手を拍つ音が聞こえなかったのが、炊事場でお茶を淹れているクリスにはふしぎだった。
首をひねりながら居間に盆を運んでゆくと、未来が目をひらき、こちらに向きなおってきた。
おおむね弦十郎があつらえてくれた調度品のひとつであるちいさな卓に盆を置き、お茶を差し出しながら、
「手ぇ叩く音聞こえなかったけど……」
とクリスは疑問を口にした。
「叩く? どうして」
「えっ。どうしてって、だってパパとママに手を叩いてくれてたんだろ?」
未来もまたふしぎそうに首をかしげて、やがて「ああ」と、得心したように手を拍った。
「お仏壇の前では手は拍たないよ。こうやって合わせるの」
と言って、未来は手を合わせて目をつむり、すこしだけ首をかたむけた。
「叩かないの?」
「うん、それは神社にお参りに行った時ね」
「ずっと叩いてた」
クリスは仏壇のふたつの位牌に目をやった。
「音だしちゃあ、まずかったのか」
恥ずかしいやら情けないやら、クリスはしょげかえった。
小指で髪を掻く。
「まずくはないと思うけど……ううん、ごめんなさい、私もよく知らないから」
未来はうろおぼえながら、仏教と神道の違いを説明した。
「意味なかったのかなあ」
クリスが言うと、未来は、さっとそれを否定して、
「こういうのは気持ちのことだと思うわ。べつに、その、出家してるわけでもないんだし、厳密にやることはないと思うの」
と言って、クリスをなぐさめた。
「毎朝、手を拍っていたんでしょう。きっとお父さんとお母さんにもとどいているわ。クリスが元気にやってるってこと」
「そっか」
そう言われてクリスは多少気がらくになった。が、これからは手を拍たずに合わせてしずかにふたりの死を偲ぼうと思った。そうすることが普通なら、自分もそうしようと思った。
「独り暮らしはどう? すこしは慣れた? ごはんちゃんと食べてる? 自炊のほうは……、私の書いたレシピ、ちょっとは役に立ってる? もうすぐ学校始まるけど、準備できてる?」
「ママみたいなこと言うなあ」
クリスは笑った。
未来はすこし拗ねたようだった。
と言ってもクリスは母親にそんなことを言われたことはない。ただばくぜんと、母親とはそういうことを言うものだという、そんなイメージがあるだけである。
かいつまんで近況を喋った。
鳥のさえずるような声がここちよい相槌を打ってくれる。
「料理はちょっとサボってる」
「ほんとうにちょっとなの?」
「ごめん、かなりサボってる」
「たまに作りに来よっか?」
「えっ、いや、あ、うん、や、いいよ。今日からまたがんばる」
クリスは断わった。家に来てくれるのも彼女の手料理を食べられるのも嬉しいが、遠慮も気兼ねもなく甘え切るのは自尊心みたいなものが傷つく。せっかく独り暮らしをしているのだ。きちんと独り立ちしたい。
「あ、でもレシピだけじゃよくわかんないから、教えてくれないかな。また今度でいいから。その、お前の都合がよけりゃ……。駄目ならいいんだけど……」
「そんなこと」
未来は笑った。花のような笑顔だとクリスは思った。あるいはそよりと風がたって心をさわやかにしてくれる。
この少女に出会って、今こうやってたあいない会話をしていることを思うと、自分のこれまでの異常に満ちためちゃくちゃな人生も、てんで無意味ではなかったのかもしれないと、クリスはほんのすこしくらいは過去を肯定的に捉え、前向きになれるような気になる。
「最初にできた友達がお前でよかった」
クリスは素直な気持ちを言った。
「友達って、どういうもんか、まだよくわかんないけど、これからもよろしくな」
卓越しに手を差し伸ばす。その手を握り返される。未来の体温がもつあたたかさがかよってきた。
「こちらこそ」
未来はそう言って笑った。
クリスもつられて笑った。
――この笑顔と出会えたのだから、あたしの人生もわるくない。
クリスは心の中で柏手を拍った。
その音はきっと両親にとどいているに違いない。
その両親へ、手紙でも書いてみようかとクリスは思った。日本式の手紙を。
書き出しはそう、こんな感じでよいだろう。
拝啓、パパとママへ。友達ができました。
了