べつに忘れてしまうわけではない。
ただ、会話のきっかけにちょうどいいから利用しているだけの話だ。
「お砂糖、いくつだっけ?」
クリスが部屋に訪れた時は、未来はかならずこれを訊く。それは紅茶だったりコーヒーだったりするが、どちらにしても同じことを訊く。
クリスはそれに対して紅茶の時はひとつと言いコーヒーの時はみっつと言う。言いながら、数の分だけ指を立てる。
「ミルクは――」
と訊くと、紅茶の時は欲しいと言いコーヒーの時はいらないと言う。言いながら、こくこくと頷いたりかぶりを振ったりする。
本日は指が一本立てられた。
詩織から貰った紅茶葉の、まだ封の切っていないものがあったので、それを使ってみることにする。
毒味させるつもりではないが、いちおう客人には違いないので、先に飲ませて味をうかがう。
「うん、おいしい。うまいな」
腑抜けた声を聞くと、駄目だなあと思い出す。なにを思い出すのかと言えば彼女は未来の出すものについてはなんでも「おいしい」としか言わない人間であることを思い出すのだ。失敗した創作料理でもそう言う。気遣いのつもりなのか単に舌がバカなのか、見分けがつきそうで案外つかない。
未来は自分のほうも紅茶に口をつけてみた。たしかにおいしかった。クリスは未来の淹れ方を褒めたつもりに違いなかったが、見つけてきた詩織の功績だろう。
茶請はこれも詩織が茶葉と一緒に寄越してきたものだ。
クリスはやはり「おいしい」と言って、次に未来を褒めた。手作りではないし自分で選んで買ったものですらないので、褒められる筋合がまるでない。友人からの貰い物だと言うと、クリスは親に叱られたこどもみたいに萎縮して「ごめん」と言った。謝られる筋合もないが、それを言ったらきっとクリスはますます萎縮して謝り詰めになるだろう。
つくづく肩の凝る相手だと未来は思う。こうして部屋に招くのはもう何度目かわからないが、一度も始めから終いまでゆっくりと過ごせたことがない気がする。
未来としては台風みたいな響のいない時間をのんべんだらりと過ごしたいだけなのだが、クリスはいつ来ても緊張で全身かちんこちんに固まってまともに喋れないしなんだか挙動不審だしで、おかげでこちらまで肩肘を張ってしまう。
ゆっくりしていってと言ってもリラックスしてと言っても、クリスはますます緊張するだけで効果がないどころか逆効果だ。最近では未来はクリスのそういう態度になにも言わなくなった。お互いによけいに疲れるだけだと気づいた。
友達になって間もないころはむしろ気疲れしない相手だと思っていたのに、それもこれも恋というめんどうくさい感情のせいだ。
――ああ! 恋ってなんてめんどくさい!
クリスに気づかれたらまたいらぬ萎縮をされるので、心の中でだけ溜息を吐く。
最初はちょっとした不倫気分だった。未来の脳内でのみ幕を上げた、言ってしまえばくだらないごっこ遊びだ。響もクリスも知らない密かな不倫現場、らしきものをつくりたかった。
べつに響と付き合っているわけではないしクリスはただの友人なのだから、こんなことをしたところで不倫でもなんでもないのだが、ただちょっと、なんとなくそういう気分に浸りたくなって、未来は響を適当な理由を付けてひとりで外出させて、その隙間をクリスに埋めさせようとしたのだ。
クリスが自分に惚れているのを知っておきながら、その相手に選んだ。いや、知っているから選んだのだ。――が、だったらこの惨状をあらかじめ予測しておくべきだっただろうと今になって思う。惚れた女とふたりきりの空間に閉じ込められて、まともでいられるはずがないじゃあないか!
