恩人依存症

 風鳴翼とその叔父・弦十郎が、揃って小日向未来に低頭して嘆願したのは、冬期休暇をまもなくにひかえた、ある雪の日のことだった。
 その日、放課後に弦十郎の邸に招かれた未来は、客間において、もうはっきりと言えば、ふたりに土下座されて、ひとつの頼み事をもちかけられた。
「クリスくんを助けてくれ。いい歳のおとなが、こんなことを頼むのは心苦しいが、もはやおれたちでは、どうにもならんのだ。どうにもできんのだ。おそらくもう、きみ以外の誰にも、できんのだ」
 うなるように弦十郎は言った。
 この数日ずっとクリスが学校を休んでいたものだから、響とふたりで心配して、そろそろ見舞いにでも行こうかと思っていたところに、これだった。
 大のおとなの男が、女子高生相手にふかぶかと頭をさげ、畳にひたいをつけて、自分が後見人になっているひとりのむすめを助けてくれと言う。その姪もそれに倣っている。
 異常な光景だ。
 風邪が長引いているのだと翼から説明をうけたのは、たかだか一昨日の話ではなかったか。未来は医者ではないし薬でもないのだから、クリスの風邪など治しようがないではないか。
 そのことを言うと、翼は頭をすこしだけあげて、
「すまない。私は嘘を言った。雪音は、本当は風邪など引いていない」
 と弦十郎と同じように、苦しいものを吐き出すように言った。
「クリスになにかあったんですか」
 と未来は言って、ふたりに頭をあげるように頼んだ。土下座などみていて気分のよいものではない。
「ああ、それは……」
 と翼が口をひらいたのを、弦十郎が制止した。弦十郎というひとは、おとなとこどもの境界線をわりあいにはっきり分けようとするところがある。これはおとなの仕事だということだろう。そして、これから話すことと、それを解決することも、本来であればおとなである自分の仕事だと思っているのだろう。
 いつもは精悍で颯爽としている弦十郎の面構えも、今は苦渋の色が余すところなく拡がっている。
 弦十郎の話を聞き終えた未来は、わかりました、としずかな声でいうと、
「なんとかしてみます。できるかどうかは、わかりませんけど」
 弦十郎と翼の眉がすこしだけひらいた。
「そのかわり、いいですか」
「言ってくれ。手伝えることなら、なんでもしたい」
 翼は身を乗り出すような姿勢になって言った。
「私がクリスになにをしようとしても、理由を聞かないでください。それから私がなにをしても、とめないでください。私がおふたりに頼み事をすることがあるかもしれませんが、その時も理由を訊かずに、全部聞き入れてください」
 と未来は、はっきりと言った。へたに干渉されるとやりづらい。そのことを言っておく必要がある。
 ふたりは目語し、うなずくと、
「わかった。小日向のしたいようにしてくれ」
「未来くん、どうかクリスくんを、頼む」
 と、あらためて頭をさげた。
「それじゃあ……」
 未来はすっくと立ち上がり、
「カッターナイフ貸してください」
 と言って、ふたりを唖然とさせた。

 数分後、未来はクリスの部屋の前に立っていた。
 借りたカッターナイフからはすでに刃が出ている。
 まさかクリスがリストカットをしているなどと、未来には想像もつかなかった。
 なにが原因かは翼にも弦十郎にもわからないらしい。なにせクリスがなにも話さないのである。きっかけがどこにあったのか、頭をつきあわせて考えに考えても答えが出てこない。ある頃から突然始まった。最初は手首の薄皮一枚程度だったのが、どんどん傷が深く長くなっていった。また弦十郎の部屋から千枚通しを持ち出して腕を刺したこともあった。さすがにその時は弦十郎はくるまを飛ばして、夜半病院に連れて行った。
 自傷以外にも異変があった。やたらに部屋で暴れまわるようになった。深夜、いきなり奇声をあげると、とにかく部屋の家具のあらゆるものを蹴り飛ばし、投げ飛ばし、殴り飛ばし、めちゃくちゃにした。跳ね起きた弦十郎が羽交い締めにしてとめると、わあわあと不明瞭な言葉を、唾と一緒に吐き出した。喉が破れるほど叫び続けて、ついには気を失って、そのまま眠ってしまう。
 が、朝になるとクリスはぴんぴんとしていて、夜のことなどはまるで記憶にないとでも言いたげに、いつもどおりの態度で、学校へ行くのだった。そして、夜になると、また同じことをする。
 クリスの奇行(そう表現するには語弊があるかもしれないが、しかしそうとしか言えないものだった)は已まなかった。そのたびに翼や弦十郎はクリスを窘め、叱り、時には怒鳴り散らした。それでもクリスはおのれの身を傷つけ、泣き叫び、部屋を荒らしつづけた。
 そのうち、クリスはめったに部屋から出なくなった。めちゃくちゃになった部屋にほとんど閉じ籠もるようになった。翼も弦十郎もあえてそこからクリスを引き摺り出そうとはしなかった。学校へ行く時は元気になるから行かせたほうがよいのではとも考えたが、もし学校でも自傷したり暴れたりしてそれを生徒に目撃されては、クリスはもう立ちなおることができないのではないかと思うと、手が出せなかった。
 情けなくも未来に縋ろうと決めたのは、泣き叫び暴れるクリスをふたりでむりやり布団に寝かしつけようとしたある夜のことだ。ひとの名を呼ぶことを知らないようなクリスが、ほとんど本能的に、言葉というよりただの声を、声というよりただの音を、なにかに衝き動かされるようにして発しつづけた、その中に混ざっていた、ひとつの名を翼の耳はたしかに捉えた。
 それは間違いなく「小日向未来」の名であり、クリスがどういうつもりでその名を叫んだのか、翼にはまったくわからなかったが、とにかくその瞬間、翼は自力でクリスの暴走をとめることを諦めた。「先輩」や「オッサン」はもちろん、「お前」とも「あんた」とも言わなくなったクリスの口から、この頃のうちで唯一、唐突に、湧いて出た名に取り縋るほか、翼にも弦十郎にも、もはや道はなかった。
 ノックも声かけもせずに、未来は勢いよく戸を開いた。
 部屋のあらゆるものが散乱し惨状を呈しているそのまんなかに、布団の中でまるまっているクリスがいた。
「クリス、起きてる?」
 未来が言うと、布団のふくらみがすこしうごいた。
「誰、だ」
 酷く嗄れた声がくぐもりの下から発せられた。
「わかるでしょう。誰がほかに、あなたのことをクリスって呼ぶのよ」
 未来は平然として笑い、布団の左側に座った。クリスの利き手は右だ。リストカットの傷は左手首にあるに違いなかった。
「なにしに来た」
「クリスこそなにしてるの」
 返事はなかった。
「翼さんから聞いたわ」
 未来は世間話でもするような気軽さで言った。
「名前呼んでくれたのね」
「誰の」
「私の」
「しらない」
「おぼえてないだけよ」
 未来は言って、
「そういえばお返事聞いてないなって思い出して」
 左手のひとさし指に、カッターナイフの先を当てた。力をこめる。ほそくするどい痛みを無視して、さらに力をこめると、じわりと血が滲んできた。
「なんの意味があるのかしら、これ」
 傷を口で吸ってから、未来は唾液のついた、そして出血のとまらない指を、クリスの掛け布団にこすりつけた。
「痛いと言っても聞いてくれなくて、やめてと言っても聞いてくれなかったおとなはクズ揃いなんだっけ」
 かつてクリスから打ち明けられた彼女の過去を、未来は自分の言葉でなぞった。
「自分で自分を傷つけて、おとなにやめろと言われてもやめないこどもは、なんなのかしら」
 今度も返事はなかった。しばらく沈黙の時間が流れる。クリスには重苦しい空気かもしれないと思った未来の心は、いたって軽かった。
「バカ、だ」
 クリスはやはり嗄れた声で言った。
 未来は鼻で笑った。
「バカは響のことなんでしょう? あの子はこんなことしないわ」
 実際にそのとおりだった。クリスが「バカ」と口にすればそれはつまり響のことを指していたし、また響が周囲の悪意に晒されて迫害を受けていた時だって、彼女は自分のことも他人のことも怨まず怨めず、ただ体をちいさくして泣いていたが、やはり自分にも他人にも暴力的になることなんて一度もなかった。
「そうそう、そろそろ返事を聞かせてほしいんだけど。いい加減待ちくたびれちゃった」
 未来は傷口を親指でこすりながら言った。
 クリスはなにも答えない。未来は話をつづけた。
「ああ、なんの返事かって? ほら、前に私、クリスと友達になりたいって言ったじゃない。その返事よ。なってくれる? なってくれない?」
 クリスはやにわに布団をはねのけた。
「なん、で」
 悲しみに染まった目がこちらを見ている。
 痩せ細った体が膝立ちになって、未来のほうを見ている。
 未来はついと視線を落とした。袖がかなり長い。手首は見えなかった。
「なにが、なんでなの」
 視線をクリスのふたつの目に戻して未来は言う。
「返事なんて、いまさら。だって、もう」
「もう?」
 クリスは下唇を噛んだ。皮が破れて血が出るまで強く噛みしめようとしているようだった。未来はとりあえずこの血をとめようと思った。そのためにはクリスに喋らせるのがてっとりばやい。
「もう友達なのに?」
 と未来は言った。
「そうじゃ、ないのか……」
 自信なさげにクリスは言った。否定されるのを怖れ怯えている声だった。目も、唇も、濡れてふるえていた。
 その目と唇が、おおきくひらかれた。
「なんだそれ。お前、なにやってるんだ」
 どうやらようやく、未来の手にあるカッターナイフと、さっきそれで作ったひとさし指の傷に気づいたらしい。
 未来は肩をすくめた。
「クリスがそれ言うの?」
「それは……、でも、――」
 クリスは顔をそむけて口ごもった。
 その隙に未来は素早く左腕の服の袖をめくって、さっと手首を切った。線が引かれた。その線がほどなく赤く染まった。
「あ、けっこう痛い」
「なにやってんだ!」
 クリスは未来に飛びかかり、カッターナイフを取り上げようとした。
 未来は押し倒された。というより、ほとんど自分からうしろに倒れた。
 左手首が痛い。とくんとくんと脈打っている。血が流れているのがわかる。
「もう一度訊くけど、クリスがそれを言うの?」
「―――」
「それからもう一度言うわ。響はこんなことしない」
「―――」
「私の友達は誰ひとりだってこんなことはしない。響も、詩織も、創世も、弓美も。あの子たちがもし自分で自分を傷つけるようなことがあるとしたらね、それはかならず自分じゃない誰かを助けるために、そうしなくちゃならない時なの。私の友達って、そういう子ばかりなのよ」
 未来は言い切った。
 覆い被さっているクリスの目から涙が落ちてきた。かちかちと歯のぶつかる音がかすかに聞こえてくる。
「だから、あたしは、友達じゃ、ないのか」
「友達になってもらったおぼえはないわ。だって、返事聞いてないもの」
 そう言ってからにこりと笑って、
「ごめん嘘。べつに返事なんて関係なく友達だと思ってる。だから心配して来たのよ」
 右手をクリスの背にまわして、なでさすった。
 クリスはかぶりを振った。涙が飛び散った。そのうちの一滴が未来の目に入った。こめかみをつたって畳に落ちる。
「あはは、私が泣いてるみたい……に、みえる?」
 クリスはまた首を振った。
「なんで笑ってるんだ」
「なんで手首を切ったりするの」
 答えないかわりに訊き返す。
 クリスはまた下唇を噛んだ。からだをふるわせて泣いた。
 未来は右手でクリスの背をなでつづけた。
「痛いから」
 ぽつりとそう言った。
「痛いから? 痛くなりたいから切るの?」
「うん」
「どうして?」
 クリスは体を起こした。行き場をうしなった未来の右手はあっさりと落ちた。
 未来に跨がったまま、クリスは急に遠くを見るような目になって、やはり遠くに語りかけるように、話しはじめた。
「痛みだけが人の心を繋いで絆と結ぶって、フィーネが教えてくれたんだ。だから痛くすれば、フィーネと繋がれると思ったんだ。また会えると思ったんだ」
 そう言うとクリスはいっそう涙を溢れさせた。
「夢にあいつが出てきたんだ。F.I.S.のフィーネを名乗ってたあいつが。黒いガングニールのあいつが、夢に出てきて、あたしのこと抱き締めるんだ。やさしい言葉をくれるんだ。実際あいつはやさしかったけど、でも、フィーネじゃなかった。あいつは騙りだったんだ。再誕したフィーネだなんて真っ赤な嘘で、ニセモノのフィーネだったんだ。だって、あいつはやさしかったから。本当のフィーネがやさしいわけないんだ。だって、フィーネは――」
 未来は身を起こしてクリスを抱き締めた。しゃくりあげる体を両腕で抱き締めて、その背をなでてやった。依然流れる手首の血が寝間着に付着したが、かまわなかった。
 ――あいたい。
 かぼそい声が未来の耳の裏を打った。
 フィーネはクリスを虐待しつづけた女である。そのことを、未来はクリス自身から聞いたことがある。だが、ここにいるのは、その女を、おそらくは母のように慕い愛情を求めるひとりの哀れな孤児だった。フィーネ、フィーネ、と嗚咽と一緒に繰り返し吐き出される名は、そういう悲哀にいろどられている。
 記憶の底にある幼馴染の姿が、一瞬未来の脳裡に浮かんで消えた。
「クリス」
 未来はクリスの名を言った。
 なぜクリスが、ほかならぬ未来の名を叫んだのか、未来にはなんとなくわかった気がした。
 クリスが未来の体を抱き返してきた。ちからいっぱいに抱き締められた。腕が圧迫される。手首の傷が痛む。血の塊が噴き出して、すぐさまクリスの寝間着に吸収されていった。
「ママ……」
 かすれた声がこぼれ落ちた。
 未来は応えない。
 クリスはいったい誰を呼んでそう言ったのだろうか。母・ソネットだろうか、それともフィーネだろうか。あるいはそれらの人物の死と共に、もはやこの世でただひとりとなった、雪音クリスを「クリス」とその名で呼び捨てる者であったか――
 音もなく降りつづける雪だけが、それを知っているのかもしれない。

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 未来の左手の手首に包帯が巻かれ、ひとさし指には絆創膏が貼られた。
 居間で未来の手当をした翼は、なにも問わなかった。そういう約束を、彼女は律儀に守った。問いたそうな目さえしなかったのはさすがというほかない。
「今日は泊まっていきます。響に連絡して、着替えとか持って来てもらいます。ついでに響も泊まらせますね」
 未来は自分の左手首の包帯を親指でなぞった。奇妙な感覚である。どうして自分はこんなところに怪我をこしらえているのか。原因はわかっているが、それにしても奇妙なことだった。
「わかった。部屋と布団を用意しておこう」
「ありがとうございます」
「風呂はどうする」
「そのための響ですから」
「そうか。仲が良いな」
 翼は口もとだけすこし笑った。
 矢のような速さで響はやって来た。本当に頼んだ荷物を持って来たのかと思われるほど響は素早く到着した。が、彼女はしっかりと自分のつとめをはたしていた。
「お泊まりたのしみだなあ」
 と暢気に言って上がり框をまたぐ響の笑顔に、未来はちょっともうしわけなくなった。
 クリスについて、未来は響にはとくに説明をしていない。電話では風邪が治ったとだけ伝えた。が、この気の好い親友に説明は要らないと未来は思っている。状況に接すれば彼女はなにかしらを察してくれるだろうし、それを助けてもくれるだろう。未来を助けるのか、クリスを助けるのか、その時にならなければわからないが、とにかくできるほうをするだろう。
「あれ、その手どしたの」
 めざとく見つけてくる。
「カッターで切っちゃって」
 未来はごまかさずに正直に言った。
「うええ、だいじょうぶ?」
「まだちょっと痛むかな。お風呂、お願いね」
「あ、お風呂には入るんだ。うん、まかしといて」
 響は二の腕をパンと叩いた。頼もしい声である。
「クリスも一緒にね」
 そう言うと、
「お風呂もう入れるの?」
「うん、熱もないし、元気だし」
「やったあ!」
 と万歳して喜ぶ。そのあと、
「翼さんは?」
「それは、わからない。でも別々なんじゃないかな」
「師匠はないよね」
「まさか」
 玄関にとどまって冗談を飛ばしあっていると、なんとなくやはり、未来はもうしわけない気持ちに襲われた。この笑顔がもうすぐ消える。ごめんね、でもひとりじゃ手におえないから、未来は心の中で謝った。響に謝ったしクリスにも謝った。響は気にしないだろうがクリスは気にするだろう。だから謝った。
 響を伴って居間に行く。
 翼と弦十郎がいた。
「やあ、響くん。よく来てくれた。晩メシは出前でも取ろうと思っているが、なにか食べたいものはあるか? ドンブリでもスシでもソバでもなんでもいいぞ」
「じゃあおスシで!」
 なんの躊躇もなく響は言って、遠慮もなくこたつに突入する。未来もそのとなりに座った。
「クリスちゃんは部屋ですか?」
「そうだ。夕飯どきになればかってに来るだろう」
 と翼が答えた。
「晩ごはんのまえに、お邪魔しちゃっていいですか。最近ちっとも顔みてないですし」
 と響に訊かれて、翼は自分では答えないで、未来に視線をやった。未来はうなずいた。響はふしぎそうに翼と未来を交互に見て目をきょとんとさせた。
「今、眠っているから」
「あーそっか、残念」
 響はおとなしくひきさがった。
 弦十郎がテレビの電源をつけた。広い邸ではあるが、いちおう音量をちいさくして、クリスの部屋に響かないようにした。
 テレビを見ながら談笑していると、しばらく経ってクリスがやって来た。
「あ、クリスちゃんこんばんは。体の調子はどう」
 ちょうどクリスに背を向けていた響は、体をひねって、そう言った。
「べつに」
 それだけを言って、クリスはこたつの隅にもぐった。
「では、出前を取るか。クリスくん、スシを頼むつもりだが、どうだ、食べられそうか。むりそうであれば、別なものを作るが……」
「食べる」
 これも短く答えた。
 そのクリスのようすを見て響は言葉をひかえたので、出前がとどいたあとも、終始静かな食卓になった。クリスと響のふたりが揃った時にいつも起こる和やかな喧騒も、この時はまったくなかった。

