放課後にぶらぶらと廊下を歩いていると、急にみょうに懐かしい想いにクリスはかられた。
原因はピアノの音だ。
一緒に帰るはずだった翼は担任に呼ばれているとかで、どうせ時間をつぶさなければならなかった、そのアテもなかったことだ。
ちょうどいいやと思い、クリスは聞こえてくるピアノの音を追いかけた。
辿り着いた先には、未来がいた。
教室に入ると、未来がこちらに気づいて、ピアノを弾くのをやめてしまった。クリスは内心すこし残念がった。
「続けてくれたらいいのに」
「無視するのもわるいと思って」
目があっちゃったし、と彼女は言う。
「うまいもんだな。ちょっとしか聞けなかったけど」
そう言うと、未来は照れくさそうに笑った。こんな程度の褒め言葉で笑ってくれるのだから、クリスにしたらしめたものだ。彼女の笑顔を、クリスは好きだった。音楽のサラブレットに褒められるなんて光栄ね、なんて、言って、また笑った。
「もういっぺん弾いてくれよ。さっきと同じやつ」
「恥ずかしいなあ」
「どうして」
「だって耳が肥えてそうだもの」
「ピアノはそうでもない」
「ほら――」
と未来は人差し指を伸ばして、クリスの胸をトンとついた。
「なにが?」
「ピアノは≠ネんて、わざわざピアノ≠ニ断わるんだから、やっぱり肥えてる」
「そうかなあ」
「そうよ」
未来はなかなか承諾してくれない。こうなるとクリスは意地でも未来にピアノを弾かせたくなる。胸に突如湧いた懐かしい気持ちは、依然消えてはいないこともあった。
(ちょっとずるいけど、仕方ない)
クリスはピアノのそばに椅子をひっぱってきて、そこにどっかと座ると、昔話を始めた。およそこういう話である。
「ママがよくピアノを聴かせてくれたんだ。ママはいろんな曲を弾けて、そりゃもう弾けない曲はないくらいだったけど、あたしはバカだから同じ曲ばっかりリクエストして弾いてもらってたんだ。その曲がよっぽど気に入ってたんだろうな。それでさ、さっきお前が弾いてたの、それと同じだったもんだから、懐かしくなっちゃってさ、だから、聴かせてほしいんだ、それ」
なるべく明るく言ったが、最後のほうはすこし声が湿ってしまったかもしれない。この話には嘘がある。クリスの幼少の頃のお気に入りの曲と、今さっき未来が弾いていた曲は、まるで違うものだ。ただ、両親が生きていた頃、母がピアノを聴かせてくれたあの頃を、懐かしく思い出したのは事実である。
未来は目尻に親指をあてた。
(ああ、泣かせてしまった)
話すんじゃなかったかな、とクリスは後悔した。自分のわがままのために未来を泣かせてしまった。あのバカに知られたら怒られるかもしれない。いや、怒るのは先輩のほうか。実際にはどうあれ怒る姿を想像するなら、翼のほうがしやすいのはたしかだった。
「わかった」
未来はそう言って、ふたたび鍵盤に対面した。
クリスは、ごめん、と言おうとしてやめ、
「ありがとう」
と言った。
音楽が流れはじめた。
ピアノの音が、クリスの耳を心地よく叩く。
クリスは目をつむって、その心地よさに体をゆだねた。
(同じじゃないけど、同じかもしれない。あたしはこれを知っている。この懐かしい感じを――)
やがてその音楽に歌がのせられた。
クリスは実は未来の弾いている楽曲を知らない。初めて聴いたわけではないが、知っている、と言えるほど馴染んだものではない。だから、クリスが口ずさむそれは、その場でつくった即興のリリクスだった。
目をつむったクリスは、なぜだかピアノを弾く未来が今笑ったように感じられた。自分の歌に喜んでくれている未来を感じた。それが嬉しかった。目をあけたら、きっと未来はクリスの想像どおりの表情をしてくれているに違いない。
が、クリスは目をひらかなかった。
ひらかなくとも、未来の表情はありありとわかる。
音楽は目がなくても楽しめるものだ。
視覚をふさいで、聴覚と触覚と、それから心の感性とで、その歓喜を味わった。
暮色に染まる教室で、音楽は流れつづけた。
クリスをあたたかくやわらかくつつみこんだ。
了