恩人依存症・一

 風鳴翼とその叔父・弦十郎が、揃って小日向未来に低頭して嘆願したのは、冬期休暇をまもなくにひかえた、ある雪の日のことだった。
 その日、放課後に弦十郎の邸に招かれた未来は、客間において、もうはっきりと言えば、ふたりに土下座されて、ひとつの頼み事をもちかけられた。
「クリスくんを助けてくれ。いい歳のおとなが、こんなことを頼むのは心苦しいが、もはやおれたちでは、どうにもならんのだ。どうにもできんのだ。おそらくもう、きみ以外の誰にも、できんのだ」
 うなるように弦十郎は言った。
 この数日ずっとクリスが学校を休んでいたものだから、響とふたりで心配して、そろそろ見舞いにでも行こうかと思っていたところに、これだった。
 大のおとなの男が、女子高生相手にふかぶかと頭をさげ、畳にひたいをつけて、自分が後見人になっているひとりのむすめを助けてくれと言う。その姪もそれに倣っている。
 異常な光景だ。
 風邪が長引いているのだと翼から説明をうけたのは、たかだか一昨日の話ではなかったか。未来は医者ではないし薬でもないのだから、クリスの風邪など治しようがないではないか。
 そのことを言うと、翼は頭をすこしだけあげて、
「すまない。私は嘘を言った。雪音は、本当は風邪など引いていない」
 と弦十郎と同じように、苦しいものを吐き出すように言った。
「クリスになにかあったんですか」
 と未来は言って、ふたりに頭をあげるように頼んだ。土下座などみていて気分のよいものではない。
「ああ、それは……」
 と翼が口をひらいたのを、弦十郎が制止した。弦十郎というひとは、おとなとこどもの境界線をわりあいにはっきり分けようとするところがある。これはおとなの仕事だということだろう。そして、これから話すことと、それを解決することも、本来であればおとなである自分の仕事だと思っているのだろう。
 いつもは精悍で颯爽としている弦十郎の面構えも、今は苦渋の色が余すところなく拡がっている。
 弦十郎の話を聞き終えた未来は、わかりました、としずかな声でいうと、
「なんとかしてみます。できるかどうかは、わかりませんけど」
 弦十郎と翼の眉がすこしだけひらいた。
「そのかわり、いいですか」
「言ってくれ。手伝えることなら、なんでもしたい」
 翼は身を乗り出すような姿勢になって言った。
「私がクリスになにをしようとしても、理由を聞かないでください。それから私がなにをしても、とめないでください。私がおふたりに頼み事をすることがあるかもしれませんが、その時も理由を訊かずに、全部聞き入れてください」
 と未来は、はっきりと言った。へたに干渉されるとやりづらい。そのことを言っておく必要がある。
 ふたりは目語し、うなずくと、
「わかった。小日向のしたいようにしてくれ」
「未来くん、どうかクリスくんを、頼む」
 と、あらためて頭をさげた。
「それじゃあ……」
 未来はすっくと立ち上がり、
「カッターナイフ貸してください」
 と言って、ふたりを唖然とさせた。

 数分後、未来はクリスの部屋の前に立っていた。
 借りたカッターナイフからはすでに刃が出ている。
 まさかクリスがリストカットをしているなどと、未来には想像もつかなかった。
 なにが原因かは翼にも弦十郎にもわからないらしい。なにせクリスがなにも話さないのである。きっかけがどこにあったのか、頭をつきあわせて考えに考えても答えが出てこない。ある頃から突然始まった。最初は手首の薄皮一枚程度だったのが、どんどん傷が深く長くなっていった。また弦十郎の部屋から千枚通しを持ち出して腕を刺したこともあった。さすがにその時は弦十郎はくるまを飛ばして、夜半病院に連れて行った。
 自傷以外にも異変があった。やたらに部屋で暴れまわるようになった。深夜、いきなり奇声をあげると、とにかく部屋の家具のあらゆるものを蹴り飛ばし、投げ飛ばし、殴り飛ばし、めちゃくちゃにした。跳ね起きた弦十郎が羽交い締めにしてとめると、わあわあと不明瞭な言葉を、唾と一緒に吐き出した。喉が破れるほど叫び続けて、ついには気を失って、そのまま眠ってしまう。
 が、朝になるとクリスはぴんぴんとしていて、夜のことなどはまるで記憶にないとでも言いたげに、いつもどおりの態度で、学校へ行くのだった。そして、夜になると、また同じことをする。
 クリスの奇行(そう表現するには語弊があるかもしれないが、しかしそうとしか言えないものだった)は已まなかった。そのたびに翼や弦十郎はクリスを窘め、叱り、時には怒鳴り散らした。それでもクリスはおのれの身を傷つけ、泣き叫び、部屋を荒らしつづけた。