 左手にポリ袋を被せ、輪ゴムで留める。これでいちおう湯は入ってこなくなる。未来の措置はそれで完了した。
 響はクリスの裸体を見てもなにも言わなかった。響にしてもクリスの過去を知らないわけではないから、傷にまみれた体に異様を感じることはなかったのかもしれない。おもにその背中に古い傷痕が多く、両腕は新しいまだ生々しい傷痕がある。未来と違って傷口自体は塞がっているから、包帯などで隠れていない。とくに切り傷の集中している左手首を見た時、響もさすがにすこし表情をゆがめた。
 クリスは無言であり無表情だった。かすかに体がふるえていた。未来はそれに気づいたが、響はさて、どうだっただろう。
 響は未来の背中と髪を洗い、それ以外のところは左手に湯がかからないようにして、未来の自分の体を洗うのを手伝った。そうして全部洗い流してしまうと、未来の両肩を押しに押して、とっとと湯船にぶちこんだ。それからクリスのほうを向く。
 すでにクリスはひとりで髪を洗っているところだった。響はクリスに近づき、彼女の両手をやんわりと掴むと、泡の立ちきっていない頭から離した。
 一瞬、泣きそうな目が未来を見た。未来はそのクリスに向かってにこりと笑って右手を振った。おとなしくしたがえということである。クリスはうなだれた。両手は力なくタイルに落ちた。未来はクリスの体を響にあずけて、髪も体もすみずみまで洗わせた。
 すっかり洗われてしまったクリスがふらふらと湯船に浸かってきた。邸の湯船は未来と響の暮らしている寮のあのむだに広い湯船よりもさらに広い。が、クリスは未来の肩にぴったりと体をつけて腰をおろした。
 未来とクリスに対してはていねいな手つきだった響が、猛烈な速度で自分の体を洗っている。やまかしい音を立てている。はやく終わらせて湯船でゆっくりしたいのだろう。仕上げはシャワーではなく桶に湯を溜めて、それを頭からかぶった。
「ぷはあ」
 と気持よさそうな声をあげてから、響は未来とクリスのいる湯船につっこんできた。
 ちいさな波と飛沫が立つ。
「あ、そうそう」
 未来は言った。
「私はクリスの部屋で寝るから。響、ひとりで寝られるよね?」
「え、そうなの。うん、まあ平気。だいじょうぶ。きっと、たぶん、ま、なんとかする」
 響は多少驚きつつ、そう言った。
「なんだ、ひとりじゃ寝らンねえのか」
 クリスが言うと、
「へへ、ちょっと苦手ぇ」
 と言って、響は恥じるようすもなく笑った。
「けっ、なさけねえやつ」
 そう言ってクリスは笑った。ぼんやりとした薄い色の目は、両手にかかえられた膝に落ちていた。あるいは膝をかかえる両手に落ちていたのか。

 未来はいったん響と一緒にあてがわれた部屋に向かい、クリスはひとりで自室へ行かせた。部屋にはすでに布団が敷かれている。枕を一つ脇に抱えて、未来は響に「おやすみなさい」と言い、響から「おやすみ、未来」と言われてから、クリスの部屋に行った。
 クリスは部屋の戸のそばで突っ立っていた。
「あ――」
 未来に気づいて振り返り、
「散らかっててごめん。あのさ、だから、あいつのとこで寝たほうがいいと思うんだ、それに、あたしは――」
「あした、学校から帰ってきたらかたづけようね。私も手伝うから」
 未来は前半の言葉だけ拾って後半を無視した。
「かたづけても、すぐ、めちゃくちゃにしちゃうから」
「そしたらまたかたづければいいのよ」
 未来はあっさりと言った。
 クリスはまた泣きそうな顔になっている。
「とにかく、寝よ?」
 客であるはずの未来がクリスの手を引いて布団に導いた。
「う、ん。……」
 とにもかくにも、このむすめを一度眠らせてしまわないことには、未来の仕事は始まらない。
 布団に入ると、クリスは急に口数が増えた。ああだこうだと一緒に眠らないための言い訳を並べるわけである。
「最近、寝つきがわるくって」
「そうなんだ?」
「だから、何回も寝返りうったりするかも、しれないし」
「気にしないわ、そんなこと」
「眠ったら眠ったでへんな寝言とか、あと大声あげるかもしれないし」
「私も眠ってるから聞こえないよ。さすがに大声あげられたら起きるだろうけど」
「ほら、だから」
「また寝ればいいだけでしょ?」
「でも、寝相わるいから、うごきまわって、眠りながら、殴ったり、蹴ったりするかもしれないし」
「響で慣れてるから、平気平気。あれよりひどいなんてさすがに考えられないもの」
「眠ってなくても殴るかもしれない」
「どうして?」
「わからない、けど、殴っちゃうかもしれない」
「そう。じゃあ殴らないようにがんばって」
「むりだ」
「どうしてむりなの? どっちかっていうとひとに暴力ふるうほうがむずかしいんじゃないの? クリスの場合は」
「わからない」
 またわからないだ。未来はクリスの口の中に絆創膏の貼られたひとさし指をつっこんだ。また唇を噛みそうな気がしたのである。唇のかわりに自分の指を噛まれるかもしれなかったが、べつにかまわないと思った。
 クリスの手が、その未来の手をそっと掴んだ。そこには包帯が巻かれている。
 未来の指を咥えたまま、クリスは「ごめん」と言った。言った、というより喉を鳴らした感じだった。
「これどっちも私が自分でやったものだから、クリスのせいじゃないわ」
「でも、あたしがこんなこと、してるから」
「じゃあやめる?」
 未来はクリスの口から指を出した。
 クリスはなにも言わなかった。
 布のこすれるような音がしたから、もしかすると首を振ったのかもしれない。
「やめたくないの? それともやめたいけど、やめられないの?」
「……わからない」
「それもわかんないっかあ……」
 未来はひとさし指をぴんと伸ばして、唾液がつかないように、クリスの髪を梳いた。
「とりあえずさ、目、つむろう? そのうち眠くなって寝ちゃうから」
 と未来は言った。
「でも、眠っちゃったら」
「良い夢を、クリス。おやすみなさい」
 未来はクリスの頭を片手で抱き寄せて、ひたいにくちづけた。海外ドラマなどでよく見る風景だ。親が子供にの眠りつけるまえに、そういうことをしている。いかにも日本人的ではないが、クリスにとってはそれが普通のことだったかもしれないと思ったのだった。
「おやすみ、なさい」
 また喉を鳴らすようにクリスは言った。
 その夜はなにごともなく経過して朝を迎えた。
 ――あてが外れた。
 平穏に終わったことを喜ぶべきなのかもしれないが、何事もなかったのは未来は残念だった。実際に事に面してみなければ全容が掴めないと思っていたのに、これだ。とかく世の中はうまくいかないものだと笑うしかないのだろうか。
 室内は朝の日射しのほのかな明るさの中にある。
 クリスはまだ眠っている。
 目に涙の跡があった。
 どうやら、何事もなかった、わけではないらしい。
 未来はクリスの体をゆさゆさとうごかした。
 クリスは目を覚ました。
「泣いてたの?」
 そう言われてクリスは体を起こし、服の袖で目をこすった。
「泣いてる夢見た」
「そう……」
 未来はちょっと考えてから、
「どんな夢を見たの?」
 と訊いた。
「フィーネの夢。いや、フィーネじゃない。あいつの夢だ」
 クリスは口をとがらせた。
「マリアさんの夢ね?」
「うん」
「マリアさんの夢はよく見るの?」
「しょっちゅう」
「夢の内容はいつも同じ?」
「違うのばっかり」
「今回はどんな夢だったの?」
「夜一緒に寝てくれた夢。寝る前にキスしてくれた」
 ここに、とクリスはひたいにひとさし指をあてた。
「それで髪を梳いてくれて」
「ああ」
 未来は納得した。これは寝る前に未来がクリスにやったことだ。それがマリアに置き換えられて夢に出て来たらしかった。夢の中でクリスはマリアのことをそうではないと理解しながら「フィーネ」と呼び、マリアはクリスのことを、実際には一度も呼んだことのない「クリス」とその名を呼んだ。フィーネを名乗るマリアは、フィーネからはかけ離れたやさしさに満ちた手で、クリスをいつくしんだ。
「泣いてる夢を見たのよね? どうして泣いたの?」
「わからない」
「それも、わからないんだ」
「うん、でも」
 クリスは言った。
「嬉しかった。クリスって呼んでくれて、抱き寄せてくれて、キスしてくれたのが嬉しくて、いやだった」
「嬉しいのがいやなの? 嬉しかったけど、いやなの?」
「だってあいつ、フィーネじゃないし……。フィーネがあんなにやさいしいわけないから……」
 クリスは眉に顰みをつくり、苦しげにうつむいた。
 未来は問いを重ねる。
「マリアさんの夢はいつ頃から見始めたの?」
「えっと、よくおぼえてないけど、F.I.S.のやつらが死刑になりそうになって、ならなずに済んで、それで国連の保護観察に入ったって教えてもらったあたりから、かな」
 フロンティア事変が終わってからそう経っていない頃だ。かなり早い時期から、つまりかなり長いことその夢をクリスは見ているらしい。報告のおりにマリアの名を出されて、クリスの中でフィーネを懐かしむ気持ちが強くなったせいだろうか。
「ということは、夢を見始めたきっかけもそれ?」
「わからないけど、たぶん」
 クリスはそう言うと、はらはらと涙をこぼしはじめた。
 未来はそれを見て質問を打ち切った。
「顔と歯、洗いに行こっか」
 と未来は言った。
 クリスはまた袖でごしごしと目をこすって涙を拭いた。拭いながらこくりとうなずいた。
 未来は手を差し出した。クリスは素直にその手を取った。
 立ち上がる。
 未来はクリスを抱き寄せて、
「おはよう」
 ひとつ、ひたいにキスをした。

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 ちいさな寝息が居間のしじまに溶けている。
 朝食を食べ終えたクリスは、すぐに体を倒してそのまま眠ってしまった。
 結局未来はクリスと一緒に休むことになった。
 弦十郎は朝早くに仕事に出たが、翼は一限目を休んで、しばらく家に残っていた。響も残りたそうにしていたが、こちらは未来が尻を先に叩いて学校に行かせた。
「こたつで居眠りをする姿を見たのは久しぶりのことだ」
 家を出る前に翼はそう言って目をほそめた。彼女からするとその程度でも一歩前進したという感じらしい。未来は翼に礼を言われた。
 テレビをつけて起こしてしまうのも悪いので、現在未来はノートと教科書を広げ、自習して時間を過ごしている。
 未来は時々クリスのほうに目をやって、そのいやに幼い寝顔をそこに留めた。
 クリスは首から下をすっぽりこたつにおさめ、座布団を枕にして眠っている。今のところ表情などに異常はない。いやな夢は見ていないようだった。
 シャーペンをくるくる回しながら、さてこれからどうしたものかと未来は考える。
 狂気の原因ははっきりとしている。治療法はいたって単純だ。ようするにフィーネと再会させればよいのである。そうして共に暮らせるようになれば夢も自傷も簡単におさまるだろう。
 しかしこれは、まず実現不可能な手段だった。なにせフィーネがこの世にいない。そもそも彼女との共同生活はクリスにとって恐怖と苦痛にまみれたものだったはずだ。たとえ実現できるものであっても、そこにもう一度クリスを放り込む気には未来はなれない。いや、フィーネの最期を思えば、もしかしたらすこしくらいはクリスにやさしく接するかもしれないが、未来はそれでも首を振る。これは駄目だ。
 マリアに会えるように弦十郎に頼んでみる。これも思い付いた先から却下する。マリアが本当にフィーネだったなら、話はもっと簡単だったろう。
 夢に出てくる彼女は、フィーネを名乗りながら実はフィーネではなく、しかもフィーネとは違って、クリスを傷つけたり痛めつけたりしない、そのことはクリスにとって苦痛でしかない。
 マリアのことは未来も多少は知っている。異様にやさしいひとだった。そういう印象がなにを置いても強い。スカイタワーであの時未来に差し伸ばされたあの手は、クリスを虐待する手にはなりようがない。またなってもらっても困るのである。
 それからもうひとつ、脳裡できらめいた発想がある。これは弦十郎から話を聞いて最初に思い付いた方法である。われながら良案だと思うが、実行に移せば響もクリスも激怒しそうな気がした。その怒りを無視してつづけられるのかどうか。不安がないこともない。
 途中でやめれば状況はなお悪化するだろう。完遂できないくらいなら最初からやらないほうがよい。しかし、やってみようと未来は思った。ちょうど中学生の頃にたっぷりと貯めたありがたみのない経験値が、使い道もなく放置されていたところだ、このさいつかってしまおうと思った。
 未来はシャーペンの消しゴムの部分でクリスの頬をついた。ふっくらとしていたそれは以前よりも痩けているようだった。
「がんばってねクリス。私もがんばるから」
 そう言うと、未来はクリスの髪を梳いた。
「んう……」
 くすぐったげに呻いた唇は、かすかに笑っているように見えた。
 未来は自習を中断した。
 寝転がり、目をつむる。
 昼食の時間までクリスと一緒にまどろんでいようと思った。
 眠り落ちる前に、未来は頭の中でこれからすることを順番に並べた。まずは起きたらごはんを食べる。それから部屋の掃除をする。掃除をしたら買い物だ。クリスには留守番をさせて、カッターナイフを二本、揃いのものを買う。
 買って帰って来たらふたりで今後のことを話し合う。といってもクリスの意見は聞き入れる気はない。諒承されようがされまいが(十中八九とめられるだろうが)やると決めたかぎりはやる。それからすぐに実行する。
 未来は想像する。カッターナイフを持つ自分の手がある。刃を出す。包帯とガーゼを取った左手首に、その刃を当て、すうっと引く。赤い線が赤黒い線の上に重なる。血が流れる。するとクリスが――未来はそのあたりで眠りに落ちた。

 前日と同じように未来はクリスに押し倒された。
 未来の左手首はクリスに両手でがっちりと握りしめられている。その皮膚と皮膚のあいだには、とりはずしたばかりのガーゼがある。
(痛い)
 と未来はぼんやり天井をながめながら思った。カッターで切った傷よりちからいっぱい握られているほうが痛いような気がする。
 クリスの表情は見えない。未来の肩に鼻を押し付けて、彼女は泣いている。
 どくんどくんとおおきく脈打っている。心臓が、あるいは手首に通る血管が。
 未来の右手はクリスの背をなでている。なぐさめるつもりでそうしているのだが、泣かせた張本人がこんなことをやっているのだから、おかしなことだと未来は自分を笑った。
「やめてほしい?」
 未来は言った。
「クリスがやめるなら、私もやめる」
 クリスがひとつ、自らで傷をつくれば、未来もまた自らに傷をつくる。クリスが傷をつくることをやめれば、未来もまたやめる。クリスが手首を切れば未来も切り、クリスが腕を刺せば未来も腕を刺す。クリスが自傷をやめるまで、未来は延々それをつづけるつもりである。未来の体を思うのであれば、クリスはただちに自傷をやめればよい。たったそれだけで未来は自傷をやめる。
 だから未来は、
「べつにつづけてもいい。私はそれをとめやしない」
 と言った。
「つづけてもいいし、つづけなくてもいい。クリスの自由にして。私も自由にする。クリスと同じことする」
「そんなのは、だめだ」
「じゃあ、やめたら?」
 クリスは首を振った。
「できないんだ。できないから、だめなんだ。やめてくれ、こんなこと」
 泣き声と一緒にふるえた言葉を吐き出す。
「やめない。せっかくお揃いのカッターナイフ買ったんだから」
「なんで、なんで、こんなこと、するんだ」
 クリスはさらに強く未来の手を握り締めた。
「痛いよ、クリス」
「あたり、まえ、だ」
 しゃくりあげながらクリスは言う。
「そうじゃなくって、すごい、締め付けられて、い、痛い」
 未来はだんだん余裕がなくなってきた。手首の痛みがしゃれにならない。
「ちょっと、クリス、離して、痛い、ほんとに痛い」
「離したら、また、切るんだろ」
「うん、切る」
「だめだ」
「ええー」
 未来は困った。クリスはますます力を入れてくる。ぎちぎちと骨のきしむような音が鳴っている気がする。
「クリス、おねがい、離して、これ折れる、折れちゃうって」
「切るから、だめだ。切らないなら、離す」
「いや、切る」
 そこはひるがえせない。クリスが自傷するなら自分も自傷する、それがいやならクリスは自傷をがまんすればいい、そういう作戦なのに、初めの一回で「じゃあやめる」などとあっさり折れるものか。やめるのはクリスが先だ。そうでなくてはならない。
 しかしそうなると、未来はこのがっちり食い込んだクリスの指を自力で引き剥がさなければならない。これが難儀だった。格闘を始めて数分もないうちに未来は息切れがしてきた。頭がくらくらする。そこまでひどい出血ではないはずだが、このたかが数分で未来は疲労が困憊になりそうだった。
「ああもう!」
 未来はクリスの横腹を膝で蹴り上げた。クリスは呻き声をあげた。それでも手首はしっかりと掴んで離さない。それどころか爪を立ててますます食い込ませた。本人は意識してやっているのかいないのか。まあ、たぶん無我夢中なのだろう、未来は盛大に溜息を吐いた。
(いやいや、まだまだ)
 これくらいの根比べで負けてはいられない。
「クリス、あの、そろそろ本気で、痛いっていうか、つらいっていうか、傷の手当させてほしいかなって」
 すこし退いてみる。
「切らないか」
「切る」
「だめだ」
「そんなこと言われても」
「だめだ、だめだ、おまえはだめだ」
 ぐずぐずと泣きながら「だめ」を繰り返す。
(カッターどこに飛んだんだろ……)
 未来はぐるりと首を回した。クリスに取り上げられたわけではないから、つかみあいになった時、どこかに落ちたはずだ。
(あ、あった)
 手のとどきそうなところにある。当然だが刃は出たままだ。右手をめいっぱい伸ばして、カッターナイフを掴んだ。目線を落として、クリスに気づかれていないか確認する。あいかわらずしゃくりあげて泣いている。気づいているようすはない。
 未来は思わず生唾を飲んだ。数秒後の自分に、今からすることをけして後悔しないように指図すると、決然としてカッターナイフを引き寄せ、勢い自分の右頬を切った。
 さすがに未来は、短い悲鳴をあげた。左手首から圧迫感が消える。
 手首を切った時には飛びかかってきた体が、今度はのけぞり後退して、しりもちをついた。
 未来は飛び跳ねるように立ち上がった。そのままへたりこむと、深呼吸して息を整えた。ちょっと深く切りすぎたかもしれないと思った。
 クリスは近づいてこない。魚みたいに青黒くなった唇を、やはり魚みたいにぱくぱくとうごかしている。喉をふるわせているのが未来にもよくわかった。体全体で言えばむしろ呼吸をうしなったように固まっていた。
 未来は自分のカッターナイフの刃をしまってポケットの中に入れると、クリス用に買って来た同じデザインのカッターナイフを手に取って、それをクリスに掴ませた。
「クリスは、自分の体を傷つけていいし、傷つけなくてもいい。私はそれをとめないたりしないし、口悪く言ったりもしない。でもね」
 未来はそこでいったん言葉を切った。それからクリスの頭を胸に掻き抱いた。クリスの怯えた顔を見たくなかったし、またクリスもそうした顔を見られたくはないだろうと思ったのである。
「したらその分だけ、私も同じことする」
「だめ、だ」
「とめる方法ならさっき言ったでしょ? そうすればいいだけよ」
「できない、できないんだ、あたしは」
「どうして?」
「だって、やめたら、傷をつくることをやめたら、フィーネが……、フィーネが、いなくなっちゃう……」
 そう言ってしまうと、クリスは未来の両腕に縋り、肩に頭をあずけて、大泣きに泣いた。未来が持たせたカッターナイフは畳のほうに滑り落ちた。
 未来はそうしたクリスにかけるべき適切な言葉を探したが、いくら探しても見つからなかった。かけるにふさわしい言葉などあるはずもなかった。
 フィーネがいなくなるとクリスは言ったが、そもそもフィーネはもはやこの世に存在しないのだ。それでもフィーネを求めるクリスに、フィーネはもういないとも、そんなことしなくてもいなくならない、とも言えるはずなかった。
 未来の友達がひとりでないように、クリスの友達もひとりではない。同じクラスにも幾人かいるものである。それでも未来の存在はクリスの友達の中では、ちょっとした特別性を持っていることを、未来は多少なり自覚している。
 だからこれは、根比べだと未来は思った。クリスとの根比べではない。フィーネとの根比べだと思った。未来の腹の底から負けん気というか闘争心というか、とにかくそういう熱く煮えたぎるものが沸き上がってきた。
 クリスがフィーネとの繋がりを証明し実感するために自分の体を傷つけるなら、未来もまた自分の体に傷をつける。手首でも頬でもいくらだって傷つけてやる。鼻でも耳でもいくらだって削いでやる。クリスが小日向未来という友達を思い、その身を傷つけるのをやめるまで、どれほどだってこの体を痛めつけてやる。
 そうまでするのは、クリスへの友情というより責任感である。未来はクリスへの責任がある。
 未来はクリスに手を差し伸ばした。差し伸ばして、助けたのだ。その傷つき汚れた体を拭い、その手をつつんで「友達になりたい」と言ったのだ。クリスは一度は未来の手を振り払ったが、結局は友達になってくれた。だから未来はクリスを助けなければならない。友達のいなかった彼女に友達という存在を与え、フィーネが教えたものとは違う絆を教えた者としての、これは未来の責任だった。
 未来は自分の両腕にかかるクリスの手を剥がした。先刻とは違いクリスの手はあっさりと離れていった。両肩を掴み、寄りかかっている体も同じように引き剥がす。
 クリスはうつむいて泣いている。
「顔あげて、私の顔を見て」
 と未来は言った。クリスの反応がなかったので、もう一度言った。やはり反応がなかったので三度言った。ようやくクリスは顔をあげた。
 クリスの肩に手を置いたまま、
「まだお礼、言ってなかったよね。あの時は、ありがとう」
 クリスの目がほんのわずかに見開かれた。なんの話なのか理解できていないのだろう。未来の言い方はあまりに説明不足だ。
 あの時のように、未来はクリスの左手を両手でつつむようにして取った。
「クリスのおかげで響と仲直りできた」
 と言って、それから、
「まさか、本当にぶっ飛ばしちゃうことになるなんて、思わなかったけど」
 そう言って笑うと、クリスはまたうつむいて、目には涙を溜めて、かすれた声で、
「あたしは、なにも、してない。できなかった。できないんだ」
 と言った。その瞬間に涙がどっと流れた。その涙が未来の左手にこぼれ落ちて血と混ざり合い、傷口にすこししみた。
「でも助けようとしてくれたでしょう? 私が神獣鏡のシンフォギアを着けて、みんなの前に出て来た時――ちゃんと、おぼえてるから」
「でも、あたしは、たすけて、ない」
「そうね、失敗しちゃったものね、クリスは」
 結局未来を助けたのは響である。
「今度は響はなにもしないよ。翼さんも弦十郎さんもね。クリスはどうする?」
 傷のない右手でクリスの頭をわしゃわしゃを掻き乱す。涙が飛散する。
 クリスは泣き声と叫び声でその問いに答えた。なんら答えとして成立していなかったが未来はひとまず満足した。その声には抑えがたい苦しみがある。抜き差しならない状況に対するどうすることもできない無力感と懊悩がある。
 存分に苦しめばいいと未来は思う。苦しみ抜けばいいと思う。
「待ってるから、クリスが私のこと助けてくれるのを」
 未来は言った。
 クリスがフィーネの教えを否定することはないだろう。フィーネの存在を忘れることもないだろう。フィーネと過ごした日々を嫌忌することもないだろう。またそうする必要もないことだろう。
 だが、その傷だらけになってフィーネを求める手が、自身を傷つける行為を停止させて、未来の傷ついた体をいたわり、なぐさめ、手当する日を、未来は気長に待つことにした。
 いずれであってもいい。いつまでも待っていよう。さいわい、若い自分たちには、時間はたっぷりある。寿命はまだずっと先だ。
 逼迫したこの状況下でひどくのんびりと事に構えている自分を、なんとなく未来はおおいに褒めたい気分であったし、まためったうちに貶したい気分でもあった。

