青春が始まるその前に

 八月のあたまに港祭りがあるらしい。
 このあたりでこの季節に開催されるものとしては最大の規模で、夜には派手な花火も打ち上げられる。夏の名物である。
「なんとか、間に合わせたいものだ」
 弦十郎がなにげなしにもらしたつぶやきを、そのときたまたま近くにいたクリスの耳がひろった。なにを、と訊いてみると、港祭りのことをおしえられたのである。なにしろ弦十郎は多忙なひとだから、当日に予定をあけるのはむずかしく、それで困っているのだろう、とクリスは想像した。
「好きなのか、花火」
「おお、好きだとも。だが、間に合わせたいのはおれのことではない」
「じゃあ、だれのこと」
「翼がな。仕方のないことだが、夏は学校が休みであるぶん、仕事がほとんど隙間なくはいっている。八月一日は学校もあるし、そこはあけておくように、まえまえから緒川も気をつかっていたが、先方さんにあくの強いのがひとりいてな。おしこまれそうだと言っていた」
 ひさしぶりに翼を港祭りに連れてゆきたいのに、スケジュール調整はうまくすすんでいない。緒川のすまし顔の下にある苦渋が弦十郎にはよくわかる。
「この数年はみずからのための娯楽をことごとくしりぞけていたが、いまの翼であればのってくれるだろう、と思ったんだが……、なかなか、むずかしいもんだ」
「ふうん」
 クリスはまなざしを虚空にむけた。翼の過去を知らないクリスは、翼の内面の変化も知らない。
 クリスの興味がうすれていることに気づいたのか、弦十郎はあえてクリスを祭りに誘わなかった。じっさい、クリスは港祭りにゆく気はない。祭りというからにはおびただしい数のひとがいるに違いなく、そういった場所にとびこんでゆくのはあまりにわずらわしいことだった。
 ただし、マンションのベランダから港が見えるので、そこから花火が見られるだろうから、当日にそのことを思い出せれば、見るだけは見てやろうか。クリスの思考はひとまずそんなところにおちついた。
 秋になればクリスは学校に通わなくてはいけない。いやでも集団のわずらわしさに身を投じなければならないのである。
 ――それまでは静かにすごしたい。
 この年にフィーネを喪い、ひとりで暮らすようになったクリスは、やはりひとりでフィーネの死を哀悼する時間がほしかった。まわりにはフィーネではなく櫻井了子という同僚の喪失をかなしむ者が多いので、クリスはこのことをだれにも言わず、心のなかでだけ喪に服すことにしたのである。うっかり口にすれば、かれらにいらぬ気をつかわせることになるだろう。了子の仲間は了子の死を存分にかなしめばよい。でも、自分は違う、とクリスは思っている。この世で自分だけがフィーネという激情の女の死を偲ぶことができる。クリスはそう信じた。
 他の百人分はにぎやかでおひとよしの響が、夏の行楽にまったくクリスを連れ出そうとしないのは、そうしたクリスの心情をそれとなく察してくれたからだろう。響はあれで性格にこまやかなものをもっている。
「誘うのは姪御だけか」
「ん、いや、そうだな、響くんたちも連れてゆきたいところだが、あの子らはあの子らで、学校の友人とゆくだろう。こちらから誘うこともないだろう」
「むこうはそうは思わないかもな」
 響は翼を誘うかもしれない。無類の気づかい屋だが、その手は時に繊細で時に強引である。翼には強引に攻めることも考えられた。その点、響という娘は、相手の心のおきどころをじつによく見ている。相手にもっとも必要な言葉と態度を適切に選んで接してくる、あるいは微妙な距離を保つ。
「ふむ」
 弦十郎はあごひげをなでた。
「そのときは、若い連中だけでたのしんでもらうか」
 クリスくんも――と言いかけた口が、空気を食み、微妙な息を吐き出した。

 自室の仏壇にはふたつの位牌が置かれている。両親のものであるが、戒名は彫られていない。無名の位牌である。フィーネの位牌は置かなかった。フィーネは雪音一家とはなんの繋がりもない。壇も墓もクリスの心のなかに建っている。クリスにはそれでじゅうぶんだった。
