朝から蝉の鳴き声がひっきりなしだった。
響は蝉のうるささに目を覚ました。
ついで頭が覚醒すると、真夏の暑さが体にのしかかってきた。
が、まだ朝だ。これでも涼しいほうだろう。日が中天に近づくごとに暑さはいや増してゆく。まだまだ、茹だるような暑さを感じる時間ではない。
響は天井に向かって粘性を帯びた息を吐いた。その息が熱かった。
起きるのが億劫な体を、むりやり起こした。それ以上に水を飲みたかったし、水を浴びたかった。その気持ちのほうが勝ったのだった。と言っても、水では冷たすぎるからいつもぬるめの湯を使っている。
未来がまだ眠っているのを確認して、音を立てないようにベッドからおりた。
夏期休暇も盆に入り、寮生のほとんどが里帰りしている。その寮生の代わりというわけでもないだろうが、このところは蝉のにぎやかさが耳にうるさかった。
洗面所で顔と首の裏を洗い、歯を磨き、寝癖をすこしととのえた。シャワーは浴びなかった。節電・節水、の声も蝉と同じくひっきりなしの昨今だ。
冷蔵庫から紙パックの野菜ジュースを一本取り出して飲んだ。飲み干して、からになったパックを、バスケットボールのシュートフォームの要領でゴミ箱に投げ入れた。きれいに決まると、すこし、気分がいい。
その気分をひきずって、響は窓のほうに行った。ひんやりとした冷たさを期待していたが、ガラス窓はすでにそれなりの熱をもっていた。響はがっかりした。昨日も一昨日もそうだった。明日も明後日も、天候が激変しないかぎり同じだろう。
窓からは学校が見える。目のはしに白い日の光が入り、かすかな痛みを感じた。手をかざして朝の日射しをさえぎった。
学校の図書館は今日はすいているだろうか。課題をやるならあそこがいい、と未来がいつか言っていたのを響は思い出した。あそこはいつでも人が多い。勉強熱心な生徒に人気のスポットだ。
館内はたしかに涼しくて勉強のしやすい環境がととのっているが、そこまでの道のりを思うと、響はちょっと気が重かった。バスで行くにしても、暑さから完全にまぬかれることはできないだろう。さて、どうしたものか。
とりあえず、まずは未来を起こさなければなるまい。しっかり者に見える未来は、実際にしっかり者ではあるが、けっこう朝に弱い。響が先に起きて、未来を起こすのが、ここに来てからの日課だった。これがなかなか骨の折れる仕事なのだ。休日は特に、あちらの融通が利かなくなる。
よし、と気合を入れてから、響は窓を離れてベッドに戻る。
はしごをのぼりながら、小声で独り言のように言う。
「未来ゥ、起きてるぅ? 起きないとキスしちゃうよぉ。起きててもキスしちゃうよぉ。おはようのキスとかア――」
などと言っていると足を踏み外した。はしごを強く掴んで落下を阻止したが、まのぬけた悲鳴とはでな物音まで防げなかった。ぶらさがった足をまたはしごにかけてのぼっていった。
未来はもう起きていた。上体を起こしてこちらを見ていた。
さっきの悲鳴と物音のせいなのか、その前にすでに起きていたのかまでは、響にはわからない。
「なにやってるの……」
呆れた顔がそこにはあった。
「え、えーっと、いつもみたく、未来を起こしに……」
そう言った響は、なんとなくはずかしくなって、のぼりきったばかりのはしごをそそくさとおりた。
溜息が頭のてっぺんに落ちてきた。
見下ろされているのはわかったが、顔を上げるのはすこし怖い。怒られているわけではないのだから怖がることもないのだろうが、怖いものは怖いのだ。
未来もベッドをおりてきた。
「おはよう、響」
その声を台所を目指す響は背で受けた。
「うん、おはよう、未来!」
響は振り返らないで、はずかしさをごまかすように、大声で言った。
未来の影が横に並ぶ。
頬になにかが触れた。
「へぇ!?」
思わず未来のほうを振り返る。
まだ眠たそうな、でも笑っている未来の顔があった。
「な、に」
「おはようの……キス?」
蝉の鳴き声がうるさい。
茹だるような夏が暑い。
顔が赤い理由なんて、知らない。
