朝起きると、クリスは自分が風邪を引いていることを知った。
全身がそう言っているのである。
とえりあえず熱を測ろうと思ったが、家に体温計がないことに気づいた。
風邪薬を飲もうと思ったが、これも家になかった。
そもそも体がだるくて起きる気にならない。
薬を飲む前には、なにか腹に詰め込まなければいけなかったはずだ。冷蔵庫の中にそれらしいものは残っていただろうか。これが記憶にない。
今、何時だろうか。登校時間まであと何分だろうか。そんなことをうすらぼんやりとした頭で考えて、そういえば、と思い出した。たしか風邪を引いた時は学校を休んでもよいと教えられた。ただし、そのことを学校側に連絡しなければならない、とも聞いている。
のろのろと腕を伸ばして枕元の携帯電話を手に取った。アドレス帳に学校の連絡先が登録されていない。バカかあたしは。仕方がないので特機部二に繋いで「風邪で学校休むからあちらさんに連絡よろしく」と伝えた。相手は知らないひとだった。二課のオペレータと言えば友里と藤尭しかクリスは知らない。
クリスは天井を見つめた。
低いな、と思った。天井が低いのである。この低い天井にクリスはいまだに慣れないでいる。フィーネの邸の天井はもっと高かった。ここはフィーネの邸ではないのだと思うとクリスはどうしようもないこころぼそさをおぼえた。
フィーネはクリスにあまりやさしくなかったが、それでも風邪を引いた時には看病らしきものはしてくれたのだった。水をねだれば水をくれた。
(水がほしい)
とクリスは思った。口がどうしようもなく渇いている。唇も歯も舌も口蓋も喉も全部渇いている。だからクリスは、水を飲みたいと思った。
水を飲むためには、布団から出なくてはならない。布団から出て、台所に行かねばならない。体は布団から出たくないと頑固にへばりついている。
フィーネから解放されて、ひとり暮らしを始めて、自由が利くようになったというのは、とんだ思い違いだった。風邪ひとつでどうしようもなくなった自分が、フィーネに与えられたものとは比べものにならないほど狭い部屋に転がっている。
「フィーネ……水……」
いるはずのない人間にクリスは水をねだった。自分ではしっかりとそう言ったつもりだったが、実際にはそれがはたして声としておもてに出たどうか不安になるほど、はなはだたよりない貧弱さで鼻先の空気をふるわせただけだった。
もう一度同じ言葉を発する気力はない。まぶたをあげているのがめんどうになった。目をとじるとクリスはまたたくまで眠った。
目を覚ますと近くにひとの気配があった。
クリスは一瞬いやな想像をした。
ひたいにつめたいものを感じた。それが冷却シートだと気づいた時、クリスは自分の知り合いの何人かがこの部屋の合鍵を持っていることを思い出した。
それでもいちおうそばに座っている人物に、
「どろぼうか」
と訊いた。かすれたその声はきちんと相手にとどいたようだった。
「なんで泥棒が看病なんてするのよ」
彼女は笑った。
そりゃあそうだ。
クリスは笑おうとしたが、喉が鳴っただけだった。
盗まれるどころか物が増えた。未来のお小言と一緒に。体温計、冷却シート、解熱鎮痛剤、食べ物と飲み物。冷蔵庫の中は案の定ほぼからっぽだったらしい。それらを揃えたわけだから、けっこうな出費だったに違いない。
「ごめん、なおったら返す」
とクリスは言った。たったそれだけを言うのがずいぶんと疲れる。
「りんご買って来たけど、食べる元気ある?」
と訊かれたので、クリスはうなずいた。
「じゃ、剥いてくる」
未来は立ち上がって台所のほうへ行った。
(あ……)
クリスは未来の服を掴もうと手を伸ばそうとした。が、伸びなかった。思うようにうごかない風邪の体が怨めしい。
未来は台所に行ってしまった。
途端におとずれる、この孤独感はなんだろう。未来は帰ったわけではないのだ。
クリスは目をつむって、耳をすませた。
台所の音を注意深く聞いた。そこに未来がいて、今この家に自分ひとりでないことを神経質に確認した。
早く、早く、とクリスは心の中で急いた。
なかなか足音がしてこない。こちらに向かって来る音がない。
み、く、と唇だけそううごかした。
本当は声を出すつもりだったが出なかった。拭いきれない気恥ずかしさがあるにはある、風邪のせいでもある。
ふたりきりの時だけ使う、ひみつの呼び方だ。
クリスはまた、み、く、と唇をうごかした。
それが聞こえたわけではないだろうが、未来が切り分けたりんごを持って来た。盆を畳に置いて座って、クリスの肩に手を置いた。
「ひとりで起きられる?」
クリスはゆるゆると首を振った。
「わかった」
と言って、未来はクリスが体を起こすのをてつだった。
「お水とお薬も用意したから、食べたら飲んで、寝ちゃいなさい」
盆の上には、たしかに、りんごを盛った皿と、水をそそいだコップ、それに錠剤が三錠ある。
クリスの体はぐらぐらとゆれた。未来は制服のカーディガンを脱いでクリスに羽織らせると、自分の肩に寄りかからせた。
クリスはみょうちくりんな体勢でりんごを食べることになった。
朝から歯を磨いてないせいだろうか、口の中がきもちわるい。そういう状態でりんごを食べた。やはり、きもちがわるい、と感じた。味のほうは、
「すっぱい」
「全部はむり?」
「おいしい」
緩慢な手つきだが、気分はもっと軽快な感じで口の中にほうりこんでいった。
りんごを食べ終わったら、今度は風邪薬だった。
「糖衣錠だから」
