恩人依存症・九

 眠気のためになかばとじられていた目がいつものかたちにひらかれた。その目が未来のほうに向けられる。手を握りかえしてきた。
「話すって、なにを、話すんだ、あらたまって。話すことは全部、さっきまでに散々話したし、同じ話も何度も話しただろ?」
 とクリスは言った。
 それはそのとおりだったが、ただなんとなく、未来は今ここでこの子を眠らせてはいけないような気がしたのである。
「普通の世間話とか……、惚れた腫れたの話とか?」
 クリスの目が、今度はおおきくみひらかれた。
「好きなやついるのか、お前」
 クリスは世間話は無視して、惚れた腫れたのほうにだけ反応した。
「誰だ? リディアンは女子校だし学校にはいないよな? 突起物か?」
「いや、いないけど」
 と未来は否定した。意外な喰いつきをみせるクリスに、未来はちょっとたじろいだ。
「じゃあ、なにを話すんだ。あたしにもいないぞ、そんなやつは」
「うーんと、世間話」
 と未来が言うと、
「世間のことはよくわかんないなあ」
 くあ、とクリスはあくびをした。それからこたつから片手を出して、頬杖をつく。しばらくなにやら考え込んで、ふと思い出したように、
「今はともかくさ」
「うん?」
「昔はいたのか?」
「なにが?」
「好きなやつ」
「………」
 本当に、その手の話が、クリスは好きらしい。未来にとってこの新事実は意外なんてものではなかった。色恋話への喰いつきのよさはフィーネの影響だろうか。
 未来は体を傾けて、クリスの肩に頭を置いた。
「小学五年生の時と中学に入ってすぐの時の二回ね。どっちも学年が一つ上の先輩だった」
 未来はあまり思い出したくもない思い出話を記憶の底から掘り出した。
 クリスの肩がびくりとふるえた。頬杖をといて、もうしわけなさそうな顔で、未来を見下ろした。
「う、あ、中学の時、って」
「そうね、うん、いろいろあった頃」
「ごめん」
 クリスが謝ってきたので、未来は気にしてないと首を振った。
「惚れた腫れた言いだしたのは私なんだし」
 と言って、未来はふっと笑いをもらした。実にあっけなく恋は醒めた。まるでそんなものは最初からなかったかのように、激しい感情の奔流は一滴残らず消えていった。それに替わる感情はなにも出現しなかった。怨みも憎しみもなければ、もっと単純に嫌いにすらならなかった。ただ強大な集団の中に彼の存在は融け込んで、未来はそれきりその一個人を認識しなくなった。
 フィーネはよくも何千年ものあいだひとりの相手を懸想しつづけたものだ。近づこうとして手酷く捨てられて、それでも想いつづけた。あの異常とも言える激烈な情念は彼女のどこから湧き起こっていたのだろうか。
 未来は急に自分の頬に痛みを感じた。かつてフィーネに二度張られた左の頬が、今またどういうわけか、いやに生々しい感覚でひりひりと痛むのだった。痛みに顔が歪んでいくの自分でもわかった。
「ね、クリス」
「どうした」
「痛い」
「えっ!?」
 クリスは驚き叫んだ。
「どこが痛いんだ。手か、頬か、――」
「頬が……」
 と未来が言うと、クリスは勘違いしたとみえて、右頬の傷痕のまわりを手でなでさすった。
 未来はクリスの勘違いを訂正しなかった。疼痛のある頬とは反対の頬をなでられているのに、痛みがやわらいでいくのを未来は感じた。痛みがひくと、今度はすこしくすぐったくなってきた。
「なにか、ひやすもの持って来るか?」
 とクリスは言った。
「ううん、いい」
 未来はゆるく首を振った。クリスの手が未来の頬から離れた。同時に、未来は寄りかかっていた体を起こして、クリスの肩からも離れた。
 クリスはまだ心配そうな目で未来を見つめている。
「だいじょうぶなのか? どこも痛くないか?」
「うん、平気。おさまったみたい」
 と言って未来は笑った。くすぐったかったがここちよくもあった。もうちょっとくらいはあのここちよさに身を浸していればよかったと、未来はいまさら悔いているのだった。
 さしたる話題も思い浮かばなかった未来は、テレビの電源を入れた。
 てきとうにザッピングしてみた。時間帯のためか、おおむねニュース、でなければ昔のドラマの再放送といった具合だった。途中、クリスがリモコンを持つ未来の手をおさえて、
「さっきの――」
 と言った。未来はチャンネルを戻した。
「これ?」
「えっと、それの前、か、その前」
 これかな、と言いながら、クリスは自分でリモコンのボタンを押した。
 画面に翼の姿が映った。翼を取り上げたニュースらしかった。
「これだ」
 とクリスは口もとをほころばせたが、すぐに別のニュースに変わった。有名女優の不倫騒動がどうのこうのとテレビがやかましく言っている。