ビーチサンダルを買った。
これといってしゃれたところのない地味なサンダルだった。足をひっかける以外になんのとりえもないと言えるだろう。
「もっとかわいいのにすればいいのに」
そう言った響は、揃いのものにしたいからと、未来と同じビーチサンダルを買った。
夏期休暇だといって、別段海に行く計画があるわけでもない。外出の目的はショッピングそのもので、ただ時節柄なんとなく買う物もそうなっただけである。
つぎは水着だね、と足取りもかるく、水着コーナーに向かう響の背を、気のり薄な未来の目が追った。
どうせ行くなら、海よりも市民プールがいいと未来は思う。この時期どちらも混雑しているに違いないが、それでも水遊びするなら、断然プールのほうだ。これには明確な理由がある。しかし、根拠はぼんやりとしている。
――海よりプールのほうが危険が少ない。
それだけの話だ。一般的な感覚に身を任せればそうなるだろう。
水着のほうは多少考え込んだ。すこしばかり値が張ってもよいものを選びたかった。できれば、同年代の他の女子よりも、目立たぬていどにがっしりとした体格を、やはり目立たなくできるようなものを。一度競技者としての体をつくってしまうと、なかなかそこから抜け出せない。こういう時にそれを実感する。陸上を辞めてから、もうずいぶんと時間が経っている。
「これとか、どうかな」
響は未来の肩口に白と水色のパレオタイプの水着を添えた。
せわしなく物色していると思っていたら、さがしていたのはどうやら自分の水着ではなく未来の水着だったらしい。
「あとは……これ?」
そうやって、これ、これ、とつぎつぎに水着を差し出してくる。未来に好みのものを訊いているふうで、返答を待つそぶりがない。
「じゃあ、これにする」
未来は響の手から水着をとりあげた。体格をかくせそうなちょうどよい感じの水着だった。
「試着してくるね」
と言って、未来は試着室に入った。
服を脱ぎ、鏡の自分を見て思った。
首が太く肩幅が広い気がする。
太腿の筋肉がいやにしっかりとついている気がする。
全体的にやわらかさにかける輪郭を引いている気がする。
まさに、ただの気のせいだろう。ひとが見れば未来は小柄で痩身な少女に見えるはずである。
――ばからしい。
未来は溜息を吐いた。それから胸に指をあてて、そっと撫でた。そこにはなにもない。なにか、があるのは、響のほうで、そのなにかとは、傷痕である。
響がそれを気にしなくなったのはいつ頃からだったろう。
リディアンに入学してからなのは確かだ。
思い出そうとして、思い出してどうするものでもないことに気づいて、未来はやめた。
水着の着心地は悪くなかった。響に見せようかと思ったが、どうせあとでいくらでも見せることになるのだからと、早々と着替えた。
試着室から出て、周囲を見渡したが、響の姿はなかった。となりの試着室の下に響が履いてきたスニーカーが乱雑に置かれている。いいものを見つけたらしい。
「響――」
と低い声で呼びかけた。
「んーもうちょっと待ってー」
カーテン越しにくぐもった声が返ってくる。
ほどなくしてカーテンが開かれた。
「あれ、未来、水着は?」
かるく驚いた響が、目をみひらいて言った。
「もう脱いだ。これに決めたわ」
と言って、未来は水着を胸の前まで持ち上げた。
「えっ、見せてくれないの?」
さらに驚いて言う響を未来は無視して、似合っているよ、と笑ってごまかした。
響は首をかしげながら、未来に後押しされたのがうれしいようで、
「じゃあこれ買うね」
とあっさり言って、ふたたびカーテンを閉じた。
どんな水着を着ているのか未来はちゃんとは見ていない。似合っていたかどうかもわからない。
未来は胸のまんなかの傷を見ていた。それしか目に入らなかったと言ってよい。
響がもはや気にしていないことを、未来はいつまでも気にしている。それを響に気取られるわけにはいけないのに、うまくごまかしきれない自分に未来はいらだった。もし勘づかれたら、響はまた気に病むことになるだろう。そうあってはならないのだ。
