calling

 親しくなるにつれ、会話の内容もお互いの奥に入ってくるものだから、そういう時、たとえばリディアン編入前のことを訊かれると、クリスはそのための嘘を用意しなければならなかった。
 両親は共働きだったが、出張先の海外で亡くなった。自分は日本にいて親戚の伯母さんの家にあずけられていたが、その伯母さんも先頃亡くなったので、こちらに引っ越して来た。伯母さんのところで暮らしていた時は学校には行かず、勉強は伯母さんの手ほどきを受けていた。……用意したシナリオはおおむねそんなところだ。
 その伯母さんというのがその界隈では超のつく有名人だと、ちょっと自慢げに話してみたのだが、名前を出してもいまひとつ食いつきは悪かった。音楽学校の女子高生には「天才科学者の姪」よりも「人気アーティストのご友人」という立場のほうが、よほど興味を惹かれるらしい。
 クリスはご友人というところに訂正を入れた。友達ではないだろうと思う。バイト先の先輩、と言おうとして、翼の表の仕事を考えるとこれはむりがあるかなと思いなおして、自分の伯母と翼の叔父が大学時代からの友人で職場も同じだったので、転入前からまんざら縁がないわけでもなかった、と説明した。こちらで暮らすように提案したのも翼の叔父である。
「でも、雪音さんって寮には入ってないよね?」
 そう言って五代はペットボトルの烏龍茶をひとくち飲んだ。
 近頃昼食は教室でとることが増えた。ほかの三人が揃って弁当なので食堂に行く理由がなく、クリスはその三人から逃げる理由がなくなったのだ。以前は、さっさと逃亡して隠れて食べていた。それがなくなった。
「アパート借りてそこに住んでる」
「それも翼さんのおじさんの紹介?」
「そう。家具とか色々揃えてくれた」
「へえ、どんなひとなんだろ……」
 五代の目はきらきらとかがやいている。歳の離れた男性への純粋な憧れだろう。たぶん、翼を男にしてすこしおとなにしたような、そういう美丈夫を、言ってしまえば緒川のような外貌を想像しているのではないかとクリスは思った。
「ライオンだな」
「ライオン!?」
 驚いて叫んだのは五代ばかりでなく、綾野と鏑木も同じだった。翼のイメージとそのライオンが繋がらないのだろう。
「翼さんはやっぱり鳥って感じよね。翼さんだし。鷹っていうか鷲っていうか、とにかくするどい感じの鳥」
 綾野は天井を仰いだ。天井のその先の空で翼が羽ばたいているのかもしれない。
「ライオンに羽根がはえたら……、や、鳥の体がライオンになったら――」
「グリフォン?」
 綾野の言葉を鏑木が繋いだ。
「キマイラじゃあないの?」
 さらに五代が言うと、
「キメラは羽根ないよ」
 と綾野が言った。そうだっけ、と五代は髪を掻いた。
 クリスは五代と綾野を交互に見て、
「詳しいんだな」
「ほぼ漫画の知識です。へへへ」
 綾野は笑った。
 神話が好きなのだろうか。つついてみると、綾野は饒舌になった。
 クリスは各国の神話についてそれほど知っているわけではないが、フィーネが喋り詰めに喋ったせいでいやでも頭に叩き込まれた知識がすこしばかりある。
 フィーネはその物語に出てくる超常の存在をカストディアンと呼んでいた。
 クリスは頬杖をついて、目をつむり、うーんと考え込んだ。
「男の趣味悪かったな。……」
 とクリスは知らず呟いた。
「男の趣味? 男の趣味って?」
 弁当をかたづけていた五代が食いついてきた。
「んーと、伯母さんの好きなひとがさ。話、聞けば聞くほど最低野郎で」
 翼の叔父・弦十郎ととっととくっついていれば、話はもっと簡単に済んだのではないだろうか。弦十郎の男振りを知る人間のひとりとして、クリスはそんなことを考えてしまうのだ。
「その最低さんとは結ばれたの?」
 と鏑木が訊いた。
「ううん、告白する前に死んじゃった」
 嘘は言っていないはずだ。実際、そのようになった。なにせ、告白の邪魔をした張本人がクリスなのだ。
「どうせOKもらえるわけないし、もらったらもらったで不幸になるだけだし、死んじまったのはかなしいけど、おかげで告白できなくて、それはそれでよかったと思う」
 とクリスは言った。
「雪音さんってさ」
 五代は目尻を親指でおさえて、
「やさしいよね」
 と言って笑った。
 五代の言葉の意味をクリスは理解できなかった。自分ではむしろ不謹慎なことを言ったつもりだった。それに対して、そういう言い方をしてくれる彼女のほうが、よほどやさしいのではないだろうか。クリスはそう思った。
「お前のほうが」
 と言いかけたが、この言い方はいかにも突き放した感じがして、あんた、と言いなおそうとしたが、このほうはつめたい感じがして、このさい姓名で呼んでみようかと思った時、クリスは愕然とした。
 目の前にいる少女の姓名がにわかに浮かんでこなかった。
 初めて声をかけられた時に自己紹介をされた記憶がかすかにある。しかし、思い出せない。
 三人はお互いの名前をほとんど呼び合わない。会話の中で頻繁にあがるのはなんと言っても「雪音さん」だ。話題はたいていこの未知の転校生への関心で充たされている。
(そうだ、電話番号を教えてもらってた)
 クリスはそのことに思い当たった。アドレス帳を開けば彼女の姓名も記載されているはずだ。
 ひとまずこの場は、
「ありがとう」
 と礼を言って終わらせた。