「あっ、終わった。……」
 とクリスは残念そうに言った。
「話のタネになると思ったんだけど」
「イギリス行のニュースだったのかな」
「どうなんだろ。それっぽいテロップはなかった気がするけど」
 クリスは首をひねった。しかし今の時期に翼のことがニュース番組で取り上げられるとしたら、やはり渡英関係しかないようにふたりには思われた。
 翼の口から直接その話を聞かされたことはない。緒川によれば万事順調に進んでいるということだった。
 テレビでは、大量のマイクとカメラに取り囲まれた四十絡み女優がマスコミを貶しまくって、スタジオの芸能リポーターの顰蹙を買っていた。
「どうする? これ見てる?」
「まさか」
 クリスは未来からリモコンを奪い、チャンネルを次々に変えていった。こども向けの教育番組が宇宙開発の特集をしていた。クリスの目はそこで留まり、リモコンを置いた。
 クリスはすこし前のめりになって、テレビ画面に目を釘付けた。
「宇宙、好きなの?」
 意外ね、と未来が言うと、
「べつに好きってわけじゃあない」
 クリスはあっさりと言った。
 未来は小指で頭を掻いた。宇宙。これもフィーネの影響なのかもしれない。クリス本人の自覚していないところにある、そのひとつだろうか。
 いつかワイド型の液晶テレビの両端が黒く切り落とされ、アポロ11号の月面着陸の映像が流れはじめた。
「当たり前だけど、欠けてないんだよな、これ」
「ずっと昔の月だからね」
 未来やクリスが生まれるよりはるか以前の出来事だ。当時世界中の人々がこの歴史的瞬間をテレビで見て、あるいはラジオで聞いていたという。
 黴の生えた映像が不安定にゆれている。通信の音声がささくれ立っている。
 ――I'm going to step off the LM now.
 はしごを降りる船長の男がそう言った時、未来は知らずテレビから目を切って、となりに座っているはずのクリスのほうに首をまわしていた。
 クリスは、眉はわずかに垂れ下がり、口は半開きで、目はテレビを見ているというより、もっと遠くのほうを、ぼんやりとながめているようだった。
 未来はまたテレビのほうに、やはり気づかないうちに視線を戻した。
 フィーネにとって人類に降りかかる呪いの根源である月という存在は、当の人類にとっては発展と繁栄の夢を託された道標だった。
 その時代の熱狂を、それよりはるかのちの時代に生まれ生きる未来が、はっきりとした像を結び熱をもたせることはむずかしかったが、うっすらとかたちづくった貧弱なジオラマの中に、未来はフィーネの人形を設置してみた。
 歴史の転換期につねに寄り添っていたというフィーネは、この時も興奮の坩堝のどこかにいて、聞いていたのだろうか。彼女が嫌忌し破壊しようとした月の大地を踏みしめる、ニール・アームストロングの言葉を。
 ――That's one small step for a man, one giant leap for mankind.
 クリスが半開きの口をうごかした。
「フィーネは」
 未来はテレビを見たまま、クリスのほうに耳をかたむけた。
「アポロのこと下品で生意気で嫌いって言ってた」
 クリスは、ぼんやりとした目で、どこか遠くを見ながら、くぐもりのある声で、そう言った。
 やがて、ほとんどモノクロに近い画面の上で、十三条の赤と白のストライプがあざやかな光彩を放ちはじめた。

 番組が終わるとクリスはまたうつらうつらと舟を漕ぎだした。
 しかし眠気に身をまかせる気はなく、がんばって起きているつもりらしい。はっとして首を上げ、手の腹の部分で目をこするクリスの姿を見ていると、未来は自分の「なんとなく」でクリスを眠りから引き留めるのがもうしわけなくなってきた。
 未来は困った。さてどうしてものかと頭を悩ませた。このまま感覚に従うべきか、それを退けてクリスを眠らせてやるべきか。……
 律儀に未来につきあおうとするクリスが、何度目かのあくびを噛み殺した時、襖が開かれた。
「おや、雪音、起きているのか」
「あ、翼さん、おかえりなさい。おつかれさまです」
「おつかれサン……」
「ただいま」
 居間に入って来た翼は、一度壁掛時計を見て、
「この時間に起きているのは、近頃ではめずらしいな」
 と言い、仕事帰りに寄った店で買ったらしい茶菓子の紙袋をこたつの上に置いた。
「ねみぃ」
 クリスは目をこすった。
「私がむりにつきあわせているんです。なんだか、お喋りしていたかったもので」
 と未来は言った。
 翼は、
「そうか」