 そのうち、クリスはめったに部屋から出なくなった。めちゃくちゃになった部屋にほとんど閉じ籠もるようになった。翼も弦十郎もあえてそこからクリスを引き摺り出そうとはしなかった。学校へ行く時は元気になるから行かせたほうがよいのではとも考えたが、もし学校でも自傷したり暴れたりしてそれを生徒に目撃されては、クリスはもう立ちなおることができないのではないかと思うと、手が出せなかった。
 情けなくも未来に縋ろうと決めたのは、泣き叫び暴れるクリスをふたりでむりやり布団に寝かしつけようとしたある夜のことだ。ひとの名を呼ぶことを知らないようなクリスが、ほとんど本能的に、言葉というよりただの声を、声というよりただの音を、なにかに衝き動かされるようにして発しつづけた、その中に混ざっていた、ひとつの名を翼の耳はたしかに捉えた。
 それは間違いなく「小日向未来」の名であり、クリスがどういうつもりでその名を叫んだのか、翼にはまったくわからなかったが、とにかくその瞬間、翼は自力でクリスの暴走をとめることを諦めた。「先輩」や「オッサン」はもちろん、「お前」とも「あんた」とも言わなくなったクリスの口から、この頃のうちで唯一、唐突に、湧いて出た名に取り縋るほか、翼にも弦十郎にも、もはや道はなかった。
 ノックも声かけもせずに、未来は勢いよく戸を開いた。
 部屋のあらゆるものが散乱し惨状を呈しているそのまんなかに、布団の中でまるまっているクリスがいた。
「クリス、起きてる?」
 未来が言うと、布団のふくらみがすこしうごいた。
「誰、だ」
 酷く嗄れた声がくぐもりの下から発せられた。
「わかるでしょう。誰がほかに、あなたのことをクリスって呼ぶのよ」
 未来は平然として笑い、布団の左側に座った。クリスの利き手は右だ。リストカットの傷は左手首にあるに違いなかった。
「なにしに来た」
「クリスこそなにしてるの」
 返事はなかった。
「翼さんから聞いたわ」
 未来は世間話でもするような気軽さで言った。
「名前呼んでくれたのね」
「誰の」
「私の」
「しらない」
「おぼえてないだけよ」
 未来は言って、
「そういえばお返事聞いてないなって思い出して」
 左手のひとさし指に、カッターナイフの先を当てた。力をこめる。ほそくするどい痛みを無視して、さらに力をこめると、じわりと血が滲んできた。
「なんの意味があるのかしら、これ」
 傷を口で吸ってから、未来は唾液のついた、そして出血のとまらない指を、クリスの掛け布団にこすりつけた。
「痛いと言っても聞いてくれなくて、やめてと言っても聞いてくれなかったおとなはクズ揃いなんだっけ」
 かつてクリスから打ち明けられた彼女の過去を、未来は自分の言葉でなぞった。
「自分で自分を傷つけて、おとなにやめろと言われてもやめないこどもは、なんなのかしら」
 今度も返事はなかった。しばらく沈黙の時間が流れる。クリスには重苦しい空気かもしれないと思った未来の心は、いたって軽かった。
「バカ、だ」
 クリスはやはり嗄れた声で言った。
 未来は鼻で笑った。
「バカは響のことなんでしょう? あの子はこんなことしないわ」
 実際にそのとおりだった。クリスが「バカ」と口にすればそれはつまり響のことを指していたし、また響が周囲の悪意に晒されて迫害を受けていた時だって、彼女は自分のことも他人のことも怨まず怨めず、ただ体をちいさくして泣いていたが、やはり自分にも他人にも暴力的になることなんて一度もなかった。
「そうそう、そろそろ返事を聞かせてほしいんだけど。いい加減待ちくたびれちゃった」
 未来は傷口を親指でこすりながら言った。
 クリスはなにも答えない。未来は話をつづけた。
「ああ、なんの返事かって? ほら、前に私、クリスと友達になりたいって言ったじゃない。その返事よ。なってくれる? なってくれない?」
 クリスはやにわに布団をはねのけた。
「なん、で」
 悲しみに染まった目がこちらを見ている。
 痩せ細った体が膝立ちになって、未来のほうを見ている。
 未来はついと視線を落とした。袖がかなり長い。手首は見えなかった。
「なにが、なんでなの」
 視線をクリスのふたつの目に戻して未来は言う。
「返事なんて、いまさら。だって、もう」
「もう?」
 クリスは下唇を噛んだ。皮が破れて血が出るまで強く噛みしめようとしているようだった。未来はとりあえずこの血をとめようと思った。そのためにはクリスに喋らせるのがてっとりばやい。
「もう友達なのに?」
 と未来は言った。
「そうじゃ、ないのか……」
 自信なさげにクリスは言った。否定されるのを怖れ怯えている声だった。目も、唇も、濡れてふるえていた。
 その目と唇が、おおきくひらかれた。
「なんだそれ。お前、なにやってるんだ」
