初夜問答或いはその後

 敷布団の上でふたりは長時間対面していた。
 翼は正座でクリスは胡座だった。
 ふだん寝所は別々なのだが、この夜ばかりは同じ部屋の同じ布団の上に、寝るのではなくて座っていた。
「いいのか?」
 腕を組み、真剣なまなざしを、翼は何度もクリスに向けて、何度もそう言った。
 またかとクリスは思った。本当に何度目だろうか、このやりとりは。
「いいのかって、いいに決まってるだろ。てか、早くしろよ!」
 クリスは壁掛け時計を指さした。布団の上に座って、かれこれ一時間が経過している。やることやるためにこうやってわざわざ人の寝室に入りこんで来ているのに、らちの明かないことこの上なかった。
「だがなあ……」
 翼はなかなか事に進もうとしない。
「じゃああたしがやるよ。どうせあんた、自慰もしたことねえんだろうしさ。ほらそこ寝っ転がれよ」
 自慰、と言われて顔を赤らめるこの女は、なにを考えて自分を情事に誘ったのだろうか。人気アーティストの考えることはクリスにはよくわからない。
「ほら、早く寝ろって。全部こっちでやってやっから」
「それは駄目だ」
 きっぱりと断わられる。先輩としての矜持がどうたらで、いたされる側には立ちたくないというか寝たくないらしい。わがままな人だ。人気芸能人はこれだから困る。
 さっきからまったく進まない。
「じゃあ、さっさとやってくれよ」
 ああもうと天井をあおぎ、クリスはそのまま仰向けに寝た。
「ほら、やれよ」
「しかしなあ」
 この期におよんでなにを躊躇っているんだか。
 一度起き上がって、クリスは自分の寝間着のボタンを外していった。
「待て、待ってくれ、雪音、それは私がやる。やらせてくれ」
「じゃあ、よろしく」
 とクリスがあっさりと任せた。
「え」
「いや、え、じゃねえだろ」
「いいのか?」
「それ何回目だよ! いい加減つづきやれって!」
 クリスは怒りにまかせて布団を叩いた。ぽすんぽすんと間抜けな音が立つ。
「しかし、なあ……」
 いいのかとしかしの繰り返しだ。いいに決まっているから誘いに乗ったのだし、誘った張本人がしかしと躊躇うのはなぜだ。
「本当に、いいのか?」
「それ、どういう意味で訊いてンの?」
 とクリスが訊き返すと、翼は腕を組んだまま、目をつむって、黙り込んでしまった。
「おーい」
 声をかけてみるが反応がない。思考に没頭しているようだった。眉間にこれ以上ないくらいしわを寄せている。
「せんぱーい?」
 翼は一度顔を伏せた。それからさっと首を戻すと、変わらぬ真剣なまなざしで、
「私は初めてなんだ」
 と言った。
「知ってるよ」
「つまり、なんの技術も知識もない」
「そりゃあそうだろう」
「とどのつまり相当に下手だと考えられる」
「巧かったらAV男優の才能あるぜ、あんた」
「私は女だが」
「ジョーダンだよ、ジョーダン」
「で、かまわないのか?」
「なにが?」
「下手な相手にされても、かまわないのか」
 と言った翼は、なんだかちょっとどころではなく情けない顔になっていた。
「気にしてるんだったら、あたしがリードしてやるって、さっきから言ってんだけど」
「だからそれは駄目だと言っている」
 そこだけは本気で譲れない一線らしい。頑固な人だ。頑固であることが悪いとはクリスは思わないが、この頑固さはここでは無用の物だろう。
「じゃあヘタとかウマイとか気にせずにとっととやれよ。こっちゃ気にしてねえから」
「本当か、本当に気にしてないか? とてもとても痛いかもしれないし、すこしも気持ちよくないかもしれないぞ?」
「しつっこいなー」
 クリスは呆れた。ついでに飽きてきた。情事に誘われてちょっとたのしみにしていた自分がばからしくなってきた。こんな調子じゃあ、とてもそんな気分に持って行けない。
「いや、これだけは念入りに確認しておかなければならぬことだ。雪音、お前自分を偽ってはいないか。痛いのがいやならそう言っていいし、がまんすることもないんだ。先輩の誘いだからって、いやいや従うことだってないんだ。いや、私はその、雪音とそういうことをしたいから誘ったわけで、断わられると、すこし、つらい、ことではあるが、それでもだな、雪音の心と体と思えば」
「話なげえんだよ!」
 クリスは寝間着を、翼が「あっ」というまに脱ぎ捨て、立ち上がった。
 ひどく挑戦的な気分でクリスは翼を見下ろした。
 南米の誰とも知らない男どもに玩弄され続けた肉体である。
 しかし、自惚れるならば、この風鳴翼をとりこにしているに違いない女の、生の姿でもあるのだ。
 その裸体を見て、生唾のひとつでも飲み込んで、粘性のある熱い息でも吐き出せ、とクリスは思った。
