沈殿するもの

 心配なんですよ、と楓は言った。そう言ったときの楓の表情があまりにも神妙で、だじゃれを考えているときとも全然ちがって、だから美優は、ああこのひとは本気でわたしのことを心配しているのだとわかった。
 わかっただけに、ショックだった。
「楓さんに心配されるなんて、わたしもう潮時なんでしょうか」
 と美優は身も蓋もないことを言った。
 芸能界を引退すべきなのだろうかと一瞬だけ本気でそう思った。
 酔っているのかもしれない。気をつかうのもつかわれるのも不慣れな身なので、酒がなくてもこんな言い方しかできなかったと思うが、まぎれもない美優の本音であり、その本音をふだんすこしくらいはがまんして口に出さないところを、かんたんに出させてしまう。おそろしいのは酒の席の開放感で、美優はどちらかというと、そういうのが苦手なたちだった。
「あ、いえ、お仕事のことでなくて」
「ちがうんですか」
 頭をぐらぐらゆらしながら、美優はそれでも、いちおう首をかしげてみせた。酒によった頭がゆれているだけのようにみえても、美優には首をかしげて疑問を呈したつもりの動作である。
「ほら、美波ちゃんとね、最近なんだか、距離があるかなって、思いましたので」
 ほんのすこしぎくりとした。肩がわずかにはねた。あえてかくしていることでもないが、あからさまにしているとも思っていなかったので、楓の心配が仕事でないなら、それは第二の予測として十分たてられるものでありながら、美優は予想外の攻撃をくらった気分だった。
「まあ、まあ、あんなにも仲がよかったふたりに、いったいなにがあったのでしょうか、と思ってちょっと調査しみたら」
「調査したんです?」
「探偵にはたのんでいませんよ」
「ええ、はい」
 瑞樹や留美などはすでになにかしらを察しているようで、ただ首をつっこむ気はないらしく、かわりにすこしばかりお叱りは受けた。あんな若い子に気をつかわせてどうするの、と。そのあたりに楓の調査の手がまわったのか。いつのまに、と美優はいぶかしんだ。
 それとなくふたりのいるほうへ視線をむけてみる。目があった。指でちょいちょいと楓を示す。とくべつ変わった様子はなく、酔っ払いの相手ご愁傷様、みたいにくすりと笑われた。ひどいひとたちだ。
「美波ちゃんに聞いてみたんですよ」
 迂遠な路をいっさいとらなかった楓である。
 こんどはすこしどころでなく、おおいに肩をふるわせた。手がこわばって、グラスから酒がこぼれおちそうになる。
「聞いてみたんです」
 大事なことなので。
 奥の座敷席とはいえ、現在の美優と美波をとりまく状況を、口にするのは、まずいのではないか。
「楓さん、その話題は、また後日……」
「聞いてみたんですよ」
「はい」
 楓は聞いてくれそうにない。
「そしたら!」
 楓は言って、手をたたいた。乾いた、なんとなくそぞろになった気をひきしめるような、あるいは逆に、張りつめたものがときほぐされるような、ふしぎな音が楓の手からした。
 スターというのは常人とはなにからなにまで、なにげないしぐさでさえ、ちがうものなのかと美優はあらためて思った。
「わたしが贈らせてもらった鳩時計、壊れていたそうで」
 手をあわせたまま、楓の頭がかたむき、色違いの目が、美優のあごからこめかみのあたりにかけてを、のぞきこむ。
「あ、はい。せっかく楓さんが誕生日にとくれたのに、すぐに壊れちゃって……」
「でも、まだ使ってくださっていると聞いて、美優さん、美優さんったら、ほんとうにやさしいひとですね。あと物堅いといいますか」
 そうだろうか。自分ではわからない。グラスのふちをつまんで振る。なかはまだあけきっていない。琥珀色の液体がグラスのなかでかすかにゆれる。
「窓のところに鳩がひっかかって、出てきたり出てこなかったりで、そのせいなのか、変な鳴き声になるんですよね」
「くるっぽーくるっぽーが、くる、くるくる、って感じだと聞きましたが」
「ええ、そんな感じです。でも、ちゃんと十二時になると鳴いてくれますし。針には問題ないみたいですし、だからいまでもちゃんと使えますし、だから、その、物堅い、というのとはちがうと思います」
