなこと言うなあ」
 クリスが正直なことを言うと、未来はちょっと怒ったように口をとがらせた。
「え、あれ、なんか、まずいこと言ったか?」
 クリスは慌てた。未来の機嫌をそこねるようなことを言ったつもりはなかった。しかし未来はたしかに怒っているようだった。
「あのね、クリス」
 未来は苦しげに息を吐いた。
 呼びかけておいて未来はその後無言になった。うつむき、下唇を噛んでいる。
 クリスは心配になって未来の肩に手を置き、だいじょうぶか、と声をかけた。返事代わりでもないだろうが、未来はその手首をつかんだ。
「クリス、……」
「どうしたんだ。どっか調子わるいのか? 陰で休むか?」
 未来は首を横に振った。
「月は欠けても月なように、満月が欠けても満月なように、太陽は死んでも太陽なの。私たちはそう名づけたものをそう呼ばなくちゃいけない」
 クリスの体がびくりとはねた。とっさに逃げようとしたが未来に手首をつかまれていて、うごけない。首筋に汗が滲む。未来はクリスの胸の内のなにを知っているのだろうか。未来の本意をクリスはさがしあぐねた。気づかずに両手が拳を握っている。
 ――わからない。
 なんの話だ、お前はなにを言いたいんだ、なにを言っているんだ、その言葉が次々に喉で鳴っては消えた。口から吐き出せない。そうしてやっと吐き出した自身の言葉を、クリスは信じられなかった。
「むり、だ」
 とクリスは言った。汗がとまらない。なんのために発せられた汗なのかクリスにはわからなかった。
 未来はクリスの手首を離し、クリスの背に両腕をまわして、手に鉤をつくって抱き締めた。
「クリス、私のことを、ちゃんと見て。こんなにくっついて、ねえ、クリスと私のあいだになにがあるの? なにもないでしょう? それならクリスは、まっすぐに私のことを見られるはずよ。なんにも遮られてないんだから――」
 まくしたてるように言うと、未来はクリスの肩に顔を埋めて、あとはしずかに涙を流して泣いた。
 そこまで言われるとクリスは思考の逃げ場をうしなった。未来がなにを言っているのか理解しなければならなかった。月が欠けても月であるように、満月が欠けても満月であるように、そしてまた太陽が死んでも太陽であるように――そのつづきをクリスは認めなければならなかった。そう名づけたものはそう呼ばなければならない。死と名づけたものを死と呼ばなければならない。立花響の死がただ立花響の死でしかないように、太陽は死んでも東の空から昇りつづける太陽でしかない、そのことを認めなければならなかった。その死を太陽に仮託して、ながらく未来と自分とのあいだに横たわらせていた「立花響」の頑なな生命の影を、みがってな妄想を、クリスは今度こそ完全に消し去ってしまわなければならなかった。
 クリスは固く握られた拳を懸命に開こうとした。なかなかそれがうまくゆかず、悪戦苦闘した。この期におよんでいくじのない自分に腹が立ってきた。潔く生きろ! とクリスは自分の心に叱った。ようやくにして拳をひらいた。その瞬間に、クリスは自分の中の拘泥を潔く棄てた。同時に、未来の両手も解かれた。
 未来はクリスから離れ、一歩二歩とうしろにさがって距離をつくった。
 クリスはほっと息を吐いた。未来が機嫌のよさそうに笑っていたからである。感受性の強い少女なのだろうか、あるいは細微にまできくばりのできる性分なのだろうか、クリスが拘泥を棄てたことをすでに察しているようだった。
「やっぱり強いんじゃあないか、お前」
「またその話? 好きよね、クリスも」
 強くなんかない、とは言い返されなかった。
「そりゃあ、そこに惚れちまったんだから仕方がない」
 クリスはいなおった。
「じゃあ、お友達からはじめましょう」
 未来はいつか言ったことと同じことをここでも言った。
「それさ、意味調べてみたけど、お前、本当にひどいな。味噌汁だとか月がきれいだとか、……部屋に誰もいないのにめちゃくちゃ恥ずかしかったぞ」
 言いながら、クリスは未来のつくった距離の分だけ歩を進めた。一歩二歩と未来に近づいた。
 未来は身をひるがえした。
 ふたりは同じ方向に肩を並べて立つことになった。
「オッサンのところに戻ろう」
 クリスは言った。
「うん」
 と未来は答えた。
 クリスは未来の手を握った。自分でも驚くほど素直にその手を握れた。未来も握りかえしてきた。
「友達ってこんな感じでいいのか? いまさらだけど」
「さあ、まあ、いいんじゃない」
 未来はてきとうなことを言った。
「あたしはお前が初めてなんだからさ、そっちがそんな調子じゃあ、なにを基準にしていいのかわからなくなる」
「ひとが聞いたら誤解されそうなこと言わない!」
 未来は怒って荒っぽく手を離した。
「あ、――」
 クリスの手が名残惜しげに空をつかんだ。
「お前の怒る基準わかんねえ」
 クリスは困惑するしかない。
 未来はクリスを放置してひとりでずんずんと歩きはじめた。クリスもあとを追う。
 歩いているうちにクリスは気分をあらためた。
「なあなあ、喧嘩ってこういうのか? あたしら、もしかして今、喧嘩してる?」
 とクリスはうかれた声で言った。
「なんで嬉しそうなの」
「いやあ、もう、だって、さ、なあ?」
 クリスは笑ってごまかした。つまらない諍いではなくしょうもない喧嘩だ。嬉しいに決まっているし楽しいに決まっている。これを楽しまないで人生のなにを楽しめというのだ。
 未来の横に並んだクリスは、ふたたびその手を握った。未来はあいかわらず怒っているようだったが、すぐに握りかえしてきた。
 そのうちはやる気分をおさえきれなくなって、クリスは半ば駆け出した。
「ちょっと、クリス――」
 強引に走らされることになった未来は、クリスを呼びとめて歩かせようとした。
 クリスはかまわない。
 未来の手を握ったまま、湧き水のように溢れる幸福感を笑声で飛ばして、ひたすら走る、走る――
 お幸せに!
 どこかから、そんな陽気な声がした。

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