しかし、だ。しかしもうやめられない。
意味もなく依怙地になっている自分がいる。
いつか響がこの秘密の逢瀬(実は教えてない)に気づいて、すこしばかりでもクリスに嫉妬してほしい。未来のささやかな願望だ。手付かずの紅茶を出されたクリスに、買ったばかりのマグカップを出されたクリスに、あるいはまた響の好物の菓子を出されたクリスを、なにより未来とふたりきりの時間を過ごすクリスに――
(ないない、それはない)
自信をもって否定できるのが困りものだった。バレた時に嫉妬されるのはたぶん未来のほうだろう。――未来ばっかりクリスちゃんと遊んでずるい! くらいのことを響は平気で言う。本気で言う。簡単に想像できすぎて困る。
「最近、学校のほうはどう? クラスにお友達できたのよね? うまくやれてる?」
わりと気になっていたことを訊いてみる。
(なにこれ。私はクリスの母親か)
バカらしい質問をしてしまったとも思うが、心配なのは事実だから仕方がない。
「あ、うん。こないだ一緒に遊びに行った……」
言いながら思い出したのか、クリスは喜色を浮かべた。すこしは緊張がほぐれたみたいだった。あのかちこちをやわらげてしまうのだから友達との思い出とは素敵なものだと未来は思った。かつては自分もその友達のひとり……どころか最初のひとりだったはずなのだが、
「おかしいね?」
思わず言ってしまうとクリスの顔がサッと青ざめた。
「いや遊びに行ったことじゃなくて、ごめん、全然関係ないこと考えてて口に出ちゃった」
「ああ、そうか、うん、そうだな、おかしくないよな」
たしかめるように言って、クリスは何度もうなずいた。
「そうそう友達と一緒に遊びに行くなんて、なんにもおかしくないわ。ごめんねへんなこと言っちゃって」
「気にしてないからいいよ。だいじょうぶ」
瞬間的に青ざめていたくせにこんなことを言う。
「今度一緒に遊びに行かない?」
「へえ!?」
まあ見事なくらい顔が真っ赤になった。驚き戸惑い喜び。そういうものが全部乗っかった赤さだった。
(あ、これおもしろいかも)
みょうなところにたのしみを見つけてしまった。
「どうせふたりきりで時間を潰すなら、たまには外に出たほうが健康的でしょ? 動物園でも水族館でも、遊びに行かない? クリスはどこか行ってみたいところある?」
と未来はたのしげに言った。クリスは未来のそうした表情をおそらく「遊びに行く」ことを想像しているためだと思っているのだろうが、残念ながらそれは違う。未来はクリスの反応をたのしみたいがために言ったにすぎない。
たっぷり五分。クリスはテイブルとにらめっこしながら、考えに考えた。頬はタコみたいに茹っている。湯気が出ているような気が未来はした。気のせいにきまっている。
「ど、どこでもいい……」
五分の思案の結果が出た。搾り出すように言ったクリスは泣きそうな顔になっていた。さすがに泣かれると未来はたのしみようがない。未来は発見したばかりのたのしみの種を早くもうしなった。
それにしてもそこまでのことか。その一言のためにそうまで苦しまなければならないのか。未来とともにいることはクリスにとって、嬉しい以上に辛いのか、辛い以上に嬉しいのか、どちらなのか未来には量りかねた。
「じゃあ切符買って、どこかに……ううんと目的とかなくて、うん、とにかく電車に乗ろう。行く場所はとくに決めないで行けるところまで電車に揺られて……そういうのでいい?」
「うん。それでいい。そうしよう。――ああ、電車はいいな。電車に乗りたい」
クリスは目をつむり、こくりこくりと眠ったみたいに首を揺らしはじめた。唇の端がゆるんでいる。ガタンゴトンガタンゴトン。小声でそう言っているのが未来の耳にとどいた。電車に乗っているところを想像しているのかもしれない。
「好きなの? 電車」
「景色がうごいてきれいなんだ」
目をつむったまま、クリスは今度はハッキリと笑っていた。景色がうごくのは電車でなくても乗り物に乗ればそうなるだろうが、彼女にとって電車は他の乗り物とは別格の扱いなのだろうか。
未来はクリスと同じ想像に身をゆだねたくなった。クリスと同じように目をつむった。
ガタンゴトンガタンゴトン。
音をたてて電車は進む。
思い出がよみがえる。
友達との、古い古い思い出。
遠い記憶。
――ねえ見て! ほら、すごくきれいだよ!
幼い指が車窓からのびる。あぶないよ、と未来が言うと素直にひっこめてこちらに振り向く。そうして、まるでおひさまみたいなきらきらした笑顔で言うのだ。
――未来も見てごらんよ。
言うとすぐにまた車外の景色に夢中になった。未来のほうを全然見ず、会話もろくになくて、だから未来は電車から見える景色があまり好きではなかった。田園、山、森、街並、それらはいつもその子の心をたやすく奪ってゆく。
いつかその子の影が別の人間に入れ替わった。
赤いワンピースに白いケープの少女がいる。
未来のとなりに座っている。
体は車内に向けたまま、首だけ曲げて、やわらかい笑みを浮かべて、車外の景色を見ている。少女はただただ景色に夢中になっている。それのみに心を奪われている。その心を奪ったはずの未来の存在などまるで気にも留めないで、まるでとなりに誰もいないかのように――
ふいに目頭にあたたかく触れてくるものがあった。
驚いて目を開くと、テイブルに身を乗り出したクリスがいた。
彼女の手が未来のほうに伸びて、その親指が未来の目頭に当たっていた。
「……なに?」
「いや、なんか……、なんとなく……」
そう言ってクリスは未来の涙を拭った。
未来は自分が泣いていることに気づいた。
クリスが姿勢を戻す。
「この季節は目が乾燥していやだよね」
ありきたりなごまかしをして、さらにごまかそうと未来はカップを手にした。
紅茶はもう冷めていた。
それでも未来の頬がほんのり紅潮した。
理由は誰にもわからない。
了