恩人依存症・二

 未来の左手の手首に包帯が巻かれ、ひとさし指には絆創膏が貼られた。
 居間で未来の手当をした翼は、なにも問わなかった。そういう約束を、彼女は律儀に守った。問いたそうな目さえしなかったのはさすがというほかない。
「今日は泊まっていきます。響に連絡して、着替えとか持って来てもらいます。ついでに響も泊まらせますね」
 未来は自分の左手首の包帯を親指でなぞった。奇妙な感覚である。どうして自分はこんなところに怪我をこしらえているのか。原因はわかっているが、それにしても奇妙なことだった。
「わかった。部屋と布団を用意しておこう」
「ありがとうございます」
「風呂はどうする」
「そのための響ですから」
「そうか。仲が良いな」
 翼は口もとだけすこし笑った。
 矢のような速さで響はやって来た。本当に頼んだ荷物を持って来たのかと思われるほど響は素早く到着した。が、彼女はしっかりと自分のつとめをはたしていた。
「お泊まりたのしみだなあ」
 と暢気に言って上がり框をまたぐ響の笑顔に、未来はちょっともうしわけなくなった。
 クリスについて、未来は響にはとくに説明をしていない。電話では風邪が治ったとだけ伝えた。が、この気の好い親友に説明は要らないと未来は思っている。状況に接すれば彼女はなにかしらを察してくれるだろうし、それを助けてもくれるだろう。未来を助けるのか、クリスを助けるのか、その時にならなければわからないが、とにかくできるほうをするだろう。
「あれ、その手どしたの」
 めざとく見つけてくる。
「カッターで切っちゃって」
 未来はごまかさずに正直に言った。
「うええ、だいじょうぶ?」
「まだちょっと痛むかな。お風呂、お願いね」
「あ、お風呂には入るんだ。うん、まかしといて」
 響は二の腕をパンと叩いた。頼もしい声である。
「クリスも一緒にね」
 そう言うと、
「お風呂もう入れるの?」
「うん、熱もないし、元気だし」
「やったあ!」
 と万歳して喜ぶ。そのあと、
「翼さんは?」
「それは、わからない。でも別々なんじゃないかな」
「師匠はないよね」
「まさか」
 玄関にとどまって冗談を飛ばしあっていると、なんとなくやはり、未来はもうしわけない気持ちに襲われた。この笑顔がもうすぐ消える。ごめんね、でもひとりじゃ手におえないから、未来は心の中で謝った。響に謝ったしクリスにも謝った。響は気にしないだろうがクリスは気にするだろう。だから謝った。
 響を伴って居間に行く。
 翼と弦十郎がいた。
「やあ、響くん。よく来てくれた。晩メシは出前でも取ろうと思っているが、なにか食べたいものはあるか? ドンブリでもスシでもソバでもなんでもいいぞ」
「じゃあおスシで!」
 なんの躊躇もなく響は言って、遠慮もなくこたつに突入する。未来もそのとなりに座った。
「クリスちゃんは部屋ですか?」
「そうだ。夕飯どきになればかってに来るだろう」
 と翼が答えた。
「晩ごはんのまえに、お邪魔しちゃっていいですか。最近ちっとも顔みてないですし」
 と響に訊かれて、翼は自分では答えないで、未来に視線をやった。未来はうなずいた。響はふしぎそうに翼と未来を交互に見て目をきょとんとさせた。
「今、眠っているから」
「あーそっか、残念」
 響はおとなしくひきさがった。
 弦十郎がテレビの電源をつけた。広い邸ではあるが、いちおう音量をちいさくして、クリスの部屋に響かないようにした。
 テレビを見ながら談笑していると、しばらく経ってクリスがやって来た。
「あ、クリスちゃんこんばんは。体の調子はどう」
 ちょうどクリスに背を向けていた響は、体をひねって、そう言った。
「べつに」
 それだけを言って、クリスはこたつの隅にもぐった。
「では、出前を取るか。クリスくん、スシを頼むつもりだが、どうだ、食べられそうか。むりそうであれば、別なものを作るが……」
「食べる」
 これも短く答えた。
 そのクリスのようすを見て響は言葉をひかえたので、出前がとどいたあとも、終始静かな食卓になった。クリスと響のふたりが揃った時にいつも起こる和やかな喧騒も、この時はまったくなかった。

 左手にポリ袋を被せ、輪ゴムで留める。これでいちおう湯は入ってこなくなる。未来の措置はそれで完了した。
 響はクリスの裸体を見てもなにも言わなかった。響にしてもクリスの過去を知らないわけではないから、傷にまみれた体に異様を感じることはなかったのかもしれない。おもにその背中に古い傷痕が多く、両腕は新しいまだ生々しい傷痕がある。未来と違って傷口自体は塞がっているから、包帯などで隠れていない。とくに切り傷の集中している左手首を見た時、響もさすがにすこし表情をゆがめた。