 翼は腕をほどいて、クリスの裸体を、足の爪先から、膝、腿、股間、腹、乳房、と視線を上げて、じっくりと、生物の授業で解剖されたカエルでも見るみたいに、なにかを観察する目で、見上げていった。
 やがてクリスと翼の目があった。
 その目には、興奮とか情欲とかいうものが全然なかった。
 ほとんど無表情な翼のそこからあえて、なにかの感情を当て嵌めるとしたら、それはあわれみに他ならなかっただろう。この人は結局クリスの体になんら魅力を感じず、欲情せず、ただ暴力にさらされつづけた傷だらけの体をあわれんだだけなのだ。
 クリスは舌打ちした。
「もういい」
 寝間着をひっつかんで、部屋から出ようとした。
 翼に腕をつかまれて、とめられる。
「なんだよ」
「確認しておきたいことがある」
 またか、とクリスは思った。あるいは、まだあるのか、とも思った。
「私は雪音を抱きたいと思っている」
「そうかい」
「私は、雪音が雪音だから抱きたいと思っているのだ」
「へいへい」
「まじめに聞いてくれ」
 と翼に言われて、クリスは、ぶかっこうながら正座らしき姿勢をとった。すぐに足がしびれるので早めにすませてほしいものだ。
「雪音を愛しているから、そうしたいと思った」
「そりゃどうも」
 翼は言葉に吝嗇なたちではないが、こういうふうにまっすぐに愛情をぶつけられるのも珍しいことだ。こりゃ明日は雨だなとクリスはぼんやり思った。
「だが、私はおそらく、下手だ」
「おそらくってか、十割下手だろ、あんた」
 クリスがはっきりと言うと、翼はちょっと傷ついた顔をした。
「私がわがままを押し通せば、雪音は痛くてつらい目に合うことになる」
「そりゃヘタクソ相手だとそうなるわなあ」
 すこし寒くなってきたので、クリスは寝間着を肩から被った。
「情欲にまかせて雪音を痛めつけるようなことはしたくないし、それを仕方のないことだ、とすましてほしくもない」
 と翼は言った。
 ようやくクリスは翼の逡巡に合点がいってきた。
「別に、あんたがどんなにヘタクソでも、暴力で痛めつけられたなんて思わないし、仕方ないんだって諦めやしねえよ。こっちだって、抱かれたくて抱かれに来たんだ。いやがる理由なんてない」
 と言ったあとクリスは、まだ言い足りない気がして、また言葉を追加した。
「愛してるよ、風鳴先輩。愛する人に、あたしは今、抱かれたくてたまらない。あたしの愛情に応えてくれ。あたしを愛してるなら」
 クリスはそれでもまだ足りない気がした。
 さらに言葉を探していると、目の前にはもう、いつもの頼もしい風鳴翼先輩がいた。
 肩に手をおかれ、ゆっくりと体を押し倒された。
「なにをどうすればいいのか、いちおうの知識は仕入れてきているが、かってはよくわかっていない。都度、おしえてほしい」
 女にしては低い声で、ただやさしい声でもあった。
「じゃあ、キスして――」
 そう言った瞬間、クリスの唇は翼のそれで塞がれた。翼の口の中に舌を入れて掻き回す。引っ込めて、こっちに来いと誘う。翼の舌がクリスの口内に入って来ると、ふたりで舌を絡めあった。
 翼の手をつかんで、自分の乳房に誘った。どうすればいい、とは翼は訊いてこない。訊かれたらとんだ羞恥プレイになっていたことだろう。翼にその意識はもちろんあるはずもないが。乳房を揉ませて、先端を摘ませた。どちらも力が弱いので、クリスは何度か「もっと」と催促した。躊躇っているのは、クリスを痛めつけることをしたくないからだろう。なかなか指に力を入れてくれない。「もっと」とクリスは言った。揉ませながら、鎖骨や首を舐めさせた。ようやく、なんとなくだが愛撫がかたちになってきた。
 はあとクリスは天井に熱い息を吐いた。翼の長い髪が降りてきて、クリスの裸体をちくちくと刺す。それがみょうに気持ちいい。
「下に――」
 とクリスは言って、膝を立て、脚を開いた。
 翼も体を起こした。
「見えるか?」
 とクリスに言われた時、翼はついに生唾を飲んだ。
「見える、ああ、見えるぞ」
 翼は痛ましげに頬を歪ませた。想像していたとおりの反応だが、クリスはどこかで風鳴翼という超人的な存在への失望感を味わっていた。
 いいのか、とは翼は訊かなかった。
 歪みきった赤いそこを指で何度もなぞり、その入口を探すように這わせた。
 ――間違えるなよ。
 と言おうとして、クリスは自分を笑った。間違えようがないではないか。こんなグロテスクに広がりきったこの場所を。――ああそっか、とクリスはにわかに得心した。これでは翼が躊躇うわけだ。クリスは自分の肉体に諦観を持っている。こんな体を持ってしまった自分の存在に諦めを持っているのだ。
