太陽が死んだ。
クリスはそう思った。
太陽が死んだから陽だまりは消えた。
クリスはそう信じた。
バカらしい話があったもので、寮の二段ベッドに、彼女たちは上段でふたり寄り添って眠っていたという。
本当にバカだ。二段あるのだから上段と下段に分れて眠るのが普通だろうに。
部屋のドアの横にあるネームプレートから、立花響の名はまだ消えていない。
住人がふたりからひとりになったその部屋に足を踏み入れるのに、クリスはずいぶんと勇気を消費しなければならなかった。
カーテン越しに暮れの色が部屋をあわく朱く染めていた。
二段ベッドの上段の掛け布団が、すこし盛り上がっている。
そこに小日向未来がいる。
クリスはまた勇気を湧かせなければいけないと思った。未来に話しかける勇気だ。
ネフィリムに食い殺された響の最期を、クリスは仮説本部の記録映像で初めて見た。現場では情けないことに気絶していたから、生で見ることはなかった。その自分をかばうために翼まで巻き添えになって身動きを封じられたのだから、情けないという表現はぬるいかもしれない。
(あたしがもっとちゃんとしてれば)
そういう後悔がクリスの心を支配している。自分には響を助けられなかったかもしれない。しかし、翼が助けただろう。あの人が自由に動ける状態であったなら……。
響の死を未来に伝えたのは翼だ。彼女はそれを己の使命だと言って他に譲らなかった。クリスへの気遣いもあったろう。
ベッドの前に立ち、首をあげた。
話せ、話せ、と何度も自分に命令して、クリスはようやっと声を発した。
「な、ごはんちゃんと食べてるか。食堂にも顔見せないって、その、い……板場だっけ? 友達が心配してたぞ」
最初から返事は期待していなかったが、それでもなんの言葉も未来から降ろされないことに、クリスは落胆した。あるいは眠っているかもしれないとは思わなかった。未来は起きているという確信が、なぜかクリスにはあった。
クリスははしごに手をかけた。
上れ、上れ、とやはり何度も自分に命令して、足をかけ、はしごをのぼった。
ベッド上段を覗きこむと、クリスははしごから転落しそうになるほど驚いた。
未来はしっかりとこちらの方を向いて、クリスのことを、強い瞳で見ているではないか。
心身疲れ果てているだろうとかってに想像していたクリスは、未来の思いの外生気に満ちた目に射抜かれて、戸惑いと驚きを抑えられなかった。
しかしよく見ると未来の目の下にはくまがあり、ほおはいくぶんこけているように見えた。それから白い美しい肌は青白い不健康で美しくない肌に変貌しているよう見えたし、黒い漆のような髪からはすっかりその艶が失われているようにも見えた。唇もかさついて色のないように見えた。
目だけが生きている、とクリスは思った。なんて強い人だろうとも思った。
「ごはん、食べてるか」
クリスは同じことを訊いた。
「なにも……。お腹がすいたわ」
今度は未来はすなおに答えた。
「なにか食べるものない?」
「あたしはなにも持ってきてない。お腹すいたならなにか食べにいこう」
と言ってクリスは未来をどうにかして外に連れ出そうとした。
「じゃあ、いらない」
未来は言った。
「駄目だ。なにか食べたいんだろ。だったら食べないと駄目だ」
「ならクリスがなにか食べるもの持ってきてよ」
未来は拗ねたように言った。
部屋に入るまえに想像していたよりも未来はよく喋ってくれた。クリスはだからすこしほっとした。ただし、そこでとまっていてはなんにもならない。
未来はクリスから視線を外して天井を見つめはじめた。
「なあ、メシ食いにいこう。前にお前が連れて行ってくれた、ふらわーってとこに行こう。そこでたらふくお好み焼き食おうぜ」
クリスは布団の中に手を突っ込んで、未来の手を探し出し強く握りしめた。
握りかえせ、それから体を起こせ、とクリスは心の中で未来に命令した。
反応は当り前のようになかった。
「食べないと死ぬぞ」
「そう」
「死んでもいいのか」
「わからないわ」
「死にたいのか」
「そうかもしれない」
「なんで死にたいんだ」
「夢を見るの」
未来はクリスの問いとは関係ないことを言った。
「なんの夢?」
「二年前の、ツヴァイウィングのコンサートの日の夢。奏さんが死んだコンサートの。私は都合がつかなくてあのコンサートには行かなかったのに。私が誘っておいて、でも響だけ行かせて」