 クリスは無言であり無表情だった。かすかに体がふるえていた。未来はそれに気づいたが、響はさて、どうだっただろう。
 響は未来の背中と髪を洗い、それ以外のところは左手に湯がかからないようにして、未来の自分の体を洗うのを手伝った。そうして全部洗い流してしまうと、未来の両肩を押しに押して、とっとと湯船にぶちこんだ。それからクリスのほうを向く。
 すでにクリスはひとりで髪を洗っているところだった。響はクリスに近づき、彼女の両手をやんわりと掴むと、泡の立ちきっていない頭から離した。
 一瞬、泣きそうな目が未来を見た。未来はそのクリスに向かってにこりと笑って右手を振った。おとなしくしたがえということである。クリスはうなだれた。両手は力なくタイルに落ちた。未来はクリスの体を響にあずけて、髪も体もすみずみまで洗わせた。
 すっかり洗われてしまったクリスがふらふらと湯船に浸かってきた。邸の湯船は未来と響の暮らしている寮のあのむだに広い湯船よりもさらに広い。が、クリスは未来の肩にぴったりと体をつけて腰をおろした。
 未来とクリスに対してはていねいな手つきだった響が、猛烈な速度で自分の体を洗っている。やまかしい音を立てている。はやく終わらせて湯船でゆっくりしたいのだろう。仕上げはシャワーではなく桶に湯を溜めて、それを頭からかぶった。
「ぷはあ」
 と気持よさそうな声をあげてから、響は未来とクリスのいる湯船につっこんできた。
 ちいさな波と飛沫が立つ。
「あ、そうそう」
 未来は言った。
「私はクリスの部屋で寝るから。響、ひとりで寝られるよね?」
「え、そうなの。うん、まあ平気。だいじょうぶ。きっと、たぶん、ま、なんとかする」
 響は多少驚きつつ、そう言った。
「なんだ、ひとりじゃ寝らンねえのか」
 クリスが言うと、
「へへ、ちょっと苦手ぇ」
 と言って、響は恥じるようすもなく笑った。
「けっ、なさけねえやつ」
 そう言ってクリスは笑った。ぼんやりとした薄い色の目は、両手にかかえられた膝に落ちていた。あるいは膝をかかえる両手に落ちていたのか。

 未来はいったん響と一緒にあてがわれた部屋に向かい、クリスはひとりで自室へ行かせた。部屋にはすでに布団が敷かれている。枕を一つ脇に抱えて、未来は響に「おやすみなさい」と言い、響から「おやすみ、未来」と言われてから、クリスの部屋に行った。
 クリスは部屋の戸のそばで突っ立っていた。
「あ――」
 未来に気づいて振り返り、
「散らかっててごめん。あのさ、だから、あいつのとこで寝たほうがいいと思うんだ、それに、あたしは――」
「あした、学校から帰ってきたらかたづけようね。私も手伝うから」
 未来は前半の言葉だけ拾って後半を無視した。
「かたづけても、すぐ、めちゃくちゃにしちゃうから」
「そしたらまたかたづければいいのよ」
 未来はあっさりと言った。
 クリスはまた泣きそうな顔になっている。
「とにかく、寝よ?」
 客であるはずの未来がクリスの手を引いて布団に導いた。
「う、ん。……」
 とにもかくにも、このむすめを一度眠らせてしまわないことには、未来の仕事は始まらない。
 布団に入ると、クリスは急に口数が増えた。ああだこうだと一緒に眠らないための言い訳を並べるわけである。
「最近、寝つきがわるくって」
「そうなんだ?」
「だから、何回も寝返りうったりするかも、しれないし」
「気にしないわ、そんなこと」
「眠ったら眠ったでへんな寝言とか、あと大声あげるかもしれないし」
「私も眠ってるから聞こえないよ。さすがに大声あげられたら起きるだろうけど」
「ほら、だから」
「また寝ればいいだけでしょ?」
「でも、寝相わるいから、うごきまわって、眠りながら、殴ったり、蹴ったりするかもしれないし」
「響で慣れてるから、平気平気。あれよりひどいなんてさすがに考えられないもの」
「眠ってなくても殴るかもしれない」
「どうして?」
「わからない、けど、殴っちゃうかもしれない」
「そう。じゃあ殴らないようにがんばって」
「むりだ」
「どうしてむりなの? どっちかっていうとひとに暴力ふるうほうがむずかしいんじゃないの? クリスの場合は」
「わからない」
 またわからないだ。未来はクリスの口の中に絆創膏の貼られたひとさし指をつっこんだ。また唇を噛みそうな気がしたのである。唇のかわりに自分の指を噛まれるかもしれなかったが、べつにかまわないと思った。
 クリスの手が、その未来の手をそっと掴んだ。そこには包帯が巻かれている。
