Andor Genesis

 彼女の身長は入学時にはすでに一六五センチメートル近くに達していた。
 同じ学年で彼女くらい上背のある生徒はちょっと見当たらない。
 校内のひとでごったがえすような場所でも、彼女がどこにいるかは見つけやすかったし、仲間内で集合する時は目印にもなった。
 それから彼女は姓がアで始まるために、朝礼などの集会ではだいたいクラスの先頭に立つので、響は彼女の後頭部をながめながら、その頭の中が今どんなふうになっているのか想像して退屈をまぎらわすことが多かった。彼女のすぐ後ろの板場弓美の頭の中は想像するまでもない、アニメのことでいっぱいだろう。
 ――ビッキー。
 と初めてそう呼ばれた時、響はそれが自分の名であることに気づかなかった。
 入学式から十日ばかり過ぎた頃のことだったと思う。響と未来が昼食をとりに食堂へ行こうと席を立った時、彼女は初等部から一緒だったという詩織を伴って、その前に立ちはだかった。
「お昼、一緒にどう」
 ひょろりとした長身の、高い位置にある口から、そんなことを言ったのだ。そう言ってからぐるりと首をまわして、
「そっちのキミもさ、どうかな」
 と、ひとりで弁当箱をひろげていた弓美にも話しかけて、結局五人で食堂に行き、昼食をとったのだった。
 その夜、響は胸がなにやらもやもやして堪らなかった。こういう心理状態をまったく想定していなくて、処理の仕方がわからなかった。
「一瞬だったね」
 ベッドにもぐってから、天井を見上げながら、響は未来に言った。
「ん、なにが――」
「友達じゃなくなるのも、友達になるのも、一瞬だなあって」
 拍子抜けしたという表現が適切なのかもしれない。
「友達、……そうね、一瞬で友達になっちゃったね」
 と未来は言って、響の手を握ってきた。響はそれを握りかえした。未来だけが響から離れていかなかった。響はこのたったひとりになった友達にくっついて、地元を脱出して来たのだ。
 新しい環境で新しい友達ができることを、望んでいなかったわけではないが、なんともあっけなく、その新しい友達が一気に三人できてしまったことが、響を戸惑わせた。こんなに簡単でいいのだろうか。
 昼食中の彼女のかろやかな声が耳に残って忘れられない。
「ビッキーとヒナはさア」
 パスタをすくいあげながら彼女は言った。
「高等部からだよね。地元? それとも越境組?」
 それが誰に話しかけたものなのか、響はすぐにはわからなかった。
 彼女の視線が対面する自分に向けられているのに気づいて、ビッキー、そうだ、たぶん彼女は、ビッキー、と呼んだ、それが自分であると響は知った。
「ビッキー?」
 響は自分を指さした。
「そう」
「ヒナ?」
 次に未来を指さした。
「うん」
 立花響と小日向未来。で、ビッキーにヒナ。なるほど、と理解するのにすこし時間がかかった。未来のどこにヒナがあるのかわからなかった。まさか姓から抽出していたとは。
「ああと、うん、越境組」
 と響は答えた。
 へえと首を上下させた彼女の目が弓美に向けられた。
「そっちは?」
 と言った時、彼女は大いに後悔したことだろう。昼休憩が終わるまでの残り時間たっぷり三〇分ほど、響たちは弓美がいかにしてリディアンに転入し、ここでなにをなそうとしているのか、熱弁を聞かされるはめになった。
 学校であれほど賑やかな昼食の時間をもったのは、ずいぶんとひさしぶりだった。
「楽しかった?」
 楽しくなかった? とは未来は訊かなかった。そういう言い方を未来は響に対してしない。
「うん、楽しかった」
 それはたしかだ。
「楽しいと疲れるね」
 と響は言った。
 未来は笑ったようだった。枕のこすれる音で、未来がうなずいたことがわかった。