 どうやらようやく、未来の手にあるカッターナイフと、さっきそれで作ったひとさし指の傷に気づいたらしい。
 未来は肩をすくめた。
「クリスがそれ言うの?」
「それは……、でも、――」
 クリスは顔をそむけて口ごもった。
 その隙に未来は素早く左腕の服の袖をめくって、さっと手首を切った。線が引かれた。その線がほどなく赤く染まった。
「あ、けっこう痛い」
「なにやってんだ!」
 クリスは未来に飛びかかり、カッターナイフを取り上げようとした。
 未来は押し倒された。というより、ほとんど自分からうしろに倒れた。
 左手首が痛い。とくんとくんと脈打っている。血が流れているのがわかる。
「もう一度訊くけど、クリスがそれを言うの?」
「―――」
「それからもう一度言うわ。響はこんなことしない」
「―――」
「私の友達は誰ひとりだってこんなことはしない。響も、詩織も、創世も、弓美も。あの子たちがもし自分で自分を傷つけるようなことがあるとしたらね、それはかならず自分じゃない誰かを助けるために、そうしなくちゃならない時なの。私の友達って、そういう子ばかりなのよ」
 未来は言い切った。
 覆い被さっているクリスの目から涙が落ちてきた。かちかちと歯のぶつかる音がかすかに聞こえてくる。
「だから、あたしは、友達じゃ、ないのか」
「友達になってもらったおぼえはないわ。だって、返事聞いてないもの」
 そう言ってからにこりと笑って、
「ごめん嘘。べつに返事なんて関係なく友達だと思ってる。だから心配して来たのよ」
 右手をクリスの背にまわして、なでさすった。
 クリスはかぶりを振った。涙が飛び散った。そのうちの一滴が未来の目に入った。こめかみをつたって畳に落ちる。
「あはは、私が泣いてるみたい……に、みえる?」
 クリスはまた首を振った。
「なんで笑ってるんだ」
「なんで手首を切ったりするの」
 答えないかわりに訊き返す。
 クリスはまた下唇を噛んだ。からだをふるわせて泣いた。
 未来は右手でクリスの背をなでつづけた。
「痛いから」
 ぽつりとそう言った。
「痛いから? 痛くなりたいから切るの?」
「うん」
「どうして?」
 クリスは体を起こした。行き場をうしなった未来の右手はあっさりと落ちた。
 未来に跨がったまま、クリスは急に遠くを見るような目になって、やはり遠くに語りかけるように、話しはじめた。
「痛みだけが人の心を繋いで絆と結ぶって、フィーネが教えてくれたんだ。だから痛くすれば、フィーネと繋がれると思ったんだ。また会えると思ったんだ」
 そう言うとクリスはいっそう涙を溢れさせた。
「夢にあいつが出てきたんだ。F.I.S.のフィーネを名乗ってたあいつが。黒いガングニールのあいつが、夢に出てきて、あたしのこと抱き締めるんだ。やさしい言葉をくれるんだ。実際あいつはやさしかったけど、でも、フィーネじゃなかった。あいつは騙りだったんだ。再誕したフィーネだなんて真っ赤な嘘で、ニセモノのフィーネだったんだ。だって、あいつはやさしかったから。本当のフィーネがやさしいわけないんだ。だって、フィーネは――」
 未来は身を起こしてクリスを抱き締めた。しゃくりあげる体を両腕で抱き締めて、その背をなでてやった。依然流れる手首の血が寝間着に付着したが、かまわなかった。
 ――あいたい。
 かぼそい声が未来の耳の裏を打った。
 フィーネはクリスを虐待しつづけた女である。そのことを、未来はクリス自身から聞いたことがある。だが、ここにいるのは、その女を、おそらくは母のように慕い愛情を求めるひとりの哀れな孤児だった。フィーネ、フィーネ、と嗚咽と一緒に繰り返し吐き出される名は、そういう悲哀にいろどられている。
 記憶の底にある幼馴染の姿が、一瞬未来の脳裡に浮かんで消えた。
「クリス」
 未来はクリスの名を言った。
 なぜクリスが、ほかならぬ未来の名を叫んだのか、未来にはなんとなくわかった気がした。
 クリスが未来の体を抱き返してきた。ちからいっぱいに抱き締められた。腕が圧迫される。手首の傷が痛む。血の塊が噴き出して、すぐさまクリスの寝間着に吸収されていった。
「ママ……」
 かすれた声がこぼれ落ちた。
 未来は応えない。
 クリスはいったい誰を呼んでそう言ったのだろうか。母・ソネットだろうか、それともフィーネだろうか。あるいはそれらの人物の死と共に、もはやこの世でただひとりとなった、雪音クリスを「クリス」とその名で呼び捨てる者であったか――
 音もなく降りつづける雪だけが、それを知っているのかもしれない。

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