試着室から響が出て来た。
会計を済ませて、フードコートで昼食をとると、ゲームコーナーで時間を潰し、外がわずかばかり涼んできた頃、ふたりはショッピングモールを後にした。
夕暮れに蝉が鳴いている。
この街の蝉は鳴き声が単調だと感じる。一種類の蝉しか存在しないのかと思う。かと言って郷里を懐かしむ心はない。蝉よりひどい喧騒から逃げ出して今ここにいるのだ。
「コンビニ寄って行っていい?」
響が言った。
「いいけど、なにか買い忘れ?」
「うん、ちょっとねー」
にこにこして響は小走りに走った。未来も追いかける。
コンビニエンスストアに入った響はアイスコーナーに直行した。
なんだそんなことかと、未来はなかば呆れた。
「未来はいらないの?」
「私はべつに、いい」
「そっか」
響はアイスキャンディを一つ掴み上げた。
店を出てすぐに響は包装を破った。
中身はソーダーバーで、半分に割れるタイプのものだった。
「はい、どうぞ」
と言って、響はなにくわぬ顔で分れた一本のソーダバーを差し出した。
「私は、いらない、って言ったんだけど……」
「ほしい、って言ってたと思う」
響はわけのわからぬことを言った。
不得要領のまま未来は受け取った。そうしなければ、いずれ溶けて落ちてしまう。響は引き下がりそうにない。
つめたい、おいしい、とたのしげに感想を口にする響のとなりで、未来はしかたなしに一口食べた。
サイダーのさわやかな甘味が口の中にひろがり、喉を通りすぎていった。
「お味はどーお?」
「おいしい」
きらびやかな響の笑顔に未来はそっけなく答えた。
気分はわるくない。
「ゴキゲンいかが?」
響がまた訊いた。おどけた口調だった。
未来は言葉に詰まった。
ごめんなさいと言おうとして、それをやめた。もう一口ソーダバーを食べる。満腔に颯爽とした風が吹いているようだった。この風は未来のくだらぬ溜息を響が拾い上げた証明だろう。
「ありがとう」
機嫌がいいともわるいとも、未来は答えなかった。
そのかわり、一切のごまかしのない笑みでそれを言った。
生徒の誰しもが多少の陰鬱をかかえて登校する月曜の朝、残暑にひたいに汗をにじませながら、友人の弓美が満面の笑みで言うに、
「響、このウィークエンドにあんたの自由はないものと知りなさい!」
とのことだった。
ウィークエンド、つまり響の誕生日にあたる九月十三日の土曜日における立花響の活動は、その一切を弓美がとりしきることに、突然されてしまった。
「えっ、決定事項なの、それ――」
困惑しながら響が訊くと、もちろん! と弓美は胸を張った。
「だいじょうぶ、ちゃんと四人で相談して、段取りもちゃんと決めてるから、万事あたしたちに任せておきなさーい」
「四人!?」
ひとり多い。響は驚いて未来のほうに振り返った。
「ごめん」
と謝った未来の表情は半笑いで、どこかたのしげでもあり、たいしてもうしわけなさそうな感じはしなかった。
「未来ゥ……」
情けない声をあげたあと、仕方がないので響も笑った。「ありがと、土曜が楽しみだよ」と言って。
誕生日を盛り上げたいという彼女たちの熱意と友情はわかる。それは響にはありがたかったし、このさい全力で乗っかろうと思ったのである。
それはそれとしても、
「教えてくれたらよかったのに」
小休憩中に響は未来の二の腕のあたりを指でつついた。ささやかな抗議である。
「それじゃあ、サプライズにならないもの」
未来はあっけらかんとして言った。
「そりゃ驚いたけどさあ、嬉しかったし……」
「ならいいじゃない」
「ウーン」
響はくちびるをとがらせた。未来の態度が、やけにかるいのが、響にはすこし気になった。すこしだったので捨て置いた。
「そうだね、嬉しい、楽しみ」
すばやく気をとりなおした響は、ふつふつと湧き起こる興奮に、体をふるわせた。なんだかじっとしていれらない。体をうごかしたくてたまらない。
「まだ月曜よ」
と未来に言われても、