 やさしい、というのとは、もっとちがう。これは心のなかでだけ言った。それにしても美波が我が家の鳩時計の壊れた鳴き声をおぼえていたとはおどろきである。十二時にしか鳴かないのに、いつ聞いたのだろう。そういえば最初の夜の、夜にあれやこれやがあって、ストレートに言うとセックスした翌日、昼まで彼女はいた気がする。そのときか。
 ――鳴いてたっけ。
 記憶にない。
「すぐ壊れるようなものを贈ってしまってもうしわけないです。でも、ずっと使っていてくれたのですねえ」
 しみじみ言って酒をひとくち飲んでから、
「ありがとうございます」
 と言って、楓はぺこりと頭をさげた。
 美優はあわてて首を振った。
 感謝されるようなことはしていない。むしろ貰ってすぐに壊してしまった自分こそ楓に謝罪すべきだろう、と思った瞬間、美優は謝った。いや、まえまえから謝罪しようとはしていたのだ。が、なにぶんプレゼントされたのもいまとおなじ酒宴もたけなわのころである。だれに贈られたのかさっぱり思い出せないまま今日に至った。楓が言いださなければ、あの時計は、いつだれに贈られたかもわからない壊れた鳩時計として、部屋の壁にはりつけられつづけたことだろう。
 ――あれ。
 美優はまた首をかしげた。なんだか話がおかしい。
「んん……」
「どうしました?」
「いえ、どうして鳩時計の話を、わたしたちはしているのかと思って」
 鳩時計の話をするために楓は美優に話しかけたわけではなかった気がする。
「そうでしたっけ。いえね、美波ちゃんが美優さんの家の鳩時計って壊れているんですよ、鳴き声がなんだかおかしくて、と教えてくれたんですよ」
「そう、ですから、なんで鳩時計の話に」
 主客が逆になってはいないか。これでは鳩時計がメインで美波がオマケである。まさか楓は鳩時計が心配でこんな話をしているわけではあるまい。
「美波ちゃんが教えてくれて」
 なんだからちのあかないことになってきた。
「はい、そうです、その美波ちゃんのことで、心配してくださっていたのでは……」
「セックスしたんですか?」
 考えるよりさきに手が出た。てのひらの一番堅いところを楓のきれいな唇めがけて突きだした。
 楓はひっくりかえってうめいた。
 あわてるべきなのだろうが、美優はふしぎにあわてなかった。
 謝るべきなので謝った。
 心配すべきだと思うので、だいじょうぶですか? と訊いた。
「口のなか切ってません?」
「ええ、それは、だいじょうぶだったみたいです。ああそれにしても美優さんはお酒がはいると大胆になりますね」
「はあ、自覚があるにはあるんですが、どうにも。禁酒したほうがいいかな」
「それは、やれともやるなとも、わたしには言いづらいですねえ。美優さんとのお酒はたのしいですし」
「ものずきですよね、楓さんって」
「ちかごろのおふたりきたら、みょうに艶っぽいですし、熱っぽい視線をかわしたりそらしたりですし、わたしとしてはそう推理するほかないのですが」
 ひたいに手刀を落とす。
「あいたっ」
 あんまりかわいくない悲鳴があがった。
「正直なところ、こういう話、ここでするの、どうかと思います」
 と言ったのは、おそろしいことに楓だった。
「でも、聞きたいな、いますぐ知りたいな、って思ったら、なんだかいてもたってもいられなくってですね、つい」
 かなしい人間のさがですね、と言った楓は、酔っていたのだろうか。どこまで正気なのだろうか。美優にはもう、判断できない。このひとの思考の深奥には、美優ではとうていとどかない。
 楓は美波からは鳩時計の話ばかり聞いたらしい。いつどこで、かは、たぶん事務所内で顔を合わせたときにでも、世間話がてら、そんな話をしたのだろう。
 なのに美優には、あきらかに不適切な場所で不適切な話をしようとした。
 楓の意図はどうあれ、美優はその事実を深刻に受けとめなければならなかった。けっきょくのところ、そこにあるのは、二十歳になったばかりの大学生の美波と、それより六つも年上の、社会人経験のある美優という現実である。だから楓は美波には生々しい話をもってゆかず、直接美優のほうにきたのだ。美優は負うべき責任としてそう受けとめなければならないのである。
「どうでした? 女のひと同士ってその、いろいろとむずかしいって聞きますけど」
 でも、さすがにしつこい。
「むずかしかったですよ」