 未来の指を咥えたまま、クリスは「ごめん」と言った。言った、というより喉を鳴らした感じだった。
「これどっちも私が自分でやったものだから、クリスのせいじゃないわ」
「でも、あたしがこんなこと、してるから」
「じゃあやめる?」
 未来はクリスの口から指を出した。
 クリスはなにも言わなかった。
 布のこすれるような音がしたから、もしかすると首を振ったのかもしれない。
「やめたくないの? それともやめたいけど、やめられないの?」
「……わからない」
「それもわかんないっかあ……」
 未来はひとさし指をぴんと伸ばして、唾液がつかないように、クリスの髪を梳いた。
「とりあえずさ、目、つむろう? そのうち眠くなって寝ちゃうから」
 と未来は言った。
「でも、眠っちゃったら」
「良い夢を、クリス。おやすみなさい」
 未来はクリスの頭を片手で抱き寄せて、ひたいにくちづけた。海外ドラマなどでよく見る風景だ。親が子供にの眠りつけるまえに、そういうことをしている。いかにも日本人的ではないが、クリスにとってはそれが普通のことだったかもしれないと思ったのだった。
「おやすみ、なさい」
 また喉を鳴らすようにクリスは言った。
 その夜はなにごともなく経過して朝を迎えた。
 ――あてが外れた。
 平穏に終わったことを喜ぶべきなのかもしれないが、何事もなかったのは未来は残念だった。実際に事に面してみなければ全容が掴めないと思っていたのに、これだ。とかく世の中はうまくいかないものだと笑うしかないのだろうか。
 室内は朝の日射しのほのかな明るさの中にある。
 クリスはまだ眠っている。
 目に涙の跡があった。
 どうやら、何事もなかった、わけではないらしい。
 未来はクリスの体をゆさゆさとうごかした。
 クリスは目を覚ました。
「泣いてたの?」
 そう言われてクリスは体を起こし、服の袖で目をこすった。
「泣いてる夢見た」
「そう……」
 未来はちょっと考えてから、
「どんな夢を見たの?」
 と訊いた。
「フィーネの夢。いや、フィーネじゃない。あいつの夢だ」
 クリスは口をとがらせた。
「マリアさんの夢ね?」
「うん」
「マリアさんの夢はよく見るの?」
「しょっちゅう」
「夢の内容はいつも同じ?」
「違うのばっかり」
「今回はどんな夢だったの?」
「夜一緒に寝てくれた夢。寝る前にキスしてくれた」
 ここに、とクリスはひたいにひとさし指をあてた。
「それで髪を梳いてくれて」
「ああ」
 未来は納得した。これは寝る前に未来がクリスにやったことだ。それがマリアに置き換えられて夢に出て来たらしかった。夢の中でクリスはマリアのことをそうではないと理解しながら「フィーネ」と呼び、マリアはクリスのことを、実際には一度も呼んだことのない「クリス」とその名を呼んだ。フィーネを名乗るマリアは、フィーネからはかけ離れたやさしさに満ちた手で、クリスをいつくしんだ。
「泣いてる夢を見たのよね? どうして泣いたの?」
「わからない」
「それも、わからないんだ」
「うん、でも」
 クリスは言った。
「嬉しかった。クリスって呼んでくれて、抱き寄せてくれて、キスしてくれたのが嬉しくて、いやだった」
「嬉しいのがいやなの? 嬉しかったけど、いやなの?」
「だってあいつ、フィーネじゃないし……。フィーネがあんなにやさいしいわけないから……」
 クリスは眉に顰みをつくり、苦しげにうつむいた。
 未来は問いを重ねる。
「マリアさんの夢はいつ頃から見始めたの?」
「えっと、よくおぼえてないけど、F.I.S.のやつらが死刑になりそうになって、ならなずに済んで、それで国連の保護観察に入ったって教えてもらったあたりから、かな」
 フロンティア事変が終わってからそう経っていない頃だ。かなり早い時期から、つまりかなり長いことその夢をクリスは見ているらしい。報告のおりにマリアの名を出されて、クリスの中でフィーネを懐かしむ気持ちが強くなったせいだろうか。
「ということは、夢を見始めたきっかけもそれ?」
「わからないけど、たぶん」
 クリスはそう言うと、はらはらと涙をこぼしはじめた。
 未来はそれを見て質問を打ち切った。
「顔と歯、洗いに行こっか」
 と未来は言った。
 クリスはまた袖でごしごしと目をこすって涙を拭いた。拭いながらこくりとうなずいた。
 未来は手を差し出した。クリスは素直にその手を取った。
 立ち上がる。
 未来はクリスを抱き寄せて、
「おはよう」
 ひとつ、ひたいにキスをした。

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