鏡の夜U

 キスしていいですか、と美波は言った。
 やわらかいソファがしずんだ。美波がせまってきたのと、美優があとじさったせいで、そうなった。
 美優が美波の問いに答えるまえに、美波は美優にキスをした。
 あたたかい唇の感触があった。そこから舌がちらとのぞかれて、その舌が美優の唇を舐めた。美優は唇をひらいた。すると美波の舌がなかに入ってきた。熱く、甘い、粘性のある感触が口内をゆるゆるとかきまわした。
 ――なぜ、こんなことになっているんだろう。
 熱にうかされそうになる頭の片隅で、美優はそんなことを考えた。こうなってはいけないはずだった。こうならないために、美優は今夜、美波の部屋をおとずれたはずだった。
 なにもかもが、最初の予定からはずれてしまっている。
 唇がはなれたとき、美波の濡れた目が映った。その目はほのかに笑っている。よろこびような、かなしみのような、そんなあいまいな笑みだった。
 ふたりはキスの余韻を吐きだすように、ほうっと熱い息を吐く。
 その吐息のつぎにことばを発したのは、美波がさきだった。
「楓さんのこと、嫉妬、してくれたの、すこしうれしかったです」
 と美波は言った。
 美優はなにも言えなかった。よろこばれているようではいけないのである。美波のむけてくる熱の帯びた好意を、きっぱりと拒まなければならず、それを決意したはずなのである。であるのに、それがてんでできていない自分の、なんとなさけないことか。
「どうして」
 ようやく美優は、しぼりだすようにかすれた声をだした。わたしなんかを、とつづけようとしたが、なんかを≠ニ、そういう言い方をすると怒られそうな気がしたので、
「美波ちゃんはわたしを、そんなふうに」
 求めようとするの、という声は、ちいさすぎて、美優自身にもよく聞こえなかったが、美波はどうだろうか。
「好きだからです」
 美波の理由はいたってシンプルだった。
「はじめて、キスしてくれたときに、好きになったんです。わたしのために抱いてくれたときから、ずっと」
 はきとした明るい声だった。美優は耳をふさぎたくなった。それができないかわりに両手で顔をおおった。
「あのときのわたしは、お酒を飲んで酔っていました。それでとんでもないことをしてしまった。それに美波ちゃんも酔っていました。だから、きっとそれは、酔いが――」
 そこまで言いかけたところで、
「はい、酔っていました。でも、好きです」
 まっすぐな告白である。
 あべこべだ、と美優は思った。本来は自分こそがもっと毅然としていなければいけないのに、現実には毅然としているのは二十歳になったばかりの美波のほうで、二十六歳の美優は両手で顔をかくしている。なさけない顔をみられたくなくてそうしている。
 ところがその両手は美波によってひきはがされた。
 なかば泣き面になっていた顔を、八の字になった眉を、ゆがんだ唇を、皺のよった鼻を、ぶざまな顔を、美波にぜんぶみられてしまった。
「たとえ美優さんがこのさきも、またあのときのことを悔やみつづけようとしても、わたしはそうはしません。これはわたしが決めたことです。わたしはずっと、美優さんに抱かれたことを幸せに思いつづけます」
「美波ちゃん、それは……」
「そう思いつづけることは、美優さんにとって不幸なことなのかもしれませんが、それでもわたしは、後悔したくない」
 これが新田美波という人間なのだろう。目鼻立ちが少々似ているだけで、それ以外はなにもかもが自分とは違う。新田美波という強烈な自己をもった人間のきらめきだ。
 美優は一度うつむき、唇をむすんで、しばらく黙考した。考えるべきことのすべてを考えた。自分の年齢、立場、これまでの言動、美波のことも考えた。思いかえしては、それについて考えた。
 ――世のなかにはどうしようもない流れがある。
 いつかとおなじことを美優は思った。
 美優はいま酒を飲んで多少酔っているが、美波は一滴の酒も飲んでいない。美波は正気である。フィジカルもヴァイタルも美優が美波に勝てるものはなにもない。抵抗されたら美優は手も足も出ない。が、それはない、とわかりきっている。
 ――だから……。
「後悔は、しつづけます。なんども。これから、なんども」
 そう言って、美波の肩に手を添えた。美波はあっさりとソファにたおれた。