 美優はそれにのっかった。もうどうでもいいや、と思ったわけではない。酒宴の喧騒のなかで、ふたりの会話などほかに聞いているものなどいない。そう判断したのである。その判断力が正常かどうかなんて、知らない。
「むずかしい、ですね。……」
 グラスをゆらして飲んで、またゆらして、飲んで、ついに中身がなくなった。今日はこれでうちどめにしよう。考えることが山ほどあるから、これ以上思考をにぶらせるわけにはいかない。いまさら手遅れだろうが、飲みつづけるよりいくらもマシだ。
「楓さんって」
 こんどは美優から話をきりだした。
「しょっちゅう美波ちゃんに家まで送っていってもらっていますが、聞いたところによると、お化粧おとしから着替えから目覚ましのセットから、はては朝食の準備まで、世話になっているそうですが」
「朝食はなかったと思いますが、ええと」
「なにもなかったんですか」
「なにと言いますと」
 どこまで本気で問うているのか。とおたがいに思ったことだろう。楓はわかっていてとぼけているのか、さてはて。
「酔っ払いがですね、家に若い女の子を連れこむんです」
「まあ、その文面だけだと、とても危険なかおりがしますね」
「なにもなかったんですか」
「お化粧をおとしてもらって、お着替えをてつだってもらって、お布団に寝かせてもらって、目覚ましのセットをしてもらって、ええそれから記憶にないですが、もしかしたら朝食の用意もしてもらったかもしれません」
 いろいろありましたね、と楓は言う。美優はそれで確信した。楓はすっとぼけているだけだ。情愛のからんだ生臭みのある話をしようとする美優の問いをわざと意図とはちがうふうに受けとり、ことばを返している。
「わたし、楓さんのことずっと、ひどいなって思ってたんですよ。いえ、めぐりめぐってわたしもひどいし、ほかのみんなもひどいですけど、楓さんたってのお願いだから、とめづらいし、彼女は断わりづらい……し? のかな?」
「酔っ払いの面倒をみさせることですか」
「そう、だって、いまはともかく、ちょっとまえまで、あの子、未成年で、なのに、飲み会に烏龍茶で参加して、その上酔いつぶれたあなたを」
 ひどい、と言おうとしたのに、唇が、うらやましい、とうごきそうになった。
 ――ちがう、ちがう。
 美優はぶんぶんと首を振った。ほんとうに言いたいのはそういうことではない。
 しかし楓は、あれだけ酔っていても、自分を見失わないのか、あるいは気を失っているだけなのか、ついに美波になにもしなかった。
 美優はテーブルにつっぷした。けっこうおおきな音がした。ひたいが痛い。
「死にたい」
「美優さんいきなり自殺志願者になるのやめましょうね!?」
「わたし楓さん以下だ……」
 文法的には楓さん未満、が正しいのかな、頭のなかでぼんやり思った。
 そう思ったあとふいに、美波ちゃんに謝らなきゃ、と思った。楓に鳩時計を壊したことを謝っている場合ではない。
 美優はがばっと顔をあげ、やにわに立ちあがると、
「おさきです」
 と言ってそのまま退出した。
 時刻は十一時十六分。微妙なところだが、LINEで確認をとってから、起きているようなら行ってみよう。広島から東京の大学に進学して、ひとり暮らしをしている彼女のマンションの住所は、いちおう本人から教わった。
〈あいていますか〉
 とだけ送った。
〈はい〉
 とだけ返ってきた。
〈いま行きます〉
 いとしいあなたに会いに行きます、と口のなかでつぶやいた。

 住所は知っているが、じっさいに行ったことはない。案の定美優は道に迷った。電話でいまここにいる、なにそれの看板がみえる、などと雑な状況説明をしつつ、美波の的確な案内もあって、どうにか目的のマンションにはたどりつけた。
 美優よりも上等な部屋に住んでいるのは外からみてもあきらかだった。
「どうぞ、あがってください」
 と美波が言うのを、美優は一階のフロアーでなんだかよくわからない機械ごしに聞いた。
 美城プロダクションにも似たようなシステムがあったような気がする。最近のマンションはえらく進んでいるものだ、と酔った頭がしきりに感心した。
 美波の部屋にはいると、やはりというべきか、美優の部屋とは全然ちがって、女の子の、それもちゃんと成人済みの大学生らしい、かわいらしさとおちつきのある内装だった。
「ごめんなさい、こんな遅くに」