 と言っただけで、どんな話をしていたのか、とか、会話ははずんでいるのか、とか、そういうことはいっさい問わなかった。
「あんたもどうだい」
 とクリスは言った。
 翼は数回まばたきしたあと、未来のほうを見た。
 未来はこくりとうなずいた。
「そうさせてもらうとするか」
 着替えてくる、と言って、翼は部屋を出た。
 足音が遠ざかっていくのを聞きながら、
「好きなやついたらスキャンダルだなあ」
「えっ、もしかして訊くつもりなの」
「うん」
 クリスはよほど惚れた腫れたの話に未練があるらしい。
「駄目なら訊かないけど」
 と言われると未来も返答に困った。
「駄目、ではないと思うけど……」
「じゃあ、いいのか」
「ええと、どうかな……」
「はっきりしないな」
 クリスは腕を伸ばして、翼が置いていった紙袋を掴み、引き寄せた。
「食べちゃ駄目よ」
「食べないって」
 箱は取り出さず、袋の口をすこし広げて、中を覗いた。
「中身なんだろ」
 紙袋に印刷されている店名は近所ではちょっと評判の和菓子屋である。
 クリスはすんと鼻を鳴らして、匂いを嗅ぐしぐさをした。
「あんこのにおいする」
「ほんと?」
 未来も嗅いでみた。なにか強烈なにおいがしたが、それが小豆餡のにおいかどうかはわからなかった。
 クリスは袋を閉じて、部屋の隅に滑らせた。
 しばらくして、部屋着に着替えた翼が戻って来た。
「今日は一段と寒いな」
 と言いながら、こたつに入った。
「チャンネル、かえてもいいか?」
 翼はリモコンを手に取った。
「どうぞ」
 と未来は言った。
 教育番組から民放の夕方のニュース番組になった。
 ちょうど天気予報をやっていた。
 降雪、強風、積雪、そんなところだった。
「新学期早々、やれやれだ」
 と翼はかるい疲労の残る息を吐いた。
「明日も仕事か」
 クリスが訊くと、翼はうなずき、
「まあな」
 と言って、また溜息を吐いた。始業式後、直接打ち合わせの場所に行くらしい。そこから卒業式まで二ヶ月程度だ。それが終われば、いよいよ日本最後のコンサートツアーをやって、それから彼女は海を渡る。
 偉いひとだ、と未来は思う。忍耐強い、とも言える。
 翼が日本を去れば、二課所属のシンフォギア装者はクリスと響だけになる。入れ替わりで最年長者になるクリスに、日本を発つ前に仕込んでおきたいことは山ほどあるだろうに、翼は最初の約束どおり全部を未来に任せて、自分はなにもしないでいる。経過を訊ねてくることもない。
 クリスの再生を急ぐつもりはないが、渡英前、いや卒業前に、翼とクリスのふたりきりの時間を、翼の都合がゆるすかぎり、なるたけ多くつくってもらったほうがいいかもしれない。未来そんなこと考えた。考えていると、クリスが前置きなしに、
「なあ、あんた、好きなやつとかいねえの?」
 と翼に訊いた。
 あ、言っちゃった、と未来は思った。
「なに――」
 翼はそうとうに驚いたようで、いつもはするどい目を、まんまるに見ひらいた。
「ちょっと、クリス」
「そこんとこ、どうなんだ? じゃ、なけりゃあ、昔はいたことあんのか?」
 未来の制止を無視してクリスは問いを重ねた。
 翼はすこしのあいだ、ほんのわずかに眉間に困惑の影を落としたが、すぐにそれを払い、落ち着いたようすで言った。
「そうだな……、初恋は緒川さんの弟さんだったよ」
 クリスと未来はそれこそまんまるに目を見ひらき、顔を見あわせた。
 翼は構わず話をつづけた。
「捨犬さんと言ってな」
「捨て犬!? そりゃまたひっでえ名前だな、おい」
「そう言うな。明るくて気のよいひとでな、こどもの頃、よく遊んでもらったものだった。私は両親と離れて叔父様のもとで暮らしているので、きっとさびしがらせまいとしてくれたのだろう。修業のあいまあいまに、いろいろとねぎらってもくれた。こっそりお菓子をくれたりな。私も自然とあのひとに懐いていった――が、好きと言えばたしかにそうに違いなかったが、しかし思い返してみれば、それが恋と呼べる代物だったかどうかは、いまひとつわからないな」
 恋かどうかも知れぬ感情は捨犬との接触が減るにつれて、自然に消滅した。今は新宿でホストをしているらしい彼と会ったことはない。翼はそう締め括った。
「ふうん」
 クリスは首筋を叩いた。
「今はいないのか」
「いないな」
 翼はきっぱりと言った。
 クリスはまたあくびをした。
「どうやら、あまりおもしろい話ではなかったようだ」
 翼は未来のほうを見て、肩をすくめながら、くすりと笑った。
 未来は苦笑いを返すほかなかった。

第8話に戻る第10話に進む

[このページの先頭に戻る] [シンフォギアSSのTOPに戻る] [サイトのTOPに戻る]