 美波のワイシャツのボタンをすべてはずして、ブラジャーをめくりあげた。乳房がゆれた。谷間に指をそえると、とくとくと心臓の高鳴りを感じる。そこからさがっていって、へそのあたりを指で押す。ここも呼吸をしている。美優は美波のだらりとソファからおちている手をつかんで、自分の心臓部分にあてた。
「どきどきしている」
「そうですね」
 美波は泣きそうな顔で笑っていた。
 その顔中にキスをして、乳房を揉んだ。先端をこねまわして、かすかに爪をたてておしつぶした。みじかい悲鳴のような声があがる。
 歓喜のなかにいると思う。が、恐怖がまったくないわけではないとも思う。なにせいまの美波はしらふである。前回のような酒の力の助けはうけられない。
「怖くない」
 と美優は訊いた。
「怖いです。けれど、うれしいです」
 と美波は言った。でも、と美波はつづけた。
「うん?」
 美優は美波の脇の下をなでた。
「んっ、美優さんは怖く、ないんですか」
 そう言われて、美優は一瞬なにを言われたのかわからなかった。いやな言い方をすれば犯されるのは美波のほうで、犯すのは美優のほうなのだから、こちらに恐怖があるはずがない、と美優は思った。なぜそんなことを問うのか。不安の裏返しがそんなことを言わせたのだろうか、そう思った美優は、美波のひたいにキスをして、頬をなでた。
 美優の愛撫をうけながら、美波はそれでも言葉をつづけた。
「後悔、しつづけるって」
「うん。します。まえのことも、いまのことも、します」
 美優はきっぱりと言った。
「どうして……」
 眉をひそめて美波が言う。なんのためにひそめられた眉なのか、美優にははかりかねた。
「後悔、させたくないから」
 すこし顔をそむけて美優は言った。美波の目をみて言う勇気が、このときにはまだ美優にはなかった。
 スカートのなかに手をいれる。ショーツをずらして、外側のやわらかい部分にふれた。
 濡れた粒をつまんで、おしつぶして、指ではじく。そのたびに美波の喉が鳴る。すこしおさえぎみのその声が、かわいらしくて、いじらしい。
 ――ああ、なんだ。そんなことだったんだ。
 と、美優はにわかに得心した。
 抱かれることを後悔したくないなら、後悔させたくない。抱かれることを幸福と思うなら、その幸福を与えつづけたい。おそらくそれは、なかば本音で、なかばは自分の都合であったろう。後悔しつづけるという決意があっさりゆらいだこと、楓との関係に嫉妬すること、そういう諸々を美波を抱くことでごまかそうとしたのかもしれない。
 それでも半分はほんとうに美波を思ってのことに違いない。
 そういう意味では、やはり美優も美波のことが好きなのだ。美優はようやくそれを知った。
 求められたから抱くのでもなくて、酒の勢いに流されるのでもなくて、ただ自分のもつ愛情で相手をくるんでやりたい気持ちが、美優のなかにあったのである。そしてそれをべつのことばで表現すれば、幸福、となることもわかった。
「みゆ、さん」
 はやく、と名を呼ぶ声は言っている。なかに、と言っているのである。
「美波ちゃん……」
 求められている。が、求めている。もっとも熱く、もうひとつの心臓のようにうごめいているなかを、美優は求めている。ほかのだれでもない、美波のそれに触れたくて、懸命に指をおしいれてゆく。襞にはばまれながら、すすんでゆく。
 声が聞こえる。
 美波の喘ぐ声が聞こえる。
 いつもよりすこし高くて、甘ったるくて、三船美優という人間をつよく求める声が聞こえてくる。
 てのひらを上にむけて、指を腹にむけてつきあげる。ひときわ大きな嬌声があがる。
 もう一方の手は乳房を揉み、唇は、はだけている上半身のあちらこちらにキスをおとした。
 美波の両腕が美優の首にまわされる。ぐいとひっぱられて、肩口に顔をうめられた。
 美波は嬌声をこらえるように、美優の服を噛んで、ふ、ふ、と息を吐いている。
 ふっと思いついて、美優は美波の鼻をつまんだ。服を噛んでいた歯はあっさりはなれていった。首にまわされていた両腕もほどかれた。
 指をぬきさして、粒をおしつぶして、
「かわいい、子」
 美波が果てる瞬間にみせた涙と唾液でぐちゃぐちゃになった顔が、どうしようもなくかわいくて、いとおしいと思って、その目尻と口もとにキスをした。

 おわったころには、深夜もよいところだったので、その日はけっきょく美波の家に泊まることになった。
 それでその翌朝になると、美優は案の定、とんでもないことをしてしまったと後悔にまみれ、勢いベランダのほうに走って、窓に顔面をぶつけ、鍵をあけて、外に出ると、オレンジ色の朝の空のをみて、
 ――ああ、きれいだな。
 と思った。死にたいという気持ちはきれいに霧散した。
 気がつくと美波がとなりに立っている。
「ずっとくりかえすんですか?」
「性分ですから、そうなるしかないの」
 嘆息した。こうなるとわかっていても、やってしまったものはもう仕方がないし、これからもそうするのだろう。
「でもね、美波ちゃん」
 あっさりと自殺衝動のおさまった美優は言った。
「あなたに後悔はさせないし、不幸にもさせない。わたしのために、そうなってしまうなら、わたしがそれをとめるから」
 それから美優は、自分によく似た目をぱちくりさせている美波の唇にそっとくちづけた。

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