「いいえ」
 美波はにこにこと笑って、美優の突然の来訪を歓迎してくれた。
「どうでも、話したいことがあって」
 案内されて、ソファに座って、美波が持ってきた氷水を飲んだ。ほんとうは彼女の淹れる紅茶が飲みたかったのだが、酒臭い息をかげば、だれでも水を、まず差し出すだろう。
 それをぐいと一気に飲んでから、
「楓さんとはなにもなかったの」
「はい?」
 美波のうつくしい面貌が、めずらしい形にゆがんだ。
「たくさん、だって、たくさん、あのひとの家に行ったでしょう。酔ったあのひとを送っていって、あれこれ介抱して、化粧おとしから朝食の用意まで、いろんなこと、したんでしょう」
「そうですけど……、なんでそんな、いきなり……」
 美波は困惑しながら言った。いきなり家にやって来たと思えばそんなことを問い質す人間がいるのである。困惑しないでいられようか。
「キス、とか」
「へ?」
「あ、……そ、そういう、こと、とか」
「あの」
 最初の目的とちがうことを言っているのはわかっている。およそすべきことではない最低なことをしでかしたことをあらためて謝罪に来たはずなのである。その後の態度にも問題があったからそれもふくめて謝罪にきたはずなのである。
「お酒、たくさん飲んでるひとと、一緒にいて」
 けれどことばは全然思いどおりに出てこない。頭のなかにとどまって耐えて堪えて出さなかった感情が、酒の勢いで(またこれだ、と美優は思った)どんどん吐き出されてゆく。
「美優さん」
 困惑が最初にあって、怒気をまじえたように目尻がひくついて、それから呆れたように息を吐いて、最後に、またなんだか、にこにこと笑った。
「かわいいひと」
 そう言って美優の頭をなでて、笑ったのだった。
「楓さんの介抱をしただけで、なにもありませんよ。朝食は……作ったことなかったと思います。ほかはしましたけど」
 やわらかくなでられているだけのはずなのに、美優の頭は強い力で押しつけられているみたいに、どんどんうつむいていった。
「美波ちゃん……」
 うつむいたまま、美優はぼそりぼそりとしゃべりはじめた。
「未成年に面倒みさせる楓さんって、ひどいなって、思って。とめないわたしたちもひどいんだけど、楓さんは美波ちゃんじゃなきゃいやだっていうし。むかしも、いまも」
「はい」
 なににたいする「はい」なのか、美優にはわからない。一部かすべてか。
「これからも……、なのか、なって、思ったら」
 泣けてきたので泣いた。
「これからも楓さんの介抱はしますけど、なにもありませんよ」
 美波はまだ美優の頭をなでている。なで方が、すこし変わったように思われた。なぜ変わったと思ったのかは、やはりわからない。ただばくぜんと、切り替わったと思った。手のぬくもりがもつものが、よろこびからいつくしみにかわったような、そんな感じだった。美優が自覚しなければならない二十歳と二十六歳の差はこのときまったく意味のないものになっていた。
「悔やみつづけるって言っておいて全然悔やんでなくて、ごめんなさい」
 美優は言った。
「嫉妬……しちゃったりして、ごめんなさい」
 たぶん、このもやもやとして判然としない感情の正体に名をつけるなら、それになる。
「美優さんはわたしを介抱してくれるほうですもんね」
「そうあるべきだと思ったから」
 それが年上のおとなとしての役割だと信じていた。が、いまのありさまはなんであろうか。
 とはいえ、楓が酔って美波に介抱されるのと違い、美優は死にたくなって死のうとしているのを美波にとめられている。性行為の果ての自殺衝動とはいえ、美波へかけた迷惑は楓よりもひどいのではないか。
 美波の手が美優の頭をなでるのをやめた。
「美優さん」
 細い両手の指が、美優のほほをつつむ。
「キスして、いいですか」
 美波は美優の返事を待ってはくれなかった。
「だいじょうぶですよ、わたし今日はお酒飲んでいませんから」
 そのことばとともに、
「あ、……」
 唇をおしあてられた。
 外側はやわらかった。なかは熱く、甘かった。
 時刻は夜の十二時ちょうどを指していて、もちろん鳩時計は鳴かなかった。

第3話に戻る第5話に進む

[このページの先頭に戻る] [シンデレラガールズSSのTOPに戻る] [サイトのTOPに戻る]