とわざわざ言われたが、糖衣錠でなくても、粉薬であっても、クリスは飲める。どこかこども扱いされている気がしてならないが、どういうわけか彼女に対しては、そうされても不快な気分にもならない。おとなしくされるがままにされていたい気持ちのほうがつよかった。ようするにクリスは未来に甘えたかった。
薬を飲むと、ほどなく用を足したくなった。これも未来の肩をかりて、クリスはトイレまで行った。戻る途中に洗面所でうがいをした。口の中のぬめりをとりたかったのである。カーディガンを脱いで、頭以外をすっぽりと布団の中にもぐらせた。
寝る直前に時間を確認した。まだ昼前だった。
(そういえば……)
未来は学校のほうはどうしたのだろう。クリスはふと思った。答えはすぐに出た。どうもこうもない。クリスを看病するために自分も休んだのだろう。こんなことは、これきりにしなければならないと思った。揃えるものさえ揃えてしまえば、ひとりであってもなんとかなるはずのことだった。
「昼、っていうか夕ごはん、何時頃になるか知らないけど、とりあえず、おじやでいい? それともおかゆにする?」
と未来が訊いた。
「入りそうになかったら、あしたの朝にでもあっためて食べてくれたら」
「おじや、が、いい……」
とクリスは言った。
「うん、じゃあ作っておくね」
と未来は言った。
それを作り終えたら、彼女は帰ってしまうのだろうか。
クリスは手を伸ばした。伸ばして、未来のスカートの裾を弱々しく掴んだ。
なにか言おうとして口をひらいたが、言葉はなにも出てこなかった。
――そばにいて。
頭の中ではぐるぐるとそればかりがかけめぐっているが、いっこうにおもてに出てこない。ぱくぱくと魚みたいにむなしく口をうごかした。
「午後からは出るって言ってあるから……」
未来はそう言って、スカートを掴むクリスの手を、両手でやんわりとつつんだ。
クリスの顔がくしゃりとゆがんだ。泣きたくなるのをがまんしているためのゆがみだった。風邪を引くとおそろしいほどこころぼそくなる。今眠って、次に起きた時、部屋に自分以外の誰もいないのは、クリスにはとてつもなくこわかった。
フィーネと一緒にいた頃は、目を覚ますとだいたいちょうど仕事帰りのフィーネがベッド脇にいて、体の調子を、事務的な感じで訊いてくるのだった。
眠っている時ひとりでもなにも感じない。起きている時に孤独を感じたくない。風邪の日はとくにその思いが強い。
「み、く、……」
クリスは名前を言った。弱々しく、かぼそく、かすれにかすれた声だったが、未来とその名を呼んだ。
「ごめんなさい、でも、学校行かなくちゃ」
未来はクリスの手をほどいた。力のこもらないクリスの指はあっさり未来のスカートを離した。
「放課後、寄れそうだったらこっちに寄るね」
と言って、未来は多少後ろ髪の引かれながらも、それを断ち切るようにすっくと立ち上がった。
――ああ!
クリスは心の中で叫んだ。離れていく。未来が離れていく!
実際未来は台所にクリスの夕食を作りにいっただけで、まだクリスの部屋を出たわけではないが、クリスには未来がどうしようもなく遠くに離れていってしまうような気がしてならなかった。
なるほど、眠っているうちは未来はここにいるかもしれない。しかし、起きた時はどうか。問うまでもないことだ。その時には未来はここにはない。
クリスは意地で起き上がった。布団に指を噛ませて、力いっぱいに体をおしあげ、布団から這い出た。
ふらふらと未来の背を追って、近づいていく。
未来が気づいて振り返った。
「クリス、寝てなきゃ――」
寝るものか。クリスは内心で反発した。寝てるうちにいなくなるのだったら、なんで眠ってやるものか。どうせあのバカが風邪を引いた時はつきっきりで看病するくせに。そんな拗ねがクリスの唇をとがらせた。
クリスは流し台に倒れ込み、そのまま足を曲げながら、流し台に背をあずけ、そこに膝をかかえて居座った。
「体、ひえるよ」
と言われても、クリスは無視した。床のひんやりとした感触が下から上へとのぼっていく。熱っぽい体が、寒い、と訴えてくる。あれもこれもクリスは無視した。
頭上に溜息が落ちてきた。そのあと、カーディガンが落ちてきた。
「知らないから、もう」
未来は怒っているようだった。
クリスはやはりそれを無視して、カーディガンを肩にかけた。
数分もしないうちに、クリスに眠気がおそってきた。
その眠気と戦うことやはり数分、クリスは座ったまま眠った。
次に起きた時、クリスは布団の中にいた。
考えるまでもなく未来がここまでクリスを運んだのだった。
手にぬくもりを感じた。
それは未来の手の温度だった。
繋がれた手の先で、未来が眠っていた。
今が何時なのかはわからないが、きっと未来は午後の授業も休むことになっただろう。それは容易にわかった。
風邪薬が効いているのか、体はいくぶん楽な感じがした。
起きたら謝らなきゃ、とクリスは思った。
そう思うと同時に、あるいはそれ以上に烈しい気持ちで、このままここで眠りつづけたらいいのに、とも思った。そうすれば彼女はクリスのそばにいつづける。眠りついて一言も喋らず、クリスのほうをまったく見ないが、かまうものかと思った。
そういう野卑で下劣な妄想に身を浸しながら、クリスは手からつたわってくる未来の体温を逃すまいとすこしだけ握り返して、それから、ちょっと嗄れてはいるが、いたって明瞭な声で、しかしちいさく、こう言った。
――どうか、あいつのところには帰ってくれるなよ。
了