 家に帰ってから、クリスは制服のまま寝転がり、ポケットから取り出した携帯電話のアドレス帳を開いた。
 すっかり忘却してしまった三人の友達の名は、全部平仮名で登録されていた。
  あやのこみち
  ごだいゆき
  かぶらぎおとめ
 誰が誰なのかわからない。
 クリスはかばんの中からノートを取り出して、その名前を書いてみた。
  アヤ野コミチ
  五代ユキ
  カブラギ乙女
 漢字は推測だ。丸二ページが埋まるほどその三つの姓名を書きまくった。
 それらを口に出して言ってみようとして、急にへんな羞恥心が湧き起こって、できなかった。
 かわりに、ノートのほうにさらに名前を書きなぐった。書くのは平気だが、それを読めない。読もうとすると恥ずかしくなって唇がうまくうごかない。これでは本人たちに向かって呼ぶなどと、たとえその名が誰のものかわかっていたところで、とうていできないことではないか! クリスは自分を叱った。それから頭を抱えた。
 ――雪音さん。
 と眼鏡をかけた少女がそう呼んだ。その声はおとなしそうな外見に反して明るくはきとしていた。
 ――雪音さん。
 とヘアバンドをつけた少女がそう呼んだ。その声は見た目そのままに静かで澄んでいた。
 ――雪音さん。
 とポニーテールに髪を結った少女がそう呼んだ。その闊達な声は頭上から降って来た。
 それでは自分は、どんな声で彼女たちを呼べばよいのだろうか。
 クリスは仰向けになって、天井にノートを突き出した。
 われながら汚い字だと思った。汚い字は名前の羅列の後半に進むごとにさらに酷くなっていく。最後のほうはもうまるで読めなかった。
 ――こんな名前を、誰にどう、呼べっていうんだ、ええ、雪音クリスよ。
 クリスはノートを放り投げようとして、そこに友達の名があることを思い出し、ていねいに閉じて、畳の上にゆっくりと置いた。
「はあ」
 天井に向けて吐いた嘆息は、またたくまでクリスの鼻先に落ちた。
「フィーネ、なあ、あたしは、どうすりゃいいんだ」
 クリスはもはやこの世には存在しない女に問いかけた。
 設定上は雪音クリスの伯母ということになっている女。学校に行かないクリスに学問を教えていた女。しかし、友達との接し方はついぞ教えてくれなかった女。
「フィーネ……」
 ――ああ、この名前だけはよどみなく出てくるというのに。

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