天井を見つめたまま未来は言った。
「電話のむこうで、響が、未来が行かないなら私もいいよって、会場から帰ろうとするの。私はそれをとめて、コンサート観てってお願いして、響は帰らないでコンサートを観るのよ」
「あいつはそれで、どうなったんだ?」
「ノイズに襲われて死んじゃった。私は電話で、何度も何度も行かないでって、会場には入らないで帰って来てって、響をとめたけど、響には聞こえなくて、ノイズが」
「ひ……びき、は、でも、助かったんだろう。その、奏サンが……助けてくれて。家に帰ってきたって」
「違う、響は、ノイズに襲われて炭になったの。炭になって、風で飛ばされて、私の手のなかにほんのすこしだけ響が残って、砂みたいな感触が、まだ残ってる」
未来は言いながらしだいにクリスの手を強く握りかえすようになった。手のなかにわずかに残った炭化した響を逃すまいとしているようだった。
未来は響の最期を見ていない。翼も死の詳細は未来には伝えていないと言った。
クリスは未来の事実とは違う夢の話を聞き続けた。
「助けてって、私は響に言うの。何度も、何度も」
「ひびきに、お前が? それは、逆じゃなくて?」
未来はゆるく首を振った。
「響と一緒にコンサートを観にいって、私はノイズに襲われて、響に助けてって、叫んで、響は私を助けるために、――」
そこで未来は夢の話をやめた。
やがてゆったりと上体を起こした未来は、やにわにクリスに抱きついた。
「わ――」
とクリスはまた驚いてはしごから落ちそうになった。
「ごめんなさい」
と未来は言った。
「え?」
なぜ謝られるのかクリスにはわからなかった。
そのうち未来のすすり泣く声が聞こえた。
泣いている。この人が泣いている。クリスは自分の服に未来の涙のにじむのを感じながら、ようやくに得心した。未来が謝ったのはそのことだったのだ。クリスの胸の中で泣くこと、そうして服を汚すことをまず謝ったのだ。
なんという少女だろう。
クリスはめまいに襲われた。
どれほどかクリスは未来を抱きかえして背をさすってやろうかと思った。
だがクリスの両腕は現実にははしごに置かれたまま、てんからびくりとも動かなかった。
太陽が死んだとクリスは強烈に思った。
太陽が死んだから陽だまりは消えたのだと思った。
クリスは太陽を再び昇らせる方法など持っていない。陽だまりを作る方法も持っていない。
未来を抱きかえす腕も、泣きやませる言葉も、資格も、自分にはないのだと思い知った。
その資格を持つ唯一の人間はもうこの世にはいないのだ。
自分はその唯一にはなれないのだ。
そうでなくては、未来はけっしてクリスにあらかじめ謝ったりなどしなかったはずである。
クリスは今度は強烈に怒った。その怒りの正体は嫉妬に他ならなかった。
(奪われた)
とクリスは思った。
響に未来を奪われた。
もとより未来はクリスの所有物などではない。それでもクリスはそう思った。
未来がクリスの手を握りかえした時、そこにはたしかな温度があった。
今クリスの体を抱き、身を寄せる未来にはたしかな鼓動がある。
未来はたしかに生きているのである。
だが未来はすでにこの世にいないのではないかとクリスには思われた。
(バカ!)
クリスは響に対して怒号を放った。
立花響の死は、雪音クリスの愛おしい恋しい小日向未来を、永久に奪い去っていったのだ。
己のいないこの世界に残る最愛の少女が自分以外の誰のものにもならぬように、クリスのものにならぬように。
クリスはもちろん響がそんなつもりで死んでいったのではないとちゃんとわかっていたが、それでもバカ! と叫ばずにはいられなかった。
響ではなく自分が死んでいれば、自分の愛するこの少女はこんなふうにはならなかったに違いない。
クリスの死を悲しみ悼み、そして愛する響に慰められ支えられてやがて立ち直ったに違いない。
(バカ!)
クリスはまた叫んだ。
いったい太陽が死ぬなどということがあっていいはずがない。
どうしてそんな非常識をおかしてしまうのか、クリスには理解しがたかった。
昇れ、昇れ、とクリスは響に命令した。
部屋の外の太陽はその命令とは逆に完全に沈みきって、クリスと未来を暗く黒い闇の中に閉じ込めた。