さよなら、夏

 響は夢のなかで古い記憶にもぐっていた。古い、といっても今年十七歳になる響の感覚だから、十年も二十年も昔のことではない。
 中学一年生のときに大怪我のために入院した。術後はリハビリにはげんで、それがおわるころには、またあらためて自分の生活が、いつもどおりの生活が、はじまるのだと当時の響は信じていた。
 本格的に学校に復帰したのは二年にあがってからしばらく――夏、そう、夏のことだった。立夏をおえてまもないころ、だから五月のなかごろ、衣替えのすこしまえになる。
 まだぎりぎり冬服を着て通わなければならなかった、夏のころのことだ。
 けっきょく退院後の生活は響が想像していた、あるいは夢見ていたものとまったく違うものになって、そこにあったのは苦痛と苦悩の日々だったが、それだけの生活でもなく、あたたかみもあればやさしさもあって、いつだって響の心をやすらがせた。
 だから、響は、つらいリハビリ、を思い出すことはあっても、つらい夏、を思い出すことは、あまりない。それを「つらい」と言いきることのできないあたたかな思い出が、響のあの夏の日々にはかぞえきれないほどあった。
 それらは大半が小日向未来というもはやただひとりとなったかけがえのない友達からそそがれるものであっても、それによって響は、ひととはこういうものだ、と信じることができたのである。彼女がたえずさしのばしてくれた手の温度は、響にずっと、それをおしえてくれた。忘れさせないでくれた。
 響は夢のなかで、その古い記憶にもぐっている。
 目をひらくと一面が真っ青で、海なのか空なのかわからないふしぎな色をしている。赤ん坊のように身をちぢませて、響はその真っ青な空間をたゆたう。
 あたたかな日射しがさしこむ。まぶしげに日をあおぐと、とたんに淡い影がさした。いつのまにか低い木が背中に、とん、とぶつかった。ここちよさを感じる。手をついた地面からかよう草と土の温度と、木漏れ日のやわらかい光。
 ――この色は……。
 未来だ、と思った。草の、木の葉の、空の、海の、あるいは沢の、石の、あらゆるの色のあお。たぶんに響の感覚ではそれはみどりに分類されるものだ。とにかく全身が未来のあたたかいあおにくるまれている。
 風の色もあおかった。だから、その風に背をもたれさせている木の枝葉がゆれて、かすかにざわめくような音をたてたとき、響はそこに、未来の存在を感じた。揺れる枝がのびてきて、響にさしだされる。
 目の前に手がある。
 ちいさな手、自分とかわらない大きさの、ただの女の子の手で、けれど「ただものじゃない」女の子の手が、たしかにある。響は手をさしだし、その手をにぎりかえした。
 未来の温度がそこにあった。

 響は古い記憶から目を覚ます。
 首をくるりとまわすと、未来の寝顔があった。
 手に温度を感じた。未来が響の手を握っている。手を握りあって眠るのはわりとよくあることだが、昨晩はちがったように思われる。眠っているうちに、そうでなければ寝ぼけてつかんでしまったのだろうか。
 夢とはすこし、違うような気がした。あいかわらずあたたかい手がある。ちからづよい手でもある。どうしてこの手がずっと自分の手をとりつづけてくれたのか、響は、おどろいたことに一度も考えたことがなかった。ずっとずっと、それは響にとって当然あるべきもので、うたがうべきものでもなかった。
 ――だって友達だから。
 ふたりはたぶん互いに確認しあうことはなくても、そういう意識をたえず心のどこかにもちつづけていたのだろう。
「一度はなしちゃったんだ、わたしのほうから」
 未来が一度だってはなそうとしない手を響は自分ではなしてしまったのだ。それはたくさんの事件のめぐりあわせの結果で、それからまたたくさんの事件のめぐりあわせの末に、ふたたび響ととりあうことになった、あたたかくて、つよい手だった。
「はなさない……、うん、はなさない」
 むろん四六時中手を繋いでいては生活に支障がでる。だから物理的に手がはなれることはこれからもまだまだたくさんあるだろう。
 けれど、はなさない、と決めた。だからもう、なにがあってもはなさないのだ。これは響のわがままでもある。ずっとそばにいてくれる未来に、響はこれまでずっと甘えてきて、そこからさらに甘ったれようとしているのである。
 それでも響は、はなれたくない、と思った。
 あの夏、この手が響をひととひととの絆のなかにとどまらせてくれた。
 この手の温度は、なにものにもかえがたい。
 響はそっと未来の手からはなれ、ベッドをおりていった。
 キッチンにほうに行って、冷蔵庫から昨日飲み残していたミネラルウォーターのペットボトルをとりだし、一口水を飲んだ。口のなかがそうとう冷たくて、響はおもわず肩をふるわせた。
 そういえばもう秋も深まった時分だ。冷蔵庫の水をそのまま飲むのはさすがにまずいか。なんとなくひりひりする口内で舌をころがしながら、響は苦笑した。
 夏が遠くなったと思った。
 この年の夏が遠い、と思ったといえば思ったし、そうでないともいえた。
 とにかく遠くなったと思った。
 それからどうやら起きたらしい未来の、のびをするときのちいさなうめき声みたいなのが聞こえた。
 響はにっこりと笑った。
 古い夢にもぐることはもうないだろう。
 あざやかな生命の彩りは、いまここにあるのだ。

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