「わかってる、わかってる」
と口だけそう言って、体のふるえも心臓の高鳴りもいっこうにおさまらなかった。
「しあわせまで、あとなんにち、っかな」
携帯電話をとりだして、響はカレンダーをひらいて、その日数を確認した。
「今日入れてろくにちー」
ああ、笑いがとまらない。
「時間が矢のように過ぎればいいのに、翼さんみたいに目にもとまらない速さでビュンって」
「矢じゃなくて剣じゃない」
「そうそう、剣剣」
土曜日まで響は浮かれて過ごした。
当日である。
響は、弓美たちに連れられて、カラオケに行って歌って食べて、ふらわーに行って食べて、ゲームセンターに行って遊んで食べて、夕暮時、今帰り道だった。
「これいつもと変わんなくない?」
響は言った。楽しかったからいいのだけれど、あんまりサプライズという感じのデートコースじゃなかったかなと思った。いや、不満はないのだけれど。あまりにも普通すぎて隠れてこそこそと計画する必要はあったのか、響は首をかしげたくなる。
「なんでもないようなことが、幸せだったと思うのよ」
弓美は黄昏づらで言った。
「わかるような、わからないような。……」
そう言いながら、響は時間をかけてゆっくりと、たった今、弓美の言った言葉を自分なりに咀嚼した。
「ああ、うん。そうだ。わかる、すごく、わかる」
響はなんどもうなずき、弓美の手をとり、握りしめた。それから、詩織にも、創世にもおなじことをしていった。
「ありがとう」
この感謝の言葉はするりと出てきた。
「夜はこれからよ……さあ、次のいくさばにむかいましょう、すなわち、響、未来、あんたたちのおうちへ――」
「なんでさっきから果てしなく遠くを見るような目でかっこつけたこと言ってるの、バンったら」
「ちぇい!」
膝かっくんされた創世の長身が折れ曲がった。
「つぎ、バンって呼んだら絶交だから!」
「はいわかりました。いやあきらめない」
体勢をととのえた創世は、めげずに反抗した。
「まあ、明日は日曜だし、部屋で盛り上がってちょっとはめはずすくらいは、いいかもね。ねえ、響」
「えっ、ああ、うん。……」
未来に言われて響はうなずいたものの、いぶかしげに未来の横顔を見つめた。未来の声にも眉にも、どこか翳がさしているように思われたのである。
自分たちの部屋に全員で乗り込むのは、四人で決めた段取りではなく、三人によるそれだったのかもしれない。未来はもしかしたら、夜はふたりきりで過ごすつもりだったのではないか。
「んー」
未来の気持ちを無視するのもなんだか気が引ける。響は急に立ちどまって、すこし考えこんだ。すこしだけ考えて、
(でも、未来)
響は内心で首をふった。
(わたし、この日は朝から夜までずっと、未来とふたりきりで過ごすつもりだったんだよ)
昨年までとおなじように、ふたりだけで、部屋の中にこもって、こっそりとちいさな誕生会をひらいて、未来に祝福してもらおうと、響はずっと考えていたのだ。
が、未来には響とは違う想念があった。その中にあったのは、もっとひらかれた世界の、ふたりより多い人数の、にぎやかな立花響の誕生日だった。
「どうしたのさ、響」
先を進む弓美たちも足をとめた。それから未来も。
「なにして遊ぼうかなと思って。うち、ボードゲームたくさんあるよ」
「へえ、モノポリーとか人生ゲームとか?」
と創世が訊いた。
「あるよ! ……あ、モノなんとかは、ないかな。でも、トランプもあるし、UNOもあるし」
と響は答えた。いつか、いつか、と思って、未来とふたりでやってもさしておもしろくもないアナログのゲームを、響は買い集めていた。
「では、はやく、行きましょうか、夜道になっては危ないですし」
詩織が未来の肩に手をそえた。歩くように、前に進むように、未来ををうながす。
「テラジはめちゃくちゃ強いよおボードゲー、モノポリーないのは残念だけど」
つきあいの長い創世がそこまで言うのだから、詩織はそうとうに手強いのだろう。