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 未来は響のほうは一泊だけで寮に帰し、自分は弦十郎の邸に残った。
 風呂も寝床もクリスと共にした。
 夜はふしぎなくらいおだやかだった。クリスはおとなしく眠って朝まで起きない。話に聞いていた奇行はまったくなかった。
 日中は未来が学校に行っているあいだ、邸でひとりになった時に、クリスは手首に刃を当てて切っているようだった。そのたびに未来はクリスと揃いのカッターナイフで自分の手首を切った。クリスはまた泣いて謝って、未来はクリスを抱き寄せて、なぐさめになっていない言葉でなぐさめた。
 まもなく冬期休暇に入った。
 家でつきっきりになったためか、クリスの自傷の回数がかなり減った。トイレに行くクリスに声をかけて、
「これ持っていったら」
 とカッターナイフを差し出すと、クリスはうつろな目でそれを受け取ってトイレに行き、あっさりと手首を切ってみせた。未来の手首に傷がひとつ増えた。また泣き、また謝り、また抱き寄せ、またなだめる。
 夜の平穏なことが、未来の気にかかっていた。奇声もあげなければ暴れまわって部屋をめちゃくちゃにすることもない。未来が風鳴邸にころがりこんで以来、クリスの部屋はきれいな状態を保っている。
 自分が一緒に寝ているせいだろうか。それなら一度違う部屋で寝てみようか。そう思いついた矢先に、ちょっとした異変があった。
 時計を確認したわけではないから正確な時刻はわからない。が、ずいぶんと夜の更けた頃だったと思う。未来は目を覚ました。胸のあたりに違和感があった。なにごとかと思えば、驚いたことにクリスが未来の乳房を寝間着から取り出して吸っていた。
 眉間をしわくちゃにして一心不乱に吸うクリスに、未来は声をひそめて呼びかけた。
「なにしてるの」
 訊いてもクリスは夢中で吸いつづけた。強い力で吸ってくるものだから、未来はさすがに痛くなってきて、やめさせようとしたが、どうもクリスが泣いているようだったので、引き剥がそうとした手をとめて、背にまわしてなでてやった。
 なぜクリスが泣いているのか未来は想像を飛ばした。未来の望まぬことを強引にやっていることにもうしわけない気持ちで泣いているのか、あるいはただ母が恋しいだけなのか。両方なのかもしれない。どちらでもないのかもしれない。意味も理由もなく目から液体が流されているだけかもしれない。
 とりあえず未来は、
「吸っても母乳なんか出ないよ」
 とだけ言って、あとはクリスの背をなでるために造られた機械みたいに、意識から離脱したその手を、クリスの気の済むまでうごかした。そのうちウトウトとしてきて、未来はふたたび眠った。機械化した手が停まったのはその時である。
 朝起きるとクリスが泣いていた。未来の膝につっぷして謝りつづけた。幼児みたいだと未来は思った。してはいけないことをしたちいさなこどもが、親に謝っている姿そのものった。未来の乳を吸っていたのもそのために泣いていたのも、やはり母親が恋しくてそうしたのだろう。未来は納得した。たった今気づいたが寝間着もそのままだ。未来はボタンをしめた。どうせすぐに部屋着に着替えるのだが、はだけられたところから寒さが侵入してきてかなわない。
 クリスはずっと謝っている。
 気にしないでと言いたいところだが、気にしてないことは全然ないので、言うに言えなかった。流さずに追及したほうがいいと思ったし、なにより乳首がまだ痛い。
「謝るのはあとでいいから、なんでこんなことしたのか教えてくれない?」
 と言って、未来はクリスの頭をあげさせた。謝らなくていいと言えばクリスはますま謝り倒すだろうから、そうは言わず、あとまわしにさせた。それでもクリスは、
「ごめんなさい」
 と言ってしまうわけだから、未来にはほとほと困ったことだった。なのに、かんじんの理由については、口をもごもごさせるばかりで、いっこうに喋らない。喋ろうと懸命になっているのはわかるが、言葉にして出せないでいる。
 これはどうしたものか。謝罪とまとめてあとまわしにすべきか。
 未来は黙考を始めた。
 その沈黙をどう受けとめたのか、クリスの目に怯えの色がついた。
 未来は無視した。無視しながらじぃっとクリスを見つめた。
「クリス」
 頬に手をあて、親指でかるくなでる。
「私たちって、友達なんだよね」
 未来が言うと、
「うん」
 クリスはあんがいに明瞭な声で言った。
「揉まれることはたまにあるけど、さすがに吸われたのは初めてだったわ」
 クリスはまたうつむいてしまった。泣くのは堪えているようである。体がかすかにふるえている。
 涙を堪えるより自傷をやめるほうが、今のクリスにはむずかしいらしい。
 未来は溜息を吐こうした口を手でおさえた。べつだんクリスに呆れたわけでも嘆いたわけでもないが、ただふいに出そうになったのだった。咳をしてごまかす。そのあと、クリスの表情に変化がないか観察した。未来の咳にクリスは無反応だった。どうやらありもしない意図を見つけられはしなかったようだ。心の中で安堵の息を吐いた。
 それにしても、怪我をした時にこそ涙を流すのが普通だろうに、クリスは自分の身に自分で怪我を負わせても、一滴の涙も流すそぶりがない。未来が自傷した時やマリアの夢を見た時などにあっさりと多量に垂れ流される涙は、クリスがクリス自身を傷つける時にはいったいどこにしまわれているのだろうか。
 ――それなら、他人に傷つけられた時は。
 一瞬そんな考えが頭に浮かんで、未来はすぐさま排除した。わかりきったことだ。いまさら疑問に思うことではない。
 未来はうつむいているクリスのひたいを、中指の爪ではじいた。
 いたっ、とちいさく悲鳴をあげたクリスの目には、涙が溜められている。
 未来はなんとなく、ひたいの痛みのせいにしたくなった。

 朝食後、未来はクリスを公園に連れ出した。
 台所を借りて弁当を作ってそれをかばんに詰めて家を出たのは、九時半頃だったろうか。
 青い空である。雲の量はそれほどでもなく、日射しはやわらかく、冬のぴんと張った澄んだ空気が、そよりと流れては、緑の沈んだ樹木を微妙にざわつかせていた。
 あいているベンチを指さして未来はクリスを導き、そこに座らせた。
 未来の頬の傷は今でもわりとくっきり残っていて、それに気づいた人が時々、すれ違った直後に驚きの目をもって未来の背に振り返ってきた。クリスはよほど心苦しかったのだろう。ベンチに着くなり未来に謝った。
 しかしこの頬の傷は未来が自分でこしらえたものであり、それにクリスがまったく無関係ではないにしても、責任の所在がクリスにあるはずもなく、したがって謝罪される筋合はないと未来は考えているが、未来は気に病む必要はないとか謝らなくていいとか言わなかった。クリスがそうしたいのならすればいいのだ。それでクリスの気が済むのなら。
 それからもうひとつ、自分でやったこととはいえ、未来はやはりひとりの年頃の女の子として、行き交う人々の視線が気になってはいたし、胸になにかいやな重いものを感じていたのである。
 視線を浴びるのは仕方ない。振り返られるのも当然のことだ。自業自得とわかりながら、周囲の目が気になるのは、これも仕方のないことだった。
「やめる気になった?」
 未来は訊いた。
 頬の傷はさておいて、クリスが自傷をやめれば、この先未来の傷が新たに生まれることはない。
 クリスは首を振った。
「フィーネに会いたい」
 と言った。答えになっていない。やめるともやめないとも言わず、自分の願望を言っただけだ。
 この気持ちは切実だった。
 フィーネがクリスの生きているうちにふたたび転生し、目の前に姿を現わす保証なんてどこにもない。クリスは無茶を承知でそんなことを夢見ているのだ。ほとんど不可能と知りながら諦められないのだ。
 両親の雅律とソネットの死は覆しようのない事実だが、フィーネの場合はそれとは事情が違った。死んだと言い切れないところがあった。だからフィーネをたぐりよせるクリスの知ってる唯一の方法を、フィーネと再会することを諦めない以上は、クリスはやりつづけなければならなかった。
 求めることをやめてしまえば、フィーネはついに完全に自分への関心をうしなうだろう。クリスはそう信じていた。そうなってほしくなかった。愛してくれなくてもかまわない。見てくれなくてもいい。ただそばにいてほしい。
 クリスは未来にそう言った。
 もう何度目かもわからぬ同じ内容の告白を、未来はこの時も黙って聞いていた。
 こういう素直さを、多分、クリスはほかの誰にも見せない。そして多分≠ニ言うあいまいな言い方をするなら、多分マリアにも同じ素直さを見せるのではないかと未来は思った。
 自分はクリスの友達のはずだ。幾人かいるクリスの友達の中で、ちょっとした特別な響きを持っているのが「小日向未来」という自分の姓名のはずだ。だからクリスの狂乱をとめるために、未来は自分も狂ったような行動をとることにした。クリスは渾身が狂気に染め抜かれているわけではない。狂人と同じ種類のことをしているだけで狂人そのものではない。他者の、それもかけがえのない存在の狂気を見ればいやでも正気に戻ると考えた。未来が手首を切るたびにクリスが泣くのはそこに正気があるからだろう。
 ――それはいいんだけど……。
 と未来は考えながら髪を小指で掻いた。
 特別な友達というのはかまわない。それは未来にとってちょうど幼馴染の響に当たる存在なのだろうと思う。
 未来は自分のクラスメイトの顔と名をひとりずつ思い浮かべて、彼女たちの軽重をおおざっぱに振り分けていった。どう考えても、いつもつるんでいる響・詩織・弓美・創世の四人は他の友人とは格別であるし、とりわけ響の存在は重い。序列はどうしたって生まれる。そして、それは、あえて邪悪と呼ばれるものでもないだろう。
 だが、フィーネやマリアと同一視されるとなると話は違ってくる。特別な友達ではなく友達以外の何者かにされてしまっている気がする。それをクリスは友達だと勘違いしている。
 はっきり言ってしまえばクリスは未来を母親だと思い込んでいるのであって、だから泣いて謝ってもついぞ自分の行動を改めようとしないのだろう。我が子が自傷に走ったとする。母親はそれを治そうとする。そして叱りつけるかもしれないが、同時に赦しもする。赦してもらえるから結局やめない。そのために母親が傷ついても母親が我が子のために傷つき嘆きかなしむのは当たり前のことだから――
「って、冗談じゃないわ!」
 未来はクリスの側頭部をかるく小突いた。
「な、なんだイキナリ!」
「響といいクリスといい、なに、なんなの? 私はふたりのお母さんでもなければ保護責任者でもないんだけど!?」
 そりゃあクリスに対しても響に対しても、未来にはある一定の責任があることは理解しているが、この場合はそうではなくて。
「なんであいつの名前だすんだよ……」
 小突かれたところを手でおさえながら、クリスはまなざしを下げた。小突かれたこと自体はどうでもよさそうで、お母さんの部分も保護者の部分もクリスは無視した。あきらかにクリスは響に嫉妬していた。
 未来はむかむかと腹が立ってきた。
 近頃未来は響をほったらかし気味でクリスにつきっきりになっている。冬期休暇に入ってからは時々寮に帰ったり響が邸にやって来たりしたが、毎日朝から晩までべったりだった夏期休暇とは、比べものにならないほど響との接触が減少している。
 このまま未来がクリスの世話をつづけたらどうなるだろうか。もしかしてクリスは、この状態が保たれれば、未来にとっての自分の存在感が、名実ともに響を上回るとでも思っているのではないか。
「私たちって友達よね?」
 むかつきを吐き出すついでに、未来はまた訊いた。
「うん」
 やはりいやに明瞭な声で返事を寄越してくる。
「友達でなけりゃあ、なんなんだ」
「お母さんとか」
「年下のママかあ」
 クリスは笑った。ころころと気分が変わる。クリスには未来をバカにしたつもりはないだろう。ただおもしろかったから笑っただけだ。
 未来は喉まで出かかった不快を削除した。
 おもしろいことに笑い、たのしいことに笑うならそうすればいい。歳の二桁にもならぬ頃にうしなった平穏と普通をようやく取り返したところだ。自ら手放すのはいかにもバカらしい。
 だが、とうのクリスに手放す気はなくても、手放さなければ手に入れられないものを必死で手にしようとしている。それだってクリスが、うしないたくなかったのに、うしなってしまったもののひとつには違いなかった。
 未来は頭の中でクリスの心の秤をかたちづくってみた。皿の沈んだほうに乗せられている錘が、クリスの手にできるものだとする。まず「フィーネ」の錘を乗せ、もうひとつの皿に「小日向未来」の錘を乗せる。この秤のどちらの皿が沈むのか未来にはわからない。傾きを争って揺れるかどうかさえ想像がつかない。
 クリスは両方の錘を得ようとしている。そうでありながら、均衡を保とうという気はまるでない。ようするに折合とか不誠実な意味でのテキトウというものを彼女は知らないのだ。全部諦めるか、絶対諦めないか、そのどちらかしかない。
「ねえ、フィーネさんってどんな人だったの」
 未来は訊いた。以前クリスの口からフィーネの人物像について短評を聞かされたことがあるが、あれはすこぶる悪いものだった。
「イヤなやつだったよ」
 クリスはあっさりと言った。
「フィーネさんに会いたい?」
「うん」
 この声にはくぐもりがあった。
 クリスのこの感情は、会いたい、より、帰りたい、のほうが正確な言い方なのかもしれない。見捨てられても殺されそうになっても、クリスはフィーネのところに帰りつづけた。そこしか居場所がなかったからだ。
 フィーネが死んで、クリスは違う居場所を提供された。そこはクリスのお気に入りの場所になった。物質的にはフィーネの邸に替わって弦十郎の邸に帰るようになった。
 クリスは今の居場所を捨ててフィーネのところに帰ろうとしているのではなくて、そこにフィーネの存在を付加して、また以前のように彼女のもとに帰りたがっているのではないか。
 未来はもう一度クリスの秤を思い浮かべた。未来の錘の乗っている皿に、クリスの身近な人物を片っ端から乗せていく。まず響、翼、弦十郎に、他の二課の職員たち、クリスと話をしている時にたびたび出てくる同じクラスの誰それ……、秤の揺れ方が、未来には想像できない。ためしにフィーネの錘を未来の錘のとなりに置いた。皿はあっさりと沈んだ。
「家に帰ろっか」
 未来はベンチから腰をあげ、服をはたいて埃を落とした。
「え、もう帰るの? 弁当は?」
 クリスはきょとんとした目で未来を見る。
「それは家で食べたらいいし」
 だが、その家がどこにあるのか、未来は知らない。
「ねえ、クリス、案内して」
「案内ってどこに案内すればいいんだ。ってか、家に帰るんじゃないのか。どっか寄っていきたいとこあるのか」
「寄り道じゃなくてまっすぐ家に帰るの」
 未来は弁当を入れたかばんを腕に掛け、クリスの手を両手で掴んで強引に立たせた。
「だから、どこにだ」
 クリスの言い方にいらだちがある。からかわれていると思ったのだろう。
 未来は真剣だ。
「知らない。だから教えて」
 クリスはますますいらだったようすだった。未来の意図はクリスにはなかなか伝わらない。
「クリスのおうちに、帰るのよ。私は場所知らないけど、クリスは知ってるでしょ?」
 と未来はクリスの手を捕まえたまま言った。
 クリスの顔がすこしずつ青ざめていった。それがクリスが未来の意図を理解していく速度だった。
 クリスの唇が、ふるえながら、なにかを言った。声はしなかった。音さえなかった。
 ――そんなの、もう、ない。
 青白い唇はそう言っているようだった。