 帰宅したクリスはさっそく両親のまえで手をあわせた。最初はなにも知らずに拍っていたが、そうではないとひとに指摘されてからは音をたてずに手をあわせている。
 両親は自分たちが死んだあとの娘の安否を知らないので、クリスは仏壇と位牌を買った当日に、それらをあまさずふたりに話した。むろん、その話にはフィーネとの関係もふくまれている。
 クリスを拉致し、虐待し、最後には殺そうとしたフィーネである。憎たらしい女には違いない。それでもクリスはフィーネのことが好きであった。フィーネのほうはクリスを愛していたとはとうてい思われないが、むこうはどうあれ、自分の愛情を信じ、表現してゆけばよいと思った。それが供養になる。
 クリスは、連日の酷暑をいいわけにして、自宅でゆっくりとすごすことにした、と両親にむかってこの夏の予定を告げた。
 報告を終えると同時に、携帯電話が鳴った。未来からの電話であった。
「八月の最初に港祭りがあるの。いっしょにいかない」
「暑いからおもてに出たくないな」
 と言いながら、クリスはベランダに出た。日射しはさほどでもないが、なにしろ蒸し暑い。梅雨をひきずっている感じである。風はそよりとも吹いていない。
「ベランダから港が見える」
「あっ、花火は見るのね」
「うん」
 とクリスは答えてから、
「いっしょに見ないか」
 と未来を誘った。なにもひとが密集するとわかりきっている港までゆき、暑さに辟易しながら花火を見ることもないだろう。冷房の効いた部屋から、あるいは冷房の涼しい風を背にうけながらベランダで見たとしても、なまの花火を見ることに違いはないのである。暑さは避ければよく、耐える必要はない。
「横着ね」
 未来は笑ったようだった。
「響に相談してみる」
「あれ、あいつがそれでいいって言ったら、祭りにはいかないのか」
 思いのほかあっさりと色よい返事をもらったクリスはおどろいた。
「クリスと遊べるなら、場所はどこでもいいと思うよ、響は。それに花火は夜遅くにやるから、出店をまわってからクリスの家にいっても間に合うわよ」
 クリスはすこし首をかしげた。念のために、
「あいつが、あたしを誘おうって言い出したのか」
 と訊いてみた。そうだとすればクリスには意外である。
「ううん、わたしが言った。それで、クリスがうんって言ったらって、そうしようっていうことになって」
 そういうことか、とクリスは納得した。
「祭りには何人でいく」
 クリスは確認した。未来も響も交友範囲は狭くない。二人だけならともかく、あまり多人数で来られると困る。
「五人。クリスをいれたら六人」
 と未来に言われ、クリスはかるくうなった。仏壇に目をやると、
「そりゃ、多すぎだ。全員うちにいれるとうるさくなる」
 と言った。クリスは静かにすごしたいのである。
「じゃ、クリスをいれて二人ね。途中でぬけてくる」
「おい、おい、――」
 あいつをほうっていっていいのか、と言うよりさきに、通話が切れた。
 ――よくわからないやつだ。
 かけなおす気にもなれず、クリスは室内にもどった。
 ここちよい冷気がクリスをむかえてくれた。

 八月一日はいわゆる登校日である。
 いまのクリスには関係のないものである。
 登校日というのはすぐに終わるらしいことを、未来からの電話で知った。
 昼まえに電話があった。未来は、学校が終わったことと、これから寮に帰ること、しばらく部屋でゲームなどをしてすごすこと、夕方、港祭りに出発すること、など今日の予定を早口にしゃべった。
「クリスもどう」
「どう、ってのは、祭りか、ゲームか」
「ゲームでも祭りでも。寮の場所、教えるから」
「家から出たくないって言ったろ」
「そっかあ」
 未来は残念そうに言った。
「エアコン効かせて待ってるから、友達と祭りたのしんできな」
