雨が降っている。
小雨が間断なく野外ライヴ会場に落ちてくる。
「こりゃあ、やっぱり駄目ですよ。予報のほうを再確認したんですが、これからますます酷くなるみたいです」
首にかけたタオルでひたいを拭いながら、スタッフのひとりが怨めしげに空を見上げた。
「ステージには屋根がありますし、小雨程度ならなんとかできるでしょうが、これからどんどん降ってくるとなったら、これ、ファンのみんなは悲惨ですよ。機材も危ない」
緒川は腕時計を見た。そこに雨が落ちる。雨のない曇天の下で行なわれたリハーサルが終わってからもうずいぶんと時間が経っている。
「いけませんか」
と緒川は訊いた。
「無理でしょうね」
と相手はきっぱりと言った。
緒川は溜息を吐いた。
「わかりました。やるか、やらないか、二〇分後に発表できるようにします」
中止するならする。強行するならする。どちらにせよ、決定は早いほうがいい。
「お願いしますよ。雨がやんでつつがなく開催、ってのがいちばんいいんですがね。うまくいかないもんです」
彼は風鳴翼のライヴに関係するのは今回が初めてらしく、くやしがった。
一言あいさつして、緒川はその場を去った。
ステージ上で興行関係者に囲まれてなにやら喧々としているイベントプロデューサーのもとへ向かう。途中別のスタッフを捕まえて翼を呼んできてほしいと頼んだ。
「なあ、やんねえのか」
早足の緒川の後ろに、バックステージパスを首からぶらさげているちいさな影がついてくる。
「まだ、わかりません。ですが、たぶんやらない方向で話はまとまると思います」
野外ライヴとはそういうものだ。何ヶ月も前に企画されたイベントの、その当日の天気などわかりようもない。数日前数週間前に天気予報で雨と出たところで即座に中止できるものでもない。天候とのある意味戦いだった。
「中止にしたあとに晴れたらどうするんだ?」
「その時も中止のままですよ。チケット払い戻しです」
「晴れてるのに中止すんのか」
「まあ、そうなります」
緒川がそう言うと、クリスは頬をゆがめて髪を掻いた。納得できないものがあるようだ。
「晴れたんだったらやりゃあいいのに」
「ええ、ぼくも、そう思います。みんなそう思っています」
緒川は苦笑した。こどもの無知を笑ったわけではない、おとなの世界の面倒臭さを笑ったのだ。
雨がすこし強くなった。
「緒川さん――」
横から数人のスタッフを引き連れた翼に声をかけられる。
並んで歩く。
クリスは相変わらず後ろをついてくる。
「雪音、雨合羽はどうした」
振り返って翼は言った。
「暑いから脱いだ」
翼は呆れた。冬の雨になにをやっているのか。お気に入りのケープも羽織らず、クリスは薄着もいいところだった。これで風邪を引かれてはかなわない。
「小日向たちのところへ戻れ」
「横で聞いてたら駄目なのか」
クリスはバックステージパスをつまみあげた。一緒にいてもいいという身分証ということだろう。お前には関係のない話だから帰れ、とは言いづらい翼は、
「そのままでは風邪を引く。つまらない話を聞いているだけなどと、物好きなことをしたいなら、雨合羽を着て来い」
と言った。
「あそこ行くんだろ。だったら、いらないだろ」
とクリスはステージを指さした。
「駄目だ」
「じゃあそれ、くれ」
クリスは今度は翼の着ているスタッフジャンパーを指さした。それではこちらが風邪を引くではないかと翼は思ったが、クリスがねだる気もわからぬではなかった。
「あとでな」
「ちぇ」
クリスは背を向けて駆けていった。雨合羽を取りに行ったのか小日向たちのところへ戻ったのかはわからない。
「緒川さん、行きましょう」
翼は言って、ステージに向ける足を早めた。
ステージ屋根の下に入ると雨はなくなる。風もない。
イベントプロデューサーがこちらに気づいた。