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 自宅と研究所を兼ねていた高台の邸の跡地にふたりはやって来た。
 突風が起こった。塵があがってクリスの目に入った。こすろうとしたのを未来はとめて、目を開かせてハンカチでそれを取り除いた。
 クリスが二年あまりのあいだフィーネと過ごした家は、ルナ・アタックのすこし前に爆発して崩壊して、住居としての役割を消失した。瓦礫はおおかた撤去されている。更地というほどではないが、なにもない場所と言えた。
 ぼうぼうに生えた芝生の上になにも敷かずに座って、そこで弁当を食べることにした。
 以前はクリスが庭の手入れを任されていた。クリスが来る前は誰がやっていたのかはわからない。庭先だけならと業者を通したことがあったかもしれない。
 クリスの知るかぎりでは、フィーネの邸に誰かが訪問したことは一度もなかったと思う。行方不明中の少女を発見されるかもしれないのだ、極力誰も近づけないのが当然だろう。クリスも事を起こすまでは外出を禁じられていた。南米にいた頃はそれが普通だったから不満も疑問もなかった。
 フィーネはまだしもクリスに自由を与えていたほうだ。邸から出ることは許されていたから、敷地内の庭や湖で遊ぶことがあった。たまにフィーネが犬や猫を持ち帰ってくることがあったので、名前を付けて一緒に遊んだ。研究室には自由に入ってもいいと言われていたが、へたに触って機械を壊してしまったらと思うと恐ろしくて、一度もひとりでは立ち入らなかった。フィーネに連れて行かれて入ると、たいていそこには行方知れずのペットの死骸が転がっていた。
 フィーネが不在の時にもクリスは敷地内から出なかった。それなりの頻度で電話がかかってきたがこれにも出なかった。助けを求めるという発想はついぞ湧かなかった。あの頃誰かに助けを求めようとしていたら、きっとフィーネの名を叫んでいただろう。助けてくれ、フィーネ、と。
 ある日、吉日を選んで、と外出許可が出た。仕事のための外出だ。その日はこと座流星群が見られるとかで、任務のついでに星でも楽しんで来いとフィーネは笑った。翼にぶっ飛ばされて仰向けに倒れた時に見た空が、記憶にある唯一の空で、星はあったが横切っていくようなものはなにもなかったと思う。
 星のよく見える夜は、フィーネはよく庭にクリスを連れ出して、天文の話を聞かせてくれたが、クリスにはてんで理解できなかった。だから、もうなにも話の内容を思い出すことができない。なにやらちょっと興奮した感じに、口をうごかしつづける、フィーネの姿があるだけだ。
 その庭に腰を降ろして、フィーネではない者と昼食をとっている。
「帰る家っていうのも、なんか違うんだ」
 弁当を食べながらクリスは言った。
「ろくに出かけたことなかったから、帰ったこともあんまりなくて、帰る時は仕事失敗した時ばっかりだから、怒られたり、ノイズけしかけられたり、帰ってもフィーネはいなくて爆弾が爆発したり」
 フィーネは二課の職員でもあったから、毎朝出勤していた。出勤したまま何日も帰って来ないこともあった。クリスが「おかえり」と言えばフィーネは「ただいま」と返した。クリスがなにも言わなければフィーネもなにも言わなかった。生活に会話はほとんどなかった。たまに天文学や人類学のことで堰を切ったようにフィーネは喋り詰めに喋ったが、フィーネが一方的に喋っているだけだから、これも会話とは言えない。
 虐待はしばしばあったが性的なものはなかった。フィーネが女だからというのは関係ない。ゲリラ兵には女もいる。クリスをなぶるような趣味のある女は、例外なく日焼けと煤と砂で真っ黒になったいかつい肉体を所有していて、抱き方は乱暴で、男に抱かれるよりクリスの苦痛は激しかった。
 なんとなくその話をフィーネにすると、――男勝りを気取る女ほど女しか持たないような滑稽な感情があるものよ、と笑いを飛ばした。フィーネがクリスの体に関心をもつのは、自分の研究と計画に使えるかどうかということだけだった。「抱かれたいなら抱いてあげるわ」とフィーネは言って、数月に一二回くらいセックスをした。それを性的虐待だとはクリスは思っていない。抱かれたいから抱いてもらっただけのことだ。
 未来は黙ってクリスの昔話を聞いている。クリスの口振りは乾燥している。セックスだとかレイプだとか、その手の単語をごまかしもせずに使うのが、かえって生々しいと未来には思われた。
「フィーネさん、やさしかった?」
「全然?」
 クリスはどうしてそんなことを訊くんだといった目で未来を見た。くだらない質問をしてしまったと未来は反省した。フィーネはやさしくない。マリアはやさしいから本当のフィーネではない。クリスの解釈ではそうなっていると未来は知っていたはずだ。
 喋りっぱなしのクリスのほうが弁当を食べ終わるのは早かった。あまり咀嚼せずに飲み込むせいだろうか。未来は咀嚼の回数は多いほうだろう。
 未来も食べ終わった。
 弁当箱をかたづけて、桟橋のほうに行った。
 未来はくつを半分ほど橋から出して、湖を見下ろした。あぶないぞ、とクリスが言う。未来はすこし後ろにさがった。
 数匹の魚が桟橋の付近を泳いでいる。
「釣ったことある?」
「釣り道具あったからやってみたけど、釣れたことなかった」
「フィーネさん、釣りするんだ?」
「見たことないな。家にいる時は電話してるか研究室に缶詰か、だいたいそんな感じ」
 その研究室には拷問器具がいくつか置かれていて、フィーネはそれらを使ってクリスやクリスのかわいがっていた動物を虐待した。クリスは生かされたが動物はみんな殺された。時々その肉が食卓に並んだ。生理的な嫌悪感で吐き気がしたが、食べなければまた虐待される。食べても食べなくても、クリスはそうした夜には、何度も吐瀉するはめになった。
「ドライブが好きだって言ってたな。愛車がどうとか峠がどうとか延々聞かされて、たまったもんじゃなかった。ガレージは油臭くて、あたしはあんまり近づかなかった」
 それはフィーネというより櫻井了子の趣味で、フィーネはそれを継続しただけかもしれない。
「洗車とかさせられなかったの?」
「触らせてもくれなかったよ。願ったり叶ったりだけど」
 フィーネはやさしくなかった。やさしくなかったが、趣味の話をしている時の彼女の両目はらんらんと輝いて屈託ない少女のようで、クリスを威圧することも暴力を振うこともなかったから、長話に辟易しながらもクリスはその時間が嫌いではなかった。好きだったか、と問われたら、首をひねってしまうが。
「なあ、帰らないか」
 クリスは言った。弦十郎の邸に帰るのである。クリスの声は湿っている。
「そうね」
 未来は湖から目線を外した。
 クリスは前を歩いている。フィーネの死後、クリスがここを訪れたのは今回が初めてではないかもしれないと未来は思った。
 敷地外に出た時、未来は振り返って、かつてクリスとフィーネが暮らした場所の痕跡を見た。ほとんど空と木しか見えない。人工的な要素はわずかしかない。そのわずかに残った桟橋、外壁、柱などは、そっくりフィーネの墓標のような気がした。

 途中で本屋に寄って、未来は何冊かの小説を購入した。未来が文庫本コーナーで物色しているあいだ、クリスは新刊コーナーで平積みにされているハードカバー本のうちの一冊を手にして、睨むような目つきで表紙を見ていた。あらかた買いたい本を棚から引っ張りだした未来は、クリスのところに行った。
「その本が欲しいの?」
「べつに」
 そう言いながら、クリスの目は表紙に釘付になっている。
 未来は表紙をのぞきこんだ。『日本のヴァイオリニストたち‐クラシック百景‐』というタイトルの本で、帯にその演奏家たちの名前が羅列されている。未来はあっと驚いた。その中に、
 雪音雅律
 の名がある。
「もしかしてお父さんの名前?」
「うん」
 クリスは未来を見ないで言った。
「同姓同名の同業者がいないなら、そう」
「読まないの?」
 未来は訊いた。クリスは表紙を開こうとしない。
「じゃあ、買う」
 なにが「じゃあ」なのか未来にはわからなかった。
 家に着いた。
 クリスはこたつに寝転んで、両肘を立てて背を反らし、買ったばかりの本を、雪音雅律のところまで飛ばさず、最初のページから順にめくっていった。
「背中悪くするよ」
 と未来が言うと、今度は仰向けになって両手を天井に突き出したが、すぐに腕が疲れたのか、またもとの姿勢に戻った。
 未来は買った小説を読む気にはなれなかった。
「お父さんのヴァイオリン演奏を収録したCDとか映像は出ていないの?」
 それなら図書館に行けばあるかもしれない。
「カセットテープならうちにあったと思う」
 聞き慣れない記憶媒体だ。時代遅れのCDよりさらに古いものだったと思う。こちらは図書館にあっただろうか。未来は思い出せない。雅律が私的に録音したものだとしたら可能性は消える。クリスはもう持っていないだろう。知人などに配っていたとしても入手はむずかしいだろう。
「聴いてみたいのか?」
「聴けるならぜひそうしたいけど……」
 未来は携帯電話から動画投稿サイトにアクセスして「雪音雅律」で検索してみた。動画があがっているかもしれないと思ったのである。雪音、と打った段階で、検索バーから検索候補が垂れる。「雪音雅律」「雪音夫妻」「雪音ソネット」「雪音 雅律 ソネット」――
 未来はわずかに目を見開いた。
 雪音クリス
 候補の最後にあった。両親はたしかに有名人だが、なぜ無名の娘が検索候補に出てくるのだろう。
「なにしてるんだ?」
「コンサートの動画がないかと思って」
「動画?」
 クリスが未来のほうに体を寄せてきた。未来は「雪音雅律」の検索結果のひとつを開いた。
「これ――」
 クリスに携帯電話の液晶画面を見せる。
「ちいさくてよく見えない」
 と言ったが、動画タイトルを見て、パパの名前だ、と呟いた。
 ちょうど演奏が始まった。ピアノとヴァイオリン。ピアノの演奏者は初老の男性だった。投稿者コメントのところに、雪音雅律と共に姓名が列記されている。未来の知らない名だった。
 クリスにも心当たりはないのか、たんに興味がないのか、彼には触れなかった。
「この立ってるほうがパパなのか」
 画質はあまりよくない。古い映像だから仕方のないことだろう。未来はクリスに画面を向けたまま、拡大表示させた。拡大しても演奏者の顔はわからない。
「そう書いてた」
「へえ」
 クリスは嬉しそうな声をもらした。
 単曲で四分足らずの動画だった。クリスは半分くらいのところでこたつの上に両腕を組んで、そこに顔を寝かせた。目をつむっている。音だけ聴ければそれでいいらしい。未来は携帯電話をクリスの顔のよこに置き、両手をこたつの下に入れた。
 演奏が終わる。
「ほかにもある?」
 とクリスは目をつむったまま言った。
「探してみる」
 未来はいくつかの関連動画を見まわった。雅律とは関係のない演奏しかないようだった。最初の検索結果に戻る。音楽動画は見当たらない。雪音夫妻の死亡事件のニュース動画がほとんどで、それ以外はさっきの動画を登録した再生リストだけだった。
 二ページ目があったのでそちらに飛んでみる。ひとつ、毛色の違うものがあった。雅律とソネットが参加していた難民救済のNGO団体の活動報告動画だった。音量をゼロにして、その動画を開く。
 現地の住人とNGOのリーダー格っぽい男性、それに雅律と、そのとなりには長髪の女性がいる。カメラがその女性をフォーカスした。なにか話しているようだったが、内容はわからない。この女性が雅律の妻、クリスの母、ソネットだろうか。
 カメラが下がった。ちいさな少女が映った。
「クリス!」
 未来は思わず叫んだ。
「ん、なんだ?」
 クリスは顔を起こした。
「あ、……や、その」
 未来はどうしようか迷った。関連動画はこれと同じこの団体の活動記録だろう。他の動画にもクリスが映っているかもしれない。教えていいのかどうか迷う。
「どうした?」
 ごまかせば追及が強くなるだけだ、言うだけ言ってやれ、と未来は口を開いた。
「クリス映ってたけど、見る?」
「なんであたしが映ってるんだ? コンサートなんて出たことないのに」
 未来は言葉に詰まった。とてつもなく言いづらかった。
「そっちじゃなくて、NGOのほうの」
 クリスのパパとママが殺された地球の裏側の動画だ。
「あっ――」
 クリスは瞠目した。
 言った未来にも言われたクリスにも、にわかに緊張が走った。
 クリスは考え込んだ。数分後、
「見ない」
 とクリスは言った。
 未来はホッと溜息を吐いた。クリスのためにも自分のためにも、それでいいと思うことにした。

 この夜未来は寝つかれなかった。
 となりではクリスが眠っている。まだ夢を見ていないのか、見ていても泣くような内容ではないのか、目の周りはきれいだった。
 未来はクリスを起こさないように、しずかに布団を抜け、携帯電話を掴み、部屋を出た。
 どうしても気になっていることがある。検索候補に「雪音クリス」があったことが頭にひっかかって落ちない。
 未来はトイレの中に籠もり、動画サイトを開き、「雪音クリス」で検索した。「クリス」のみに反応したのか、全然関係のない動画がずらりと出てきた。引用符で囲ってもう一度検索する。タイトルのない動画が一つ出てきたが、すでに削除されていた。
 "chris yukine"
 検索バーから他の候補が垂れ下がる。どれもろくなものではなかった。それらは無視して"chris yukine"で検索する。サムネイルは森林か建物の壁が多い。サムネイルから動画の内容を当てるのはむずかしいだろう。タイトルは01とか06とか数字だけのものもあれば、はっきりと強姦の内容を記しているものもあった。こんなものが消されもせずに残っている。あるいは消されるたびに再投稿しているのか。同じ人間か、悪趣味なべつの人間か。
(やるんじゃなかった)
 未来は後悔した。ヒットした動画を片っ端から違法動画として運営に報告して、それが終わると未来はサイトを閉じて、部屋に戻った。
 クリスは眠っている。
 布団に入り、クリスの瞼のあたりに指を這わせた。指が濡れた。今は泣きやんでいるようだった。クリスはまた夢を見たのだ。マリアの夢か、フィーネの夢か、あるいは両親の夢だ。どんな夢を見たのかは朝起きてから聞くことになっている。
 未来は目をつむった。
 眠りつけるか不安だったが、ふしぎにすぐに眠ってしまった。
 未来は夢を見た。
 地元の中学校の教室があった。教室内に囲いができている。このクラスだけでなく違うクラスや学年の生徒もいるかもしれない。とにかくそいつらが囲いを作っている。囲いの中心には響がいて、足もとには花瓶の破片、水、花、そういったものが飛び散っている。その周りから罵声、批声、怒声、それにシャッター音がひっきりなしに鳴っている。なぜか笑声はなかった。あればまだしもマシだったかもしれない。
(なにと比べて?)
 未来は怒りを通り越してひどくバカらしい気持ちで、囲いをぶち破った。誰も未来をとめない。音がまったく消えた。未来は響の腕を掴んで立たせた。うつむいていた顔がこちらに向かってもたげられる。
 未来は目を覚ました。
「だいじょうぶか?」
 クリスが片肘を立てて、こちらをのぞきこんでいる。
「なんか、寝言っつか、うめき声あげてたけど、いやな夢でも見たのか」
「クリス……」
 部屋がすこし明るい。
「今、何時?」
「えっと」
 クリスは首を回した。
「五時半くらい」
 起床時間には早いが、寝なおす気にもなれない。しかし寝言とうめき声とはいったいなんだろう。夢の中で未来は言葉を発しなかったが、肉体はかならずしもそのとおりにはいかないのかもしれない。
 未来は上体を起こした。
「私はもう起きるけど、クリスはどうする?」
「あたしも起きるよ。汗びっしょりだぞ、お前。風呂に行ったほうがいい」
 言われて未来は気づいた。寝間着の袖でひたいを拭う。なるほど、びっしょりとかいていた。
「クリスも一緒に入る?」
「一緒に入っていいならそうする」
 クリスも寝汗がひどかった。ひどい寝汗をかくほど、ふたりともひどい夢を見たらしい。
 汗を流すだけでは物足りなかった。体が疲れ切っていた。湯船に浸かってゆっくりしたかった。湯が溜まるまで未来とクリスはお互いの夢の報告をしあった。どちらも十とそこらの人生の中でもっとも悲惨な時代の夢だった。
 シャワーで汗を洗い流し、湯船に浸かった。
「切るのやめる気になった?」
 未来は訊いた。これも朝の日課と言ってよい。
「まだわからない」
 クリスは言った。むりとかできないとか言わなかった。わからない、は何度か聞いたが、あたまに「まだ」と付いたのはこれが初めてだと思う。
 未来は夢の内容を話す時に、自分の過去も全部話した。響になにがあったのかも、とりこぼしなく打ち明けた。なにもかも吐き出した。それが多少なりクリスの心境に変化を与えたのかもしれない。クリスがその話をどう感じて、どう影響したのかまではわからない。
「お前がてんからびくともしないのはわかった」
 クリスは真面目に言ったのだろうが、未来はなんだかおかしくて笑ってしまった。笑いの意味のわからないクリスは、目をしばたたかせて、首をかしげた。