 楽しかった。そして、疲れた。楽しさのために生まれたここちよい疲労感だ。が、それを幸いなものとしてすなおに受け取ることに、なんとなくためらいがあった。その原因が響にはわからない。
「ヒナ、だってさ」
 響は笑った。呼び方をそうあらためるつもりはないが、なかなかかわいらしい愛称だと思う。
「ビッキーかあ……」
 響は自分につけられた愛称を呟いた。
 そんなふうに呼ばれたのは初めてだった。
 胸のもやもやに名前をつけるとしたら、それは照れというか気恥ずかしさを含有した、
「嬉しい」
 になるのだろうか。口に出してみると、ぴたりと嵌るような、どこか嵌りきらずにずれているような、そんな感じがした。
(わからない)
 愛称をつけられたこと自体が嬉しいのか。それともそのことを親愛の証として差し出されたことが嬉しいのか。
「ああ、やめやめ、寝よう!」
 あれこれ考えてもここちよい疲労がここちよくない疲労になるだけだろう。
 響は気分を切り替えて、
「おやすみ」
 と言った。
「おやすみ」
 未来の声を聞いてから、響は目をつむった。

 翌日の昼食後のことだった。
「ビッキー、ちょっといいかな」
 響は神妙な顔つきの彼女に誘われた。未来たちを残して食堂を出ると、青い芝生の広がる中庭に連れて行かれた。
「まあ、まあ、座ってよ」
 と言って彼女は先に腰をおろした。響もそれにならった。
「ちょっと相談があるんだ」
「えっ、相談? ――私でいいなら、のるけど……」
 昨日の今日でずいぶんと信頼されていると響は思った。やはりどうにも、いろいろなことが簡単すぎる気がしてならない。
「ゆみっちのあだ名どうしようかなって」
「ゆ……ゆみ、ごめん、なんだっけ」
「ゆみっち」
 やはり誰のことを言っているのかわからなかった。
 アニメ好きの板場弓美のことだと説明されて、ようやく理解した。そして、理解できないことが発生した。
「どうしようもなにも、もうつけてるんじゃないの?」
 その「ゆみっち」というのが、あだ名でなくてなんだというのか。
「いやあ、これはいちおう、仮のものだから、正式なものじゃないから。とりあえずつけとかないと呼ぶに呼べないし」
 ふつうに苗字なり名前なりで呼べばいいと響は思うが、彼女はそれはしたくないようだった。
「なにがいいかなあ」
 彼女は真剣に悩んでいる。やがて口をひらいて、
「バキュラ……」
「いや、女の子にそれは」
 重い声で吐き出された候補を響は阻止した。女の子にそれはあんまりだ。
「じゃ、タバ」
「うーん」
「イマイチだね」
 そのほうは彼女は自分で捨てた。
「そういえば『電光刑事バン』っていうアニメが好きだって言ってたよね」
「え、なにそれ知らない」
 初耳だ。いつのまにそんな情報を弓美から引き出したのだろう。
「主人公のバンが好きらしいし、板場だし、バン、でどうかな」
「それも女の子にどうかなあ」
 ヒナ、みたいなかわいらしいのをつけてあげられないものか。と思ったが、彼女は昔馴染の詩織のことを姓の寺島からとってテラジと呼んでいるらしい。これはべつだんかわいくはない。
「ゆみっちだといけないの?」
 と響は言った。女の子らしいし、ふつうだし、無難だと思う。
「いや、これはあくまで仮だから」
 響の提案を彼女は一蹴した。彼女なりの、そこは譲れないこだわりなのだろう。
 ひとつ、目の前の少女の人物像が紐解かれた気がして、響はまた胸がもやもやとしてきた。
 そのうちに彼女の真剣さが響にも染みはじめた。
 ふたりで腕を組んだり、顎をなでたり、首筋を叩いたり、ウーンとうなりながら、考え込む。板場弓美の姓名にふさわしい最高の愛称を考える。
 今度は響のほうから思いついた愛称を言ってみた。
「ユーミン」
「舟唄?」
「宙船だよ」
「ユーミンって顔じゃないよね」