 ほんのすこしだけ、翼の指がそこに差し込まれた。ぞわりした感覚がそこだけに発生した。全身に巡るまでにはまだ到っていない。
 翼の手はその場所にとどまって、ちいさくうごきつづけたが、奥のほうにはなかなか進んでこなかった。
 クリスはじれったさを感じた。しかし、翼は初めてなりにもクリスをどうにか快楽の中だけで過ごさせようと必死に気を遣っているのだろう。
 戦場での一瞬の判断力と行動力の確かさに比べて、この臆病なまでの慎重さはなんだろう。
 この動きの鈍い手は何者の手だ。本当に、あの何事にも俊敏な戦士の手なのか。そうでもあるし、そうでないとも言えた。
 愛情の手だとクリスは思った。愛情によって体を抱かれると、こういう事態になるのだと今初めて知った気分だった。これが風鳴翼の愛情の速度なのだとわかった。
 いわたりの指が、じわりじわりと、クリスの体内に入ってくる。その指は時々襞を爪で引っ掻いた。クリスはその痛みをがまんせずに、口に出した。
 翼はさらに慎重に、時間をかけるようになったが、クリスはもうじれったさを感じなかった。
 たった一本の挿入された指が、体内を烈しくうごきまわるようになると、クリスは全身をふるわせ、両手を伸ばして、翼を抱き寄せ、くちづけた。舌は入ってこなかった。そこまでの余裕はないのだろう。クリスも唇だけのキスで満足だった。ただ肉体の触れている箇所を増やしたいだけなのだ。
 陰部に差し込まれる指の数は最初の一本きり増えることはなかった。そこ以外の翼の体のいかなる箇所もうごかなかった。クリスは自分で自分の乳房をまさぐった。その手に翼の手が添えられたが、それだけで、なにかするわけでもなかった。
 クリスは嬌声を上げはじめた。これほど自然にそうした声が出るのはひさしぶりだった。
 気持よさげなクリスの声を聞いて、翼は多少その緊張を解いたようだった。そして、嬉しそうに笑った。クリスも笑いかえしてやった。
 長い長い時間をかけて、その後、クリスは翼のために果てた。
「雪音……」
 ああ、なんてなさけない声をだしやあがるんだとクリスは思った。これからたくさんのこの体を気遣う言葉が、翼の口から溢れ出すのだろうと容易に想像できた。
 だからクリスは、まだ余裕の残るこの憎たらしい体をうごかかして、翼の両頬をひっつかんで彼女の唇を塞いでしまった。
 翼の唇を塞いでせいで自分の唇まで塞がれた。クリスの脳裡に、翼に対して言ってやりたいことがたくさん、浮かび上がってきた。そのひとつひとつを口に出せば、やはりいらぬ気遣いをさせる気がしたので、クリスは翼の唇をつかって、そのたくさんの言葉がひとつも漏れ出ないように封印した。舌を交わらせて、お互いの口内に唾液を注ぎ込んだ。それを飲み込んだ時、クリスは出かかった言葉の全部を腹の中にすっかり収めた。
 いつか翼の指はクリスの陰惨な過去の象徴から離れていた。
 クリスの体は翼の両腕で抱き起こされていた。その腕にクリスは指で噛みつくように縋りついた。
 唇はくっついたまま離れない。
 離れた時に最初に口にすべき言葉はなんだろうか。クリスは想像を飛ばした。その言葉がはっきりと脳裡に姿を現わすまで、よけいなことを言いそうな口は、翼の唇を利用して塞いでおこうと思った。
 が、べつにクリスが唇を離したがらなくても、翼がそもそもクリスの唇を離そうとしなかった。
 きっと彼女も同じことを考えているのだ。最初に口にすべき言葉を、今必死に探しているのだ。
 そうやってふたりは、長いこと「貪るような」キスをつづけた。
 突然翼の指が、淫靡に濡れたクリスの秘門にふたたび触れてきた。
 クリスは思わず短い嬌声を翼の口の中に吐き出した。
 ふたりの唇がようやく離れた。
 翼はクリスの体を布団の上に横たわらせた。
「もっと乱れた雪音を見たい、と言ったら、応えてくれようか」
 ――口より手をうごかせばそのうちかってにそうなる。
 そう答えるかわりに、クリスは下半身から頭のてっぺんまでのぼってくる熱に、体をくねらせて、おどろくほどすなおに喘いだ。たいしてうまくもないつたない指のために、掻き乱されるのだから、まったく愛というのはおそろしいものだとクリスは自分の体で実感した。
 最初に口に出すのにふさわしい言葉はなんだろうか。
 とりあえず今この全身をとりまく幸福感について、これもまたやはりすなおに伝えてみようかと、クリスは思った。

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