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 風呂からあがって、脱衣所を出ると、翼と鉢合わせした。
「おはようございます」
 未来はあいさつした。
「おはよう」
 女にしては重厚な声が耳に響いてくる。
「おはよ……」
 ややあってクリスも言った。風呂に入っているあいだに眠気が出てきたのか、あくびをした。
「お湯張ってますよ」
「そうか、つかわせてもらおう」
 と翼は言った。この多忙の先輩は今日も仕事だ。
 居間に入って、こたつの電源を点け、もぐりこむ。
「せっかくの冬休みなのにいつも忙しいな、あのひとは。学校がないと仕事詰め込まれるのか」
「今は時期はとくにね」
 大晦日には二本の音楽番組に出演する予定だと聞いている。どちらも夜の生放送で、未成年の翼は早くに出番が来てすぐに解放されるだろうが、帰宅時間を考えると一緒に年越しそばはむずかしいだろう。
 クリスは肘を立てて手の上に顎を乗せ、目をつむっている。たまにがくりと首が落ちる。すぐに位置を戻すが、安定しなかった。
 朝食を終えると、クリスはばたんと仰向けに倒れてすぐに寝息をたてはじめた。腰から上がまるごと出ていたので、未来は自分の肩掛をクリスにかけてやった。
 未来は昨日買って来た小説を読んで時間を過ごした。
 翼も弦十郎も仕事で、邸にはふたりきりだ。が、クリスは眠っているから、ひとりきりという感覚が未来にはある。陸上にしろ読書にしろ、孤独に没入できる時間が未来は好きだった。しばらく近くで眠っている生命体の存在を忘れて、未来は自分のみの世界に思考を沈めた。
 第三章を読み終えたところで、栞を挟んで、いったん本を閉じた。三分の一ほど読み進めたことになる。
 クリスはあの本をどこまで読んだのだろう。未来は居間の部屋の隅に放り投げられたその一冊の本に目をやった。栞紐はどこにも挟まれずに畳に垂れている。未来はクリスがまだ読んでいないだろう雪音雅律の伝を先にかってに読んでしまおうかとちょっと思ったが、思い留まった。その伝にクリスの父がどんな姿で書かれているか知れないし、また知ったところでどうするわけでもないのだ。
 ふっと溜息を吐いて、未来は小説を読む作業に戻った。
 時計の音、こたつや暖房の機動音、紙のこすれる音、クリスの寝息、空気が耳に触れてくるようないかんとも表現しがたいざわついた音、それらはもうまったく未来には聞こえなかった。未来は紙に刷られた文字世界に生きる一九二〇年代のちいさな少女歌劇団の物語に、ふたたび没頭していった。
 いくらかの時間が経過した時、クリスが目を覚ました。未来は気づかない。
 未来が読書をしているのを見て、自分もその気になったクリスは、部屋の隅に放置していた『クラシック百景』なるハードカバー本を、こたつからめいっぱいに伸ばした手で掴み、目次のページを開いた。
 栞を挟むのを忘れていたからどこまで読んだのかわからない。目次で演奏家の名前を見ても、誰それまで読んだのか思い出せなかった。もともとこの連中には興味はないのを、ただなんとなく最初のひとりの伝から読んでいただけのことなので、クリスは雪音雅律の伝の開始ページを確認すると、そこまでページを飛ばした。
 読めない文字や意味のわからない単語がいくつかあったので、自分の部屋に辞典を取り行こうとしてこたつから出て立ち上がった時、未来が顔を上げた。
「起きたのね」
「うん」
「どこ行くの? トイレ?」
「字ぃわかんないのあるから、辞書取りに行く」
「カッターいる?」
「部屋にある」
 クリスが平然と言うのを、未来は肩をゆらして笑った。

 クリスはなかなか戻って来なかった。
 未来はついと視線を上げて壁の時計を見た。辞書を持って戻って来るのにかかる時間をとっくに過ぎている。
 こたつから出て、未来はクリスの部屋に行った。
 心配というものは未来の胸には湧かなかった。慣れたというのとも違う感覚だった。
 部屋の戸を開けると、あぐらをかいて座るクリスの背があった。
 部屋の明かりは点いていない。天気が悪いせいだろうか、うす暗かった。未来は部屋の明かりを点けた。
「辞書見つからないの?」
 未来は戸を閉め、ぴったりと背中を張り付けて、そこに体育座りに座った。ここからではクリスの顔は見えない。クリスの手も見えない。その手に辞書があるのか、そうでないものがあるのか、なにもないのか、未来にはてんで見えない。
 未来はひどく挑戦的な気分になった。奇妙にも昂揚していた。そしておそらくクリスも同じ気分になっているのではないかと思った。パーカーの腹ポケットに右手を突っ込む。つめたい感触に当たった。グリップを握り、スライダーを押し上げた。カチ、とかすかに音を立てた。その音は未来には聞こえたが、クリスはどうか。
「へっ」
 とクリスは笑った。聞こえていたと未来は判断した。反応はそれだけで、背中の裏側のことはわからない。なにが起こっているのか、あるいはなにも起こっていないのか。
 室内に暖房は効いていない。居間よりもずっと寒かった。こたつが恋しくなる。クリスの正面が気になる。
 ――クリス、こっちを向いて。
 と言いたい気持ちが激しく湧き上がってきた。クリスは未来の言うことはだいたい素直に聞く。こっちを向いて、程度のことならあっさりと聞くだろう。たが、未来は言わなかった。理由は自分でもはっきりとはしなかった。
 カチ、とまたすこし刃を押し出す。
 クリスは反応しない。
 未来はクリスに気づかれないように息を落として、カッターナイフから手を離し、ポケットから出した。ゆるく握った手のひとさし指を親指を立てて、腕を伸ばし、そこに左手を添える。それから片目をつむって、ひとさし指をクリスの後頭部に合わせる。ぴんと緊張感が心に張り詰められる。ふしぎな感覚だった。この指先からはなにも出ないのに、知らず生唾を飲み込んだ。
 銃声とはどんなものだろう。パン、か、バン、か。どっちでもいいかと思い、とにかくごくちいさな破裂音をつくってみる。跳ね返りのつもりで肘と手首をすこし曲げ、狙撃を終えた両手を膝の上に乗せた。
 左の掌を天井に向けて、何本も引かれた切傷を指でなぞる。パーカーのポケットのカッターナイフの刃が出しっぱなしなことを思い出した。カチカチ、と音を立てて刃をしまった。この音は聞こえてもいいし聞こえなくてもいいと思った。
 ぐらりとクリスの体が傾いた。
 あっと未来は口の中で叫んだ。
 クリスは一度肩から倒れ込むと、ひっくり返って仰向けになった。
「眠い」
 とクリスは眠たげな声で言った。
 途端に、未来の脳裡で白い光がきらめいた。
 ――背中の裏側が開かれた。
 と未来は思った。
 未来は這うようにクリスに近づいて、仰向けの体を見下ろした。
 脇の下に国語辞典と漢和辞典の二冊が積まれている。その上にカッターナイフが置かれている。刃は出されていない。出したあと引っ込めたのか、そもそも出しもしなかったのかは不明だ。リストカットの形跡はなかった。
「布団敷こうか? それともこたつに戻る?」
「こたつがいい」
 とクリスは言った。未来はクリスが起きるのを手伝った。辞典を脇に抱え、ふらふらと足どりのおぼつかないクリスの背中に手を添えてかるく支えてやる。
 時々クリスは目をつむったまま歩いた。そのつど未来は目を開けさせて、背中を叩いた。
 こたつのある居間に戻った。
 クリスは素早くこたつに入ると座布団を枕にして、目をつむり、さっそく眠り落ちようとした。
「お昼になったら起こすね」
「うん。……」
 と答えた声は、もはや眠りの中にあった。

 昼食にはトマトスパゲッティを作った。
 クリスはがつがつとスパゲッティを口にはこんでいった。翼が愚痴をこぼしていた食事作法はあいかわらず改善されていない。何度手本を見せ、口で言って、仕込んでみても、いっこうに身に付かないと翼は言っていた。
「フィーネさんはなにも言わなかったの、それ」
 未来は食べ散らかされたクリスの皿を指さして言った。
「言われた。いっつもすげえ怒られてた。でもなおんなかった。なんでだろ」
 とクリスは答えた。フィーネは最後までかなり暴力的な躾をやめなかったらしい。翼や弦十郎は最後に手が甘くなってクリスには厳しくできない。それでここまで来ている。
 満腹になると眠気が復活したのか、クリスはあくびをした。
「しばらく寝る? 食器は私がかたづけておくから」
「いや、そこまでは。本のつづき読みたいし」
 ふたりで食器を台所まではこび、かるく水洗いをして食洗機に入れたあと、未来はコップに水を注いで、クリスに渡した。クリスはその水を飲みほした。
「どう」
「ちょっとすっきりした」
 とクリスは言った。
 居間に戻ってそれぞれに本を開いて、読書を再開した。
 未来はまた少女歌劇団の息づく小説世界に没入していった。
 クリスは辞典をよこに開いて、首をひねり、何度も読み比べ、髪を掻きながら、未知の言葉と格闘した。
 数ページめくると、写真が目に映った。モノクロの写真である。雅律とソネットの写真だった。
 昨日見た動画とは違い、この写真ははっきりと顔がわかった。クリスの記憶よりふたりとも若かった。撮影された年月日が付されていたが、クリスが四歳くらいの時のものだった。
「なあ、なあ」
 クリスは写真に目を落としたまま、未来の肩をゆさぶった。
「うん、どうかしたの。読めない字あったの」
「そうじゃなくて、これ」
 クリスは両親の写真を指さした。
「あ、これクリスのお父さんとお母さん?」
「そうだけど、どういうことなんだろ」
 クリスはふしぎそうな顔をしている。そのことが未来にはふしぎだった。写真を見てみたが、おかしいと感じるところはなかった。
「あたし、パパとママの写真持ってない」
 とクリスは言って、腕を組み、首をかしげた。
 ようするにクリスは、一人娘の自分がひとつも所持していない両親に関わるなにがしかを、どこの誰とも知れない赤の他人が、両親の死後何年も経った今でも持っているということが、ふしぎでならないらしかった。
 クリスにとって両親にかかるものは、すくなくともその物質的な意味においては、地球の裏側で彼らが殺された時に、全部残らず破壊し尽くされ消滅し尽くしたもののはずだった。それを地球のどこかに、あるいは日本のどこかに、今も所持している者が存在するのだ。この本にある写真や昨日の動画のように遺っているのだ。
 嬉しい以上にクリスは戸惑った。
 未来は、
「ご両親は有名な方だから」
 と言いかけて、その平凡すぎる言葉に憮然とした。

 今夜も未来はクリスと同じ布団で寝ることになった。翼の語るなにかに衝き動かされるようにして発しつづける°・暴性の爆発を、一度見てみたいと思わないでもなかったが、しかしクリスはもうそういったことをしない気がした。
 二冊の辞典の上に置かれたカッターナイフの意味を、自分はこれから考えて考え抜かなければならないと未来は思った。
 布団にもぐってから、未来はクリスに訊いた。
「まだフィーネさんに会いたい?」
「うん」
 とクリスは湿った声で答えた。
 目線は天井に向けらている。どちらの表情もお互いにはうかがい知れれないが、クリスは泣きそうな顔になっているのではないかと未来は思った。そう思う自分も、感染したみたいに泣きそうな顔になっている気がした。
「そういえばフィーネの写真も持ってないや。一枚持ってるけど、眼鏡かけてるし髪型変だし服着てるし、なんか全然別の人間みたいだから持ってる気しない」
 クリスが弦十郎にねだって譲って貰った写真だった。櫻井了子というその世界ではちょっと名の知れた科学者が、同僚に囲まれて明るく笑っている写真だった。
 彼女の人格を塗り潰してフィーネは復活した。その時点で櫻井了子は死んだはずだった。だが、フィーネが復活したあとも、櫻井了子はすくなくとも世間的には櫻井了子として生きつづけた。そして、その後半生のうちの二年余の時間を、高台の自宅に雪音クリスというひとりの住人を追加して過ごした。
 だが、クリスは櫻井了子など知らない。生きたことも死んだこともクリスの知ったことではない。ましてや同棲していたおぼえもない。あの日、砂のように崩れ去って死んだのはフィーネだ。櫻井了子ではない。クリスはそう信じている。
 しかしながら、ルナ・アタックと呼ばれる事件における二課の殉職者の名はあくまで櫻井了子となっているし、あの高台の土地と邸宅の所有者の名もやはり櫻井了子なのである。あの邸で暮らしていたのは、フィーネではなく櫻井了子ということだ。そしてそれは間違ってはいなかった。実際櫻井了子はそこで暮らしていたのだ。
 それならフィーネは、いったいどこにいたというのか。
 クリスは未来の手を握った。そうせずにはいられなかった。未来がその手を握り返すと、クリスは涙をこぼした。
「クリス……」
 未来は半身を返してクリスの肩を抱いた。
 こういう名の呼び方をするのが自分だけだと未来は知っている。クリスもまた、未来のほかに誰もつかわない呼び方だと理解している。理解したくなくてもそういう現実がよこたわっている。
 寝間着の袖で涙を拭うと、クリスは未来のほうに体を寄せ、胸に顔を沈めた。
「吸ってもいいけどなにもでないよ」
 と未来は言った。その言葉のあとに「ふっ」とちいさな笑声がつづいた。声の質も喋り方も笑い方も、フィーネとは似ても似つかない。ソネットからはもっと遠い。
「そんなことしない」
「もうそんな歳じゃないもんね」
 未来はなんの気もなしに言ったが、クリスはすこし傷ついた。
「良い夢を、クリス」
 と未来が言うと、クリスは顔を上げてひたいを未来の前にさらした。未来はそこにくちづけた。
 ――良い夢を。
 だが、それを見たら、クリスはまた、泣いてしまうのだろう。
 未来はクリスの手を離し、首と敷布団とのあいだのすきまに腕をむりやり通して、両手でクリスを抱きすくめた。
 クリスはすでに泣いていた。

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 年が明けて三が日をいくらか過ぎると、冬期休暇の最終日だった。
 未来はクリスを連れて高台の邸に行った。
 路傍には前日降った雪が、まだ溶けずに残っていた。邸に近づくごとにその量はすこしずつ増えた。
 邸に到着すると、やはりあちらこちらに雪が積もっていた。
「クリスの部屋ってどのあたりにあったの?」
 と未来は訊いた。
 クリスは黙って歩いて、その場所まで行き、なにもなくなった空間に立ちどまった。
「ここ?」
「の、二階」
 クリスは一度空を見上げると、次にうつむき、じっと地面を見つめた。
「三年経った」
 クリスは白い息を落とした。
「ここに初めて来てからだいたい三年」
「そう」
 三年。未来はその年数を心の中で反芻した。未来が誘ったツヴァイウィングのライブに、響ひとりを行かせて、大怪我負わせてしまったのも三年前のこの頃のことだ。もうあれから三年になるのかと思った。
 ツヴァイウィングライブのノイズ襲撃事件も、故雪音夫妻の一人娘であるクリスの失踪事件も、当時は新聞の一面を大々的に飾るくらいのニュースバリューがあった。昨年、二課に保護されてからのクリスの動向は、とくに秘匿の扱いにあるわけではないが、どこといって報じられているわけでもない。今のところクリスの存在は世間的にはほとんど忘却されいる。ライブ事件から生き残った響や他の被害者を寄って集って迫害したことも、もうみんな忘れているだろう。
「明日は始業式ね」
「うん」
「学校、どうするの?」
「まだ決めてない」
 とクリスは言った。
 復帰するつもりがないのであれば、三学期が始まれば、クリスが家にひとりでいる時間が増える。リストカットは今でもつづいている。未来が目を離しているうちに、やはり切るのである。ただし、今地面を見つめているのと同じように、カッターナイフを握ったまま、それをじっと見つめていることも増えた。
 未来はクリスが自分の手首を切る理由は把握しているが、切らない理由はまだわかっていない。切るのをがまんしているふうでもないのだ。ただカッターナイフをじっと見つめて、身じろぎもしない。なにを考えているのか、なにも考えていないのか。
 クリスは崖のほうを指さした。
「あっちのはじっこに研究室があった」
「なにもないね」
「あそこが爆発したんだ、派手にさ」
 爆発のその真っ直中にクリスはいた。クリスが帰って来た時、フィーネはもうそこにはいなかった。共に暮らした邸を破壊する爆弾を置き土産にして、高台から消えた。
 クリスが指さした場所へ歩いていく。未来もついていく。
「ソロモンも、イチイバルも、あそこで起動させたんだ。ネフシュタンも、あそこで貰った」
 と歩きながらクリスは言った。
「これとか」
 クリスは長い後ろ髪を束ねる髪留めを触った。
「靴とか服とか、あとケープ。サイズ合わなくなったり、季節違ったりして、使わないうちに、邸ごと消えちまった」
 かける言葉を見つけられない未来は黙ってあとをついていく。今はコートを羽織っているが、クリスの洋服箪笥の中には白いケープがしまわれている。フィーネから貰ったものと同じか似たデザインのものを買ったのだろうか。
 クリスは足をとめた。また地面に目線を落として固定する。
「ずいぶんといろんなもの貰ったよ。貰ったっていうか、持たされた。フィーネのやろうとしてたこと、やるために」
 未来はクリスのとなりに立った。
 クリスはコートの下からペンダントを取り出して、それを指でいじっている。
「ふかふかのベッドも、豪勢なメシも、あったかい風呂も。でも」
「クリス――」
 未来が名を呼んだ瞬間、クリスは力なくその場に崩れ、しりもちをついた。未来が背を支えてやらなかったら、そのまま後ろに倒れて、頭まで地面にぶつけていたかもしれない。
「日本に戻って来た時にさ、もし、フィーネに攫われなかったら、突起物のあずかりになってたらしいんだ。さっき言ったベッドもメシも風呂も、本当なら、全部そこで手に入ってた、三年前に。靴も、服も、ケープも、髪留めも、全部」
 クリスの声がふるえだした。
「学校だって、とっくに行ってたんだろうな」
 未来に寄りかかってくる重みが増した。
「フィーネから貰ったもので、フィーネでなきゃいけないものなんて、結局なにもなかった」
 クリスとフィーネが共に寝起きした邸は、櫻井了子という見知らぬ女がひとりで暮らしていた住居として無惨に吹き飛ばされた。それが事実であって、そこにはクリスもフィーネもいない。
 この高台であったすべてが、夢幻の中の出来事として、消えようとしている。二年のあいだに、クリスがフィーネと繋いだ絆が消滅しようとしている。堪えがたい苦しみがクリスの胸に生まれ、認めがたい気持ちが、自分とフィーネとを繋いだ唯一のものに縋らせた。その唯一が「痛み」だった。だが、
「それだって、棄てようとしてるんだ、あたしは」
 クリスの表情は見えないが、もしかして笑っているのかもしれないと未来は思った。
「なにも、棄てなくてもいいと思うけど」
 未来はそう言った。
「棄てたくない」
 と言ったクリスは、体を沈めて、未来に寄りかかった。
 未来はクリスのちいさな体を抱き締めた。
 クリスは身をよじって、未来の肩にひたいをこすりつけた。
 未来はふいに頬につめたいものを感じた。
 あたりを見渡すと、雪が降っていた。
「クリス、雪よ」
 と未来は言った。
 口に出してみると、とたんにこれまでになかったような強烈な寒さを感じた。
 腕の中の体がすこしうごいたようだった。肩でこすれるような音がした。クリスが首をうごかす音だった。
「ほんとだ、雪降ってら」
 とクリスは言った。
「このままずっとここにいたら、風邪引いちゃうね」
「そしたら、堂々と学校休めるな」
「もう、へんなことたくらんで……」
 未来は溜息を吐いた。クリスの手を握って、ひえてかたくなった指をもみほぐし、あたためやろうとしたが、自分の手もたいがいにかじかんで、うまくうごかない。
「やっぱり、やさしいなあ、お前は」
「なに、急に」
 クリスの手を口もとまで持ち上げて、息を吹きかける。
「フィーネは、こんなこと、してくれたことないから」
「そう」
 未来は内心笑った。雪にうたれてうごかないでいることが、やさしい、と言えるのだろうか。遭難して身うごきがとれなくなっているわけでもないのだ。こんなことをしているひまがあるのなら、とっととクリスを抱え起こして、家に帰ればよい。そうすれば大した手間もなく体をあたためることができるだろう。
 が、未来はそうはしなかった。クリスが自分からこの場所を離れようとするまで、未来もまた離れようとこころみるわけにはいかなかった。
 雪の量が増えていく。風が吹いている。体にはりついてくる雪は最初はすぐに溶けて消えたが、そのまま残るようになった。
 未来はクリスの肩や髪に積った雪を手で払ってやった。払ってもすぐにまた雪が落ちてくる。払う時に付着した雪が刺すようにつめたい。溶けて水になったそれをコートの裾で拭い、数回息を吹きかけた。
「寒いのか」
「そりゃあね」
「あたしも寒い」
 クリスはそう言うと、密着している体をさらに押し付け、フードを被った。
 まだまだここを離れる気はないようだ。
 未来は自分もフードを被った。ひとつ、おおきな息を吐き、気合を入れる。
 この雪と風が持つ独特のきびしさは、クリスにとってのフィーネそのものなのかもしれない。未来はふとそんな想像をした。