渋面をつくっているのがはっきりと見える。
翼に近づいてきて、
「いけませんか――いや、いけませんね」
と言った。
お互いの顔を見て、翼も彼も胸のいやな思いを確信を深めてしまった。もはや話し合うまでもないだろうと思った。ぎりぎりまで粘るという道は即座に捨てられた。これはどうにも、中止するしかない。おもだったものを集めて数分ほど今後について話し合った。
そのさらに十数分後、雨天中止の報せが会場入口他に大々的に貼り出された。
その頃には小雨は大雨になって、粘り強いファンも散り散りに去って入口付近にまばらにいるだけだった。
スケジュールにちょっとした空きができた翼は、クリスを食事に誘ってみた。以前彼女から食事に誘われたのをすげなく扱ってなにも食べずに帰ってしまったことがあったので、その罪滅ぼしというか、まあ埋め合わせのような感じで誘ったのだった。
ステージ裏に招待した他の者たちを先に帰して、クリスとふたりきりの時間をつくったのは、それほど深い意味のあることではなかった。前回ふたりだけだったから、今回もまたふたりだけでいいだろうと思っただけである。
窓際の席に着いてから翼はクリスに袋を渡した。
「なんだこれ」
「欲しがっていたスタッフジャンパーだ」
「へえ」
袋の中からそれを取り出したクリスは、
「あれ?」
と首をかしげた。
「これ、新品じゃあないのか」
クリスはきれいに乾いている、ていねいに折り畳まれていたジャンパーを拡げて、ごそごそと感触を確かめた。
「そうだが」
「うーん。……まあいいや。サンキュ」
クリスは不満だったようだが、袋の中にジャンパーを仕舞った。それから店員に声をかけて、これ、これ、といくつか注文した。その中にはまたナポリタンがあった。好物なのだろうかと翼は思った。
翼はえびグラタンとミルクティーを頼んだ。
「雨、やまねえな」
硝子張の外の景色を見てクリスは言った。
「そうだな。フォークをくわえながら話すな。喋りたいなら置いてから喋れ」
「へいへい」
クリスはフォークを置いた。
「残念だったな」
「そうだな」
「あいつまた観られなかったなあ」
「申し訳ないことだ」
あいつ、とは立花響のことだ。彼女は翼のファンなのだが、どういう不幸の巡り合わせか、まともに翼のライヴに参加できたことがない。中継でさえちゃんと観られたことがなかった。
「天候はどうしようもねえな。今回ばっかりは」
クリスはまだ外を見ている。フォークを回してナポリタンの麺をぐるぐるといじりながら、食べずに、じっと外を見ている。
翼はクリスの横顔を見ていた視線をうごかして、窓の外に向けた。硝子にクリスが映っている。白い頬が、ちいさな鼻が、銀の髪が、外の景色に溶けている。薄紫色の目が、こちらを見ているようで、見ていない目が、溶けている。……
「雪音」
「んー」
クリスは気のない返事をした。
「皿を見ろ、それはさすがに口には入らないだろう」
フォークに巻き付いて肥大した麺の塊があった。
「おお、こりゃヤバイ」
クリスは麺をほぐした。
「こっちの店もなかなかのなかなかだな」
「気に入ってくれたようで、なによりだ」
翼は今回雨天中止になった会場でライヴをやる時は、かならず時間をつくってこの店のえびグラタンを食べることにしている。ここの料理がクリスの舌にも乗ってくれたので、翼は一安心した。しかしそうなると、
「やはり、立花たちを先に帰すのではなかったな。皆で来ればよかった」
と言って、翼は残念がった。自分とクリスのふたりで独占するものではなかった。
クリスはフォークを皿に投げ捨てて言った。
「やっだね!」
彼女は怒っていた。
翼は呆気にとられた。
外では雨がざあざあと降っている。
雨粒のはりつく硝子に映っているのは、ご機嫌ナナメの一般人少女と、人気歌姫のまぬけづら。
了