雪が降っている。
道傍の短い草が重苦しい空気の中にしずんで、風のないことを告げていた。
旧市街のその旧い建物のあいだからのぞかれる山脈は白々としている。その理由はなにも今冬だからというわけではなく、あの山脈は何千年も前から白色をとりのぞかれたことがないという話だ。
灰と茶の入り交じった冷たい石の道を、クリスと調は歩いていた。
調の胸には市場で買った夕食の材料が抱えられている。クリスもそれを手伝って、荷物を片手に提げていた。
「あの大きな男の人と話した時、急にね、懐かしい気持ちになったの。それでつい、変わらないのね、なんて言ってしまった。どうしてかわからなかったけど、あとになって思えば、あれがフィーネの、櫻井了子の記憶だったのね」
調はそんなことを言った。抑揚のない、小さい声が、雪に吸収されてよけいに小さくなって聞きとりづらい。
「お前の中には、もうフィーネはいないんだな」
すでに確認済みのことを念を押すようにクリスは問うた。
「うん。立花響って子に伝言を頼んで、去っていったわ」
魂を刈り取られて死んだと言わないのは、彼女なりのやさしさだろうか。永遠を生きつづけるはずのフィーネがその魂を切歌に切断されて、永らくの輪廻の環から消えたかどうか、クリスにはよくわからない。それは誰にも、判然としていないことだった。
「あたしには、なにかなかったか」
「なにも?」
フィーネとクリスの関係を知らない調はふしぎそうに答えた。
「だろうなあ」
クリスは笑うしかない。
フィーネに愛されたり慈しまれたという記憶がクリスにはまったくない。
つねに威圧され、恐怖の中で過ごしてきた。
そうした生活の中で、それでもフィーネ以外に結局はどこにも寄る辺のないクリスは、仕方なくという言い方も変だが、やはり仕方なしにその身も心も、自然とフィーネに依存していたのだ。もっといえばクリスはフィーネを愛していたし、甘えたかった。実際に甘やかしてくれたことなど、もちろん一度だってなかったが、……。
ただ、一度だけ、こどもの頃のまだ幸せだった家族との想い出を夢に見た時、クリスはもうどうしようもなく、悲しくて、寂しい気持ちに陥った。それは一種の興奮状態を生み出して、深夜ベッドの上で大泣きに泣いたことがあった、その夜だけは、フィーネは泣きじゃくるクリスの手を握り、自分の寝所に招いて同衾させた。二年間の同棲のうちの一度きりの同衾である。
それが彼女のやさしさだったのか、ただうるさいこどもをいかにも保護者然とした態度をとることで黙らせたかっただけなのか、どうか、クリスにはもう知りようがない。わかっているのは、あたたかいとかつめたいとか、どちらかに分類しようのない、フィーネのふしぎな体温があったということだけだ。
「フィーネになっちまわなくてよかったな」
ちいさな沢に架かるアーチ橋にさしかかった時、クリスはそう言った。
「うん。マリアや切ちゃんのこと、私のままで大好きでいられるから」
調はそう言って微笑んだ。
「ケツの痒くなるようなこと平気で言いやがる」
聞いてるこっちが恥ずかしくなる、とクリスは思った。
調の人格を塗り潰さなかったのは、きっとフィーネのやさしさだ。クリスはそう思っている。
フィーネは立花響や風鳴弦十郎との関わり合いにおいて、自分を、ほんのすこしかもしれないが、変えたのだろう。それが月読調という少女の心を救う道を選ばせた。そこに、クリスの影響などなにもないだろう。欲しくないもの望まないものであっても、フィーネから与えられたものはたくさんあったが、クリスのほうからは、全然なにも、フィーネには与えていないのだから。
――悲しい、寂しい。
クリスは、急にそんな気持ちになった。
さすがに調の前で、泣きはしなかったが、かつてクリスの知らない櫻井了子が死ぬ時に、二度と会えぬフィーネの死を悲しんだように、ついに調の人格の上に立って外界に出てくることのなかったフィーネの死を、この時もまたクリスは悲しんだ。
(寂しい、ああ、寂しいなあ、フィーネ)
クリスは思った。
雪の量が増えてきた。が、それらは橋や沢に落ちると、その瞬間には溶けて消えていった。
調は短時間ではあるが、またその自覚もなかったが、フィーネと記憶と人格を共有していた。
――その時に、会えていたら。
クリスは詮ない空想をしてみたくなる。
なにか言いたいことがたくさんあったような気がする。なにか言ってもらいたかったことがたくさんあったような気がする。だが、今となってはクリスはそれらのひとつも思い出せなかった。
寂しい、悲しい、そんな想いだけが、クリスの胸を通り過ぎていった。
ふいに手に触れてくるものがあった。
調がクリスの手を握った。
クリスは泣きたくなった。それから笑いたくなった。
もうフィーネはいないのに、その手はなぜか、あたたかいともつめたいとも、いずれの分類もできない、ふしぎな温度をもっていた。
了