 空一面の雲である。太陽の位置がわからない。コートのポケットの中に携帯電話が入っているが、クリスを抱きかかえる腕をほどいてまで取り出す気にはなれない。ようするに未来は時間の経過をまったく把握できていなかった。
 とりあえず腹時計が鳴る気配はない。
 そろそろ寒さより痛さのほうを強く感じるようになってきた。せめて手袋を持ってくればよかったと未来は思った。拳を握って指を隠しても大した効果はない。
「クリス、起きてる?」
 身じろぎひとつしないクリスが心配になって、未来は声をかけた。
「起きてるよ」
 クリスはフードの下の顔を上げて言った。それでも未来には彼女の表情は見えない。今まで聞こえてこなかったクリスの歯を鳴らす音が聞こえてくる。
「手首が痛い」
 とクリスは言った。
「私も頬が痛い」
「傷、まだ痛いのか」
 クリスは指を伸ばして、未来のもうほとんど見えなくなった頬の傷を触った。
「傷は関係ないけど、こう寒いと」
 実際未来は頬が痛かったが、傷のあるほうもないほうも、両方が痛かった。
「寒くないけど、痛い」
 とクリスは言った。頬と違って手首は外気にさらされていない。防寒はしっかりされている部分である。クリスが痛いというのは、なにが痛いのだろうか。そう思いつつ、
「暖房の効いてる部屋に戻ればおさまるでしょ」
 と未来は言った。
「行きたくないな」
 ここでクリスは、初めて帰宅の意思がないことを、はっきりと口にした。ただし、帰りたくない、とはクリスは言わなかった。
「ここにいたいの?」
「うん」
 周囲が白く化粧されていく。自分たちの体も白くなっていく。時々体をゆらして、肩や頭に積もった雪を落とした。腕をほどき、手で雪を払う気にも、やはりなれなかったのだ。
 いつのまにか風が落ちている。
 音もなく降り積もる雪の、深々と、とは、こういうものなのだろうか。
 未来はふしぎな感覚にとらわれた。
 自分の呼吸音さえ聞こえない気がした。耳にはとどいているが、頭にはとどいてこない感じだった。クリスの呼吸の音はもっと所在不明だ。
 ぴたりと抱き寄せている体がいやに遠くに感じられる。まるでなにも抱いていないみたいに、腕にも胸にも、あるはずの感触がない。
「クリス、起きてる?」
 未来はまた訊いた。
 ――起きてる。
 と言うかわりに、クリスは体をよじって、自分を抱き締める未来の手に指をひっかけた。その指はひえきっていたが、未来はそのつめたさを振り払う気にはなれなかったし、またさきほどのようにあたためてやる気にもなれなかった。
 うごくのが億劫だというのはもちろんあるが、大きくうごけば、その瞬間には、この場に座り込んで寒さを耐えることのほうが、ずっと億劫になってしまうだろう。体をうごかしてあたためて、クリスの手を引いて、一刻も早く家に帰ろうとするに違いなかった。
 帰るのはクリスがそう言い出した時だ。未来が言い出した時ではない。そう決めたからには、そうでなくてはならない。
 ――ああ、それにしても。
 寒いし痛いし退屈だと未来は思った。
 雪の降る高台にじっとして座っているだけだ。会話もない。なぜこんなことをしているのかと誰かに訊かれても、未来は返答に困っただろう。無意味なことをやっているつもりは全然なかったが、だからといって、自分がなにをしているのか答えようもなかった。あるいは答えとしてちょっとばかり似つかわしい言葉があるとすれば、根比べということになる。クリスではなくフィーネとの、これも未来の意地を懸けた根比べなのだ。
 クリスは寒いとも痛いとも言わなくなった。未来も話しかけはしなかった。ただどうにも、クリスが起きているのか、生きているのか、不安になって、時々声をかけた。クリスはそのたびに、未来の手に指をひっかけて、起きていることを伝えた。
 クリスには今のこの状態を耐えているという感覚はないだろう。
 未来以外の高台のあらゆる存在は、降る雪も降られるおのれも、当たり前のものとして受け入れている。当たり前と感じない未来だけが忍耐の中にある。未来は忍耐している自分というものを意識した。この自覚はうしなってはならないものだった。
 そのうち未来は、クリスに声をかけることもしなくなった。
 今度はクリスのほうが未来のことを不安に思い、声をかけてくるようになった。未来はいっそうに強く抱き締めることで、それに答えた。声をかけるたびにクリスの体は未来の腕と胸のあいだで押し潰されていった。
「苦し、い」
 とクリスに言われて、未来は腕の力をすこし弱めた。
 息苦しさから解放されたクリスは、ほうと息を吐いた。
「腹へった」
 とクリスは言った。
 今回、食べるものはなにも持って来ていない。ここにいつづけて満腹になれる見込みはまずない。
「雪、食えねえかなあ」
「お腹壊すよ」
 と未来が言うと、
「フィーネなら、雪でも食べてなさい、って言うとこだ」
 クリスはけらけらと笑った。笑いながら体をゆすった。雪が落ちた。
「言われたことあるの?」
 クリスはちょっと考えてから、
「ない」
「なにそれ」
「言われたことあった気がしたけど、なかった」
 クリスは首をすくめた。
「言いそうな気がしたけど、やっぱ言いそうにないや、あいつ」
「お腹がすいたって言ったら、実際はなんて言われたの?」
「ごはんつくってくれた」
 クリスの返答は早かった。ごく浅いところにある記憶だった。
 未来の腕の中でクリスはもぞもぞと体をうごかした。急に落ち着きがなくなったと未来は感じた。起きているのか、生きているのか、心配になるほど身じろぎしなかった体が、せわしなくうごいている。
「どうしたの」
「写真」
 とだけクリスは言った。服の中から写真を取り出そうとして、悪戦苦闘しているらしかった。手がかじかんでうまく取り出せないのだろう。体勢もよくない。
「あった」
 すっかりくしゃくしゃになった写真を赤らんだ指に掴んでいた。ごしごしと腿に押し付けながらしわを伸ばしたあと、クリスは一仕事終わらせた満足感にちょっと笑った。
「了子さん?」
「フィーネだよ」
 了子なんてやつは知らない、とクリスは言った。
「でも、了子なんだな、こいつの名前は」
「そうね、その人は、了子さん」
 未来もクリスも、それぞれ違う理由で、了子とフィーネを同一人物として繋げることに、自分ではどうしようもない抵抗があった。
 拉致したばかりのクリスを邸に置き去りにして、職場で同僚たちと一緒に撮った写真の中で、彼女はかろやかに笑っている。
 こんな人間の存在を、クリスはすこしも知らない。いや、すこしは知っている。認めたくないが、クリスはたしかに知っている。ルナ・アタックの時に響に対して、これと同じような笑顔を向けていた。クリスはそれを遠くから見ていた。
「だから、こいつは、フィーネなんだ」
 とクリスは言った。
 未来はほとんど反射的にクリスのフードの中に手をつっこんだ。
 指で頬をなぞり、目頭のあたりを探って、そこに当てると、はたして指が濡れた。
「あたしは、フィーネが自分の何だったら、よかったんだ」
 いや、そうじゃあない、と呟いて、
「自分が、フィーネの何だったら、よかったんだ」
 と言いなおした。
 クリスの自問に、未来はよこから答えられない。
 それはこの先クリスが、自力で探し見つけださなければならないことだった。
 答えてやれないかわりに、未来はクリスをちからいっぱい抱き締めた。
 クリスは写真を持ったまま、その手を未来の背に回して、抱きかえしてきた。未来の肩に頭を乗せると、クリスはやがて全身をふるわせ、嗚咽をあげた。

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 くしゅんとくしゃみが聞こえた。
 未来は笑った。
 クリスの背を二三度を叩いて、
「帰ろっか、クリス」
 と言った。言った瞬間、――ああ、言ってしまった、と未来は思った。自分からは言い出すまいとしていたことを言ってしまった。それがみょうにおかしくて、未来は笑った。しかし、もう遅い。未来はクリスより先に「帰ろう」とはっきりと言ってしまったのだ。
「うん」
 と言って、クリスはすんと鼻を鳴らした。
 未来の腕の中から抜け出して、ゆらりと立ち上がる。
「帰ろう」
 とかすれた声で言った。
 散々に泣きはらして、気がすんだかと言えば、そうでもない。眉宇は暗い陰翳に沈んでいる。
「帰りたい?」
 未来はゆったりと腰を上げながら言った。
 クリスがふしぎそうな目で見てきた。
「お前が帰ろうって言ったんじゃあないか」
「そうなんだけど」
 くしゃみが聞こえなければ、未来は帰ろうとは言わなかっただろう。このままでは風邪を引いてしまうかもしれないと思うと、つい自分の依怙地をひっこめて、そう言ってしまったにすぎない。
「クリスが帰りたくないなら、それでもいいし」
 未来がそう言うと、クリスはうつむいた。
「帰りたくない」
 とクリスは言ってから、顎をあげて、未来に背を向け、桟橋のある湖のほうに目をやった。
「でも、べつに、つきあってくれなくても……」
 おそるおそるといった感じに、クリスは体をすこしひねって、肩越しに未来をのぞき見た。先に帰れ、とは言えない、これはクリスの甘えだ。彼女はひとりでここにいつづけたいわけではないのだ。
 未来はクリスのとなりに立って、フードの上から彼女の頭をわしゃわしゃと掻き乱した。いまさらなことだが、未来のこうしたクリスへの態度は、あきらかに年上の人間に対するものではない。同じことを響がやればクリスは怒っただろう。が、響に先輩風を吹かせたがるクリスは、その響と同い年の未来にはおおむね従順だった。今もおとなしくされるがままでいる。
 やはりクリスの中で、未来の立場は特殊な位置にあるのだろう。その場所には、かつてフィーネが立っていた。
 未来の手からクリスの頭が離れた。
 クリスはふらふらとおぼつかない足どりで、桟橋のある方向に歩いていく。
 未来は後ろをついていった。
 風がまた吹いてきた。
 クリスのフードが頭から剥がれた。
 なんとはなしに未来もフードを取った。
 雪がななめに落ちてくるようになった。雪の量はさっきより落ち着いている。
 たまに瞼と頬にはりつく雪を払い落しながら、未来はクリスのあとを追う。
 無言で歩くクリスの背に話しかけてみようかどうかを迷っているうちに、桟橋の手前に到着した。
 雪が湖に落ちて消えている。その水の一面だけはまったく化粧されていない。桟橋にはうっすらと積もっている。
 クリスが気にせず雪の桟橋を進もうとするのを、未来は思わず腕を掴んでとめた。雪のあるなしに関わらず、今のクリスが桟橋を歩くのはいかにもあぶなっかしいように思われた。
「あぶないよ、クリス。落ちたらたいへんなことになる」
 クリスは振り返らない。まばたきもせずに、まっすぐ桟橋の先を見ている。
「うん、たいへんなことになった」
 あっけらかんと言うものだから、未来は驚いた。
「落ちたことあるの?」
「ある」
「雪で滑って?」
 クリスは首を振った。
「魚見てたら、落ちたんだ」
 今とは正反対の、たしか初夏の日射しの強い日だった。
 すぐに橋の脚に掴まったが、そこから這い上がるのにけっこうな時間を喰った。濡れ鼠になって邸内に戻って来たクリスに、フィーネが呆れ果てた顔でバスタオルを投げつけた。邸の窓からクリスが桟橋から落ちるのを見ていたらしかった。その時はそれほど怒っているふうではなかった。
 風呂に入るようにフィーネに言われたクリスは、びしょ濡れの服を脱いで、湯を張り、そこに浸かって、湖水でひえた体をあたためていたのだが、数回あくびをしてから、そのまま浴槽にもたれかかって、眠ってしまった。
 目が覚めた時は自分のベッドの上だった。
「一日に二度も溺れ死に損なう愚劣者がいる」
 横たわる裸体に降りかかってきたのは、そんな声だった。
 フィーネは、眉間にしわをつくり、頬を歪ませ、唇の隙間から白い歯を軋ませていた。
 あきらかにフィーネは怒っていた。
 クリスはあわてて体を起こし、謝罪の言葉をさがした。それより先に、フィーネの平手がクリスの頬をぶった。
「ぐずは嫌いなのよ」
 と唾棄するようにフィーネは言った。
 クリスはこの時、フィーネに言い付けられていたソロモンの杖の起動をまだ成功させていなかった。最初はのんびり構えていたフィーネもしだいに苛立ちを募らせ、しかめ面をクリスに見せるようになった。そんなさなかにこの無様があった。
 クリスの眉間は恐怖で青ざめた。フィーネの暴力にではなく、フィーネに嫌いと言われたことに恐怖した。
 クリスはかつてフィーネから愛情を感じたことなど一度もなかった。クリスのほうもフィーネに親しみを湧かしようもなくはっきりと嫌っていた。なのに、嫌いだと言われた瞬間、クリスはフィーネに嫌われたくない一心で、彼女に取り縋り泣き縋った。
 ――ごめんなさい、もっとがんばるから、もっとちゃんとするから、見捨てないで、嫌いにならないで。……
 みっともなく喚き散らした当時の言葉を、クリスは記憶から拾い上げて、白い息と一緒に吐いた。
「なんでだろう」
 クリスは言った。
「殴られるのはいつものことだから気にならなかったんだけど、嫌われるのだけは、なんでか、どうしても、いやだったんだ。好かれたことなんてそもそもなかったのに」
 クリスの言ういつものこと≠ヘ、フィーネとの同棲時代に限ったものではなく、両親の惨死以来ずっとつづいてきたことだった。そのいつものこと≠ェ終わったのは、おそろしく最近の話だ。
「ストックホルム症候群っていうんだってな、こういうの」
「え――」
 クリスの口から急に飛び出してきた意外な言葉に、未来は驚き目を見開いた。
「こないだテレビでやってた」
「それは、……」
 未来は返答に詰まった。そのとおりだとも違うとも未来には言えない。
 拉致され、監禁され、虐待された。愛情の抱きようのない相手に、二年の共同生活のなかで抱いた強烈な愛情は、自己防衛のために自分で自分を洗脳した結果にすぎない。クリスが突然発した言葉はそういう冷淡さをもっている。
「本気でそう思ってるの」
 と未来は言った。
「思ってないけど、そういうことに、なっちゃうんだろう」
 とクリスは言ってから、いぶかしげに眉をひそめた。
「お前、なんか、怒ってないか?」
「かもしれない」
 と未来は答えた。言ってみて、未来は、なるほど自分は今怒っていると思った。
「ごめん」
 クリスは謝った。それから、ああ、と苦しげに呻いた。
 呻きのあとに沈黙があった。
 未来はその長い沈黙を一言も発せずに耐えた。
 しばらくするとクリスは両手で頭をかかえて、フィーネ、フィーネと、うわごとのようにその名を繰り返し呼んだ。
「フィーネ、なんで、ああ、なんで、お前、あたしのこと攫ったりしたんだ。――いや、知ってる、知ってるんだ。理由なんてわかりきってるんだ。だけど、フィーネがあたしのこと攫わなかったら、もっと普通に、違う、違う、もっとちゃんと、仲良くなれたかもしれなかったのに」
 そうしてクリスは、涸れることの知らない涙をふたたび流しはじめた。