 クリスはかるいきもちで言ったが、電話のむこうからは溜息が聞こえてきた。
「わたしの友達のなかにクリスもいること、忘れないでね」
 未来の声にはするどさがある。
「忘れるものかよ」
 クリスは鼻で笑うと、
「待ってるからな、忘れるなよ」
 と言いかえした。
「忘れないわよ」
 ほとんど同時に電話を切った。
 クリスは部屋をみわたした。冷房はすでにじゅうぶんに効いている。そとはかなり暑いに違いない。ワンルームのそなえつけのトイレでさえ、はいるとたちまち汗がでるのだから、屋外の暑気のはげしさは想像するまでもないだろう。
「まあ、好き好きはあるからな」
 クリスはつぶやいた。が、自分はそうではない。暑い日に暑いところへゆく気にはなれない。雑多な群集もわずらわしい。夏でなくても狂乱じみた熱気は避けたいクリスである。
 さして空腹感はなかったが、正午をすぎたので、冷凍のうどんをゆでて昼食をすました。
 腹がふくれると眠くなる。
 クリスはテーブルのリモコンを手にとると、冷房の温度をすこし下げた。未来の訪問まで時間がある。それまで寝ていようと思ったのである。ふかく眠るつもりはない。冷房のリモコンを置き、今度はテレビのリモコンに手にとった。テレビをつけ、チャンネルをかえてゆくと、通販番組が映ったので、そこで音量を消音にならない程度にまで下げた。ソファに体をたおし、ブランケットを腹にかけ、目をつむった。
 瞼の裏で火がゆらめいている。
 火のこちらがわにクリスが立っていて、火のむこうがわにフィーネがいる。
 クリスは火を越えようとした。火を踏んでも足の裏に熱さを感じない。とすると、これは、
 ――夢だ。
 とクリスは気づいた。フィーネに問いたいことがあり、答えてほしいことがあったから火を踏み、近づこうとしたのに、夢であればその問答は自問自答にほかならない。それでもクリスは叫んだ。
「カストディアンどもはどこにいる」
 いつかフィーネが怨みの炎をたてて口に出した名である。
「あんたの代わりにぶん殴ってきてやるよ」
 クリスはそう言ったつもりだったが、喉は鳴らなかった。言葉は脳のうちで重く響いただけで、声が出た感じがしなかった。
 フィーネの顔はのっぺらぼうといってよく、ひとこともしゃべらず、したがって怒りも嘆きもしなかった。
 それだけの夢である。

 目を覚ますと部屋が暗かった。
 クリスは肌寒さを感じた。
 近くにぬくもりがあり、そのぬくもりが空気をかすかにうごかし、クリスの頬をくすぐっている。
 クリスはのそりと体を起こした。どういうことか体が重い。冷房が効きすぎて体調をくずしてしまったのだろうか。
「花火は……」
 クリスは目をこすり、ぬくもりのある方向に首をまわした。
「まだよ」
 未来がかってにはいってきていた。そういえば合鍵を持っていたな、とクリスは思い出した。ただし、昼寝まえに戸締まりをした記憶もない。強盗でなかったことを僥倖に思うところだろう。
 通販番組をながしていたはずのテレビの電源がおちている。
「首尾よくぬけてきたみたいだな」
「いやらしい言い方しないでよ」
 未来は口をとがらせた。グループから離脱したといっても、だしぬいてきたのではないのである。祭りをぬける理由も、むかうさきも、響たちにはちゃんとつたえているし、承諾を得ている。
「よく、ゆるしてくれたな」
「響のこと?」
「だって、あいつ、おまえと離れると死んだみたいな顔になるだろ」
 冗談で言ったのではない。ルナ・アタック直後のすくなからぬ時間を、クリスは響とともに閉鎖された空間ですごしたが、そのころの響は未来に会えない苦痛でずっと身悶えていた。
 未来も笑わなかった。
「弓美たちがついてるから」
 そう言った未来は感情の読みとれない目をベランダのほうにやった。
 クリスもその視線をたどった。
 ひゅう、という大きな音があった。暗闇の部屋に光が差しこんだ。
