おやすみ、夏

 生徒の誰しもが多少の陰鬱をかかえて登校する月曜の朝、残暑にひたいに汗をにじませながら、友人の弓美が満面の笑みで言うに、
「響、このウィークエンドにあんたの自由はないものと知りなさい!」
 とのことだった。
 ウィークエンド、つまり響の誕生日にあたる九月十三日の土曜日における立花響の活動は、その一切を弓美がとりしきることに、突然されてしまった。
「えっ、決定事項なの、それ――」
 困惑しながら響が訊くと、もちろん! と弓美は胸を張った。
「だいじょうぶ、ちゃんと四人で相談して、段取りもちゃんと決めてるから、万事あたしたちに任せておきなさーい」
「四人!?」
 ひとり多い。響は驚いて未来のほうに振り返った。
「ごめん」
 と謝った未来の表情は半笑いで、どこかたのしげでもあり、たいしてもうしわけなさそうな感じはしなかった。
「未来ゥ……」
 情けない声をあげたあと、仕方がないので響も笑った。「ありがと、土曜が楽しみだよ」と言って。
 誕生日を盛り上げたいという彼女たちの熱意と友情はわかる。それは響にはありがたかったし、このさい全力で乗っかろうと思ったのである。
 それはそれとしても、
「教えてくれたらよかったのに」
 小休憩中に響は未来の二の腕のあたりを指でつついた。ささやかな抗議である。
「それじゃあ、サプライズにならないもの」
 未来はあっけらかんとして言った。
「そりゃ驚いたけどさあ、嬉しかったし……」
「ならいいじゃない」
「ウーン」
 響はくちびるをとがらせた。未来の態度が、やけにかるいのが、響にはすこし気になった。すこしだったので捨て置いた。
「そうだね、嬉しい、楽しみ」
 すばやく気をとりなおした響は、ふつふつと湧き起こる興奮に、体をふるわせた。なんだかじっとしていれらない。体をうごかしたくてたまらない。
「まだ月曜よ」
 と未来に言われても、
「わかってる、わかってる」
 と口だけそう言って、体のふるえも心臓の高鳴りもいっこうにおさまらなかった。
「しあわせまで、あとなんにち、っかな」
 携帯電話をとりだして、響はカレンダーをひらいて、その日数を確認した。
「今日入れてろくにちー」
 ああ、笑いがとまらない。
「時間が矢のように過ぎればいいのに、翼さんみたいに目にもとまらない速さでビュンって」
「矢じゃなくて剣じゃない」
「そうそう、剣剣」
 土曜日まで響は浮かれて過ごした。

 当日である。
 響は、弓美たちに連れられて、カラオケに行って歌って食べて、ふらわーに行って食べて、ゲームセンターに行って遊んで食べて、夕暮時、今帰り道だった。
「これいつもと変わんなくない?」
 響は言った。楽しかったからいいのだけれど、あんまりサプライズという感じのデートコースじゃなかったかなと思った。いや、不満はないのだけれど。あまりにも普通すぎて隠れてこそこそと計画する必要はあったのか、響は首をかしげたくなる。
「なんでもないようなことが、幸せだったと思うのよ」
 弓美は黄昏づらで言った。
「わかるような、わからないような。……」
 そう言いながら、響は時間をかけてゆっくりと、たった今、弓美の言った言葉を自分なりに咀嚼した。
「ああ、うん。そうだ。わかる、すごく、わかる」
 響はなんどもうなずき、弓美の手をとり、握りしめた。それから、詩織にも、創世にもおなじことをしていった。
「ありがとう」
 この感謝の言葉はするりと出てきた。
「夜はこれからよ……さあ、次のいくさばにむかいましょう、すなわち、響、未来、あんたたちのおうちへ――」
「なんでさっきから果てしなく遠くを見るような目でかっこつけたこと言ってるの、バンったら」
「ちぇい!」
 膝かっくんされた創世の長身が折れ曲がった。
「つぎ、バンって呼んだら絶交だから!」
「はいわかりました。いやあきらめない」
 体勢をととのえた創世は、めげずに反抗した。
「まあ、明日は日曜だし、部屋で盛り上がってちょっとはめはずすくらいは、いいかもね。ねえ、響」
「えっ、ああ、うん。……」
 未来に言われて響はうなずいたものの、いぶかしげに未来の横顔を見つめた。未来の声にも眉にも、どこか翳がさしているように思われたのである。
 自分たちの部屋に全員で乗り込むのは、四人で決めた段取りではなく、三人によるそれだったのかもしれない。未来はもしかしたら、夜はふたりきりで過ごすつもりだったのではないか。
「んー」
 未来の気持ちを無視するのもなんだか気が引ける。響は急に立ちどまって、すこし考えこんだ。すこしだけ考えて、
(でも、未来)
 響は内心で首をふった。
(わたし、この日は朝から夜までずっと、未来とふたりきりで過ごすつもりだったんだよ)
 昨年までとおなじように、ふたりだけで、部屋の中にこもって、こっそりとちいさな誕生会をひらいて、未来に祝福してもらおうと、響はずっと考えていたのだ。
 が、未来には響とは違う想念があった。その中にあったのは、もっとひらかれた世界の、ふたりより多い人数の、にぎやかな立花響の誕生日だった。
「どうしたのさ、響」
 先を進む弓美たちも足をとめた。それから未来も。
「なにして遊ぼうかなと思って。うち、ボードゲームたくさんあるよ」
「へえ、モノポリーとか人生ゲームとか?」
 と創世が訊いた。
「あるよ! ……あ、モノなんとかは、ないかな。でも、トランプもあるし、UNOもあるし」
 と響は答えた。いつか、いつか、と思って、未来とふたりでやってもさしておもしろくもないアナログのゲームを、響は買い集めていた。
「では、はやく、行きましょうか、夜道になっては危ないですし」
 詩織が未来の肩に手をそえた。歩くように、前に進むように、未来ををうながす。
「テラジはめちゃくちゃ強いよおボードゲー、モノポリーないのは残念だけど」
 つきあいの長い創世がそこまで言うのだから、詩織はそうとうに手強いのだろう。
 響はまた興奮してきた。そんなに強いなら一度くらいは負かしてやると思った。いつも澄まし顔かおだやかな笑顔をうかべて、どこか泰然としている詩織の、くやしがる顔を、ちょっとくらいはおがんでみたい。
 詩織に寄り添われている未来のほうを見ると、眉宇の翳りは多少やわらいでいるようだった。
 未来は数度まばたきしてから、すっかり気分を改めたようで、
「これでやっと埃のかぶっていた、あれとかそれとかが、報われるね」
 と、響にちいさないやみのようなものをちくりと刺した。
「うん、やっとだよ、やっと。みんなで、たくさん、遊べるんだ」
 響は言った。
 寮を目指して、弓美はずんずんと先頭を歩く。いちばんうしろを、詩織と未来が並んで歩いた。まんなかは、
「さあ、ビッキー、行こう」
 創世が響の手をとった。
(あ、どうしよう、これ、いけない)
 響は顔がにやけるのをおさえきれなかった。嬉しくてたまらないから笑うのだ。それならこれはおさえなくていい、と思った。そして笑おうと思った。めいっぱい、めいっぱいに。
 触れ慣れた未来の手よりも、ひとまわりほども大きな創世に手をひかれながら、響は暮色の空をみあげた。
 涼やかな風を受けて、朱い雲がながれてゆく。
 夏はもうはるかに遠い。

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