響はまた興奮してきた。そんなに強いなら一度くらいは負かしてやると思った。いつも澄まし顔かおだやかな笑顔をうかべて、どこか泰然としている詩織の、くやしがる顔を、ちょっとくらいはおがんでみたい。
詩織に寄り添われている未来のほうを見ると、眉宇の翳りは多少やわらいでいるようだった。
未来は数度まばたきしてから、すっかり気分を改めたようで、
「これでやっと埃のかぶっていた、あれとかそれとかが、報われるね」
と、響にちいさないやみのようなものをちくりと刺した。
「うん、やっとだよ、やっと。みんなで、たくさん、遊べるんだ」
響は言った。
寮を目指して、弓美はずんずんと先頭を歩く。いちばんうしろを、詩織と未来が並んで歩いた。まんなかは、
「さあ、ビッキー、行こう」
創世が響の手をとった。
(あ、どうしよう、これ、いけない)
響は顔がにやけるのをおさえきれなかった。嬉しくてたまらないから笑うのだ。それならこれはおさえなくていい、と思った。そして笑おうと思った。めいっぱい、めいっぱいに。
触れ慣れた未来の手よりも、ひとまわりほども大きな創世に手をひかれながら、響は暮色の空をみあげた。
涼やかな風を受けて、朱い雲がながれてゆく。
夏はもうはるかに遠い。
響は夢のなかで古い記憶にもぐっていた。古い、といっても今年十七歳になる響の感覚だから、十年も二十年も昔のことではない。
中学一年生のときに大怪我のために入院した。術後はリハビリにはげんで、それがおわるころには、またあらためて自分の生活が、いつもどおりの生活が、はじまるのだと当時の響は信じていた。
本格的に学校に復帰したのは二年にあがってからしばらく――夏、そう、夏のことだった。立夏をおえてまもないころ、だから五月のなかごろ、衣替えのすこしまえになる。
まだぎりぎり冬服を着て通わなければならなかった、夏のころのことだ。
けっきょく退院後の生活は響が想像していた、あるいは夢見ていたものとまったく違うものになって、そこにあったのは苦痛と苦悩の日々だったが、それだけの生活でもなく、あたたかみもあればやさしさもあって、いつだって響の心をやすらがせた。
だから、響は、つらいリハビリ、を思い出すことはあっても、つらい夏、を思い出すことは、あまりない。それを「つらい」と言いきることのできないあたたかな思い出が、響のあの夏の日々にはかぞえきれないほどあった。
それらは大半が小日向未来というもはやただひとりとなったかけがえのない友達からそそがれるものであっても、それによって響は、ひととはこういうものだ、と信じることができたのである。彼女がたえずさしのばしてくれた手の温度は、響にずっと、それをおしえてくれた。忘れさせないでくれた。
響は夢のなかで、その古い記憶にもぐっている。
目をひらくと一面が真っ青で、海なのか空なのかわからないふしぎな色をしている。赤ん坊のように身をちぢませて、響はその真っ青な空間をたゆたう。
あたたかな日射しがさしこむ。まぶしげに日をあおぐと、とたんに淡い影がさした。いつのまにか低い木が背中に、とん、とぶつかった。ここちよさを感じる。手をついた地面からかよう草と土の温度と、木漏れ日のやわらかい光。
――この色は……。
未来だ、と思った。草の、木の葉の、空の、海の、あるいは沢の、石の、あらゆるの色のあお。たぶんに響の感覚ではそれはみどりに分類されるものだ。とにかく全身が未来のあたたかいあおにくるまれている。
風の色もあおかった。だから、その風に背をもたれさせている木の枝葉がゆれて、かすかにざわめくような音をたてたとき、響はそこに、未来の存在を感じた。揺れる枝がのびてきて、響にさしだされる。
目の前に手がある。
ちいさな手、自分とかわらない大きさの、ただの女の子の手で、けれど「ただものじゃない」女の子の手が、たしかにある。響は手をさしだし、その手をにぎりかえした。
未来の温度がそこにあった。
響は古い記憶から目を覚ます。
首をくるりとまわすと、未来の寝顔があった。