 光のすじが夜空をかけのぼり、やがてはじけた。
「始まったね」
「そうだな。――出るか」
 ベランダの窓をひらくと、とたんに粘りのある熱風がふたりを襲った。その風にあっさり挫けたクリスは、
「なかで見よう」
 と未来の手をひっぱった。
「蚊もいるし、思ったほど風情あるもんじゃない」
 未来はそれを横着だとは言わなかった。
 ふたりはベランダからしりぞき、窓を閉めた。
「あそこにいると、蚊は気にならないし、暑くてもたのしいんだけど……」
 未来は窓越しに港を指さした。
「なんとなく、わかるよ」
 とクリスは言った。おそらく港にある熱気は人間の感情の集合であり、それとおなじ感情に染まっているうちは、その熱気はうとましいものではなく、むしろ歓迎すべきものなのだろう。
 花火の音は窓のこちらがわのクリスと未来にもよく聞こえる。
 連続する破裂音とともに極彩色の火花が散っている。
 港でそれを見ている者は、花火のはげしさにひきあげられるように、興奮の坩堝を形成している。その歓声まではさすがに聞こえない。
 涼しい室内で遠くから見ているふたりは、淡い感動を胸にひろげた。
 ――あの花火の下にあいつがいる。
 あざやかな花火にみとれ、あるいはうかれている、あのひとのよい少女の笑顔を脳裏に思いうかべるのは、そうむずかしいことではない。が、彼女は心から花火をたのしめているのだろうか。クリスには不安とうしろめたさがある。かたわらに小日向未来がいないことを、花火を見あげる響はどう思っているのか。
 響にとってかけがえのない親友は、響のもとを離れ、クリスとふたりきりで花火を見ている。そういう現実が夜に沈んでいる。
 悪いことをしたかもしれない、と思わなくもない。それ以上に、
 ――わからないやつらだ。
 と思った。未来は響を誘わず、響は未来についてこなかった。あるいは未来は響のクリスへの配慮を無視し、響は未来をとめなかった。それが相談の結果なのか、暗黙のうちにおこなわれたことのか。どちらにせよ、クリスの想像のなかにある「立花響」というパズルには、ピースがひとつ足りていない状態である。そのピースが絵の半分以上を構成しているにもかかわらず、そうなっている。
 花火はまだ上がりつづけている。
 クリスはわずかに首をうごかし、となりにいる未来を目のはしにいれた。
「たのしいか」
 と訊いたのは、自分の横着に未来をつきあわせてしまったことを後悔しはじめたためであるが、未来の、その目になにか、かなしみに似たものが宿っているように思われてならなかったのである。
 ――なにが、かなしいんだ。
 クリスは苛立った。未来のかなしみの正体もおのれの苛立ちの正体もクリスにはわからない。なにもかもわからないと言ってよい。わかることなどなにひとつないのかもしれない。
「きれいよね」
 と未来は言った。
 はぐらかされた感じのクリスは、しかし問いをかさねることはせず、
「ああ、きれいだ」
 と言った。
 そのあと、ふと、
 ――あたしはたのしいのか。
 と疑念を湧かした。

 たのしい時間は矢のようにすぎ、つまらない時間は凍ったようにうごかない、と言われるが、つぎつぎに打ち上げられる花火は終わりというものがないようにクリスには思われた。
 最後の花火が夜空に展開し、消滅したとき、クリスがもらした、
「終わったな」
 というつぶやきのあたまには、やっと、とつけてもさしつかえない。
 退屈であったわけではない。花火はみごとなもので、クリスはたしかに感動した。だが、それだけである。――花火がきれいだったならそれでいいじゃないか、と言いきれないのは、花火以外のたのしみを心のどこかで期待していたせいだろう。自分の落胆に気づいたクリスは、そう考えた。
 では、なにを期待していたというのか。はっきりしているのは、未来の淡白な態度が気にくわない、ということだけである。