「バンって顔でもないと思う」
 響は言い返した。
「トラバーユ」
「どこから虎が出てきたの」
「どこからだろ?」
 彼女はそう言いながら溜息を吐いて、
「うーん」
 それからまた、
「バン」
 さっきと同じあだ名を言った。
「ウォークマン借りて聴かせてもらったんだけどさ、主題歌。これがまたけっこういい歌なんだ、なんかやたらに熱くってさ。歌ってるのはバン本人なんだけど――」
 なにやら語りだした。
 響は感心した。同時に戸惑った。
 ――昨日の今日で。
 そうだ。自分たちは昨日初めて交流をもったのだ。だというのに、彼女はすでに弓美から音楽プレイヤーを、というよりイヤホンを借りて音楽を聴くくらいの仲になっているのだ。そして、そこまでの仲になっておきながら、いまだに愛称が定まらないことに悩み、それを響に相談をもちかけた。
 一両日でそれだけの関係が構築されてしまっている。
 響はどうしても思ってしまう。こんなに簡単でいいのだろうか。
「いいんじゃ、ないかな」
 その声に、響はハッとした。
 一瞬、心を読まれたのかと思った。
「え、なにが――」
「バン」
 彼女の中ではすっかりバンが最有力候補になっているらしかった。
「バン……」
「気に入っちゃったんだ、それ」
 弓美の愛称はどうやらバンになりそうだった。
 それにしても、まさか数ヶ月後に、バンこと板場弓美にその『電光刑事バン』に登場する置き引きカマキリとかいう怪人のコスプレをさせられ、しかも舞台で主題歌を歌わされることになろうとは、この時の彼女は思いも寄らなかっただろう。

 その数ヶ月後の学園祭、すなわち秋桜祭がまもなくだった。
 実のところ、これだけの時間が経過しても、響はいまだにこのビッキーという愛称に馴染めなかった。どうにも自分のことだという感覚をもてない。つけた当人以外は誰も響のことをビッキーなどとは呼ばない。それも原因としてあるにはあった。ヒナ、テラジも同様に、彼女だけがその名で友人を呼ぶ。
 弓美の愛称・バンは本人からかなりの不興を買ったらしく、最初の頃に数回呼んだあとは、気まぐれにその呼び方は変わった。それでも諦めきれずに時々「バン」と呼んでは弓美に怒られていた。
「やあ、ビッキー、ヒナ。おはよう」
 詩織、弓美と連れだって、彼女が声をかけてきた。
 立花さんと呼ぶ詩織や、響と呼ぶ弓美と比べても、彼女に声をかけらた時は、二三秒反応が遅れる。響はたまにそれがもうしわけなくなる。
 朝の教室は秋のすずしい空気に充たされている。
「最近、元気ないよね、あんた。いまさら夏風邪?」
 弓美が響に体を寄せて言った。遠回しにバカは風邪を引かない、と言っている。
「仕事のことでいろいろあって」
「あー、マリア・カデンツ、カデン……マリアと翼さんのライブのあれのせいかー」
 弓美はそれで納得したようだった。
 月の欠片落下事件の頃に、旧リディアン校舎がノイズに襲撃されたごたごたの中で、その仕事のいろいろは全部弓美たちに知られてしまったが、三人とのつきあいは今もつづいている。変わりなく、というわけでもない。一般人の立場からそれこそいろいろとサポートしてくれる、気の好い友人たちである。
「ビッキー、ちょっといいかな」
「うん」
 誘い出されて、今度は階段下に連れて行かれた。
「イタQっていうのはどうだろ?」
「痛いチョロQ?」
「いや、さ、アニメでそんな感じのあだ名の子がいたもんだから、急にひらめいて」
 女の子にそれはあんまりだ。
「ゆみっちがいいと思う」
 と響が言うと、
「でも、ゆみっちは仮だから」
 と彼女は溜息を吐いた。なにがなんでも「ゆみっち」を正式な愛称にはしたくないらしい。
「ビッキーは、落ち込むと、ヒナの顔がこわくなるね」
 彼女は突然話題をかえた。