手に温度を感じた。未来が響の手を握っている。手を握りあって眠るのはわりとよくあることだが、昨晩はちがったように思われる。眠っているうちに、そうでなければ寝ぼけてつかんでしまったのだろうか。
夢とはすこし、違うような気がした。あいかわらずあたたかい手がある。ちからづよい手でもある。どうしてこの手がずっと自分の手をとりつづけてくれたのか、響は、おどろいたことに一度も考えたことがなかった。ずっとずっと、それは響にとって当然あるべきもので、うたがうべきものでもなかった。
――だって友達だから。
ふたりはたぶん互いに確認しあうことはなくても、そういう意識をたえず心のどこかにもちつづけていたのだろう。
「一度はなしちゃったんだ、わたしのほうから」
未来が一度だってはなそうとしない手を響は自分ではなしてしまったのだ。それはたくさんの事件のめぐりあわせの結果で、それからまたたくさんの事件のめぐりあわせの末に、ふたたび響ととりあうことになった、あたたかくて、つよい手だった。
「はなさない……、うん、はなさない」
むろん四六時中手を繋いでいては生活に支障がでる。だから物理的に手がはなれることはこれからもまだまだたくさんあるだろう。
けれど、はなさない、と決めた。だからもう、なにがあってもはなさないのだ。これは響のわがままでもある。ずっとそばにいてくれる未来に、響はこれまでずっと甘えてきて、そこからさらに甘ったれようとしているのである。
それでも響は、はなれたくない、と思った。
あの夏、この手が響をひととひととの絆のなかにとどまらせてくれた。
この手の温度は、なにものにもかえがたい。
響はそっと未来の手からはなれ、ベッドをおりていった。
キッチンにほうに行って、冷蔵庫から昨日飲み残していたミネラルウォーターのペットボトルをとりだし、一口水を飲んだ。口のなかがそうとう冷たくて、響はおもわず肩をふるわせた。
そういえばもう秋も深まった時分だ。冷蔵庫の水をそのまま飲むのはさすがにまずいか。なんとなくひりひりする口内で舌をころがしながら、響は苦笑した。
夏が遠くなったと思った。
この年の夏が遠い、と思ったといえば思ったし、そうでないともいえた。
とにかく遠くなったと思った。
それからどうやら起きたらしい未来の、のびをするときのちいさなうめき声みたいなのが聞こえた。
響はにっこりと笑った。
古い夢にもぐることはもうないだろう。
あざやかな生命の彩りは、いまここにあるのだ。
夏休みの宿題を初日からこつこつやって八月に入るまえにはもうおわらせた、というと切歌と調から尊敬のまなざしをむけられ、クリスには舌打ちをされた。
自分につきまとうイメージは理解しているつもりだったが、それはいくらなんでもあんまりではないだろうか。
夏休みもあと数日となった、ある暑い暑い朝ことだった。
昨年も昨年で弓美たちからずいぶんとs驚かれたのをおぼえているが、すぐに納得してくれた。なにせ、わりとスパルタな先生と同居しているものだから、一緒にやっていると自然と早くおわるのだ。いや、厳密には響のほうが何時間か遅れるが同じ日にはおわる。
「クリスせんぱいやってなかったデスか」
「うるせー!」
「成績いいのと宿題ちゃんとやるのとは違うんデスね。勉強になったデス」
遊びに来たというのに課題をもちだしてやりはじめたクリスに、切歌がなにやらしつこくちゃちゃをいれている。ふたりのあいだになにがあったのか、響は知らない。
「ていうか成績よかったんだクリスちゃん」
と言ったら頭をこづかれた。ひどい先輩がいたものだ。
頭をさすっていると、未来が切歌と調の肩をやわくたたいて、
「ほっといてゲームやろっか」
と、にこやかに言った。ほんとうは「バカは」とあたまについていることに気づいたのは、調くらいだろうか。
「はいデス!」
切歌が万歳してクリスのそばからはなれた。コントローラをまっさきににぎれば、もう彼女の頭の片隅にも宿題をためこんでいたクリスせんぱいの姿はない。で、とうのクリスは邪魔者がいなくなったとすこしほっとしたようだが、反面どこかちくりと胸を痛めたような顔つきをした。