 クリスは形容しがたい不快と不可解をかかえたまま、窓辺から離れ、電気をつけ、未来をソファに座らせ、麦茶をふるまった。
「花火がこんなに長いとは思わなかった」
 とクリスは嘆息した。たのしい時間をすごしたとは言いがたい息の色である。つきあわせた未来に謝りたい気分でさえある。
「駅まで送ってやろうか」
 夜道は危険だという常識がそう言わせた。未来と違い、クリスは多少の武力をもっている。たちのわるい輩にからまれても守ってやれる。
「ううん、響にむかえにきてもらう」
 未来は首をふった。
「そうか……」
 クリスは一抹のさびしさをおぼえた。
 未来は携帯電話をとりだし、響に連絡をいれた。そのあと、いったん席を離れ、仏壇のまえに座り、クリスの両親に手をあわせ、もどってきた。
 会話もなく茶をすする音だけがした。
 錘をつけたような時間がのそのそとすすんだ。
 未来の携帯電話が鳴った。響からの着信だった。
 じゃあ帰るね、と未来が言えば、クリスの八月一日はあっけなくおわる。クリスは胸が苦しくなった。静かにすごしたい、と思っていたくせに、じっさいに静黙のなかで時間がすぎてゆくと、ばかばかしいほど気落ちしている自分がいる。
「響に会っていく?」
 と未来が訊いてきた。
 響は駐車場で待っているという。
 そこまで未来を送っていけば、クリスは響と顔をあわせることになる。
「ああ」
 と言って腰をあげたクリスは、自分のかるがるしさを笑いつつ、未来とともに階下におりた。
 胸のなかで煩悶がうずまいており、その煩悶を響の晴れやかな笑顔で鎮めたくなったのは、自分でも意外だった。
 部屋を出るとおそろしいほど蒸し暑くなる。建物のそとに出れば夜風のひとつもあるだろうと期待したが、まったくといってよいほどの無風であった。それでも日中より多少なり涼しくなってはいるのだろう。冷房には及ぶべくもない。
 体が急速に汗ばんでいった。
 うんざりしながら駐車場に出ると、
「あ、クリスちゃん、ひさしぶり――」
 沈鬱をふきとばす笑顔が立っていた。
 クリスの心に弾性がうまれた。
「ほかの連中はいないのか」
「さきに帰ったよ。寮生じゃない子もいるし」
 と言った響のそばに未来が小走りで走り寄った。その未来に響は、
「花火どうだった」
 と訊いた。
「きもちよかった」
 と未来は答えた。これは冷房のことだろう。花火の感想は言わなかった。
「おまえはどうだったんだ」
 とクリスは響に訊いた。
「創世ちゃんがいい場所をとってくれてね、すごくたのしかったよ。すっごくきれいだった。でも途中でにりんご飴おとしちゃって……、あれはショックだったなあ……。蟻がね、わらわらわいてきたの、あっというまだった」
 響は首をすぼめた。
「あっ、そうだ忘れてた」
 響は肩から提げているかばんをひらき、
「はい、おみやげ」
 と言って、クリスにりんご飴をつきだした。
 恭しくうけとったクリスは、さっそくセロハンをはがしてかじりついた。水飴の甘さが口のなかにひろがる。りんごの酸味にはひとくちではゆきあたらなかったが、それでも胸がすっとさわやかになるのを感じた。
「うまいな」
 とクリスは言い、りんご飴を響にかえした。なんの遠慮もなく響はりんご飴をかじってまたクリスにさしだした。響にはこういうところがある。
 帰りぎわに未来が、
「来週にも花火大会があるんだけど、いっしょにいかない?」
 と言った。
「来週はだめだ。来年ならいける」
「わかった。じゃあ、来年ね」
 ちいさく笑った。
 ――あっ。
 とクリスはおどろいた。
 未来は今日これまで一度も笑わなかった。が、ここにきてはじめてクリスに笑顔をみせた。ようやく見た笑顔は、またたくまにひるがえり、かわって黒い髪と白いリボンがクリスの視界にとびこんだ。
 ふたりの背を見送りながら、クリスはしきりに首をかしげた。