 クリスがようやく泣きやむと、未来の手を握ってきた。未来はクリスの手を引いてフィーネの邸を離れた。
 どちらが「帰ろう」と言いだすでもなく、ふたりは帰路を辿った。
 クリスは途中何度も半端に溶けて凍った雪に足をとられて、しりもちをついた。一度地べたにへたりこむと、クリスはなかなか立ち上がらなかった。フィーネへの未練がそうさせているのだろうと未来は思った。
 未来はむりにクリスを立たせるようなことはせず、クリスが自分から立ち上がるのを待った。
 弦十郎の邸に着く頃には、昼食どきをとうに過ぎていた。
 ふたりは昼食をあとまわしにして、ひとまずは凍えきって疲れきった体をどうにかしようと風呂を使った。
 ぬるめの湯をかけて、徐々に体をあたためていった。
 湯船に浸かる。
 じゅうぶんに体を慣らしたつもりだったし、温度もそれほど高く設定していないはずなのに、それでもまだすこし、ひりひりと余分に熱く感じられた。
 あいかわらずクリスはこの広い湯船を広くつかおうとせずに、未来のほうにくっついてくる。首をかたむけて、未来の肩に乗せた。その頭がずるりと落ちそうになることがあるので、そのつど未来は手を差し出して、また自分の肩に乗せた。
「眠いの?」
 と未来は訊いたが、返事はなかった。訊いた未来も眠くなってきた。これでふたり揃って風呂場で溺れ死にでもしたら、愚劣どころの話ではないだろう。
 それにしても、
「ねむ……」
 未来はあくびをかみころした。膝を立たせて、その上に両腕を乗せ、顎を置く。唇がすこし湯に浸かった。
 クリスは未来の肩に頭をくっつけたまま、未来の体がゆれた分だけ自分の体もつられてゆらしたが、自分から姿勢をうごかすようなことは全然なかった。たぶんもう眠っているのだろうと未来は思った。
 湯船の温度に慣れてきた感じがする。
 未来は頭の中で数を数えはじめた。
 できるだけゆっくりと数を刻んでいった。
 百まで数えたら風呂を出ようと思っていたが、眠っているクリスをなんとなく起こしたくなくて、その時が来るのを、ちょっとでも先延ばしにしようとしたためだった。
 三十を過ぎたあたりから数える声が口にもれだした。湯が口の中に入ってくるので、未来は腕から顎を離して、天井に目を向け、声は出さないように、唇だけうごかして、つづきを数えていった。
 ――九十七、九十八、九十九、百、……
 百一、百二、と未来は唇をうごかして、ゆるゆると首を振った。
「クリス、出るよ。のぼせちゃう」
 未来はクリスの体をゆすった。
「ん……」
 クリスの頭が未来の肩から離れた。
「寝てた?」
「どうだっけ」
 クリスは傾けていた体を起こし、ぼんやりとした目をひらいた。
 未来はクリスの顔を観察した。泣いてはいないようだった。目が赤いのも頬がはれぼったいのも風呂に入る前からだ。
 湯船を出て、かるく体を流した。クリスの頭から湯をかけてやると犬みたいに体をふるわせて湯を飛ばした。脱衣場で体を拭き、着替えて、居間に行った。
 未来はこたつの電源を入れて、
「お昼どうする? なにか食べる?」
「腹へった」
 とクリスは言った。
「じゃあ、なにか用意してくるから、待ってて」
「うん」
 こたつにクリスだけが入った。
 未来は台所に向かった。インスタント類は全滅だった。にゅうめんを一人前半茹でて居間に持っていった。
「これだけ?」
「しっかり食べちゃうと夕飯入らなくなるから」
「ふうん。それもそうか」
 両手に箸を挟んで「いただきます」とクリスは言った。
 碗に分け取って、麺をすする。つゆが濃すぎたかもしれないと未来は思った。クリスはいつもどおり食べるのがへたくそだった。
「明日、始業式どうする?」
「行かない」
 とクリスは、はっきりと言った。フィーネの邸ではまだ迷っているようなことを言っていたが、ここでのクリスはそう断言した。
 三学期ずっと行かないとなると、さすがに原級留置になるだろう。そうなればクリスは未来と同じ学年になる。
 考えてみればクリスは小学校の半分以上と中学校の三年間まるごと、全然通っていなかったのだ。年齢どおりにいきなり高校二年生から始めるのがどだいむりな話だったのかもしれない。もう一学年やりなおすのも悪くない気がした。春から復学する気がクリスにあるかどうかはわからないが。
 そう思いつつ、せっかくできたクラスの友人と学年が別になってしまうのも、あわれなようなもったいないような気が未来はした。
 ――やっぱりあの人たちと一緒に進級したほうが、いい。
 と未来は、二学期の終業式にクリスが教室に残したままの荷物を邸まで持って来てくれた、クリスの三人の友達の顔を思い出しながら、そう考えた。
 いつか麺はすっかりなくなっていた。
「行かない理由、訊いていい?」
 未来は食器を盆の上にかたづけ、クリスが飛び散らせたつゆを布巾で拭いた。
「いいけど、言った理由であってるかどうか、自分でもわからない」
 とクリスは言った。
「行ったほうがいいって思ってる。あいつらに会いたいし」
 フィーネとは全然関係のない心情の吐露を、未来はひさしぶりに聞いた気がした。
「会いたいなら、会ったほうがいいに決まってるんだ。会えるんだから」
 自分に言って聞かせるような言い方だった。
「でも」
 クリスはそう言うと、泣きそうな顔をつくって、それをぐっと堪えるように、一度口をつぐんだ。壁の時計の秒針が一回りした頃、
「会いたくない。だから行きたくない」
 とクリスは重い息を吐き出しながら言った。
「傷を見られたくない?」
 と未来は訊いてみた。
「たぶん」
 とクリスは答えた。
「けどそれって、あいつらに心配かけたくないからじゃ、ないと、思う」
 クリスの言葉を、未来は頭の中で咀嚼した。クリスが言わんとしていることはなんとなくわかる。せっかくできた友達にリストカットのことを知られて、嫌われたり気味悪がられたりするのが怖いのだろう。未来がそれを言うと、クリスはうなずいて、また、
「たぶん」
 と言った。傷を隠せばそれですむことでもない。気の持ちようがそうならないのだから、いくら隠しても意味もないことだ。あばかれるかもしれないという怯えが目に出てしまえば、相手の態度も変わってくる。
「でも、私や響には見せても平気なんだよね」
「平気じゃないけど、いまさらだからな」
 それはすこし未来には意外だったが、ちょっと考えてから、
「まあ、そうよね。……」
 と言って、未来は盆を持って台所に行った。
 未来や響と違って、クラスの友達はクリスの陰惨な過去を知らない。正体不明の傷にまみれた体を、いたわるのではなく異様なものとして拒んだところで、それはいたって普通の感覚だろう。しかし、クリスは彼女たちに拒まれたいわけではない。受け入れられるかどうかわからないのであれば、隠しておきたいと思うのも、やはり普通の感覚だろう。
 未来にしたって、自分と響の過去を創世たちにはすこしも話していない。またその必要も感じない。事件当時あの三人が被害者をどう見ていたのか、事実はどうあっても未来は聞きたくも知りたくもないと思っている。だからそれは、あえて触れる必要も触れさせる必要もないことだ。
 未来が食器を洗って居間に戻って来た時、クリスは舟を漕いでいた。
「クリス――」
 呼んでみると、舟漕ぎがとまって、うつらうつらとした目が、ゆっくりとこちらを向いてきた。
 さてこれからどうしようかと未来は思った。
 いつもならそのまま夕飯の時間まで寝かしつけてしまうところだ。それでなくても今日は歩きまわって、長時間を雪の中で過ごして、体は疲れている。眠気もいつもより強いだろう。
 未来はふっと息を吐いた。口もとをゆるめる。
 ――なにが、おかしい。
 クリスの目がそう言っている。
 未来はクリスのとなりにもぐりこみ、
「お話しましょう?」
 と言って、こたつの中にあるクリスの手を取った。

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 眠気のためになかばとじられていた目がいつものかたちにひらかれた。その目が未来のほうに向けられる。手を握りかえしてきた。
「話すって、なにを、話すんだ、あらたまって。話すことは全部、さっきまでに散々話したし、同じ話も何度も話しただろ?」
 とクリスは言った。
 それはそのとおりだったが、ただなんとなく、未来は今ここでこの子を眠らせてはいけないような気がしたのである。
「普通の世間話とか……、惚れた腫れたの話とか?」
 クリスの目が、今度はおおきくみひらかれた。
「好きなやついるのか、お前」
 クリスは世間話は無視して、惚れた腫れたのほうにだけ反応した。
「誰だ? リディアンは女子校だし学校にはいないよな? 突起物か?」
「いや、いないけど」
 と未来は否定した。意外な喰いつきをみせるクリスに、未来はちょっとたじろいだ。
「じゃあ、なにを話すんだ。あたしにもいないぞ、そんなやつは」
「うーんと、世間話」
 と未来が言うと、
「世間のことはよくわかんないなあ」
 くあ、とクリスはあくびをした。それからこたつから片手を出して、頬杖をつく。しばらくなにやら考え込んで、ふと思い出したように、
「今はともかくさ」
「うん?」
「昔はいたのか?」
「なにが?」
「好きなやつ」
「………」
 本当に、その手の話が、クリスは好きらしい。未来にとってこの新事実は意外なんてものではなかった。色恋話への喰いつきのよさはフィーネの影響だろうか。
 未来は体を傾けて、クリスの肩に頭を置いた。
「小学五年生の時と中学に入ってすぐの時の二回ね。どっちも学年が一つ上の先輩だった」
 未来はあまり思い出したくもない思い出話を記憶の底から掘り出した。
 クリスの肩がびくりとふるえた。頬杖をといて、もうしわけなさそうな顔で、未来を見下ろした。
「う、あ、中学の時、って」
「そうね、うん、いろいろあった頃」
「ごめん」
 クリスが謝ってきたので、未来は気にしてないと首を振った。
「惚れた腫れた言いだしたのは私なんだし」
 と言って、未来はふっと笑いをもらした。実にあっけなく恋は醒めた。まるでそんなものは最初からなかったかのように、激しい感情の奔流は一滴残らず消えていった。それに替わる感情はなにも出現しなかった。怨みも憎しみもなければ、もっと単純に嫌いにすらならなかった。ただ強大な集団の中に彼の存在は融け込んで、未来はそれきりその一個人を認識しなくなった。
 フィーネはよくも何千年ものあいだひとりの相手を懸想しつづけたものだ。近づこうとして手酷く捨てられて、それでも想いつづけた。あの異常とも言える激烈な情念は彼女のどこから湧き起こっていたのだろうか。
 未来は急に自分の頬に痛みを感じた。かつてフィーネに二度張られた左の頬が、今またどういうわけか、いやに生々しい感覚でひりひりと痛むのだった。痛みに顔が歪んでいくの自分でもわかった。
「ね、クリス」
「どうした」
「痛い」
「えっ!?」
 クリスは驚き叫んだ。
「どこが痛いんだ。手か、頬か、――」
「頬が……」
 と未来が言うと、クリスは勘違いしたとみえて、右頬の傷痕のまわりを手でなでさすった。
 未来はクリスの勘違いを訂正しなかった。疼痛のある頬とは反対の頬をなでられているのに、痛みがやわらいでいくのを未来は感じた。痛みがひくと、今度はすこしくすぐったくなってきた。
「なにか、ひやすもの持って来るか?」
 とクリスは言った。
「ううん、いい」
 未来はゆるく首を振った。クリスの手が未来の頬から離れた。同時に、未来は寄りかかっていた体を起こして、クリスの肩からも離れた。
 クリスはまだ心配そうな目で未来を見つめている。
「だいじょうぶなのか? どこも痛くないか?」
「うん、平気。おさまったみたい」
 と言って未来は笑った。くすぐったかったがここちよくもあった。もうちょっとくらいはあのここちよさに身を浸していればよかったと、未来はいまさら悔いているのだった。
 さしたる話題も思い浮かばなかった未来は、テレビの電源を入れた。
 てきとうにザッピングしてみた。時間帯のためか、おおむねニュース、でなければ昔のドラマの再放送といった具合だった。途中、クリスがリモコンを持つ未来の手をおさえて、
「さっきの――」
 と言った。未来はチャンネルを戻した。
「これ?」
「えっと、それの前、か、その前」
 これかな、と言いながら、クリスは自分でリモコンのボタンを押した。
 画面に翼の姿が映った。翼を取り上げたニュースらしかった。
「これだ」
 とクリスは口もとをほころばせたが、すぐに別のニュースに変わった。有名女優の不倫騒動がどうのこうのとテレビがやかましく言っている。
「あっ、終わった。……」
 とクリスは残念そうに言った。
「話のタネになると思ったんだけど」
「イギリス行のニュースだったのかな」
「どうなんだろ。それっぽいテロップはなかった気がするけど」
 クリスは首をひねった。しかし今の時期に翼のことがニュース番組で取り上げられるとしたら、やはり渡英関係しかないようにふたりには思われた。
 翼の口から直接その話を聞かされたことはない。緒川によれば万事順調に進んでいるということだった。
 テレビでは、大量のマイクとカメラに取り囲まれた四十絡み女優がマスコミを貶しまくって、スタジオの芸能リポーターの顰蹙を買っていた。
「どうする? これ見てる?」
「まさか」
 クリスは未来からリモコンを奪い、チャンネルを次々に変えていった。こども向けの教育番組が宇宙開発の特集をしていた。クリスの目はそこで留まり、リモコンを置いた。
 クリスはすこし前のめりになって、テレビ画面に目を釘付けた。
「宇宙、好きなの?」
 意外ね、と未来が言うと、
「べつに好きってわけじゃあない」
 クリスはあっさりと言った。
 未来は小指で頭を掻いた。宇宙。これもフィーネの影響なのかもしれない。クリス本人の自覚していないところにある、そのひとつだろうか。
 いつかワイド型の液晶テレビの両端が黒く切り落とされ、アポロ11号の月面着陸の映像が流れはじめた。
「当たり前だけど、欠けてないんだよな、これ」
「ずっと昔の月だからね」
 未来やクリスが生まれるよりはるか以前の出来事だ。当時世界中の人々がこの歴史的瞬間をテレビで見て、あるいはラジオで聞いていたという。
 黴の生えた映像が不安定にゆれている。通信の音声がささくれ立っている。
 ――I'm going to step off the LM now.
 はしごを降りる船長の男がそう言った時、未来は知らずテレビから目を切って、となりに座っているはずのクリスのほうに首をまわしていた。
 クリスは、眉はわずかに垂れ下がり、口は半開きで、目はテレビを見ているというより、もっと遠くのほうを、ぼんやりとながめているようだった。
 未来はまたテレビのほうに、やはり気づかないうちに視線を戻した。
 フィーネにとって人類に降りかかる呪いの根源である月という存在は、当の人類にとっては発展と繁栄の夢を託された道標だった。
 その時代の熱狂を、それよりはるかのちの時代に生まれ生きる未来が、はっきりとした像を結び熱をもたせることはむずかしかったが、うっすらとかたちづくった貧弱なジオラマの中に、未来はフィーネの人形を設置してみた。
 歴史の転換期につねに寄り添っていたというフィーネは、この時も興奮の坩堝のどこかにいて、聞いていたのだろうか。彼女が嫌忌し破壊しようとした月の大地を踏みしめる、ニール・アームストロングの言葉を。
 ――That's one small step for a man, one giant leap for mankind.
 クリスが半開きの口をうごかした。
「フィーネは」
 未来はテレビを見たまま、クリスのほうに耳をかたむけた。
「アポロのこと下品で生意気で嫌いって言ってた」
 クリスは、ぼんやりとした目で、どこか遠くを見ながら、くぐもりのある声で、そう言った。
 やがて、ほとんどモノクロに近い画面の上で、十三条の赤と白のストライプがあざやかな光彩を放ちはじめた。

 番組が終わるとクリスはまたうつらうつらと舟を漕ぎだした。
 しかし眠気に身をまかせる気はなく、がんばって起きているつもりらしい。はっとして首を上げ、手の腹の部分で目をこするクリスの姿を見ていると、未来は自分の「なんとなく」でクリスを眠りから引き留めるのがもうしわけなくなってきた。
 未来は困った。さてどうしてものかと頭を悩ませた。このまま感覚に従うべきか、それを退けてクリスを眠らせてやるべきか。……
 律儀に未来につきあおうとするクリスが、何度目かのあくびを噛み殺した時、襖が開かれた。
「おや、雪音、起きているのか」
「あ、翼さん、おかえりなさい。おつかれさまです」
「おつかれサン……」
「ただいま」
 居間に入って来た翼は、一度壁掛時計を見て、
「この時間に起きているのは、近頃ではめずらしいな」
 と言い、仕事帰りに寄った店で買ったらしい茶菓子の紙袋をこたつの上に置いた。
「ねみぃ」
 クリスは目をこすった。
「私がむりにつきあわせているんです。なんだか、お喋りしていたかったもので」
 と未来は言った。
 翼は、
「そうか」
 と言っただけで、どんな話をしていたのか、とか、会話ははずんでいるのか、とか、そういうことはいっさい問わなかった。
「あんたもどうだい」
 とクリスは言った。
 翼は数回まばたきしたあと、未来のほうを見た。
 未来はこくりとうなずいた。
「そうさせてもらうとするか」
 着替えてくる、と言って、翼は部屋を出た。
 足音が遠ざかっていくのを聞きながら、
「好きなやついたらスキャンダルだなあ」
「えっ、もしかして訊くつもりなの」
「うん」
 クリスはよほど惚れた腫れたの話に未練があるらしい。
「駄目なら訊かないけど」
 と言われると未来も返答に困った。
「駄目、ではないと思うけど……」
「じゃあ、いいのか」
「ええと、どうかな……」
「はっきりしないな」
 クリスは腕を伸ばして、翼が置いていった紙袋を掴み、引き寄せた。
「食べちゃ駄目よ」
「食べないって」
 箱は取り出さず、袋の口をすこし広げて、中を覗いた。
「中身なんだろ」
 紙袋に印刷されている店名は近所ではちょっと評判の和菓子屋である。
 クリスはすんと鼻を鳴らして、匂いを嗅ぐしぐさをした。
「あんこのにおいする」
「ほんと?」
 未来も嗅いでみた。なにか強烈なにおいがしたが、それが小豆餡のにおいかどうかはわからなかった。
 クリスは袋を閉じて、部屋の隅に滑らせた。
 しばらくして、部屋着に着替えた翼が戻って来た。
「今日は一段と寒いな」
 と言いながら、こたつに入った。
「チャンネル、かえてもいいか?」
 翼はリモコンを手に取った。
「どうぞ」
 と未来は言った。
 教育番組から民放の夕方のニュース番組になった。
 ちょうど天気予報をやっていた。
 降雪、強風、積雪、そんなところだった。
「新学期早々、やれやれだ」
 と翼はかるい疲労の残る息を吐いた。
「明日も仕事か」
 クリスが訊くと、翼はうなずき、
「まあな」
 と言って、また溜息を吐いた。始業式後、直接打ち合わせの場所に行くらしい。そこから卒業式まで二ヶ月程度だ。それが終われば、いよいよ日本最後のコンサートツアーをやって、それから彼女は海を渡る。
 偉いひとだ、と未来は思う。忍耐強い、とも言える。
 翼が日本を去れば、二課所属のシンフォギア装者はクリスと響だけになる。入れ替わりで最年長者になるクリスに、日本を発つ前に仕込んでおきたいことは山ほどあるだろうに、翼は最初の約束どおり全部を未来に任せて、自分はなにもしないでいる。経過を訊ねてくることもない。
 クリスの再生を急ぐつもりはないが、渡英前、いや卒業前に、翼とクリスのふたりきりの時間を、翼の都合がゆるすかぎり、なるたけ多くつくってもらったほうがいいかもしれない。未来そんなこと考えた。考えていると、クリスが前置きなしに、
「なあ、あんた、好きなやつとかいねえの?」
 と翼に訊いた。
 あ、言っちゃった、と未来は思った。
「なに――」
 翼はそうとうに驚いたようで、いつもはするどい目を、まんまるに見ひらいた。
「ちょっと、クリス」
「そこんとこ、どうなんだ? じゃ、なけりゃあ、昔はいたことあんのか?」
 未来の制止を無視してクリスは問いを重ねた。
 翼はすこしのあいだ、ほんのわずかに眉間に困惑の影を落としたが、すぐにそれを払い、落ち着いたようすで言った。
「そうだな……、初恋は緒川さんの弟さんだったよ」
 クリスと未来はそれこそまんまるに目を見ひらき、顔を見あわせた。
 翼は構わず話をつづけた。
「捨犬さんと言ってな」
「捨て犬!? そりゃまたひっでえ名前だな、おい」
「そう言うな。明るくて気のよいひとでな、こどもの頃、よく遊んでもらったものだった。私は両親と離れて叔父様のもとで暮らしているので、きっとさびしがらせまいとしてくれたのだろう。修業のあいまあいまに、いろいろとねぎらってもくれた。こっそりお菓子をくれたりな。私も自然とあのひとに懐いていった――が、好きと言えばたしかにそうに違いなかったが、しかし思い返してみれば、それが恋と呼べる代物だったかどうかは、いまひとつわからないな」
 恋かどうかも知れぬ感情は捨犬との接触が減るにつれて、自然に消滅した。今は新宿でホストをしているらしい彼と会ったことはない。翼はそう締め括った。
「ふうん」
 クリスは首筋を叩いた。
「今はいないのか」
「いないな」
 翼はきっぱりと言った。
 クリスはまたあくびをした。
「どうやら、あまりおもしろい話ではなかったようだ」
 翼は未来のほうを見て、肩をすくめながら、くすりと笑った。
 未来は苦笑いを返すほかなかった。