こういうことにはめざとく気づく響なので、
「さアびしいのオー?」
と切歌に倣ってからかってみて、またこづかれる。まったく、ひどい先輩がいたものだ。
クリスはぶつぶつとなにやらつぶやきながらテキストとにらめっこしている。ゲームの音がうるさいのが不満なのだろうか。まあちょっと勉強に集中するには不適切な環境ではあるが、それなら家にのこってひとりで宿題にとりくめばよかったのに。今日は響と未来の部屋で遊ぶと最初から決まっていたし、そう約束したのは響と切歌だから、クリスまで切歌と調につきあうことはなかったのである。
(心配だったのかなあ)
だとしたら、響も、未来だっているのに、心配性な先輩もいたことだ。ちょっと過保護かもしれないが、こういう学生生活とは長いこと無縁だった子だし、まだまだひととの距離感をつかめきれていないのだろう。クリスなりに先輩として最後まで後輩の監督役をするつもりなのかもしれない。切歌と調に宿題をちゃんとやるように言い聞かせて早め早めにかたづけさせたのも、調の言うところではどうやらクリスらしいので。
(そういうはちゃんとできてるんだ。えらいな)
いちおう響も切歌と調の後輩になるのだけれど、それらしいことはさっぱりしていない気がする。その点でいえば、やはり、クリスちゃんはえらい、と思った。
とすると、自分の宿題は放置していたのがますます謎になってきた。成績がいいから楽勝でかたづく、と油断に油断をかさねてほったらかしにしていたのだろうか。そんなところかな、クリスちゃんだし。響はひとまずそう結論づけた。
ちょっかいを出されたらますます宿題の進みが遅くなるだろう。ここはまたしても切歌に倣って、クリスの存在はいっそ忘れてしまって、ゲームにいそしむとしよう。
コントローラを手にとる。
パーティーゲームはアナログもデジタルも山ほど買いこんでいる。いつかたくさんの友達と遊ぼうと思って買いこんだものが山ほど。なかには響ひとりでは足が出るので未来と共同出資で買ったものもある。未来はいやな顔ひとつせずに折半してくれた。あのころは――リディアンに入学するすこしまえまでは――おたがいに思うところが多すぎて、ことばにしないところでうなずきあうことも多すぎた。いまはたくさんのことばを発して、いろんなことを話しあっている。
それほど環境は変わった。変えてくれたひとたちも山ほどいるが、そのうちの三人と、この買い集めたゲームで遊べるのは、とてもうれしいことだと響は思う。
今日はデジタルの、テニスゲームから開始した。
テレビのまえでとなりあって立ち、画面のなかでむかいあう。ほんとうにテニスをするようなうごきでモーションコントローラを振り抜く。じつはこれにはほとんど意味がない。どちらかというと感応がわるくなる。プレイする分にはすこし手もとでうごかすくらいでいいのだが、それでは気分がのらない。それはそれで意味がない。だから全力で振り抜くにかぎる、という響と切歌の理論は、座ったままちょこちょことコントローラをうごかすタイプの未来や調にはあまり理解されないし、対戦しているときは腕や足がしょっちゅうぶつかってむしろ迷惑がられるが、それでやめるふたりではない。
ふたりしてそんなことをしているから、やはり対戦中に腕や足や頭や肩がぶつかりまくって、しまいには転倒した。
痛い。でも楽しい。汗をかく。だいじょうぶ、冷房を効かせているので、不快感はない。むしろ爽やかな気分だ。
やりだすととまらない。自分ではとめられないから、いつもほどほどのところで未来から「いいかげんかわって」とおしかりを受ける。
そうでないととまれないけれど、それでとまれるのだから、それでいい、と思っている。
熱い戦いのあと響はばたんと床にあおむけにたおれた。切歌のほうもうずくまって肩で息をしている。
目があった。
だから歯をみせて笑いあった。
――サムズアップ!