 その後もクリスは冷房の効いた部屋からほとんど出なかった。ときどき、日が沈んで涼しくなってきたころに外出し、すばやく買い物をすませて帰宅した。そのあいだ警戒警報が一度だけ鳴った。クリスは響とともに出撃し、手早くノイズをやっつけた。みじかい戦闘のあいだに、ふたりとも大量の汗をふきだした。
「あれのほうがよっぽど恐い敵だ」
 武装解除して、帰還の道すがら、クリスは太陽を指さして言った。
「ほんとだよねえ……」
 さしもの響もこの暑さにはまいったようで、眉を八の字にさげ、手でしきりに顔をあおいでいる。
 すでに晩夏である。が、気温はなかなか下がらない。もうすぐ学校が始まる。できればそれまでに日中も肌寒いくらいになってほしいもんだ、とクリスはひそかに祈っているが、さて。
 ――学校ねえ。
 クリスは二年生で、響より一学年上になる。先輩である。
 以前翼に、
「来年からは雪音がリーダーだ」
 と言われていたこともあり、今日の戦闘ではそれらしく振る舞ってみようかなどと考えていたが、なにをしていいのかわからず、けっきょくそれぞれ思うままに戦っただけだった。かってきままに戦ったのに翼がいるときより窮屈を感じたのだから、戦場にはふしぎな情理がはたらいている。もっとも、それは戦場にかぎったものではなく、集団そのものがもつ特性でもあろう。
 自分と翼でなにが違うのか。翼が卒業するまでにクリスはこの謎を解かなければならない。さらに一年後には、――つぎはおまえがリーダーだぞ、と響に言うことになるのだろうか。そんなことを思い、となりを歩く響につと目をむけた。うへえ、うへえ、とあえいでいる響を見つつ、
 ――ないな。
 と、すぐに否定した。翼がクリスに後事を託すのは、彼女が卒業後、歌手活動の拠点を英国に移すからである。クリスは卒業しても日本を離れる予定はないのだから、響が三年生になったところで、あとは任せたぞ、とあえて言う必要はない。
「はあ、暑い。ほんとに暑い。のどかわいた。ねえ、クリスちゃん、どこか寄っていかない」
「あたしは早く帰りたい」
 クリスは歩調をはやめてずんずん歩いた。暑くてかなわない、のどがかわいてしょうがない、だから早く帰りたい、と言った。
「あ、待ってよお」
 響はすぐによこにならんできた。
「寄ってくってどこに寄ってくんだ。コンビニか、喫茶店か。涼しすぎると出たくなくなるぞ、たぶん」
 さすがに日射しのおとろえる時間までながながと居座ることはできない。店に迷惑だし、なにより響の帰りが遅れただけ、未来の心配が増す。
「公園の、噴水の、まえ」
 あえぎながら言った響は、べつに年甲斐もなく噴水を浴びようと言っているのではなく、しかし噴水のちかくは涼やかに違いなく、しかもその涼気はやわらかく、室内冷房のような厳粛さがない。
「噴水か。それもいいな」
 想像するだけで胸のあたりが涼しくなった。

 ところが、いざ公園に到着するや、ふたりはがっくりと肩をおとした。
 公園はひとで満ちていた。考えることはみなおなじということである。噴水では幼児たちが手をとりあい遊びまわっているし、おとなでもシャツやくつをぬぎ、水に手足を浸して涼んでいる。噴水付近は混雑が極まり、とても近づけない。
「うまくいかないときは、とことんうまくいかねえ」
 クリスは吐き棄てた。
 うなだれた響が、
「うちに寄ってく? ここからならクリスちゃんちより近いよ」
 と力のない声で言った。これほど元気のない響はめったにない。炎天下をひとりで帰ることがどうしようもなく億劫で、同行者がほしかったのだろう。きもちはわからなくもない。
 そういえば、響に招かれるのは意外なことにこれが初めてになる。さすがの響もこの暑気にあてられたのか。
 ――いや、違う。
 クリスは首をふった。暑気にやられたのは響ではなく自分のほうだ。感受性の強い響はクリスの思考をおのれの言葉に置き換えて言ったにすぎない。
「あの子は、いるのか」
 とクリスは訊いた。
「あの子って、未来――」
「そうだよ」