「ビッキーはあんまりわかんないけど、ヒナはわかりやすい」
「どういうこと?」
 彼女の言っていることこそ響にはわからない。
「ビッキーの気持ちの浮き沈みは、ビッキー見てるより、ヒナを見たほうが手っ取り早く把握できるってこと」
 彼女は人さし指で響の眉間をついと押して、
「ここがね、ヒナはすごくこわくなる。それで、ああ、ビッキーになんかあったな、ってわかる仕組みになってる」
 と言った。
 ヒナ、ビッキー、ビッキー、ヒナ。やはり耳に馴染んでこない。彼女の口から繰り返し吐き出される愛称は、彼女だけが使用している。ほかの誰かが使ってはならない決まりはないが、現状は完全に彼女専用の愛称だ。みんなに浸透させたいと本人は言っているが、さて、どこまで本気なのか。
「あっ」
 と響はあることに、いまさら思い至った。
「どしたの」
 みひらかれた目がこちらを見下ろしている。暗がりの下でも明るさを保つまなざしだった。ひょろりと長い背はまたすこし伸びたようだった。――これはそのうち翼さんを越えるかもしれない、と響は思った。
 響は人さし指を伸ばして、彼女の鼻をちょっとだけ押した。
「あだ名ないよね」
 友人にへんな愛称をつけてまわる当の彼女には、愛称というものがなかった。
 響が指を引っ込めると、彼女はにんまりと笑った。
「なになに、ビッキーがつけてくれるの?」
 彼女の目は期待できらきらとかがやいた。
 そんなつもりで響はそう言ったわけではないのだが、なんだか期待されているみたいだからその期待に応えたい気分になった。
「うん、かわいいの考えとく」
「とびきりかっこいいのでお願い」
 かっこいいのが彼女の好みらしい。
 響はなんだかおかしくなって笑った。頭上に笑声が落ちてきた。彼女も笑っていた。
「かっこいいほうがいいの? いかついのとか、男の子みたいなのとか」
「そりゃあ私はほら、始まりの名を持つ者だから? やっぱり大物の風格はほしいよね?」
 同意を求められた。そうだね、と響はてきとうに相槌をうった。
 大物と言えるものなのかどうかはわからないが、仲間内のリーダー格は間違いなく彼女だ。みんなでなにかをする時に音頭を取るのもだいたい彼女だった。響は弓美と賑やかし役で、未来と詩織がそれをなまあたたかい目で見守っている感じだった。
 初めてビッキーと呼ばれたその日から、一月足らずで、そんな関係が構築された。いとも簡単に、そういうふうに、できてしまったのだ。
 久方ぶりで響は胸がもやもやしてきた。
 F.I.S.のためにかかえるもやもやとは全然違う、とてもなつかしくてここちよいもやもやだった。この感情の正体を響は今も掴みかねている。というより、もうこのまま放置してもかまわないような気持ちになっている。これはそもそもがそんなものなのだ。詮索して正体をあばくようなものでなく、その身をすなおに浸せばいいものだ。そう納得しかけているのだった。
「じゃあ、とびきりかっこいいの考えるね」
 と響が言うと、彼女はいっそう目をきらきらさせた。口もとがゆるんでいる。嬉しそうだった。愛称をつけることはあっても、つけられた経験はないのかもしれない。
 期待に応えられたらいいなと響は思った。
 予鈴が鳴った。
 ふたりは階段下から出た。
 教室に向かって歩きながら、響は考えた。
 彼女の本名よりかっこいいものがあるのだろうか。あのとびきりかっこいい本名よりもかっこいい愛称なんて、そんなものが。
 ついと視線を上げれば、高い位置にある見慣れた後頭部があった。
 友人にへんてこな愛称をつけるのが好きな背丈のひょろ長いアシンメトリーのショートヘアの彼女の姓名を、安藤創世という。

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