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 始業式当日は天気予報どおりの大雪だった。
 邸の屋根も庭も、周辺の道路も、一面に雪が積って真っ白だった。
 行きは弦十郎がくるまを出して、未来と翼を学校まで送っていくことになった。弦十郎はふたりを送ったその足でそのまま仕事に向かう。したがって、始業式が終わって未来が帰って来るまで邸にはクリスひとりきりになるが、クリスを長時間そうしておくのは、久しぶりのことである。
 未来の胸に不安がないことはない。
 クリスはあいかわらず朝食を食べ終えると、すぐにこたつに寝転がって眠ってしまった。そのせいで未来は、いってきます、の一言を言えなかった。そのことが心のしこりとなって残っている。たったそれだけのことを、未来は会話のない車中で繰り返し後悔した。むりに起こしてでも言うべきだったのだろうか。
 クリスだって今日の予定を知らないわけではないが、それでも彼女に黙って邸を出てきたことが、罪悪感をともなって、未来を強烈に責め立てるのだった。
 カッターナイフの刃が出てくる音が聞こえた。
 鈍色の空と雪の下に沈んでいく音の中で、その軽薄な金属音がいやに生々しい響きで未来の耳の裏を打った。不快な音だった。知らず未来は眉間を歪め、首を振った。こんなものはただの空耳だ。ありもしない音だ。現実ではない。
「顔色がよくないな」
 と翼に言われた。
「クリスのことが、すこし心配で」
 未来は正直に言った。
「そうか。……」
 それきり翼はなにも言わなかった。未来とクリスについて、あれこれ問わず、関わらない。そういう約束を最初にしている。未来はいまさらになって、失敗だったかもしれないと思い、あるいはもうその約束を解除しようかとも思った。
 翼と弦十郎に、昨日フィーネの邸であったなにもかもをぶちまけたい気分に、未来はにわかに陥ったのだった。
 学校に到着して、翼と別れて自分の教室に入ると、なにやらすっかり懐かしいような顔ぶれが未来を出迎えた。
 その先頭に立つ響の笑顔が見慣れたそれとは違い、すこし暗かったのは、彼女もクリスのことが心に引っかかったままだからだろう。気の置けない親友との再会に浮かれきってほかのことを忘却する性格ではない。響はうわべは大らかだが、存外きめがこまかいのである。
「雪、凄いよね」
 と創世が言いながら、未来の髪や肩に残ったわずかな雪を手で払った。皆登校には一苦労あったようだった。
 それからいったん席について、おもに冬期休暇中に起こった出来事を報告し合い、笑い合った。未来は自分からはあまり話さず、話すにしてもあたりさわりのない内容に終始した。
 HRと始業式はつつがなく終了した。
 帰り際、未来は廊下でひとりの上級生に呼びとめられた。
 その上級生はクリスの友人だった。五代という背の高い上級生である。
 クリスの近況について訊ねてきた。さすがに翼さんには話しけづらくって、と苦笑を前置きにして、
「雪音さんの風邪、長引いてるみたいだけど、体調のほうはどう? さすがに冬休み中ずっと風邪だったわけじゃないよね? またぶり返してきたの? まさかインフルエンザとかってことは……」
 と五代は言った。そういえば風邪ということになっていた、と未来は言われて思い出した。
「風邪はもう治ってます。でも体のほうはまだちょっと元気がないみたいで。このところ雪がつづいていますし、それもあって」
 未来はてきとうに言い繕った。
「そう」
 五代は言って、
「雪音さんと話す機会があったら、よろしく言っておいて。授業遅れた分取り返す時は協力するからって」
 と未来に言伝を頼むと、去っていった。
 五代は二学期の終業式の時に、課題のプリントや教室に置きっぱなしにしていた教材などを家まで持って来てくれたひとである。
 ここで、わざわざ未来に話しかけてきたのは、すでになにがしかの異常を感じていたからかもしれない。
 そう思うと未来はやはりどうしようもない不安感に襲われた。邸に残るクリスが気になって仕方がなかった。しかし未来は口をひらくと、それとは正反対に、
「響、帰りに寮に寄っていくね」
 と傍らに立つ響に言った。
 響はうなずいたが、未来からなにを察したのか、その眉には暗い陰翳が落ちていた。

 寮の部屋に入ると響が、
「コーヒーか紅茶でも淹れよっか」
 と気を利かせてくれた。
「じゃあ、紅茶で」
「ミルクティー?」
「うん」
「わかった」
 しばらくして響の淹れたミルクティーがテイブルに置かれた。
「おまちどお」
「ありがと」
 未来は一口飲んだ。この味もずいぶんと久しぶりのような気がする。
「何時くらいに師匠んちに戻るの?」
 と響が訊いてきた。
 未来はカップを置き、
「電話がかかってきたら」
 と答えた。たった今思いついた。そうだ、そうしよう。未来は決めた。クリスから電話がかかってきたら邸に戻ろう。そう思って携帯電話をカップのよこに置いた。
 未来が今寮にいるのは、当初の予定にはなかったことで、もちろんクリスの知らないことだ。クリスは始業式が終われば当然未来はまっすぐに帰って来ると思っているだろう。あるべき帰宅時間を過ぎても未来が帰って来なければ、この大雪である、心配して連絡のひとつでもしようとするかもしれない。未来はそれを待ってみることにした。
 テレビをつけて、昼のニュース番組を見ながら、響の淹れてくれたミルクティーを飲んだ。
 会話はほとんどなかったが、未来はそれを苦痛とは感じなかった。こうしてふたりきりでたあいもない時間を過ごすことも、やはり久しぶりのことだった。短い談笑も、長い沈黙も、ここちがよかった。
 クリスの一件以来、響は師・弦十郎の邸にあまり顔を出さなくなった。未来とのあいだに話し合いや約束があったわけではなく、響が自身でそう選んだのである。時々電話をかけてきて、近況などを訊いてくることはあった。まったくの無干渉でいるわけでもない。ただ、頬の傷についてはなにも言ってこなかった。
「夜はどう? 眠れてる?」
 と未来は訊いた。
「うーん、どうだろ。夜中に目を覚ましちゃうこと多いけど、へんな夢は見てないよ」
 と響は答えた。
「それなら、よかった」
 へんな夢、という言い方をしているが、ようは悪夢のことである。さらに言えば中学生の頃のそれである。未来がいなくてもそうした夢を見ないですんでいるなら、未来としてはひとまず安心できる。
「クリスちゃんのほうは、どうなの? 前に師匠んちに行った時は、けっこう顔色よくなってた気がしたけど」
「今日しだい、かな。たぶん」
 未来は嘆息と一緒にもらした。
 きっとそのとおりだと思う。
 未来はふと、クリスの背中を思い出した。辞書を取りに行ったきり戻って来ないクリスを追って部屋に入った時に見つけた、微動だにしないあの背中である。それから、ちいさな笑い、ふいにひらかれた背の裏側、辞書の上に置かれた刃の出ていないカッターナイフ……
 今日、弦十郎の邸に戻った時、クリスがどのような状態でこちらを迎えるのだろうか。それを想像した未来は、にわかに自分の足が二度目の大きな岐路に立ったような気持ちになった。
 気がつくとカップがからになっていた。
「淹れようか?」
 と響が言った。未来はお言葉に甘えることにした。
 暖房を効かせているせいなのか、緊張のためなのか、唇と喉が渇いて仕方がない。
 外では雪がはらりはらりと降っている。勢いは朝ほどではない。
 連絡が遅ければそれの分、未来の帰宅も遅れる。遅すぎると今度は未来は寮から帰れなくなってしまう。あるいは翼のほうが先に帰って来れば、事によっては、クリスではなく翼が連絡を寄越してくることもあるだろう。
 ――電話がかかってきたら。
 未来はその携帯電話に目を落とした。
 その時、液晶に出現する名前は、雪音クリスでなくてはならない。なにが起ころうとも、なにも起こらなくとも、未来にいの一番に連絡してくるのはクリスでなくてはならず、翼や弦十郎では意味がない。
 携帯電話を睨む未来の胸のどこかで、軽薄な金属音が低く鳴った。

 電話は鳴らない。液晶の時刻表示は二時を過ぎた。
 まだ眠っているのか、起きてはいるがひとの帰宅時間など気にも留めていないのか。
 重い溜息を吐きそうになった未来は、つとめて軽い声で、
「おっそいなあ」
 と言って、未来は携帯電話を手に取った。
「クリスちゃんからだよね、待ってるの」
「うん。出る時寝てたけど、まだ寝てるのかしら」
 未来は言った。
 昨日の疲労はもちろんまだ残っているだろう。一日中眠っていたくなっても仕方がないかもしれない。そう思った時、未来は自分も眠くなって、ちいさくあくびをした。そのあと、もしかしたら風邪を引いたのかもしれないと、ようやくそのことに想像が及んだ。ずっと雪に打たれていたのだから、ありえないことではなかった。
 そうであれば、ここでクリスの電話を待ちつづける理由も張る意地もないだろう。
 ――前言撤回して、すぐにも邸に戻ろうか。
 そんなことを考えていると、持ちっぱなしの携帯電話がけたたましく鳴った。
「わっ」
 とおどろいて、未来は思わず電話を落としそうになった。
「言ったそばからだね」
 響の苦笑がちらりと見えた。
 液晶に表示された名前を見て、一瞬みょうな緊張感が胸をよぎり、すこしふるえた指で受信ボタンを押した。耳にあてる、
「もしもし、クリス?」
「お前今どこにいるんだ? なんか遅いけど、なんかあったのか?」
 寝ぼけた声が聞こえてきた。響にも聞こえたらしい。彼女は未来より先に、そして未来よりおおきく安堵の息を吐いた。
「寮にいるわ。響のところ。雪が凄くて……こっちのほうが近かったから――。それよりクリス、もしかしてずっと寝てたの? ああ、途中で起きたのね、えっ、電話? したの? ごめん、気づかなかった。それっていつ頃……ああ、その時間だとまだ学校終わってないから……ううん、泊まっていかない。今から帰るから、うん、うん、じゃあね」
 電話を切って、
「弦十郎さんの家に戻るね」
 と未来は響に言った。
「送ってくよ」
 と提案した響に未来は首を振って、だいじょうぶ、と答えた。それでも響は、
「じゃあ、せめて門まで」
 と言って、先に立ち上がった。
 未来も腰を上げた。
 階段をおりて、傘を差し、門までの路をすこし歩いた。雪はもう朝の激しさをすっかり失っていたが、足もとはずいぶんと積っていた。
「ありがとう、響、また明日」
「うん、明日……」
 そう言ってから響はちょっとうつむいて、なにかを考えていたが、やがて顔を上げ、
「あの、どう言っていいのかわかんないけど、その、とにかく……がんばって!」
 と言って、両手に拳をつくった。
「わかった、がんばる」
 響の拳を、こつんと自分の拳で突いて、未来は笑った。

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十一

 まあそんなところだろうと、なんとなく想像はしていたのだ。
 あまりに想像どおりすぎて見事だと呆れただけの話だ。
 未来が落としたその溜息は、こたつで眠りこけるクリスには聞こえない。
 両手をひろげてあおむけになって眠っている。未来の帰宅を待っているうちに、正体無く眠り落ちたというより、眠くなったから寝たくて寝たといった感じだった。どちらにしろ、眠っていることには違いない。昨日の疲れもあるのだろう。なにしろずっと雪の中にいた。未来にも睡魔はないが疲労はある。だから起きて帰りを待っていなかったことを、とやかく言うつもりはない。が、眠っていられては困る、と思う。
 こたつの上にカッターナイフが置かれていることに気づいた。刃は出ていない。手首に今日できたようなあたらしい傷もない。留守中のクリスが、ここで、なにをしていたのか、未来にはわかりようもない。問い質せば答えは返ってくるだろう。
 クリスのよこに膝をついて、肩をゆすった。眠っているならそのまま眠らせておこうという気は未来にはない。肩をゆすりながら、何度か名前を呼ぶ。
 ほどなくクリスが目を覚ました。
「あー……」
 おかしな声をあげて、クリスは未来の存在に気づいた。
「ただいま」
「んん、おかえり」
 クリスは緩慢な動作で体を起こし、おおきくのびをした。
 未来の見たところ、クリスの気色はそうわるくない。ただ、目のまわりに涙の跡があった。目もすこし赤かった。また夢を見たようだった。フィーネか、マリアか、あるいは両親の夢だ。
 諸々のことをあとまわしにして、未来はまず五代のことを話した。
 クリスは未来の口から五代の名が出たことに、最初驚いて目を見ひらいたが、やがてその目をほそめ、はにかみながら、そうか、そうか、とくりかえしうなずいた。
「首疲れるだろ、あいつ」
 とクリスは首筋をなでながら言った。五代はかなりの長身なので、彼女と立ち話をしていると、自然と顎をもちあげるかっこうになり、首が疲れるというのである。
「そんなに長いこと話してないから」
 未来は首を振った。
 クリスは、また、そうか、とうなずいた。
 こくり、こくり、とクリスは目をつむり、眠るようにうなずく。本当に眠ってしまいそうだと未来は思った。が、ひらかれたクリスのすこし赤くなっている目は、さえざえとしている。
「夢、見たのよね。どんな夢だったの」
 と未来は言った。
「ん……」
 クリスはちょっと考えこむようにうつむいてから、
「いつもとおなじだよ。いつもどおりフィーネが出てきた。フィーネのふりをしたマリアだ」
 と言った。
「それ以外は、なにか、見た?」
「なにも」
 クリスはこたつの上のカッターナイフを手に取った。
「夢くらい自由に見たいのに、うまくいかないもんだな」
 カチ、と刃の出る音がする。クリスはそのまま親指の爪ほどの長さまで刃を出し、掌のまんなかに先端を立てた。ほんのすこし掌に刃がしずんだ。まもなく刃が離れた。赤いちいさなくぼみができていた。血は出ていない。クリスは刃をしまい、カッターナイフを置いた。
 その一連の動作を未来はじっと見ている。
 もしかしたら、クリスは今笑っているのだろうか。目もとにも口もとにもそれらしいものは見えない。しかし未来は、クリスが笑っているような気がした。そのように見えたのだ。

 外では音のない雪が降っている。ごうごうとはげしい音をたてていた朝方の雪ではない。あるいはすべての音を消し去る雪である。とにかく家の外も内も静かだった。
「雪、やまないね」
 未来は外のほうに目をやって言った。
「そうだな、やまない」
 クリスは言った。
「庭に出てみる?」
「どうしてだ?」
 クリスは首をかしげたが、そのあと未来の言いたいことがわかったのだろう、くちびるの端をあげてくっと笑った。未来は昨日のことを言っているのだ。
「あんなのは、もう、やらないよ。悪かったな、へんなことにつきあわせて」
 未来は、気にしてない、と言おうとして、それをやめ、
「私も、二度は遠慮したい」
 と言った。
「しない、しない」
 クリスは笑いながら言った。
「でも、未練は、やっぱり、まだ、ある」
 とも言った。
「フィーネはもういないのにな……」
 そう言ってまた笑った。かなしい笑みだった。
 あの高台の邸にフィーネはいない。しかし、クリスがフィーネとともに過ごした事実がある。思い出もある。そこにフィーネを求めたくなる消しがたい感情を、あるいは執着を、クリスは正直に言った。
 クリスの口から溜息が漏れる。自分に呆れているのである。が、この執着をクリスは否定したくなかった。消し去りたくなかった。この先の自分の人生であっても、フィーネの存在はもはやクリスの中からどうしようもなく抜きがたいものがあった。そういう在り方を、それでもクリスは呆れるしかなかった。執着することそのものが、どだい、どうしようもないことなのに、と。
 クリスはまたカッターナイフを手に取った。
「これ、返すよ」
 と言って、未来に差し出した。
「もう使わないの?」
 未来はちょっと驚いて、すぐには受け取れなかった。
「うん。――いや……、違う。使うかもしれない。うん、使うことがあると思う。そうだ、預ける。預かっててほしい。使いたくなったら、その時に、返してくれって、頼むから、さ」
 クリスはあれこれと考えながら、しゃべりながら整理して、そう言った。
「わかった」
 未来は恭しい手つきでカッターナイフを預かった。
 あまり詮索する気にはならなかったが、ひとつ、どうしても確認しておかないといけないことがあると思い、未来はそれをクリスに訊いた。
「ここに、カッターを置いて、なにをしていたの? なにもしてなかったとして……なにをしようと考えていたの?」
 クリスは指を二本立てて、首に滑らせた。
 未来は思わず瞠目した。
 はあと大きく息を吐いたあと、
「大事ね」
 と言った。
「ああ、大事だ」
「どれくらい本気で?」
「どれくらいかな」
 クリスは口もとをゆるめながら首をかたむけた。
「わかんねえや」
 髪を掻いて言った。その言葉に未来は嘘を感じなかった。
「いっそ死んだら会えるかと思ったけど、会えないって、すぐ気づいたから」
 それから、もう夢でもかまわないからフィーネに会いたいと思い、横になった。しかし夢に出て来たのは、あいかわらずのマリアだった。
「フィーネさんは、やさしかった?」
 以前した質問と同じ質問をした。
「全然、やさしくなかった」
 クリスも同じ返答をした。
「じゃあ、やさしくしてほしかった」
「そうだな。ああ、そうに違いない。だから、マリアが出てくるんだろうな、いつも、いつも」
 クリスは口もとの笑みをおさめないまま、うつむいた。
 しばらくして、すすり泣く声が聞こえはじめた。

 ひとしきり泣いたあと、顔をあげたクリスの目が赤かった。
 ずるずると鼻をすすると、クリスはにこりと笑った。
「なにか、いいことあったの?」
 さっきまで目の前で泣いていた人間に、未来はそんなことを訊いた。
「あったこと、思い出した」
「どんなこと?」
「内緒、だ!」
 クリスは人さし指を立てて今度は唇に当てた。
 めずらしい、と未来は思った。よほどのことでないかぎり、未来の問いにはクリスは素直に答える。よほど、のことを思い出したということだろう。
 クリスはこたつから出て立ち上がった。
「どうしたの」
「電話」
 クリスは言った。
「部屋に置きっぱなしだから取りに行く」
 ついてこなくていいよ、と言って、クリスは居間を出た。
 クリスはなかなか戻って来なかった。
 未来は居間を出て、クリスをさがした。自室にはいなかった。
 しばらく邸内を歩いていると、離れのほうにクリスの姿を見つけた。
 クリスは笑っていた。どうやら誰かと電話をしているらしい。
 見つからないようにこそこそと近づいて耳をそばだたせた。
 ――五代。
 その名がクリスの口から出てきた。通話相手は五代らしい。
(へえ……)
 未来は感心した。クリスは平生ひとの名を呼ぶことがない。たいてい、お前、か、あんた、で済ませる。さもなければ、オッサン、バカ、である。
「明日は――かもしれない――できれば――」
 ――明日。
 途切れ途切れの話し声からその単語を拾い上げた未来は、そっとその場を離れた。
 雪はもうすっかりやんでいる。
 居間に戻り、こたつに入って、テレビをつける。
 ちょうど天気予報が流れていた。
 どうやら明日は、晴れらしい。

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