 響はクリスの二の腕をこづいた。
「……クリスちゃんってさ、名前よんでくれないよね」
「そうだな立花響」
 クリスはあっさり名を言ってやった。
「またそういういじわるするう」
 響はすねたように言った。が、じきにはにかむように笑った。なにはともあれ、うれしいことではあったらしい。
「花火のこと、なんて言ってた」
 クリスが気になっていたのはそれである。ずっとひっかかっていた。
「きれいだったね、って、お話ししたよ。未来は……、ええと、なんだったかな。ちょっと待ってね」
 響はポケットから携帯電話をとりだし、せわしなく指をうごかした。
「これ。これが好きなんだよ。これ、柳っていうらしいよ」
 携帯電話の液晶画面には花火の写真が表示されている。
「うまく撮れているじゃないか」
「詩織ちゃんが撮ったの、送ってもらったの」
「なんだ、もらいものか」
 弓美だの創世だの詩織だの名をだされてもクリスにはだれのことだかわからない。響と未来の友人の名であることはわかる。考えてみれば響に花火を見ながら写真を撮るような器用さがあるとは思われない。花火を目と耳と心で見ているかぎりは、それ以外のもので見たり保存するという思考をはたらかせそうにない。
「おまえはなにが好きなんだ」
「ススキ」
 即答されたそれは打ち上げ花火ではない。川辺や家の庭でやるような手持ち花火の一種だ。言外にあるものを察してほしい、ということだろうか。
 それはさておいて、
「柳か……」
 クリスは少々考えこんだ。自分もその柳を見ていたはずなのである。未来とともに見たはずである。未来が柳を好むのはむかしからかもしれないが、クリスはそういった話を未来とさっぱり交わさなかったことを思い出し、唇を噛んで悔しがった。
 たのしいか、と問いかけたとき、港で上がっていた花火はなにであったか。柳であったのか。未来はなにを見ながら、きれい、と答えたのだろうか。
 未来といっしょに花火を見たわけではない響は、それでも未来とおなじ花火を見たことで、会話をはずませたのだから、これほどちぐはぐなことはない。ところが、そのちぐはぐさは、じつはみごとにかみあっていたのである。
 ――ああ、そうだったのか。
 にわかにクリスは未来のかなしみの正体を知った。あのかなしみはクリスがかかえていたかなしみにほかならない。哀痛に染めぬかれたクリスの心に、なにも言わずにそっと寄り添っていたのが、あのときの未来である。それに気づきもせずに彼女に苛立っていたおのれとは、いったいなんであろうか。
 響がのたのたと歩いている。
 クリスはひとの名前をよばないが、ではどんなよび方をしているのかというと、たとえばこの響のことなどは、
「おい、バカ」
 と、よぶ。
「なあにい」
 響の顔がゆらりとこちらにむけられた。彼女は自分をバカとよばれても気色を変じたことがない。ふしぎな人格の所有者である。
「八月あたまの花火大会の話を、八月も終わろうかってときに、してもいいもんかな」
 響はひたいの汗がたれ落ちたのか、目をつむり、指でこすった。
「いま、してるよ。わたしとクリスちゃん」
 それが響の答えだった。クリスは気が楽になった。
 強烈な日射しの下を、ふたりは歩く。ゆくさきは言うまでもなく未来のいるリディアン新寮の一室である。
 最初になんて声をかけようか。いや、それは、こんにちは、とか、ひさしぶり、でよいだろう。話のとっかかりになにを言おうか。あのときは柳がきれいだったな、そう言ってみようか。しかし、クリスは柳の花火をおぼえていない。それでもなにか話せることがあるはずだ。なにせその場にいなかった響とは話せたのである。けっして不可能なことではない。
 ふと、胸に湧きおこった言葉があった。
 緩慢に歩くクリスの、踵がすこし、軽快な音をたてて跳ねた。

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